タ ル ホ 形 而 上 学 m e t a p h y s i c s



異彩を放つタルホ世界の思想的根拠、そして宗教意識について考えてみたい。

タルホ・キリスト教学

タルホ・インド学・仏教学

形而上学キーワード




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タルホ・キリスト教学

――此朝から俺は、正月に公教要理を読んで以来二ケ月間続いて、それっ切りになっていた主の祈りを毎日唱えることにした。(『死の館にて』)



タルホ精神の遍歴過程で、“Saint”の発見とキリスト教の影響はけっして見過ごすことはできません。京都行きの前年、「私は十年来カトリシズムに凝ってきましたが、いまは死への準備として宗教意識の排除に思い当たっています」と、のちの志代夫人に書き送っているタルホですが、戦前・戦後を通じて、キリスト教への態度は吸引と反発というアンビヴァレントな振幅の中で大きく揺れ動いています。

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エルサレム
キリストと菩薩たちの背景としての星空の違い
キリストの花嫁あるいはヴァイオレットとリリーの境地
マリア
『イザヤ書』
『エレミヤ』
『コリント書』
『サムエル記』
『使徒行伝』
『創世記』
『伝道の書』
『マタイ伝』
『マルコ伝』
『ヨハネ伝』
『ヨハネ黙示録』
『ヨブ記』
『ルカ伝』
『列王紀略』
『ロマ書』



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タルホ・インド学・仏教学

――ここにおいて江美留は悟った。婆羅門の子、その名は阿逸多、今から五十六億七千万年の後、竜華樹下において成道して、先の釈迦牟尼仏の説法に漏れた衆生を済度すべき使命を托された者は、まさにこの自分でなければならないと。(『弥勒』)



“Saint”発見と並んで、「弥勒」の発見は最も大きな出来事の一つです。ただ、この両事件はどちらも横寺町時代の出来事で、タイムラグが1年余りしかないためか、本来異質なものであるにもかかわらず、混同されがちです。事実、タルホ本人も『弥勒』改訂の過程で、「キリスト」と「弥勒」を等価的に置換するという不思議なことを行っています。

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インド哲学
大日如来と法身仏
法句経
マイトレーアン・ウェイ(弥勒道)
未来仏
弥勒菩薩
鹿行派



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形而上学キーワード

──物質と「反物質」粒子と「反粒子」銀河系と「反銀河系」を持ってきてもよい。全体としての偏向、全体としての破壊は全く想像されない。このことは時間の調和的進行を約束している。これはわれわれの内部の「彼岸意識」あるいは「進化過程における予覚」に属している。私が今後十年間をかけて予定しているテーマは、即ちこの問題の思想化の上にある。(『男性における道徳』)



「そもそも抽象とは『存在』のユニークな可能性であって、この精神を失ったら一切はガラクタの集積になってしまう」と語るタルホであってみれば、その「モノ世界」は「抽象の糸」によって網目のようにつながっているはず。タルホ世界は、どれでも任意の結び目を一つ持ち上げると、すべての結び目が連動して全体が持ち上がるという「網目構造」になっているのではないか。タルホ形而上学は、その網目を丹念にたどっていくことでしか再構築できないのではないかという予感があります。ここではキーワードの羅列にとどめます。

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曖昧
悪人
悪用不足
或る物
いやらしさ
ウィット
ウロコ無し
永遠的な感覚の移植
永遠との交点
おかず
お終いの気分

鬼の爪
お化け
お化けと光明群
海賊
かかない物語

片輪

空廻り
技術
犠牲
逆文明
吸引と反発
巨刹・禅刹
虚無
苦悩
首なし族
黒雲
グロテスク
警告と否定
芸術
結婚
煙→最初の無常感
こうしては居られない
広大無辺
個人の時間的延長
娯楽
最終の都市
最初の無常感(煙)

死ぬ真似
時間
時間そのものの質的変化
自己同一性
自然
自然の浪費
自然律
邪淫
自由
宗教
純粋人と非純粋人
女性における自由
女性における天職
女性にはお化粧と服飾、男性には機械と道徳
女性への御機嫌伺い
白い顔
進化過程におけるサンプル
進化過程における予感(予覚)あるいは彼岸意識
真の解放
進歩への疑惑
スイート
ストイック(←→にぶさ)
スペクトルの縞目
菫色の人々
菫色派の哲学
菫色反応
菫外線的境地
菫の弁証法
生活原理
世紀末的感覚
制限の拒否
生命の連続
生理学と物理学
世界内存在と世界外存在
刹那→黒坊主
説明
摂理
旋回(wirbel)
全体
選択
存在者と存在
存在的と存在学的
第三論理学
対象化された死
第二の皮膚(衣服)
魂の遍歴の途
ダンスマカブル
ダンディー
智慧
地上とは思い出ならずや
抽象化
通信手段
つばさ
体裁と程らい
道徳
道徳律
遠い所を眺める目付
ドッペルゲンガー→自己同一性
夏休み
虹→スペクトルの縞目
二重
二十世紀的憂愁
二十世紀の感覚
二十世紀の奇蹟
二十世紀の臭覚
二十世紀の悲哀
二種の恋愛
贋の永遠族
にぶさ
人間の位置
人間はなぜ脇見をしたがるのか?
念願
ハイカラー
ハイカラー党
爆弾
場所への還元→対象化された死←→無限への連絡
罰当り
反言語(神)

否定
病院のコック番人
開かれた世界
フィーリング
フェアリー
分(時間)
文化と文明
文明の立体化
別な秩序
補充性
母性愛
本来的自己
魔の城
マモノ族
未来
未来人の動かし得ない逆説

無限
無限の未来への創造(人間本来の純粋行為)
無限への連絡
無象(むしょう)
名聞
唯美主義のアルチスト
唯物史観
ユウレイ

夢と幻覚
欲望論から宇宙論へ
より高次な生活様式への準備工作
六月の夜の都会の空
ワイセツ
笑い
A GLIMPSE
Devil
faire l'ecole buissonniere
Geschehen(ハイデッカー)
Joke
Saint
Uranoia(永遠癖)



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存在者と存在


「いわば常識的立場で、彼らは眼に見えるものだけが在るのだと信じている。これはまさに“存在”の手前における沈没である。彼らは“存在者”と“存在”とをごっちゃにしている。この途はしかし美的世界観を以てついに行き止りである。」(「男性における道徳」)


「神というコトバを好まない人は、「存在」に取りかえてもらいたい。この存在は、「かつて在り、いま在り、在らんとするすべて」のことであって、一般人が思い込んでいる物質的存在ではない。みんなは「存在」と「存在者」とを取り違えているのである。」(「わたしの神変自在なソロバン」)


「黒森の哲人ハイデッガーは、「存在」のドイツ語Seinにペケじるしの×をかむせて、この奇妙な新造語でもって、東洋的「無」を表わしたという。
 ところで真相はこうだ。比較的最近、フライブルク大学で彼が講演したさいに、「現代では存在ではなく、存在者、及び物質、計量のみが重じられている」と云って、ザインの四字にカッコを入れた。「否、むしろ存在は殺されている」と云い添えて、改めて×で消しを入れたのである。「然し、資本主義とか、マルキシズムとか、技術文明とかの諸題目は、結局、存在そのものの問題として、より深い立場から論じられねばならぬ。」」(「海と存在」)


「K先生は、江美留宛にきた郵便物をそのつどに二階まで持ってきてくれたが、部屋の中がどんな有様になっていようと、少しも動じるふうはなかった。……在りしところの、在るところの、かつ在るであろうところのものに安心を得ている人のように窺われた。」(「弥勒」)

「『普賢』の作者はなんでも“限界”を説き、光速に関するアインシュタインの比喩を挙げていた。それから“存在”ということが明瞭でないからして、“現象”にまで立帰る必要があるのだということを論じていた折に、「こんなわけで、いったん遠隔へ逸脱した菩薩たちも、当然として現実世界まで立戻っていなければならぬ」との結論になったようだ。」(「弥勒」)


「しかも今回は睡眠中の事柄ではない。昼夜を問わぬ幻覚なのだ。……このことを口に出すと、大概の女客は、「もうそんな話は止して──」と顔を顰めて打ち払うが、男性の中には、「つまり生命とは逆のものなんですね」と相槌を打ってくれたりする。この「生命」を“存在”と入れ替えてもよかろう。「存在とは正反対のもの」中世神学者のいわゆる「壊敗(コルプチオ)」に相当するが、こんな不吉とも無気味とも、恐ろしいとも云いがたい存在威嚇者が、たとえ幻覚にせよ此世にあったことを、わたしは今回初めて知ったのである。」(「鼻高天狗はニセ天狗」)

「三島流の解釈を施すと、「天狗は自らが存在するために、日夜存在の努力を払う必要がある。それは彼らにとって人間は明らかに存在しているからであり、天狗の方が分が悪いのは、ある人間たちにとって天狗は存在している必要がないからである。天狗にとって、天狗はどうしても存在しなければならない。でなければ天狗は存在外(アウセルザイン)にとどまるであろう。そして天狗をして存在せしめるものこそ、彼の日々種々の苦しい行なのである」
 このわたしが、懸命に存在への努力を払う時に、自分を支えているのは、実は「機械の密林」だということになる。金属製のジャングルは今では主幹が鮮かな緑とピンクに塗り立てられ、そこに複雑きわまる枝葉がくっ付いている。またこの二十年来、時々思い出したように、何処とも知れずに聞えてくる自分を呼ばわる声は、暫くは御無沙汰であった。それが先日久しぶりに聞えた。しかもいつもの「イナガキ!」ではなかった。若い女性か童子を想わせるアルトソプラノで、「タルホ坊!」と呼ばれたのだから、わたしは安堵してよかろう。その声を一つの存在保証と受取ってもよいであろう。」(「鼻高天狗はニセ天狗」)


「そこで彼女らは「無という武器」を振りかざします。そうだったにしても、淫婦系女性は「存在」の生んだ畸形児でしかなく、にがにがしい泡沫にすぎないというのも、彼女たちがもともと「無の底辺に眠る愛の衝動」という存在唯一の嫡出子を欠いたままで生れてきた宿命によるものでしょう。」(「ヴァニラとマニラ」)

「ペニスは凸起性を帯びるが故に、個性すなわち存在者的性格を保ち得ることになるが、だからといって常に存在し得るというわけのものでなく、それには女性という存在的空間を頼らなければならないだろう。つまり男性は常に「存在」を恢復しようとする回復運動を背負い、基地あるいは帰還所で、ある一箇のヴァギナの必要を有つことになる。そしてヴァギナの精神化である心情の上において、初めて彼の個性的価値を吟味される。「真理とは存在へ自己を整え入れることによって真理となる」この言葉が暗示するように、伝統的存在保持者である女性心情の背景を俟って、男性としての自己を確めなければならぬように見受けられる。男を愛した女の苦悩はおおむね「存在の深みからの声」を男に告げようとするものであるからだ。」(「ヴァニラとマニラ」)

存在者(男性)は、世界内部への途上において、いわゆる官能地帯「肉の海」を突破しなければならないが、だからといっていつもこれが成功するとは限っていない。又たとい成功したとしても、そこに何らかの解答が用意されているわけでもないのである。若し彼が本当に世界内部を覗きたいと思うなら、唯、女性を深度において発達させること、その心情的凹みへ通うことによってのみ、その望みが果されるのであり、その間の事情がまた男女関係における人間的制約の原型にもなっている。そこで、愛という契機をめぐって、彼女の身振りや会話に顕われる存在の意味が解読される以外はない、ということになる。」(「ヴァニラとマニラ」)

「一箇の男性による繰返し、すなわち回帰的ペニスを仮定することにおいて、初めて凹的ヴァギナが生き始める。いかにも手堅く「存在」と結び合っているかに見える女性ですら、何らかの意味で彼女に人生というものを予想せしめる定着者は、この一事を除いて他には無い。だからこそ、この弱味がしばしば、ならず者、ジゴロ、ドンジュアン的人物につけ込まれる処ともなる。」(「ヴァニラとマニラ」)

「先に女性とは決して自己を個性化すまいとの警戒心に置かれていると申しましたが、勢いこの次第は、彼女らをして「存在」の牢獄中に幽閉することになります。そのため女性側のこの警戒心が、男性の回帰運動の距離のようなものを決定することになっています。そしてこの距離の尖端部、つまり女性側との対蹠点に、男性は自己の孤独性を守護する「男色的世界」を置いているように見受けられます。それは官能的自由の最尖端であり、凸起の先に含まれる彼らの審美的性格だともいえます。」(「ヴァニラとマニラ」)


「われわれが曾てウンコ垂れであったからこそ、今日もなお臀部とのねんごろさに置かれていて、日に一回はあの狭苦しい隔離所にあって、存在とのあいだに久闊を叙している。」(「Prostata〜Rectum 機械学」)

「一般少年にとって、WC乃至トイレとは存在関与の舞台である。排出と同時に感受でもあるところの用便は、彼らには、雑多な存在者の中に見失われがちな存在そのものとのあいだの縒りを戻すことである。」(「Prostata〜Rectum 機械学」)

「いわゆる懐しさとは何か? 何物の媒介によるものにせよ、要するにそれは存在触知である。それはカントの「物自爾(ディングアンジヒ)」ショーペンハウエルの「意志」ライプニッツの「単子(モナド)」プラトンの「イデア」を垣間見ることである。」(「Prostata〜Rectum 機械学」)

「エロティックな事柄とは、存在への測地線を意味する。従って云うところの快感とは、存在存在を告知するものだと云えるわけだ。ところで、口唇部が代表している里心は余りに卑近であるから、さしずめ便意こそ最も純粋な存在知覚だということになる。」(「Prostata〜Rectum 機械学」)

「エイナス感覚は幼少年らにとっては世界了解の手蔓である。彼らはおしなべてズボンの後部への窃視者であり、排泄物はボール凾の中に入れて尊敬する何人かに贈与すべき貴重品になっている。この取っておきの愉楽が成人の裡にも残留して、大旨の大人らは、その肉体の辺域を足場にした存在窃盗を我身に覚えて、悩んでいるものに相違ない。」(「Prostata〜Rectum 機械学」)

「河童がここに存在を探り、宝物を掘り当てようとするのは、明らかに鳥が卵を生むのを見て何事かを類推することに出ているのであろう。」(「Prostata〜Rectum 機械学」)

「たまたま山林中で変死者に出食わして、覚えず脱帽する。これは、いま眼の前にしているのは結局一つの現象にすぎなかったことを覚り、合せて、自分らが、死んでも生れても、どうしてもそれから逃れることができない存在そのものに対して畏敬を払うことである。時間的な存在者を介して、その背後の非時間的な存在に気付くわけだ。──これと同様に、エイナスに対して只厭悪や汚穢感のみを催すというのは、即ち存在の手前における沈没である。」(「Prostata〜Rectum 機械学」)

「何人も時ならぬ屎尿のけはいにぎょっとし、平常空間を隔絶した真空圏をそこに感じ取る。「どうしたの?」とか、「何をしていたの?」とかいう問いは、結局この判り切った人間臭をわざと意識したいということの上にかかっている。しかもこの問いの意地悪さは、何も彼も承知の上でなおそのような訊ね方をした点に存する。質問者は、相手の下半身部における根源的出来事、つまり存在窃盗を自身の内部事情と照校してみようというのだ。」(「Prostata〜Rectum 機械学」)

「仕立おろしの服や脱ぎ棄てられた未だに体温をとどめている他者の衣類に気を惹かれたことを、われわれはまた思い出すのであろう。これだって、それら衣服には存在への仲介、即ちお尻の部分があることに依っている。」(「Prostata〜Rectum 機械学」)

「ショートパンツとかパンティーとかになると、いっそう切実なものになって、それを身につけている当人よりもむしろショートの方が恋しいくらいである。けだしそれが直接に存在擁護の任に当っているからだろう。」(「Prostata〜Rectum 機械学」)

「女性は、その全体として存在によって保証されている。即ち彼女はそれぞれに、「個別として働いている自然」なのである。彼女らは「一つ」によって他のすべてを律しようとする。それは彼女が男性のように存在から遊離して、おまけに分裂していないからである。一般女性のあの人を人とも思わない落ち着き様はその点に出ている。女性にはたぶん死は存在しないのであるまいか。」(「Prostata〜Rectum 機械学」)

「ペニスという外部取付器官はどんな場合にも単なる懸橋である。この橋梁を、ヴァギナ感覚あるいは対象的エイナス感覚の上に渡して、男性らは自らの存在離脱を出発点にまで挽回しようと努めるが、此時に当っていきおい粗暴に行使するために、橋梁そのものは、男性的嗜好の表象である旗のように、荒涼とした外風の翻弄に自らをゆだねることになり、こうして彼らが好んで拡げたがる地図の折目のように磨滅してしまう。」(「Prostata〜Rectum 機械学」)

「只重要なのは、男性にも受動粘膜が存するという一事である。この受動中枢がヴァギナ感覚をやや親身に了解するばかりか、そこを乗り超えて、外廻りに、技術的に存在奪回をを企てる。男性の特質は能動と受動との兼有にある。」(「Prostata〜Rectum機械学」)


「われわれが或る新規な見解を脳裡に浮べ、次にそのことには客観的妥当性があるかどうかを、例を取って吟味するように、科学者にもまず最初にインスピレーションがあって、一組の方程式が書かれ、その次に式中の記号が測定可能の物理量と関連させられます。こんな仕事は何ら実験観測の結果によるものではありません。「自然」を以てその存在性へ投企すること、即ち見通しに他なりません。アインシュタインも初めはそのようにやったのであって、彼が、「相対論の完全な理解者は全世界で一ダースを出まい」と口外し、世間からも「なかなかに割れない胡桃だ」と評されていた頃は、未だそこに理論物理学の純粋性を保持していました。」(「僕のユリーカ=v)


「多理は級友の前でこんな説明をした。「此処にインキ壺がある。これは以前には無かったものだ。無いというのはゼロである。インキ壺をAとして、最初の0に掛け合すと0! これによって、此処にインキ壺があるのは只そう思っているだけで、本当にそれが在るのかどうかは判りやしない」──(中略)「然し……」と質疑者は考え悩む様子で語を継いだ。「──ここにインキ壜があります。けれどもこのインキは僕がここに居ても居なくても、そんなことに拘りなく、矢張り此処に在ったのではないでしょうか? どうもよく判りませんが、僕にはそのように考えられます」そこで多理も間誤ついた。適当な返答を見付けようと焦った。それは口に従って出てきた。「──インキが以前からも此処に在ったことが何故あなたに判るのですか。それはあなたがいま現に、インキを見たからでしょう。だからして、自分がやってこなくても此処にインキが在ったであろうとお考えになる。どうですか知ら?」「その通りです」と相手は答えた。「──じゃ、そうであるなら、若しこのインキを見なかったら此処にインキ壺が在ることはあなたには判らない筈です。従って以前からこの机の上にインキが在ったかどうか、そんなことは軽率に決められないでしょう。だから、或者が現に在るということと、その者の本当の存在とは自ずから異っている、と僕は主張したのです。」」(「古典物語」)


「一向にその人らしくない「武石浩玻」と相語っていたり、どう見ても飛行機だとは受取れない奇妙な機械を前にして、なお支柱のソケットやワイアの引き方を査べている夜半の夢から醒めて、私は、われわれ自身がそうであるところの「終りへの存在」更に、「可能への最大の開放性と共に極度の危険を引受けねばならない人間存在」を意識するために、曾ての飛行機ほどに恰好なものはなかっという結論に歌到達した。」(「ライト兄弟に始まる」)


「男性は本当は、かれらの存在喪失の度合を女性を物差として測らねばならないのだし、一方女性は、彼女が肉体を台にした伝統的存在獲得を男性の精神性を背景にして吟味する必要があるのに、いまや男性はVにのしかかられ、女性には単なるPとしてしか男性を解し得ないようになっています。」(「異物と滑翔」)


「一般として云ってみても、いわゆる存在保持は、西洋花では創られて三十年過ぎた頃のパンジー迄であり、自動車はエグゾーストの憂愁をあとに撒き散らしていた時期を限度とし、軍艦はドレッドノート型まで。そしてフィルムは、ダグラス=フェヤーバンクスの『バグダッドの盗賊』までだな、と董生は考えている。先日彼は、ディズニー作品を観る時の苦痛について考えていた時に、其処には生のリズムとの連絡が欠けているのだということに気付いて、曾て精神と物質の間に程良い調和を保っていた飛行機や船や西洋花を思い合わしたのだった。」(「父と子」)
→“新規の組合せ”
→“その最もよき時期”(p.155)
→“ヒコーキは精神が…”
→「カフェの開く途端…」p.22、「未来派へのアプローチ」p.315


「最も純粋な意味ではここまでが「ヒコーキ」であり、あとは「歴史的技術的航空機」として、もはやロマンティックな冒険の範囲を逸脱し、人間の本質にとって極めて危険なるものとして置かれることになる。」(「二十世紀の「箒の柄」」p.162)

「私に云わせると、ライト兄弟から十年間、第一次大戦直前までが飛行機の「花」であった。」(「二十世紀の「箒の柄」」p.163)

「これ以後、エアロノートは夢と精神性を見失い、ひたすら破局への漸近線上を驀進する一介の機械に成り下ってしまったようである。」(「二十世紀の「箒の柄」」p.163)

「「主の名に依らざれば何事も徒労のみ」というのも、「主の名によらざる一切」は即ち「存在喪失」を意味するからである。」(「二十世紀の「箒の柄」」p.165)
→佐藤春夫の「夢を築く人々」の中に出てくるコトバ。「白昼見」(大全p.193)参照。“Nisi Dominus Frustra”(主によって建てらるるに非ずば徒労のみ)


「日露戦争は初めて機会を応用した戦争だが、同時にそれは、そこにおけるほど機械と人とが調和をしたことはその前にも後にもなかったのだということを意味しないだろうか。」(「シカゴ氏の芸術」p.228)


「……それは「存在」の深みからやってくる。いま初めて見るものでないような気がするのは、何処でも、何物でもが、その通りだからに他ならない。」(「宇治桃山はわたしの里」p.123)


「天人は被造物であり、したがって無限において充たされ得るような存在だからである。天に住もうと地上に留まろうと、いつにあっても無限に自己を超えているというのが、凡そわれわれ人間的存在の特徴である。」(「日本の天上界」p.238)
→893-(8)
→「実存哲学の余白」p.10
→「神・現代・救い」p.58
→“人間の位置” 644-(1)


「此の時以来映画の各場面に「存在」は見失われ、恰も一コマ一コマ間の事情のように、「存在者」として取扱われることになった……いまや映画の「存在」は、性としての美女によって保たれている。その他のものは、云わばあってもなくてもよい道具立なのだ。云い換えると、いずれも「存在者」としてしか取扱われていない。」(「僕の触背美学」p.290)


「ついでに衆生とは多くの人間、せいぜいが無数の生類を指すのだ、と僕は思い込んでいた。本当は衆生死の略なのである。生きかわり死に代わりしているもの、変転とめ度もない現象、われわれ人間が属する欲界は云うに及ばず、上位の色界、無色界をひっくるめて、形体乃至は心を持っている限りは、時間性に縛られていると云えるところの、あらゆる存在者を指す。」(「兜率上生」p.352)

「進歩、自由、幸福等の目標は撤廃されて、「生死出離」に置き換えられるであろう。この根本的宇宙観の確立を俟って、初めて各人は全存在との関連において自己を知悉するに到る。」(「兜率上生」p359)


「あらゆるものが、抽象概念から日常の食物までが対象化され、互いに何のゆかりもないバラバラな「存在者」として、いよいよ分裂して行く当今、」(「新歳時記の物理学」p.507)


「ゴム毬のように弾んだ両半球の狭間に行使されるペーパの感触は、我と我手によって誘導された最初の日の「存在知覚」である。」(「アフロディテ=ウラニア」p.648)
→「火箭」p.133


「すなわち彼女は時間的である。……それはまちまちな存在者ではなく、抱合的な存在それ自らを意味している。」(「かものはし論」p.142)
→No.3(1)との「時間」の使い方の違いに注意

「すなわち男性とは……」流れを流れしめる台、空間であり、主観を整理するための客観的枠組であり、「存在」に対しては「存在の仮定」であり、生命に形式を採らしめる物質なのだ。」(「かものはし論」p.143)


「われわれの裡に在る或る者を一点にまで圧迫し、他の別な者をして無限に拡張しようとしているこの強烈な感情」(「電気の敵」p.109)


「この「神」という云い方がきらいならば、「存在の栄光」と取り換えればよい。即ちエジプトの神殿の扉の銘を借りると「我は曾て在り、今在り、在らんとする総てなり」の謂である。」(「男性における道徳」p.28)
→“円筒” 107
→“音楽” (5)
→“大日如来” 504-(6)


「我は曾て在り、今在り、将来あらんとするもののすべてなり」このエジプトかどこかの神殿の銘を信じています。」(「アンケート」p.221)


「女性を見てぎょっとするのは「曾て棲んでいた家」を見た無気味さにもとづいている。この次第に気付いている者は勿論いるであろう。しかしこの旧館を裏打ちしているものまでには想像力が廻らない。彼らは、「存在」と「存在者」とをごっちゃにしている。否、むしろ彼らは、「存在者」と抱き合ったまま「存在」の手前において沈没している。」(「少年愛の美学」p.186)


「あの白熱球の野暮さかげんは忽ち消失して、太陽は甚だダンディーな存在者と一変します。これというのも、光はついに影において解釈されねばならないからでしょう。すなわち、該対象を取巻く「暗黒」を俟って、お日様は確実にわれわれの手に把握され、ここに初めて責任を問い得るところの存在者となったからでありましょう。」(「宝石を見詰める女」p.189)


「「無限存在」即ち神」(「死後の生活」p.149)


「真理とは存在へ自己を整え入れることによって真理となる」(「カードの城」p.201)
→「ヴァニラとマニラ」P.264(大全)


「若し、存在が虚無でないならば、万人の願望の的たる幸福が結果として不幸であるべきわけはないからだ。それは、「死及び地獄が、それらによってそれらを克服するためのものとしてでなければ、それらをもってよく独立に考え得られない」(ルッター)消息と同じである。」(「実存哲学の余白」p.12)
→“より高次な……” 953


「どこやらに、ほのかに存在を慕うものが感じられ、それが濃度を増して、いまはあべこべに、やってきた方へ沈んで行く……」(「東洋の幻想p.256」)
→「月愛三昧」p.133


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存在的と存在学的


「「──といって、国語読本の清朝活字なんか、只おしつけられるようで、そこに活字の印象は薄かったのである。巌谷小波山人の世界のお伽噺の四号活字をどんなに憧れていたことか」(つまり彼は、清朝活字の字体はよし存在的ではあっても存在学的とするには不十分だと云っているのだ。)」(「旅順海戦館と江戸川乱歩」p.51)


「彼はギリシア人が基礎を築き上げた処へキリストが現れて、ここに人間が存在的から存在学的にまで飛躍したという事実を見逃している。ギリシアの神々を支配した運命と死が取り払われ、われわれには「大丈夫だ!」との保証が与えられたのである。」(「男性における道徳」p.77)


「何故なら彼らは、女性とはまた変った意味において存在的ではあるが、決して存在学的ではないからだ。」(「痔の記憶」p.200)
→彼ら=子供


「そは大いなる塩の水
 海とはおのもさとれども
 伝へききしそのものと
 あまりにちがふここちして(賢治)
こうなってこそ、初めてわれわれは学的態度に目ざめるのだと云えよう。」(「海と「存在」p.243」)


「花束に飾られたヴィーナスは存在的(オーティシュ)であり、弓矢を携えたエーロスは存在学的(オントロギシュ)である。」(「単3乾電池」p.209)
→「異物と滑翔」p.46
→“ハイデッガー” (6)
→「天守閣とミナレット」p.81
→“角のあるもの” (6)


「男と女のいきさつなど、「存在的」ではあっても、「存在学的」だとは決して云えないのである。」(「緑の蔭」p.89)
→499-3-(7)


「「口唇」もその通りである。しかしこちらは入口であり、眼とは至近距離に置かれている。そのために、このものの存在学的真相は却って晦まされがちである。」(「Prostata〜Rectum…」p.224)

「統計に依ると、二十歳までの男女の中で、女性のナルシストは男性間のそれの約半数である。云わば大旨の女性では、存在学的には未だ何事も始まっていないのである。」(「Prostata〜Rectum…」p.225)

「男性は存在的には不感症であり、頓馬でもある。」(「Prostata〜Rectum…」p.230)

「このような湿潤は、当の女性にあっては巾広いカーヴを描いて存在的深淵中に融け入っている…」(「Prostata〜Rectum…」p.233)

「ペニス感覚はヴァギナ感覚との提携によって大人になるが、これとてついに存在的範囲を出るものでない。只そこにエイナス感覚の裏づけがあった場合にのみ、存在学的に何事かを成し得る。」(「Prostata〜Rectum…」p.236)


「人生派とは只行われているべきもので、彼此言う必要のないものである。」(「カフェの開く…」p.67)


「宇野はありふれた自然主義文学者ではない。彼は存在的ではなく、存在学的に置かれているからである。」(「タルホ・コスモロジー」p.10)

「しかし、らくに出来た作品は私には一向面白くない。それは存在的ではあっても、存在学的ではないからである。」(「タルホ・コスモロジー」p.41)

「私自身はこの作のナマな所が甚だ気に食わないでいる。即ちこれは存在的であって、存在学的でないわけである。」(「タルホ・コスモロジー」p.115)


「吉岡氏は「空間の本質として天体を持ってくるのは、存在的な見方であって、存在学的には逆に空間の本質によって天体の問題も考え得る」(身体があるから空間が考えられるのではなくて、現実の規定である空間性から身体性が考えられる)立場かも知れない。」(「ロバチェフスキー空間…」p.116)
→845-(5)
→「遠方では…」p.141
→「男と女」p.51
→“物質”762-A-2-(6)


「死の此岸的な存在学的説明は凡ゆる存在的、彼岸的思弁に先んじている。」(「僕のユリーカ」p.270)


「それはもう、存在の底に可能性の刃先で透し彫りにされた輪郭ではなくなった。「常にそれだけのもの」「この先どうなるものではないもの」でなくなり、「現にあるもの」「行われているもの」「継続的に発展するもの」に取って換られた。」(「ライト兄弟に始まる」p486)


「現実界に用の無い存在になってしまうと、彼らの打ち断たれた意志とわれわれの心情との間に「存在学」的な共鳴が起るらしい。」(「飛行機の墓地」p.340)


「女性の本質として「V感覚」が考えられるというのはオンティッシュな見方であって、オントロギッシュには、逆に、「V感覚」の本質から女体が規定されるのであり、そのV感覚というのもA感覚の功利的変様なのである。」(「アフロディテ=ウラニア」p.646)
→「火箭」p.131


「一般大衆相手の物書きや女流作家たちは、だから存在的ではあるが、存在学的だとは云えない。」(「廻るものの滑稽」p.185)


「乱歩だって、たとえばパローマ山の二百吋藩主望遠鏡については、「人類全体が、盲目が目開きになるほどの大事件だ。その重大性は戦争などの比でない」と云うにとどまっている。この言葉はまだ存在的であって、かりそめにも存在学的だとは云えない。」(「旅順海戦館と江戸川乱歩」p.49)


「それは彼女らの書くものが、くらしと色事つまり自然主義を一歩も出ないことに依っている。即ち女性は存在的であって、存在学的ではない。」(「男性における道徳」p.84)


「しかし「対象選択」以前にあっては、彼らにおける自他のエロティック・ゾーンに対する了解は、女児の存在的であるのに反して、著しく存在学的であるように見受けられる。」(「少年愛の美学」p.96)

「ピップの存在学など彼女らにはまだまだ先の話である。」(「少年愛の美学」p.280, 281)

「従って彼女らが、「男性が女性を参考として自らの本来性について反省するような状態」(即ち、彼女らが、男性を対象とする自らの「存在」でなく、男性を台に我身の「存在学」を意識するような状態)に到達するには、将来を俟たなければならない。」(「少年愛の美学」p.281)

「お化けはそうでない。その種類も多様多彩であって、より「存在学」的であり、種々の地獄相をわれわれに代って網羅してくれている…」(「少年愛の美学」p.303)

「彼女らはしかし、未だひともちになって、「存在」中に没し、「存在学」的隆起などは別に見当らない。」(「少年愛の美学」p.325)

「男装女性の魅力は、それがオーントロギッシュな点に出ている。女装男子が大旨厭わしいのは、未だオーンティシュを出るものではないからだ。」(「少年愛の美学」p.328)
→“第三論理学”(4)


「そしてあたまの片すみにふと、トルストイの五字がうかんだが……
「そんなえらい小説家が、どうしてまたカチューシャなどいう男と女との話をかくのだろうか」
……けれどもそこはどう説明してよいか、多理には糸口がつかめなかった。
……しかし将来において納得され、かつ解き明かされる何物かがまだそこには欠けていた。」(「美しき学校」p.35)
→499-(7)


「すなわち彼(ダ・ヴィンチ)はオーンティシュでなく、オーントロギッシュだと云うのです。」(「機械と物理学」p.248, 249)


「こんなのが本当の「存在学的(オーントロギッシュ)な酒呑みだ」と私は思っている。そんじょそこらの連中など、いまだ「存在的(オーンティシュ)酒徒」を出ない。これは日本的情感主義の一変種である。私は二十歳前後から酒を飲み出して、酒歴は五十余年間にわたるが、やはり「存在的」であった。「あの気持の良くなる点に酒の不道徳性が証明されている」とまで気付かなかったからだ。」(「狂気か死にまで行くべし」p.40)


「ともどもに野暮なタッチをかなぐり棄てて、ひとしくかれらの左肩にダッシュをつけるように、片側に陰影を伴うこと、その背面に影を負うことは、事物及び存在を明瞭ならしめる所以であって、こうして初めて責任をかむせ得る存在となる。」(「タッチとダッシュ」p.198)