「弥勒」──テキストのヴァリアントについて




【新潮文庫】と【大全】との関係
 【稲垣足穂全集】(筑摩書房)の各巻末には、萩原幸子氏による収録作品の「解題」が付されています。「弥勒」が収録された第7巻には、タルホ生前に発表された「弥勒」のテキストとして、以下のヴァリアントが挙げてあります。

@「コリントン卿の幻想」(「文芸世紀」、1939.12、後の第1部の末尾)
A 雑誌【新潮】(1940.11、後の第2部のみ)
B【小山書店】(1946.8)
C 雑誌【作家】(1957.12)
D【全集・現代文学の発見・第7巻 存在の探求 上】(學藝書林、1967.11)(【小山書店】版を収録)
E【新潮文庫】(1969.12)
F【稲垣足穂大全IV】(1970.2)
(筆者注:Dは【小山書店】版を新字・新仮名に改めたもの)

 この「弥勒」のテキストのうち、筆者には以前から気になっていたことがあります。
 それはE【新潮文庫】とF【大全】との関係です。前者の刊行が1969年12月、後者が1970年2月で、2か月しか間が空いていないからです。
 萩原氏の解題を見ると、【新潮文庫】で改題・改訂されたものが、次の【大全】にそのまま収録された=Aというふうに読めます。
 萩原氏は、川仁宏氏と並んで【大全】の編集者の一人だったので、この間の事情を、昔、ご本人に直接伺ったような気がするのですが、どういう返事だったか残念ながら覚えていません。
 そこで、この点について筆者なりの考えを述べてみます。

*

【新潮文庫】と【大全】のテキストは同じもの!?
 結論から言えば、両者の「弥勒」のテキストは同じものです。原稿は元々【大全】のために書かれたのですが、【新潮文庫】のほうが先に刊行した、ということになります。

@ 【大全】(全6巻)は、1969年6月から第1巻の刊行が開始されています。タルホは、この企画が成立してから、収録予定の旧作の改訂作業を精力的に行っていたはずです。
A 新潮社も同時期に【新潮文庫】の企画を進めていたと思われます。結果的には、「弥勒」を収録した【新潮文庫】が1969年12月に刊行され、同じく「弥勒」を収録した【大全】(第4巻)は2か月遅れて、1970年2月に刊行されました。
B 両者の企画の規模から考えれば、「弥勒」の原稿は【新潮文庫】のために書かれたものではなく、すでに刊行が始まっていた【大全】のために書かれた、と考えるのが妥当です。
C 【大全】の「弥勒」の原稿は、【新潮文庫】刊行時には、すでに校正の段階にあったものと思われます。

 さて、【新潮文庫】に収録された9編について、【大全】の刊行年月と対照すると、以下のようになります。

【大全】(第1巻)、1969年6月刊行
  「一千一秒物語」「星を売る店」「天体嗜好症」収録
【大全】(第2巻)、1969年9月刊行
  「彼等」収録
【大全】(第3巻)、1969年11月刊行
  「A感覚とV感覚」収録
【新潮文庫】刊行、1969年12月
【大全】(第4巻)、1970年2月刊行
  「弥勒」収録
【大全】(第5巻)、1970年6月刊行
  「美のはかなさ」収録
【大全】(第6巻)、1970年9月刊行
  「チョコレット」「黄漠奇聞」収録

 これを見ると、「一千一秒物語」「星を売る店」「天体嗜好症」「彼等」「A感覚とV感覚」の5編は、【新潮文庫】より先に【大全】によって刊行されており、【新潮文庫】より刊行が後になったのは、「弥勒」「美のはかなさ」「チョコレット」「黄漠奇聞」の4編です。
 実は、この9編について、【全集】の萩原氏の解題を見ると、「弥勒」以外は、【新潮文庫】の記述が無いのです。「弥勒」の記述に倣えば、【新潮文庫】刊行以降の作品は、【新潮文庫】→【大全】の順に、【新潮文庫】刊行以前の作品は、【大全】→【新潮文庫】の順に、それぞれの項目が挙がっていて然るべきだと思いますが、そうなっていません。
 その理由はやはり、【新潮文庫】が【大全】と同じテキストだからでしょう。

*

なぜ【新潮文庫】のほうが【大全】より先に?
 では、元々【大全】のために書かれた「弥勒」の改訂原稿が、なぜ先に【新潮文庫】として刊行されたのか──ここからは推測です。
 新潮社はもちろん、【大全】が刊行されつつあることを知っていたわけですが、自社でも文庫として1冊まとめたいと思っていたのでしょう。新潮社は、タルホに【新潮文庫】に収録したい9編を示し、その旨申し入れたことでしょう。タルホは「いまこれまでの作品を改訂しているところだから、どれでも好きなのを選べばよい」と言ったのかもしれません。しかし、新潮社より現代思潮社のほうが先にタルホと出版契約を結んでいたはずですから、おそらく両社で話し合いが持たれ、新潮社側は現代思潮社に、これこれの作品を収録したい、と了解を求めたはずです。
 【大全】が刊行中であるにもかかわらず、なぜ【新潮文庫】を刊行することができたのか──話し合いの内容は分かりませんが、結果的に、そのような了解が成立したことになります。

*

7つのテキストを比較してみる
 さて、そんな憶測はともかく、【大全】と【新潮文庫】とを細かく比較してみると、いくつかの違いが発見できます。同一の原稿を基にしたのであれば、両者に相違は無いはずですが、それが出版社の編集方針によるものか、あるいはタルホ自身による改訂があったのかどうかについて考察してみたいと思います。
 そのため、ここで【大全】と【新潮文庫】以外にも対象を広げ、タルホの生存中に刊行された書籍も含めて、筆者が気づいた異同を整理してみます。併せて、【全集7】および【ちくま文庫】も参考に取り上げます。(ただし、検討箇所は「弥勒」第2部についてのみ)


作品集名
A
B
C
D
E
@
【新潮文庫】

1969年12月
『言海』
厚切りのハム
どうなるものか!
官許せうちう

立帰る
立戻って
立帰って

A
【大全IV】

1970年2月
言海
厚切りのらしいハム
どうなるものか?
官許しょうちゅう

立返る
立返って
立近って

B
【作品集】

1970年9月
言海
厚切りのハム
どうなるものか!
官許せうちう

立帰る
立戻って
立帰って

C
【タルホスコープ4】

1974年11月
言海
厚切りのらしいハム
どうなるものか?
官許しょうちゅう

立返る
立戻って
立帰って

D
【がんじす河】

1975年10月
『言海』
厚切りのらしいハム
どうなるものか!
官許せうちう

立返る
立返って
立返って


E
【全集7】
2001年4月
言海 厚切りのらしいハム どうなるものか? 官許しょうちゅう

立返る
立戻って
立帰って

F
【ちくま文庫】
2005年8月
言海 厚切りのらしいハム どうなるものか! 官許せうちう

立返る
立戻って
立帰って


 Bは、新潮社が1970年9月に刊行した【稲垣足穂作品集】という一冊本。「チョコレット」から「少年愛の美学」まで29編を収録し、2段組みで740ページ以上ある分厚い本。1970年9月といえば、【大全】の最終巻が刊行されたのと同じ月。当時、新潮社は現代思潮社の【大全】に強い対抗意識をもってタルホの本を出していたことが窺われます。

 Cは、【大全】と同じ現代思潮社が、1974年に【タルホスコープ】と銘打って刊行した、以下のシリーズのうちの第4巻。
1. 『ヰタ・マキニカリス』(1974年5月)
2. 『桃色のハンカチ』(同年6月)
3. 『彼等─they─』(同年9月)
4. 『弥勒』(同年11月)

 Dは、1975年10月に第三文明社より刊行された単行本【がんじす河のまさごよりあまたおはする仏たち】。「弥勒」以外は、戦後間もない時期に発表された作品を中心に収録。

*

 さて、ここからは上に掲げた一覧表に沿ってコメントします。


A 『言海』/言海

【新潮文庫】(p.197)
この枕元には、人に貰った半ば毀れて枚数が不足した『言海』があって、そのページから彼は、主として仏教に関する語彙を探していた。
【大全IV】(p.292)
この枕元には、人に貰った半ば毀れて枚数が不足した言海があって、そのページから彼は、主として仏教に関する語彙を探していた。

 【新潮文庫】は、辞書の言海を二重かぎ括弧でくくって『言海』としています。これはどういうことかというと、タルホの元の原稿はただの言海であって、【大全】はそれをそのまま採用したのに対し、【新潮文庫】は編集部が、それが書籍だということを示すために『 』でくくったものと思われます。
 しかし、その逆はあり得ません。タルホの元原稿が『言海』だとしたら、【大全】が『 』をわざわざ外すことは考えられないからです。
 この『言海』は、他では【がんじす河】だけが採用しています。

________________________________________
B 厚切りのハム/厚切りのらしいハム

【新潮文庫】(p.201)
これが時々、残りものの麺麭や、冷肉や、林檎や、煮抜玉子や、特に厚切りのハムや、罎詰日本酒などを持ってきてくれた。
【大全IV】(p.295)
これが時々、残りものの麺麭や、冷肉や、林檎や、煮抜玉子や、特に厚切りのらしいハムや、罎詰日本酒などを持ってきてくれた。

 【大全】の「特に厚切りのらしいハム」を、【新潮文庫】は「特に厚切りのハム」として、「らしい」を削除しています。【大全】の「らしい」は確かに座りが悪い感じを与えますが、これには根拠があります。
 それは【大全】は、その前の改訂版である【作家】の「特に厚く切つたのだと受取れるハム」、さらにその前の【小山書店】における「特別に厚く切つたのだと受取れるハム」を書き換えたものだからです(初稿の雑誌【新潮】にはこの部分なし)。
 すなわち、「らしい」は「受取れる」に対応する言い換えであって、誤って挿入されたものではありません。【新潮文庫】は、それまでの改訂事情を考慮しないで、「らしい」を誤記だとして削除しているわけです。これは明らかに【新潮文庫】の勇み足です。
 この「らしい」は当然、同じ新潮社の【作品集】でも削除されています。

________________________________________
C どうなるものか!/どうなるものか?

【新潮文庫】(p.201)
が、現状(「現状」に傍点)という怪物が一体どうなるものか
【大全IV】(p.295)
が、現状(「現状」に傍点)という怪物が一体どうなるものか

 元の原稿は「?」だったろうと思います。【新潮文庫】の編集者は、この「か」は疑問ではなく、「いや、どうにもなりはしない」という意味を含む反語なので、「?」でなく「!」とすべき、と考えたのかもしれません。
 【作品集】が「!」としているのはもちろんですが、【がんじす河】も「!」を採用しているのはなぜでしょう。『言海』と同様、【新潮文庫】を参照したのでしょうか。
 それ以上に不可解なのは、【全集】は「?」なのに、なぜ【ちくま文庫】は「!」としたのか。文庫の巻末に「*本巻は筑摩書房版『稲垣足穂全集』を底本とした。」と断っているにもかかわらず…。

________________________________________
D 官許せうちう/官許しょうちゅう

【新潮文庫】(p.203)
このならびに、年毎に紙を張り重ねて、今は大きな長方形に膨れ上った掲け看板に、「官許せうちう」と大書した旧い酒造家があって、その表側が濁り酒や焼酎を飲ませる店になっていた。
【大全IV】(p.297)
このならびに、年毎に紙を張り重ねて、今は大きな長方形に膨れ上った掲け看板に、「官許しょうちゅう」大書した旧い酒造家があって、その表側が濁り酒や焼酎を飲ませる店になっていた。

 【大全】は、「官許しょうちゅう」大書した、とあり、「と」が脱落しています。
 ここで【大全】が「官許しょうちゅう」としているのに対し、【新潮文庫】は「官許せうちう」と旧仮名遣いになっています。筆者は、タルホの元原稿は「官許せうちう」だったろうと考えています。その理由は、【大全】は、【作家】までの旧仮名遣いを改めて、新仮名遣いを採用しているので、【大全】の編集者は、つい「せうちう」も新仮名遣いに改めてしまったのではないか、と想像しています。逆に、もしも元原稿が「官許しょうちゅう」だったら、はたして【新潮文庫】の編集者は「官許せうちう」と改めるでしょうか。時代を考慮してといっても、編集者はそこまで勝手に踏み込まないだろうと思います。
 ここも【作品集】の他では、【がんじす河】と【ちくま文庫】が「官許せうちう」としています。

________________________________________
E 立帰る・立戻って・立帰って/立返る・立返って・立近って

【新潮文庫】(p.236)
それから存在ということが明瞭でないからして、現象(「現象」に傍点)にまで立帰る必要があるのだということを論じていた折に、「こんなわけで、いったん遠隔へ逸脱した菩薩たちも、当然として現実世界まで立戻っていなければならぬ」との結論になったようだ。それならば、あの耳飾りと宝冠をつけた銅版刷の菩薩も、二十世紀に立帰っているのでなかろうか、と彼は考えてみた。
【大全IV】(p.323)
それから存在ということが明瞭でないからして、現象(「現象」に傍点)にまで立返る必要があるのだということを論じていた折に、「こんなわけで、いったん遠隔へ逸脱した菩薩たちも、当然として現実世界まで立返っていなければならぬ」との結論になったようだ。それならば、あの耳飾りと宝冠をつけた銅版刷の菩薩も、二十世紀に立近っているのでなかろうか、と彼は考えてみた。

 ここで【大全】のほうには、「立返る」という言葉が3回繰り返して出てきます。
@ 現象(「現象」に傍点)にまで立返る
A 現実世界まで立返って
B 二十世紀に立近って
 ただし、Bの「立近って」は、【大全】をそのまま転記したもので、「立返って」の誤植だろうと思います(【大全】は誤植が多いのが残念)。
 一方の【新潮文庫】は、
@ 現象(「現象」に傍点)にまで立帰る
A 現実世界まで立戻って
B 二十世紀に立帰って
と明らかに異なっています。
 @とBについては、「返る」と「帰る」は同訓で、【新潮文庫】の編集者が、「立返る」は「立帰る」という表記に統一する、という用字用語の方針を採ったのだと解釈すれば、その変更は理解できないわけではありません。ただし、Aの「立返って」を「立戻って」に変更した理由が分かりません。
 もしタルホが【大全】用の原稿に、直前になって急遽【新潮文庫】のような訂正を加えたのだとしたら、2か月後に出た【大全】も当然そのように変更したはずです。そうなっていない以上、つまりこの時点でタルホの手が入っていないのなら、【新潮文庫】の相違は、何らかの理由で編集者側が手を加えたと考えるしかありません。
 【作品集】は【新潮文庫】と同じ、【がんじす河】はなぜかこの箇所は【大全】と同じです。

*

【タルホスコープ】について
 さて、ここで【タルホスコープ】について、もう少し詳しく触れておく必要があります。
 【タルホスコープ】の企画・編集も、【大全】と同じく川仁・萩原の両氏です。実はこの【タルホスコープ】は、新たに活字が組まれたものではなく、【大全】と同じ紙型を用いて印刷されています。したがって、両者はページの字詰めや行数が同じです。このことは萩原氏から聞いた記憶があります。したがって、文字の訂正は基本的には、【大全】と同じ字数なら可能でしょうが、字送りが生じる挿入や削除はできないはずです。
 先ほど【大全】には誤植が多いと述べましたが、その箇所を点検してみると、【タルホスコープ】では、概ね訂正してあるのですが、そのままになっている箇所もあります。しかも文字の挿入や削除をして、字送りまでして訂正しています。それにもかかわらず、【大全】で4文字分も空白のままになって非常に目立つ箇所が、訂正されないでそのままになっているのは理解できません。
 この【タルホスコープ】シリーズが刊行された翌1975年10月に【がんじす河】が出版されました。この単行本には、インド学者でタルホ文学にも造詣が深い松山俊太郎氏の解説「弥勒から弥勒まで」が収録されています。
 ここで松山氏は、「弥勒」のテキストのヴァリアントをすべて掲げ、その違いについて詳細に解説しています。それによると、【新潮文庫】は、【大全】のための改稿による、とあります。すなわち、先に筆者が述べたように、【新潮文庫】の「弥勒」は、元々【大全】のために書かれた、という推論を裏書きしています。さらに【タルホスコープ】は、【大全】と同一稿に基づく最新最善の校訂本だとしています。
 その解説の最後に、「この一文は、萩原幸子氏の教示と資料提供によって、辛うじて草することを得ました」と記しているので、松山氏の上の記述内容は、萩原氏からの情報提供によるものと考えられます。
 このような性格を持った【タルホスコープ】ですが、どういうわけか、【全集】の萩原氏の「弥勒」の解題には、項目として採り上げられていません。

*

【全集】と同じなのは【タルホスコープ】だけ
 さて、話を元に戻すと、【タルホスコープ】の「立返る/立戻って/立帰って」は、【新潮文庫】の「立帰る/立戻って/立帰って」と似通っていますが、1か所だけ異なります。
 先の一覧表を見ると、【タルホスコープ】のA〜Eと全く同じものは【全集】だけです。これはどう考えればいいのか。
 ところで、【全集】の各巻の末尾には、「凡例」として7つの項目が挙げられています。これも萩原氏によるものだと思いますが、その4番目には次のようにあります。

「一、『稲垣足穂大全』──昭和四十四(一九六九)─昭和四十五(一九七〇)年(全六巻・現代思潮社刊)に稲垣足穂自身が追加訂正を書き込んだものについては、それを最終稿とした。」

 これらを踏まえて、ここからはまた筆者の推測になります。
 @一覧表のA〜Eの5項目について、【全集】が【タルホスコープ】と全く同じだということは、【全集】の「弥勒」は【タルホスコープ】を底本にしている(もちろん、【タルホスコープ】〈≒【大全】〉の誤植等については、【全集】は訂正しています)ということが言えます。
 A上の「凡例」の記述から考えると、【大全】のE(立返る/立返って/立近って)をタルホ自身が訂正して書き込んだものが(萩原氏の許に)残っていて、それが【タルホスコープ】(=【全集】)に反映されたのだとも考えられます。たしかに、3行にわたって同じ字づらの文字が3度も繰り返されるのは避けたい、他の語句で言い換えよう、とタルホが考えたとしてもおかしくありません。
 【がんじす河】の解説で、松山俊太郎氏はそのあたりの情報を萩原氏から聞いたことから、【タルホスコープ】のことを、「最新最善の校訂本」と言ったのではないかと推量します。それなのに、【がんじす河】に収録された「弥勒」のテキストが、【タルホスコープ】を底本としていないのは不可解ですが、それは松山氏のせいではなく、【がんじす河】を刊行した第三文明社の編集部の問題でしょう。
 なお、【がんじす河】のテキストには、タルホ自身の手は入っていないだろうと筆者は考えています。刊行が1975年10月なので(筆者はこの年の1月にタルホを訪問)、その時期のタルホの健康状態から考えると、すでにそういった仕事はしていないと思われるからです。

 以上、長々と述べてきましたが、結論としては、「弥勒」のテキストの「最新最善の校訂本」は、やはり【全集】だということになります。しかし、【全集】後に同じ出版社によって刊行された【ちくま文庫】は、なぜCとDとで【全集】と違うのか。これは文庫化に当たって、筑摩書房の編集部によって変更されたのは明らかですから、その理由を知りたいものです(全集と同様、この文庫版にも「編集/萩原幸子」と記されていますので、あるいは氏はご存じだったかもしれませんが)。

*

参考──【大全】以前のヴァリアントは?
 さて、これまで【新潮文庫】/【大全】以降の刊本について見てきたわけですが、それ以前の改訂、すなわちページの最初に掲げた「弥勒」のヴァリアントのうち、A 雑誌【新潮】、B【小山書店】、C 雑誌【作家】では、当該箇所がどのようになっていたのかを、最後に参考までに掲げておきます。


掲載誌名
A
B
C
D
E
A
雑誌【新潮】
1940年11月
字書 なし どうなるもんか、
この儘でよいのだ
官許せうちう

立帰る
戻つて
立帰つて

B
【小山書店】
1946年8月
字引 厚く切つたのだと
受取れるハム
どうなるか、どう
されるといふのか!
官許せうちう

立帰る
立戻つて
立帰つて

C
雑誌【作家】
1957年12月
言海 厚く切つたのだと
受取れるハム
どうなるものか! 官許せうちう 立帰る
立戻つて
立帰つて


 これを見ると、Cについては、初稿の雑誌【新潮】では、「この儘でよいのだ」という語句が補ってあり、「どうなるもんか」がまさに反語的表現であったことを明示しています。
 興味深いのは、Eについては、雑誌【新潮】では、2番目が「戻つて」となっていて、「立」が抜けていますが、それを除けば、【小山書店】、雑誌【作家】とも全て同じだということです。そして不思議なことに、それは【新潮文庫】と同じなのです。そうすると、むしろ【大全】の改訂が特別だったということになります。
 これらを考え合わせると、【大全】の「立返る/立返って/立近(返)って」という字づらの平板さを嫌って、後にタルホ自身が「立返る/立戻って/立帰って」(【タルホスコープ】)というふうに手を加えたというのが、やはりいちばん順当な考え方のような気がします。

*

増補──「法句経」と「Tat-tvam-asi」について
 最後に2件ほど増補しておきます。それは松山俊太郎氏によって【がんじす河】の解説の[付記]で指摘された、「法句経」(【全集7】p-283)と「Tat-tvam-asi」(【同】p-288)についてです。
 ここでも掲載誌(書)別に一覧表にしてみましょう。


掲載誌(書)名
A
B
A 雑誌【新潮】
なし
なし
B 【小山書店】
なし
Tat-tvam-asi
C 雑誌【作家】
法句経
Tat-tvam-asi
E 【新潮文庫】
法句経
Tat-tram-asi
F 【大全】
法華経
Tat-tram-asi
G 【タルホスコープ】
法句経
Tat-tram-asi
H 【がんじす河】
法句経
Tat-tvam-asi
I 【全集】
法句経
Tat-tvam-asi


 ここで問題になるのは、F【大全】の「法華経」と、E【新潮文庫】F【大全】G【タルホスコープ】の「Tat-tram-asi」です。
 【作家】で「法句経」であったものが、【大全】で「法華経」に替わっていますが、これは誤りです。『法句経』(荻原雲来訳註、昭和10年第一刷、昭和23年第八刷、岩波文庫)によると、「第二十六 婆羅門の部、通し番号四二〇」に、「心の穢なき阿羅漢の趣きし処は神も健闥婆も人も能く知らず、彼を我は婆羅門と謂ふ。」、同「通し番号四〇一」に、「藕葉の上の水の如く、針端の芥子の如く、欲に染らざる人を我は婆羅門と謂ふ。」とあるからです。第一刷の発行が昭和10年6月30日とあるので、タルホが読んだのは、この岩波文庫版かもしれません。
 これは推測ですが、【作家】では「法句経」と正しく表記してあり、【大全】時の改訂は【作家】を基にして書き換えたのでしょうから、タルホがそこで「法句経」を「法華経」と書き間違えたとは考えにくいと思います。また【大全】と同一原稿を用いている【新潮文庫】は「法句経」となっていることから、タルホの原稿は「法句経」と正しく書かれていたのではないか。とすると、【大全】の編集部が校正時に誤植を見落としてしまったか、あるいは間違って入稿してしまったか、いずれかになります。
 ただしこの「法華経」は、【タルホスコープ】で「法句経」に正しく改められました。また【がんじす河…】でも「法句経」に改められていますが、これは同書の解説者・松山氏の指摘によるものでしょう。
 なお【タルホスコープ】を底本としたと思われる『全集』は、もちろん「法句経」になっています。

 次に「Tat-tram-asi」の「tram」は「tvam」の誤植です。【大全】の誤植が【タルホスコープ】でも訂正されていません。
 【小山書店】も【作家】も正しく「tvam」と表記されており、その【作家】版を基にしたはずの【大全】版で、タルホ自身が「r」と間違って表記するとは考えにくい。【新潮文庫】も「tram」となっていることから、おそらくタルホの原稿が「v」を「r」と読み間違えやすい字だったのだろうと推測します。ただし両社が校閲を怠ったことも明らかになりました。
 【がんじす河】で「tvam」と正しく表記されているのは、松山氏のおかげでしょう。【全集】でそれが反映されたのは幸いです。
 なお、タルホが述べているように、梵語「Tat-tvam-asi」(それが即ち汝)は、ショーペンハウエルの『意志と現識としての世界』(全3巻、姉崎正治訳、博文館、1910年)の中に見つけた言葉です(ただし、原著にはハイフンなし)。同書は国会図書館のデジタルコレクションでも見ることができます。上巻に3度(p-367、600、631)、下巻(p-426)に1度出てきます。

*

附録──予告編として
 筆者はもう何年も前から、ある作業をしています。
 それは、「弥勒」のヴァリアントのうち、【新潮】、【小山書店】、【作家】、【大全】(≒【タルホスコープ】)の4つの版について、それぞれの違いを対比できるように一覧化する作業です。具体的には、各版の文章を一文(句点)ごとに区切って、各改訂でどのように手が加えられてきたのかを一目で分かるようにすることです。できれば個々の変更箇所について、自分なりに考察を加えながらコメントしていければと考えています。
 たとえば、「第2部」の冒頭の一文については、こんな感じです。

________________________________________

2-1-1
________________________________________

【新潮】
■江美留は、ペン軸がその一方へ転がつて行く──それほどはいびつになつてゐる墓畔の家の二階で、朝になると正午を待ち、──十二時の笛が鳴ればもうその日もよほど楽になる。

【小山書店】
■江美留は、畳の上に置いたペン軸がその一方へころがつて行く──それほどいびつになつてゐる墓畔の家の二階で、あさになると正午を待ち、──十二時の笛が鳴ればもうその日もよほどらくになる。
☆「畳の上に置いた」が挿入されたことで、机の上に置かれたペン軸でないことがはっきりした。
☆「それほどは」の「は」を、これ以降削除。

【作家】
■江美留は、古畳の上に置いたペン軸が(何故なら机のやうなものは一切なかつたから)その一方へ転げて行く──それ程全体として歪になつてゐる墓畔の家の二階で、朝になると正午を待ち、──十二時の笛が鳴ればもう其日を送ることもよほど楽になる。
☆「畳」を「古畳」に変更して、二階の一室の様子がより具体的になった。
☆(何故なら机のやうなものは一切なかつたから)をパーレン付きで挿入。ペン軸を置くような机がそもそも無かったのだ!
☆「ころがつて行く」を「転げて行く」に。
☆「全体として」を挿入。
☆「を送ること」を挿入。

【大全/タルホスコープ】
■江美留は、古畳の上に置いたペン軸がその一方へ転げて行く──それほどいびつになっている、がらんとした空っぽな、墓畔の館の二階一室で、朝になると正午を待ち、──十二時の汽笛が鳴ればもうその一日を送るのがよほど楽になる。
☆前稿で挿入した(何故なら机のやうなものは一切なかつたから)をそっくり削除。
☆前稿で挿入した「全体として」も削除。
☆「がらんとした空っぽな」が挿入されて、荒涼とした部屋の光景が強調された。
☆「墓畔の家」を「墓畔の館」に変更。それに伴い、【大全】/【新潮文庫】版に至って第2部の小見出しも「墓畔の家」から「墓畔の館」に改められた。
☆「二階」が「二階一室」に。
☆「笛」が「汽笛」に。サイレンではないようだ。
☆「其日」が「その一日」に。
☆「送ることも」が「送るのが」に。

________________________________________

 こんな形を考えています。いわば「弥勒」の校訂版(クリティカル・エディション)を作ろうという試みです。
 先日ようやく、「第2部」のテキスト抽出が終了しました。「第1部」と校訂作業はこれからで、先は長いです。


UP
BACK