「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」とY・M氏の錯覚
〈タルホ作品の中で何がいちばん好きか?〉と訊かれたら、たぶん筆者は「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」を挙げるでしょう。〈その理由は?〉と尋ねられたら、〈理由は分からない。ただ、20代の頃、「山ン本」を全部ノートに書き写したことがあった。ほかにそんなことをした覚えはないので、やはり「山ン本」がいちばん好きだったと言えるのではないか〉と。
いま思い返すと、それで功徳があったかどうか分かりませんが、ほとんど〈写経〉のようなものだったかもしれません。B5のノートで54ページありました。筆者がテキストにしたのは、単行本『ヒコーキ野郎たち』(新潮社、1969年10月)に収録されていた「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」だったと思います。
さて、〈それから幾十年経って、今度やるべきことがあるとしたら、それは何か?〉と自問しました。20代の自分がやったことは、タルホが現代文に書き直した文章を、それが好きだったとはいえ、単になぞっただけの作業でした。批評性はありません。では、今やらなければならないとしたら、それは〈原典の「稲生物怪録」を、タルホがどのように現代語訳したのか、その過程を明らかにすることではないか?〉と考えたのです。
そうなると居ても立ってもいられなくなるのが筆者の性分です。早速、タルホが底本にしたという『平田篤胤全集』に収録された「稲生物怪録」と、最初の作品である「懐しの七月──別名「余は山ン本五郎左衛門と名乗る」」とを対照するテキスト作りに取り掛かりました。これに似たことは、すでに「弥勒」のヴァリアント作業で経験済みでした。
1センテンスごとに区切って、「物怪録」と「懐しの七月」とを上下に並べて比較できるようにしたのです。これでタルホが、一字一句をどのように改変していったのか一目瞭然になりました。これに若干のコメントを付けて、今度はA4で90ページのデジタル・テキストになりました。
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実は、この作業を始めたのには、もう一つきっかけがありました。
作家の三島由紀夫氏が、「小説とは何か」というエッセイの中で、「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」を取り上げていることは夙に有名です。〈これほど夥しい妖魔の跳梁は、試煉ではなくて、教育であり、懲らしめではなくて、愛だったのではないか〉など、「山ン本」の本質を言い当てた慧眼に感服させられます。
さらに氏のエッセイは、「山ン本」の一部を原典と比較しながら論じていることでも注目されています。たとえば「山ン本」中の一文を掲げ、〈次のやうなみごとな章句を読むがよい〉と読者にアピールしています。(出典は『三島由紀夫全集 34』、新潮社)
「コノ駕ニアノ大男ガ乗レルカト思ッテイタガ、山ン本氏ハ片足ヲ駕ニ掛ケタト思ウト、畳ミ込ム様ニ何ノ苦モナク内部ヘハイッテシマッタ。サテ先供ソノ他行列ハ行進ヲ開始シタガ、彼ラノ足ハ庭ニアリ乍ラ、右足ハ練塀上ニ懸ッテイル。宛ラ鳥羽絵ノ様ニ、細長クナルノモアリ、又、片身下シノ様ニ半分ニナッテ行クノモアッテ、色々サマザマ廻リ灯籠ノ影法師ノ様ニナッテ空ニ上リ、星影ノ中ニ暫クハ黒々ト見エテイタガ、雲ニ入ッタト見エタノガ風ノ吹ク様ナ音ト共ニ消エ失セテシマッタ」
☆〈彼ラノ足ハ庭ニアリ乍ラ〉は、後の改訂で〈彼ラノ左の足ハ庭ニアリ乍ラ〉とされた。
そして三島氏は、〈前に引用した部分は、原文では左のやうになつてゐる〉として、当該箇所の原文を掲げているのです。
【A】
「思やるに中々常躰のかごに彼の大男乗事はなるまじと見るうち、彼男片足よりかごに乗るに、其身たゝみ込むやうにて何の苦もなく乗ければ、先供其外行列を立て、左の足は庭に有ながら、右の足は土手の上にありて、さながら鳥羽絵の如く細長くなるもあり、又はかたみおろしのやうになりて行もあり、色々さま々々に見え廻り、灯籠の影などの如くにして、皆々空に上り雲に入るよと見えて、星影ながらしばしはくろ々々と見えけるが、風の吹くやうの音して消失せぬ」
☆〈土手〉は〈大手〉の誤植。〈大手〉は備後地方の方言で〈練塀〉のことという。
☆引用文は、原文の〈見へ廻り〉を〈見え廻り〉に、〈入るよと見へて〉を〈入るよと見えて〉に訂正してある。
☆繰り返し記号は筆者が(々々)に置き換えた。
これに続けて三島氏は、〈何のことはない、稲垣氏の名文は、単なる現代語訳で、それも人によっては、原文のはうがはるかに名文だといふ人もあるかもしれない。しかし稲垣氏の換骨奪胎の才能を知るには、そこで速断を下してはならないのである〉として読者に注意を促し、〈素朴な怪異譚を哲学的な愛の物語〉に転換するために、〈十分計算して布石〉を打っていることを指摘し、タルホの翻案の妙を強調しているのです。
【B】
「その布石とは、たとへば、原文では、出現に当って山ン本が、平太郎の詰問に答へて、すぐさま、
『成程汝が申如く人間にあらず、我は魔王の類なり』
と正体を明かにしてゐるのを、稲垣氏は、
『如何ニモ御身ノ云ウ如ク人間ニハ非ズ。サリトテ天狗ニモ非ズ。然ラバ何者ナルカ? コハ御身ノ推量ニ委ネン』
とことさら翻案して神秘を深め、読者の想像力を刺戟してゐる如きをいふのであり、又、クライマックスの山ン本昇天の駕籠の供廻りも、原文では、『駕籠も常躰の駕籠、供廻りも常躰の人なり』とあるのを、稲垣氏が、『駕ナドハ普通ノ物ダガ、供廻リハミンナ異形デ』と改変してゐる如きをいふのである。」
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このように、三島由紀夫氏は原文と一々対比しながら「山ン本」を論じているのですが、ここで一つ大きな問題があります。それは三島氏が、「山ン本」の原典を「稲亭物怪録(とうていぶっかいろく)」だとして、それから引用していることです。
しかしながら我々タルホ読者は、「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」の原典は、『平田篤胤全集』(以下「平田本」)中の「稲生物怪録(いのうもののけろく)」だということを知っています。なぜなら『タルホ=コスモロジー』に、「第二次の邂逅は、京都へ移って四、五年目にやってきた。山本浅子が京大図書館から借り出してくれた平田篤胤全集中の一巻に、「羽州秋田藩平田内蔵助校正、稲生怪異譚(稲生物怪録:筆者)」が収められていたのである。これで全容がはっきりした。やはり七月のことである」とあって、これを基にして「山ン本」の初稿である「懐しの七月──別名「余は山ン本五郎左衛門と名乗る」」を書いたことは明白だからです。
では、三島氏が用いた「稲亭物怪録」とは何か。現在、ネット上には「東京大学デジタルアーカイブポータル」と「国文学研究資料館」によって、「稲亭物怪録」の同じ写本がそれぞれアップされています。しかし、さすがにこれは読解が難しい。ただし一方で、『妖怪学講義 巻8 雑部門』(井上円了著、哲学館、明27)の中に、「稲亭物怪録」を翻刻したものが抄録されています(p.48〜58)。おそらく後者は、タルホが「懐しの七月」の末尾で「お化け博士の井上円了もこの記録を妖怪講義に取上げているらしいが、それも未だ読む機会がない」と言っている本のことでしょう。
『妖怪学講義』の「稲亭物怪録」には、確かに三島氏が引用した上記【A】【B】の当該箇所が翻刻されており、その用字を精査すると、三島氏がこの『妖怪学講義』の翻刻を典拠としているのは明らかです。
ではここで、まず【A】の部分の原文を「稲亭物怪録」と「平田本」とで比較してみましょう。
【稲亭物怪録】
「思やるに中々常躰のかごに彼の大男乗事はなるまじと見るうち、彼男片足よりかごに乗るに、其身たゝみ込むやうにて何の苦もなく乗ければ、先供其外行列を立て、左の足は庭に有ながら、右の足は大手の上にありて、さながら鳥羽絵の如く細長くなるもあり、又はかたみおろしのやうになりて行もあり、色々さま々々に見へ廻り、灯籠の影などの如くにして、皆々空に上り雲に入るよと見へて、星影ながらしばしはくろ々々と見えけるが、風の吹くやうの音して消失せぬ」
【平田本】
「思ひやるになか々々此駕に彼大の男、乗事はなるまじと見る内に、彼山本は片足より駕に乗に、其身たゝみ込様に何の苦もなく乗けるが、やがてあら々々と髭のはえたる大の足を、駕の中より出しけり。扨先供其外行列を立て、左の足は庭に有ながら、右の足は大手の上に有て、(大手と云は江戸の練塀の事なり是備後の方言也。)さながら鳥羽絵の如、細長くなるもあり、または片身おろしのやうに成て行も有て、色々さま々々に見え廻り、灯籠の影の如くにして、みな々々空に上り、星影ながらしばしは黒々と見えけるが、雲に入よと見えしが、風の吹やうの音して消失けり」
両者を比較してみてどうでしょうか。「平田本」には、「稲亭物怪録」にはない〈やがてあら々々と髭のはえたる大の足を、駕の中より出しけり〉が挿入されており、また〈大手〉に対する註を付しています。もし三島氏の典拠が「平田本」だったら、〈大手〉を〈土手〉と誤植することはなかったでしょう。しかしそれらを除けば、言葉遣いなどに若干の違いはあるにしても、内容的に両者はほとんど同じといってよいでしょう。つまり筆者が何を言いたいかというと、「平田本」を底本にしたタルホの現代語訳を読んで、三島氏はそれが「稲亭物怪録」を底本にしたものだと疑っていなかった、ということです。
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次に【B】の部分について、同じように「稲亭物怪録」と「平田本」とを比較してみましょう。
【稲亭物怪録】
「成程汝が申如く人間にあらず、我は魔王の類なり」
☆三島氏は、この箇所を一字一句正確に引用している。
【平田本】
「成程汝が云如く人間にもあらず、又天狗にも非ず、我は魔王の類なり」
☆「平田本」には、「稲亭物怪録」にはない〈又天狗にも非ず〉が挿入されている。
三島氏は、「稲亭物怪録」の原文と「山ン本」の〈如何ニモ御身ノ云ウ如ク人間ニハ非ズ。サリトテ天狗ニモ非ズ。……〉とを比べて、〈サリトテ天狗ニモ非ズ〉はタルホの創作だと考えたはずです。しかし「平田本」には〈又天狗にも非ず〉とあって、タルホはそれを〈サリトテ天狗ニモ非ズ〉と訳したまでで、創作ではありません。
とはいえ、上の一文に続く、〈然ラバ何者ナルカ? コハ御身ノ推量ニ委ネン〉としたのは、まさしくタルホの創作であって、山ン本の正体を謎のまま残して神秘性を保持したことで、この物語により深い奥行きを与えたことは間違いありません。
それに続くクライマックスの場面。
【稲亭物怪録】
「駕籠は常躰の駕籠、供廻りも常躰の人なり」
☆原文の〈駕籠は〉を、三島氏は〈駕籠も〉として引用している。
【平田本】
「扨駕は常体なれども、供廻のものは皆異形にて」
ここで三島氏は、〈原文では、「駕籠も常躰の駕籠、供廻りも常躰の人なり」とあるのを、稲垣氏が、「駕ナドハ普通ノ物ダガ、供廻リハミンナ異形デ」と改変してゐる如きをいふのである〉と言って、創作上の技巧を特筆しているのですが、タルホは「稲亭物怪録」でなく「平田本」を底本にしているので、原文の〈駕は常体なれども、供廻のものは皆異形にて〉をそのまま〈駕ナドハ普通ノ物ダガ、供廻リハミンナ異形デ〉と訳したまでで、三島氏の言うような〈改変〉をしたわけではありません。
三島氏はなぜこのような勘違いをしたのか。「懐しの七月」(1956年12月「作家」発表)には、テキストが「平田本」だとはっきり記されているわけではありませんが、末尾に「羽州秋田藩平田内蔵助校正」とあることを紹介し、平田篤胤の名前も出しています。三島氏は「懐しの七月」は読んでいなかったと思いますが、三島氏が読んだという「南北」掲載(1968年8月)の「山ン本」の末尾にも同じような文章があるので、それに目を通さなかったはずはありません。博覧の三島氏が「平田本」の存在を知らなかったというのは考えにくいですが、そもそもタルホは、物語の7月1日から31日まで全体を翻訳しているのですから、その底本が、一部を抄録しただけの『妖怪学講義』の「稲亭物怪録」であるはずがありません。にもかかわらず「稲亭物怪録」に固執したのはなぜでしょうか。まさかタルホが元の写本から翻訳したと考えていたわけではないでしょう。
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上に見たように、底本を取り違えたことで、結果的に、タルホに対していわば〈買い被り〉の評価がもたらされたことになります。
実はこれと似たようなことが、「懐しの七月」/「山ン本」には他にもあります。それは、あの有名なラストの台詞、
「山ン本サン、気ガ向イタラ又オ出デ!」
この意表を突く一言によって、物語は永遠に記憶されるものとなりました。三島氏も、〈ここまで来て、読者は主題の思ひもかけぬ転換に驚かされるのである〉と述べています。
〈これこそタルホの極め付けの創作だ〉、とタルホ読者なら誰でも思うはずです。筆者もずっとそう思っていました、巌谷小波の「平太郎化物日記」を目にするまでは。
「化物日記」には最後にこうあります。
「あゝ、山ン本五郎左衛門さん、閑があつたら又遊びにおいで! さよなら。」
先例があったのです。がっかりしましたか? 「平太郎化物日記」については、タルホは次のように言っています。
戸塚グランド坂上の旅館、真盛荘にいた頃、客が置き忘れた巌谷小波の童話集の中に「平太郎化物日記」を見付けた。「いまの化物日記を下敷にして、「余は山ン本五郎左衛門と名乗る」を書き上げて、「小説新潮」の小林博に買って貰ったが、ついに活字にならなかった」(「タルホ=コスモロジー」)と。そして「第二次の邂逅は……」として続けているのが、先述した『平田篤胤全集』中の「稲生物怪録」の話になります。
巌谷小波の「平太郎化物日記」には、もう一つ重要な文体上の特徴があります。それは主人公・平太郎を一人称の〈僕〉に改変していることです。これもタルホが「懐しの七月」/「山ン本」で採用した手法で、これによって読者はより強く物語世界へ感情移入することになります。しかしこれもタルホが先駆ではなかったわけです。「小説新潮」で活字にならなかったという「余は山ン本五郎左衛門と名乗る」の主人公はおそらく〈僕〉で、そこには最後の台詞〈又遊びにおいで!〉も入っていたのではないでしょうか。
「平太郎化物日記」と「懐しの七月」/「山ン本」には以上のような共通点がありますが、作品のコンセプトには大きな違いがあります。前者が『お伽全集』中の一篇として収録されているように、あくまでも少年・少女向けに翻案されたものであるのに対し、「懐しの七月」/「山ン本」は最初からこの化物譚を〈愛の経験〉の物語として再構築しようとしているからです。したがって、両者には文体の点からも、〈格調〉の上からも大きな違いがあります。「懐しの七月」の文章は、雑誌「南北」で「山ン本」に改題・改訂された際に〈カタカナ交じり〉に改変されましたが、それによって、(旧仮名遣いを用いずに)日記体の文に〈古めかしさ〉を与え、同時にサムライの子・平太郎の〈凛々しさ〉もより際立ったような気さえします。
タルホは原文を簡略化しながらリライトしていく方向です。そのため翻訳でありながら、全体は一貫して〈タルホのリズム〉によって支配されています。筆者が「山ン本」を好きだったのは、内容に加えてその〈リズム〉のせいもあったかもしれません。
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☆若い頃、Duane Allmanが弾く〈statesboro blues〉のボトルネックギターを聴いてブッ飛んだ。のちにオリジナルはBlind WillieMcTellの曲だと知ったが、原曲の痕跡すら残さないAllmanのギタープレイに改めて感嘆。ところがあとで、彼はTaj Mahalのバンドで演奏していたJesse Davisのスタイルをカヴァーしていることが分かった。それでがっかりしてAllmanの魅力は半減したか? そんなことはなかった。〈statesboro blues〉のいかにも時代を象徴するような、圧倒的に自由でパワフルな演奏ぶりは、その後も決して色褪せることはなかった。「山ン本」のことを思うたびに、その記憶が甦る。
☆『稲生物怪録絵巻』(谷川健一著、小学館、1994年)には、「平田本」の原本である「稲生物怪録」(柏 正甫)から、いかにして「平田本」が生まれたかといういきさつが書かれていて興味深い。他に平太郎(稲生武太夫)自身が書いたという「三次実録物語」も収録されている。しかし、この本には「稲亭物怪録」のことが紹介されていないのが残念。ただしその中に、「(泉)鏡花は折口(信夫)にむかって、稲亭随筆だの稲亭何だとかいう写本をよく貸本屋がもってきた、と告げている」という記述があって、これが「稲亭物怪録」のことではないかと想像される。なお、この本には付録として、ひと月の間に出現した物怪を、4種類の異本を比較して1日ごとに整理した一覧表が掲載されているのが、筆者好みで面白い。
☆『稲生モノノケ大全 陰之巻』(東雅夫編、毎日新聞社、2003年)に、須永朝彦氏による「平田本」の逐語的な現代語訳が収録されている。これと「山ン本」とを比較すると、タルホの〈リライト〉ぶりと〈リズム〉がどんなものか、よりはっきりする。
☆『全集3』の解題にある、昭和43(1968)年8月「南北」の項に、〈仮名遣いは旧かな及び片かなで発表された〉とあるが、〈旧かな〉は誤り。「懐しの七月」をはじめ、「南北」発表以降も、「山ン本」はすべて〈新かな遣い〉で書かれている。ただし拗促音は小さくなっていない。
☆〈古めかしさ〉は、〈カタカナ交じり〉だけでなく、拗促音の文字が大きいことも〈旧かな遣い〉と錯覚させる効果があるのではないか。また、〈くり返し記号〉を用いていることも〈古めかしさ〉を与えている。さらに、用字を細かく点検してみると、〈ところ→所〉〈いう→云う〉〈そう→相〉〈よう→様〉〈きた→来た〉〈できる→出来る〉〈また→又〉などのように、「懐しの七月」に比べ、「山ン本」ではかなりの数の語句を漢字に置き換えている。こうした用字法によって、タルホが非常に意識的に「山ン本」の世界を演出し直していることが分かる。