タルホの作品「弥勒」は最初、現在の第二部「墓畔の館」にあたる部分が、「弥勒」と題して1940(昭和15)年11月に雑誌『新潮』発表されました。それから6年経って、戦後の1946(昭和21)年8月、小山書店より単行本『弥勒』が刊行されたのですが、このとき初めて第一部「真鍮の砲弾」が収録され、先に『新潮』に発表した「弥勒」は第二部「墓畔の家」と改題・改訂して収録されました。ここで初めて現在の「弥勒」第一部・第二部という形が成立したのです。
このような来歴をもつ「弥勒」ですが、重要な作品の一つであるにもかかわらず、第一部・第二部がそれぞれいつ頃構想され、いつ頃書かれたのか、という問題が顧みられることはこれまであまりありませんでした。そうしたなかで、松山俊太郎氏の「弥勒から弥勒まで」(『がんじす河のまさごよりあまたおはする仏たち』〈第三文明社、1975年〉所収の解説)は、「弥勒」のヴァリアントをできうる限り渉猟して、作品の成立過程や執筆時期について丹念に考察したほとんど唯一のものです。しかしながら、氏の論考が発表されてすでに30年以上経過しており、その間に新たな資料もいくつか発見されています。ここではそれらを踏まえて、特に「弥勒」の執筆時期に焦点を絞って私なりの推論を加えてみたいと思います。
★弥勒&\紙の『コギト』
「或る朝、部屋の戸の隙間から差込まれていた『コギト』という同人雑誌の表紙に、見覚えのある仏像を見た」。「弥勒」第二部「墓畔の館」の末尾には、このように弥勒≠ニの出会いが象徴的に描かれていますが、実際にタルホは、『コギト』という同人雑誌の表紙にあった弥勒菩薩像の写真を見たことによって弥勒の概念≠得、それがきっかけとなって「弥勒」という作品を書いたのです(「兜率上生」、「『弥勒』わが小説」参照)。
ところで、萩原幸子氏のご教示により、この弥勒菩薩像は『コギト』の1939(昭和14)年7月号(8巻7号)から12月号(8巻11号)まで連続して表紙に使われていることが明らかになっています(9月号は休刊)。発行日付は毎月1日≠ニなっており、同人雑誌という性格から、実際の発行月も月号とほぼ一致して7月から12月までだったろうと思われます。すなわちこれによって、タルホが弥勒の概念≠得たのは、1939年7月以降だと言うことができるのです。
(『コギト』の表紙に掲載されていた弥勒菩薩像<タルホ言うところの「李王家博物館・金銅弥勒菩薩・三国時代」>は、現在は韓国国立中央博物館の所蔵)
★「コリントン卿の幻想」
「コリントン卿の幻想」という作品があります。これは雑誌『文芸世紀』の1939(昭和14)年12月号に掲載されたものです。私がたまたまこの作品を発見したのはかれこれ四半世紀も前のことになりますが、それを見た途端驚いてしまいました。「世界の果の都会に、或年の春に不思議な倶楽部が出来た。……」で始まるこの作品は、「弥勒」第一部「真鍮の砲弾」の後半部そのままだったからです。当然、「コリントン卿の幻想」の末尾にも弥勒≠フことが登場するので、先の『コギト』の表紙のいきさつから、「コリントン卿の幻想」の執筆が1939(昭和14)年7月以前とは考えられません。『文芸世紀』12月号の発行日が11月14日となっていることから、「コリントン卿の幻想」は1939(昭和14)年の7月〜10月頃までの間に書かれたはずです。
★「弥勒」第一部はいつ書かれたか
それはそうとして、「コリントン卿の幻想」は最初から単独で書かれたものでしょうか。それとも、「弥勒」第一部はすでにできていて、その後半部だけを「コリントン卿の幻想」と題して発表したのでしょうか。
私は、「コリントン卿の幻想」は単独に書かれた作品ではなく、やはり第一部の後半部だけをそのまま発表したのだと推測しています。なぜなら、主人公江美留≠フ名前の登場の仕方があまりにも唐突すぎるからです。一部分のみ発表したのは、おそらく『文芸世紀』の紙数の関係でしょう。すなわち、「コリントン卿の幻想」を発表した時点で、すでに「弥勒」第一部は(たとえそれが下書きだったにせよ)一応出来ていたと思われます。「後篇を最初に発表したのは、前篇はとても受け容れられないだろうと思ったからに他ならない」(「タルホ=コスモロジー」)と述べているニュアンスからも、そんな気がします。
さて、「弥勒」第一部の執筆過程について考えるときに、次の二つの選択肢が考えられます。
@結末以前はすでに書かれていて、『コギト』を見てから、結末部分のみを「コリントン卿の幻想」として発表した。
A『コギト』を見てから、第一部全体を書き、「コリントン卿の幻想」の部分のみを発表した。
松山氏は「『第一部』『第二部』とも、『弥勒』が出てくるのは末尾のところなので、『弥勒の概念』なしでそれぞれ九分通り進行していたと考えるのが自然」(前掲書)と書いておられるので、@の立場になります。
ところで、赤色彗星倶楽部∞ポン彗星∞骸骨∞コリントン卿≠ネど、「弥勒」第一部に登場する各エピソードは、すでにきわめて初期から、すなわち大正末から昭和初期にかけていくつもの作品に取り上げられています。たとえば、Red CometClub≠ヘ「星遣いの術」(大正13年8月)や「緑色の円筒」(同年12月)に、ポン彗星≠ニ骸骨≠ヘ「彗星問答」(大正15年6月)に、コリントン卿≠ヘ「KINEORAMA」(昭和5年1月)に登場します。「弥勒」第一部にも記されているように、「赤色彗星倶楽部の構想は思い出すたびに彼の頭の中でひねくられていた」のです。
しかしここで、もし@の立場――結末以前はすでに書かれていた――を採るとすると、弥勒の概念≠ネしに、つまり結末の展開もないままに、この頃もう一度それを繰り返す理由がはたしてあったのか、という疑問が生じます。たしかに、それまで断片的に書かれていた一連の話を、半自叙伝的≠ノまとめておこうという動機は考えられなくもありませんが、それもやはり弥勒≠っての動機ではないか、と私には考えられます。
このことから、私は、Aの立場――すなわち『コギト』を見てから「弥勒」第一部を書き始めたのだと思います。
★「弥勒」と「山風蠱」との関係
「弥勒」第一部の後半に、骸骨≠ェ弥勒≠ノ取り換えられるのに、「以来十五年の歳月が流れた」とあります。赤色彗星倶楽部≠フアイデアが、1919(大正8)年の映画「真鍮の砲弾」によるものであるなら(「タルホ=コスモロジー」)、それから15年後というと、1934(昭和9)年になります。しかし、「或る閑暇な夫妻の家」で菩薩像の写真を見たというのは、もちろん夫人≠ニの一夜の散歩の翌日に弥勒≠持ってくるための創作上の出来事です。実際には、先に述べたように、1939(昭和14)年に『コギト』の表紙で見たのがきっかけだったのだから、「二十年の歳月が流れた」わけです。
「山風蠱」(改題・改訂「美しき穉き婦人に始まる」)には、「弥勒」に挿入されたこの一夜の散歩≠フモデルとなったO夫人との秋の夜のエピソードが記されています。それが何年のことか書かれてはいませんが、おそらく古着屋を始めた1934(昭和9)年か翌35(昭和10)年のどちらかでしょう(昭和11年9月末には明石から神戸に出奔しています)。
【補遺】
赤色彗星倶楽部≠フ構想は結局、ポン彗星が登場することで初めてまとまるわけですから、「以来十五年の歳月」の基点は、ポン彗星接近の年、すなわち1921(大正10年)とすべきかもしれません。しかしそれから15年後というと、O夫人との一夜の散歩≠ヘ1936(昭和11)年の秋になり、矛盾が生じます。
「山風蠱が発表されるまで」(『意匠』、1941年3月)というエッセイには、「弥勒」第二部と重なる時期の様子が書かれています。それによると、「山風蠱」は二度書き直されたことが分かります。「弥勒」第二部に出てくる「この下書だけは清書しておこう」と九段のH氏(第一書房の長谷川巳之吉)を訪れたのは、この「山風蠱」の下書きだったことが判明します。それは1938(昭和13)年の5月でした。そして38年から39年にかけての冬に第二回山風蠱≠書いたようですが、その原稿は転々として、結局、1940(昭和15)年6月になって昭森社から出た単行本『山風蠱』の中に収録されることで、初めて活字となったのです。
「山風蠱」には、『ボードレール感想私録』からの引用がいくつかあります。この本は「九段の出版家から、革表紙天金の『ボードレエル感想私録』を一冊貰っていた」と「弥勒」に出てくるものでしょう。ボードレールに限らず、「山風蠱」の所々に差し挟まれた引用句からは、聖書(キリスト教世界)への関心が窺われます。それは1938(昭和13)年3月のSaint#ュ見が契機となっているのでしょうか。それに対して、『コギト』によって弥勒≠発見するのは1939(昭和14)年7月ですから、それより半年ぐらい前に原稿が成っていた「山風蠱」に弥勒≠フ気配がしないのは当然です。
「山風蠱」に書いたO夫人との一夜の散歩≠、タルホは「コリントン卿の幻想」(=「弥勒」第一部)の中でもう一度持ち出し、江美留に「これこそゆうべ思ひ附かねばならぬものであつた」と悔恨を述べさせています。もちろん弥勒≠ヘコリントン卿≠フ話と結びついて初めて意味を持ったのですが、実は「山風蠱」を書いたときに思い附かねばならぬものであった≠ニいうタルホ自身の悔恨と二重写しになっているようにも思えます。
★「弥勒」第二部はいつ書かれたか
「弥勒」第二部の執筆時期は、本文を注意深く読むことによって、ある程度推測が可能です。作中の季節を示す箇所の中から、主だったものを順に拾い出してみると、次のようになります(かっこ内は、ちくま文庫『弥勒』のページ)。
@「三年前に、少年時代からの根城を明け渡した」(p.154)=これが明石を指すか神戸を指すかで若干ずれが生じますが、1936(昭和11)年12月の上京を指しているのなら、これを書いている時点は1939(昭和14)年12月頃となります。
A「このたび上京してから、牛込の片辺りの崖上の旧館に部屋を借りるまでには、約五ヶ月間を要した」(p.159)=ここから回想≠ノ入ります。これは1937(昭和12)年5月に入居した旺山荘を指します。
B「……その年が暮れた。が、新年早々彼はとんでもないものを、自ら引っぱり出すことになった」(p.168)=同年の暮れから1938(昭和13)年の新年。
C「もう三月であった。その日一日じゅう、鬼に責められた彼は、夜になると勇気を出して、よろめきながらも銭湯へ出向くことにした」(p.174〜175)=これが有名な銭湯におけるSaint#ュ見の日(「白昼見」ほかによれば、その日は同年3月13日)。
D「五月になった時、青甍のアパートには間代が滞納して、これ以上住んでおられない情勢が迫っていた」(p.176〜177)=旺山荘を出る同年5月(「わが庵は都のたつみ」によれば5月10日)。この後、数学塾に移る間に、先に述べたように、九段のH氏を訪ねたのです。
E「……その日の正午まえには、再び元の横寺町へ帰ることができた。……「東京高等数学塾」という札が懸かっていた」(p.178)=旺山荘を出た後、1週間ほど飯田橋近くの家に居たとあるので、東京高等数学塾に移ったのは5月17日頃ということになります。
F「――彼が横寺町に居を定めてから二年半程のあいだ」(p.187)=これは1937(昭和12)年5月に入居した旺山荘を指すので、二年半経った現在≠ニは、1939(昭和14)年の11月頃となり、@とほぼ符合します。
G「――こうしてこの秋が去って、降誕祭がやってきた晩、それは江美留の三十何回目かの誕生日の前夜でもあったが」(p.189)=これはEに続く1938(昭和13)年のことで、12月26日はタルホ38回目の誕生日となります。
H「正月の三日間、彼は全く何も食べなかった。二月になると夜具が失くなった」(p.190)=ここで年が替わって1939(昭和14)年の正月から2月。つまり、これ(「弥勒」第二部)を書いている年に入ります。
I「ヒルティーの愛読者がお正月に伴ってきた隻眼の人が、ヤマニ酒場で云った沈痛な響きの言葉が彼の耳に残っていた」(p.194)=隻眼の人≠ニは津田季穂のことで、彼と初めて会ったこのお正月≠ヘ、1939(昭和14)年の正月。その理由はK参照。
J「……この年も五月に入って、一夕誘われるままに、神田の映画館でその日限りにやっていた『カリガリ博士の長櫃』を観てからのことである」(p.197)=同年5月。
K「トンヤン・メーランファン」(p.198)=T(津田季穂)の友達だというトンヤン・メーランファンの異名を持つ女性は、「唯美主義の思い出」の中ではW嬢≠ニされており、また「酒につままれた話」には次のように出てきます。「その日、午後二時頃から馬込の衣巻省三を訪れた。同行者は、私の『弥勒』の終りに出てくる画家津田季穂と、曾て上海の踊子で、外遊の谷崎潤一郎を跪坐させたという渡辺勝子さんである。……ちょうど『石榴の家』(短篇『莵』の旧名)を書いていた時なので……」。これらを読み合わせると、トンヤン・メーランファン=W嬢=渡辺勝子となります。ここで問題となるのは「石榴の家」で、この作品は『文学界』1939(昭和14)年3月号発表ですから、衣巻宅訪問のこの話はおそらく同年の1月〜2月頃ではないかと思われます。そうすると、Iのお正月≠ヘ、やはり1939(昭和14)年ということになるでしょう。
L「――ポン彗星がまたもや地球に接近していた」(p.199)=6年周期のポン彗星は、あの1921(大正10)年以降、1927年、1933年、そしてまさにこの年1939(昭和14)年にも地球に接近していたのです!
M「或る朝、部屋の戸の隙間から差込まれていた『コギト』という同人雑誌の表紙に、見覚えのある仏像を見た」(p.200)=これは、最初に述べたように、1939(昭和14)年7月だったのです。末尾の記述が東京の盂蘭盆の季節となっていることからも、7月だったことを思わせます。
以上から、「弥勒」第二部は、1937(昭和12)年5月に横寺町の旺山荘に移ってから、『コギト』を見た1939(昭和14)年7月までの2年余りの生活を回想しながら、1939(昭和14)年の暮れ(11月〜12月)頃に、横寺町・東京高等数学塾において執筆したもの、ということになります。
★結論
「弥勒」第一部は、1939(昭和14)年7月以降に書き始められ、10月頃までには下書き(第一稿)が出来上がっていた。そのうち、後半部のみを清書して「コリントン卿の幻想」として『文芸世紀』1939(昭和14)年12月号に発表した。
「弥勒」第二部は、第一部が一応出来上がった後、1939(昭和14)年の暮れ頃に書かれた。完成した時期は定かでないが、1940(昭和15)年11月の『新潮』に「弥勒」と題して発表された。
その後、冒頭に述べたように、1946(昭和21)年8月、小山書店より単行本『弥勒』が刊行されたときに、初めて第一部は「第一部 真鍮の砲弾」と題して全体が活字化され、第二部は『新潮』発表時の「弥勒」というタイトルを「第二部 墓畔の家」と改題し、改訂を加えて収録されたのです。
★補遺
1.さて、ここまで結論を導いてきて、実はもう一つ興味深い資料を紹介しなければなりません。「物質滅尽の思想、それは口で語られる物語の如く移ろい行き、ついに溶けて幻のような無に還元して了う物質の将来なのであろうか、それとも弥勒菩薩の出現になるのであろうか? 私達は只暗黒に面してたじろぐ幼児の如くである」。これは同人雑誌『カルトブランシュ』に掲載された「あべこべになった世界に就て」の末尾の一節です。ここにも弥勒菩薩≠ェ出てきます。しかしながら、これが発表されたのは、1939(昭和14)年2月号です。つまり、驚くなかれ、『コギト』7月号より5か月も前≠ネのです! この事実をどう解釈したらよいのでしょうか? それはまた別の機会に譲らなければなりませんが、私は、こうしたタルホの無意識下になされていることに、たいへん興味をそそられるのです。
2.『コギト』というのは、日本浪漫派≠フ保田與重郎が主宰した同人雑誌ですが、タルホがこの雑誌の同人となって何かを書いたという形跡はないようです。「部屋の戸の隙間から差込まれていた」というのですが、彼らとどんな関係があったのかは謎です。
(『ユリイカ』<青土社 総特集 稲垣足穂 2006.9.25>発表)