タ  ル  ホ が 口 ず  さ  ん  だ 音  楽




 タルホ晩年の音源が残されています。それを聴くと、病床に就いているにもかかわらず、さまざまな歌を口ずさんでいることに驚かされます。言葉は明瞭でなく聴き取りにくいのですが、歌そのものはうろ覚えでなく、記憶は非常に明晰です。
 謡曲の「花月」や「船弁慶」はもちろんのこと、「チペレリ」「グッドナイトレディス」「マイボニー」などは、英語でほとんど 1 コーラス歌っています。そのほかにも「ほとどきす」「十月が宴会を開いた」「カナダ国歌」「まっくろけのけ」「君と呼ばれて顔赤め」「サラゴサ」「だんちょね節」…等々。
 タルホは歌が好きなのだ!
 タルホ作品の中でも「古典物語」は、大正前半期の関西学院普通学部(中学部)時代の「美しき学校」生活が描かれていて、読者に普遍的な懐かしさを感じさせる作品となっています。同時に、この作品には当時タルホが好んで聴いていた曲がいくつも紹介されていて、いわば「タルホ・ミュージックの宝庫」となっています。
 これまで、そうした曲を実際に耳にするのはなかなか困難だったのですが、ウェブ上にYouTubeが現れてから、比較的容易にアクセスして聴くことができるようになりました。そんな今の時代の恩恵を利用して、これまでほとんど取り上げられることのなかった「タルホ音楽」の世界を、ここで一度整理してみましょう。
 謡曲はひとまずおいて、はたしてタルホはどんな音楽を聴いていたのか?



「古典物語」に登場する曲

その他の作品に登場する曲

「タルホ・ミュージック」から見えてくるもの


































「古典物語」に登場する曲



 まず、「古典物語」に登場する曲を順に拾い出してみましょう。



越後獅子」


 多理は級友のN(西田正秋)と一緒に、みんなの前でハーモニカ演奏をすることになったのですが、その結果は…。

越後獅子抜萃を余興として今度みんなの前に紹介することを勧められた時、二人には別に謝絶の理由がなかった。当日、念の為に人げのない音楽教室でおさらえをやった。午後の会は喝采の裡にプログラムを進めて行ったが、二人の順番は中々こなかった。きっと取って置きなのだ、と多理は思った。順番になり、更に次の番になった。いよいよ今度だ、こんどでなければならぬ。司会者が立上った。それに倣って多理はNに合図をして腰をあげた。ところが胸元に花をつけた人は、壇上で一礼するなり、全番組を終りこれにて閉会する旨を宣した。Nの笑いが爆発した。彼は其場に転げそうになった、全世界此処に極まったとでも云うように笑いこけた。Nは指先で或る間隔を示して、そして笑いに詰りながら、それだけ、その長さだけ──閉会の辞が発せられた途端に──多理のひたいの幅が上下に伸びた、と云うのだった。」



 Nは爆笑するクセがあり、また手の指でいろいろな形を表現するのに天才的な才能を有しています。
 「越後獅子」というと普通、長唄の「打つや太鼓の音も澄みわたり〜」という曲を指すのでしょうが、ここでタルホが言っている「越後獅子」は、ハーモニカで演奏するというのですから、ひょっとしてそれとは違う曲ではないかと思われます。幸い、小玉武司氏のサイト「唄本から見た明治の流行り歌」の中に、その曲ではないかと思われるものを見つけました。実際の演奏ではありませんが、聴いてみてください。
 「古典物語」の中に出てくる唯一の日本の曲。


「チペレリ」


「糊で固めた麦藁帽子が街に氾濫して、目抜き通りの軒先には赤白だんだらの日覆がつけられた。西洋人の教師らは高原地方へ避暑に出掛けてしまった。授業はお午迄であった。そんな暑い一日の正午過ぎ、市電終点に号外の鈴が鳴って、サラエボに轟いた銃声が報じられていた。それからは欧羅巴では日に日に戦線が拡大していった。多理には一日、音楽の先生からチペレリを紹介された時のことが忘れられない。全く三階のピアノも椅子もその瞬間踊り出すかと思われた。」

「然し一旦チペレリが唄われた時、此処には曲調と歌詞との一致があると感じないでは居られなかった。そして何時かの夜、YMCAのステージに立っていた音楽の女の先生の口へかなぶんぶんがへ飛び込んで、そのまま独唱が中止になったと耳にして喜んだことが、反省された。O先生に対して済まなく思った。他級より先んじて教わったので、ベルが鳴って、解放されると、多理は直ちにNの教室まで報告に赴いた。誰の上にも同様な感銘がもたらされたのであろう。斯うしてさようならピカデリの唄は、この港の都会では、恐らく裏手のカナディアンスクールの連中よりも早く、多理らが先鞭をつけることになった。」

 「古典物語」以外にも、「チペレリ」に言及したものとしては、

「私はしかし、カナダ帰りの女の音楽先生に教わった「チベレリ」や「マデロン」や「グッドバイダブリンベイ」など、第一次大戦初期の英国軍歌を口笛で吹いていた。それは海港神戸の少年には似つかわしいと思われるのであった。」(「デカンショ節」)



 第一次大戦勃発の発端となったサラエボ事件は、タルホが関西学院に入学した年、1914年の6月のこと。「チペレリ」の原題は、“It's A Long Way To Tipperary”。第一次大戦時に流行った英国の軍歌なので、タルホ(多理)が「チペレリ」を聴いたのは、1年生のときではないかもしれません。音楽の先生は、この曲をピアノで聴かせたのでしょうか? 「ピアノも椅子もその瞬間踊り出すかと思われた」というのですから、相当インパクトのある演奏だったのでしょう。
 一度聴いたら忘れられないメロディと歌詞の親しみやすさは、当時の軍歌の中でも群を抜いているのではないでしょうか。
 なお、「デカンショ節」に「チベレリ」とありますが、“Tipperary” なので「チペレリ」が正しい。
 また、「さようならピカデリの唄」とあるのは、「チペレリ」の中に出てくる歌詞 “good-bye Picadelly” のことで、つまり「チペレリ」のこと。


「歌劇マルタ」


「一体多理は声楽に好意を寄せていなかった。歌詞は何時だって旋律とは関係がないと考えられたから。或る節に合わしてどんな歌詞をうたってもよいのは、例えば伊太利の船唄の節廻しが日本の鳩ぽっぽの唱歌になっていることが証している。爺さん酒飲んで酔払って転んだは、歌劇マルタの一節でないか。たとい、メロディーと言葉の一致があったところで、物理的な且つ抽象的な楽音と、肉声による具体的な意味とのあいだには融合しがたいものがあった。」

 「古典物語」以外にも、「歌劇マルタ」に言及したものとしては、

「メリエス張りの『月世界』に三種あった。……以上いずれの場合にも、──歌劇『マルタ』抜萃のマーチの吹奏につれて──固い大地や発射台が下方に取払われ、主人公らがふわりと宙に浮かび上る処が素敵だった。」(「シネマトグラフ」)

「彼と同年配で、夜八時頃の風呂屋で出会う余所のお兄さんがいた。本人はタコのような尖った口をしているのに、いやそのタコ口のせいであろうか、決ったように湯気の中で、うっとりするような美しい活動写真の楽隊を、口笛で順々に吹くのだった。即ち歌劇マルタからの抜萃やスコットランドの円舞曲などである。」(「ミシンと蝙蝠傘」)

「例の管理人の息子の友人に、ケーニッヒカールマーチや、歌劇マルタの抜萃や、スコットランドの円舞曲を上手に口笛で吹く若者がいました。かれのかおは、いつも口先をとんがらせているせいか蛸のように見えましたが、からだは尾長猿の感じで、そればかりか、或る時シャツを着換えているのを見たら、背に赤いポツポツが一面に出来ていました。けれどもそんなことに似合わず、この男の口笛にはいつもうっとりさせられるのでした。自分にはなかなかおぼえ込まれない或る半音下る箇所なんか、甘く、柔らかく、微妙であり、どうしてあんな巧みな節廻しと美しい音色がでるのかふしぎなくらいでした。」(「赤い雄鶏」)



 「歌劇マルタ」は、ドイツのフリードリッヒ・フォン・フロトー(Friedrich von Flotow)作曲のオペラ。
 それにしても、あまり馴染のない作曲家のオペラの曲をどうして?と疑問に思われるかもしれませんが、この歌劇マルタには、有名な「庭の千草」や「夢のように」などの曲が含まれています。しかし、ここでタルホが「歌劇マルタの抜萃」と言っているのは、第一幕第四場で歌われる「まじめで働き者の娘さん、さあ、おいで」(“Madchen, brav und treu”)のことだと思われます。近所のお兄さんが口笛で吹いていたのも、おそらくこの曲でしょう。その替え歌が、タルホが記している「爺さん酒飲んで酔払って転んだ」で、当時の子供なら誰でも歌ってみたくなるような替え歌です。ちなみに、下の句は「婆さんそれ見てびっくりして死んじゃった」。なんだかマザーグースの歌のようです。
 また、タルホの記述にもあるように、この「歌劇マルタの抜萃」は、活動写真のBGM(伴奏音楽)としてポピュラーだったようです。当時は無声映画だったので、楽隊の奏でる生演奏によって、この曲は耳に馴染んだものだったのでしょう。


「白衣の婦人」


「多理が好きなのはオーヴァーチュアであった。白衣の婦人であり、ファウスト序曲であり、バグダッドの太守であった。」

 「古典物語」以外にも、「白衣の婦人」に言及したものとしては、

「──もう一つ別なおしゃれを紹介しなければならない。それは同じ年の未だ春のシーズン中のことであった。雲一つない日曜日の午後二時頃、旧城内に施工してつい先頃ひらかれたばかりの、明石公園の本丸趾には万国旗が微風にさゆらいで、大阪第四師団軍楽隊が奏する、《序曲・白衣の婦人》が鳴り響いていた。金管楽団を取巻いて椅子席があり、そのうしろに群集が立っていたが、その中に、この春から自分の母校へ汽車通学を始めているこの町の某君をみとめた。」(「緑の蔭」)


 ここでタルホが「オーヴァーチュア」と言っているのは「序曲」で、オペラなどの開幕に先立って演奏される曲のこと。
 「白衣の婦人」は、フランスのフランソワ=アドリアン・ボワエルデュー(Francois-Adrien Boieldieu)作曲のオペラ。非常に格調の高いクラシック音楽ですが、当時、大阪第四師団軍楽隊が、なぜこんなマイナーなオペラの序曲を演奏していたのか?


「ファウスト序曲」


「多理が好きなのはオーヴァーチュアであった。白衣の婦人であり、ファウスト序曲であり、バグダッドの太守であった。」


 ここでタルホが「ファウスト序曲」と言っているのは、ひょっとしてR・ワーグナー作曲の管弦楽曲のことではなく、C・グノーのオペラ「ファウスト」のことかもしれません。ここでは後者の曲をリンクしておきます。


「バグダッドの太守」


「多理が好きなのはオーヴァーチュアであった。白衣の婦人であり、ファウスト序曲であり、バグダッドの太守であった。」

 「古典物語}以外にも、「バグダッドの太守」に言及したものとしては、

「ある寒い晩、活動写真の余興として、大阪第四師団軍楽隊が白幕の前で、序曲バクダートの酋長を聴かせてくれた。現今では「バグダッドの太守」と訂正されているが、あの時、自分は新規な「酋長」を迎えて、有頂天になった。それはまた「マーチではないもの」を楽隊から教えられた最初の機会でもあった。」(「浪花シリーズ」)

「ところが、坂を下りて前田の家がすぐそこに見える広い通りに出た時、Craft-ebbingなものは、更に目覚ましい展開をしました。私の傍をかすめて一台のリムジーンが通りすぎて、あとに撒き散らされた薄紫色のエグゾーストの中に、先刻の少女と共通した哀愁が嗅ぎつけられたからです。そしてこの情緒が私にとって、あの薔薇色の夕空を映した暗い室内で廻っているコロムビアレコードの歎きであり、シャンデリアの下で振られるタクトが織り出して行く序曲 “Chief of Bagdad” の高揚でもあったことは、云うまでもありません。」(「或る小路の話」)


 「バグダッドの太守」は、「白衣の婦人」と同じくフランソワ=アドリアン・ボワエルデュー作曲のオペラ。非常に美しいメロディの曲で、ここでも大阪第四師団軍楽隊が「バグダッドの太守」を演奏していたとあります。
 なお、“Chief of Bagdad” とありますが、フランス語の曲名では “Le calife de Bagdad”(「バグダッドのカリフ」) とありますから、“Chief” は “Calif” なのかもしれません。


「グッドナイトレディス」


「──その他に、以前からあった歌だが、多理はグッドナイトレディスが好きであった。急速に物が転って行くようなリズムが、暗緑色の波のうねりを縫ってゆくモーターボートの姿を浮ばせるからであった。それは宴会が果てて大都会の河岸にある建物の裏梯子を下りて乗り込む船のように想像された。そして多理は、連続冒険活劇で観た『深夜の人』のように、ドレッスコウトを着て縞の仮面をつけた自分自身と、その仲間として、黒ずくめの婦人達と道化と、猫と、マーチ・ヘァレスとピータァ・パンとを描いた。」

 「古典物語」以外にも、「グッドナイトレディス」に言及したものとしては、

「僕は── “Good night! Ladies” のこの時刻に、いつか映画で観たように(ヴェニスの館の飾りつき鉄柵の門を出て、鉤形の石段を幾めぐりしてゴンドラまで降りて行った仮面の一群のように)自分は黒マントーの裾をからげ、ピーター=パンや猫や蜻蛉や道化共と打ちつれて、裏梯子を伝って、そこに待っていたモーターボートに乗り移ろう。そんな時、ポン彗星が地球に接近する夏至近い深夜の空が倖い曇っていなかったならば、云い換えると、そこが下町の反映を受けて合歓の花色に染まっているのでなかったら、そんな折こそ、僕らの頭上は申し分のない「六月の夜の都会の空」ではなかろうか?」(「美のはかなさ」)


 「グッドナイトレディス」は、アメリカの古いフォークソング。途中から「メリーさんのひつじ」と同じメロディーが出てきます。
 この曲は、タルホが観た連続冒険活劇「深夜の人」のシーンと結び付いているようですから、その映画の伴奏音楽だったのかもしれません。


「十月が宴会を開いた」


「その次第に倣ってか、同じ朝、黒い羽毛に縁取られた赤い沓を穿いてきた女の先生は、十月が宴会を開いたという唱歌を教えてくれた。「でもこれはキャナダのことなので、こちらではまだオクトウバでは紅葉しません、ですからノヴェンバと改めてうたう必要がござんすね」と数年前まで暮らしていたというあちら訛で、説明した。」


 「チペレリ」も「カナダ帰りの女の音楽先生に教わった」とあるので、同じ先生でしょう。
 晩年のタルホがこの曲を口ずさんでいるのですが、残念ながら詳細は不明。


「讃美歌第三百五十七番」


「──でも先日、と相手は云った。此処へ棺を卸して土をかけながら、声を揃えて讃美歌第三百五十七番をうたっている一群があったが、あれはよかったよ。それだけのものでありながら同時に、決してそれだけのものでなかったからな。」


 学校の裏山を年上の級友と歩いていたとき、「只それだけのもの」に対する時空的疑問を口にしたタルホに対し、いつも大人のように落ち着き払っている彼は、上のような哲学的な答えで話をつなぎます。
 「讃美歌」が登場するところは、もちろん南メソジスト教会のランバス博士を校祖とする関西学院ならでは。


「スワニイリヴァ」


「──多理には又、こんな透き通った夕方にはスワニイリヴァの民謡が喚び起されるのが常であった。この曲は、矢張り何処か東部亜米利加の樹木の多い小都会に自分がいて、金髪の姉妹と一緒にうたっているのでなければならなかった。


 「スワニイリヴァ」は、有名なS・フォスターの「故郷の人々」(“Old Folks at Home”)のこと。
 このスワニイリヴァのメロディから、タルホは「記憶とは元々外界に存在しているものでなかろうか?」「若しそうだとすれば、人が此処に居るというのは、只彼自身の功利的な現在意識に基いた上での話であり、そうでない部分が、総ての死者らと今後生れてくる者共の領域になっているのであるまいか?」「そういうことを思い巡らしながら斯うして林の径を歩いている自分というのは、只その向うに存在するものの変身に過ぎぬのでないか、とさえ疑われてくるのであった。」という深い思索に導かれます。


「ケンタッキーホーム」


「其処は紅い招牌をぶら下げたチャイナクォーターであり、又、傷んだ石の段々を鉤の手に辿って行く迷路めく一廓であった。その中途の曲りかどに、昼間でも明々と灯影の見えるゴシック風の窓があって、内部に何時も西洋の少年少女が寄り集っているのが覗かれた。この前を過ぎる多理の頭には、決ったようにケンタッキーという言葉が浮んだ。昼間の口笛に洩れるのは綿の花咲く南方のメロディーだったが、奇異な物想いの夕暮には、それは、葉の落ち尽した梢と、バタスビィ会社のマーク入りの帽子の手ざわりと、肌寒い風に関係のある何物かに変化していた。更にそれは、自分より二つばかし年少の、色の真白い、ちょうど瓦斯の灯で育ったような少女の面差として解釈された。」

「既に六甲山の雪の日、スケートリンクに見る色ジャケツの残像は、多理の周辺を瑞西の雰囲気に変えたし、落葉の櫟林とケンタッキーホームに齎らされる情緒もあった。」

 「古典物語」以外にも、「ケンタッキーホーム」に言及したものとしては、

「私には神戸の学校時代に、周辺の同年輩の西洋の少年少女の上に、あのケンタッキー・ホームの旋律を結び付けて、彼らの面差や挙止に「近親相姦」的雰囲気を感じていたことが思い合わされる。」(「少年愛の美学」)

「私には、「オールドケンタッキーホーム」のリフレーン “Weep no more my Lady” はうたえたが、続く “Oh weep no moreToday” の半音下りがどうしてもうまく云えなかった。それで、ケンタッキーホームをお得意にしている級友につきまとって、半年がかりで物にしたのであるが、それというのも、自分はこの唱歌に、熟したコーンや花ざかりの牧場や、日ねもすの鳥声や、バンガローの床上で遊んでいる黒ん坊の子供を托していたのでなく、むしろこの唄をうたっている西洋の少年少女に、それを結び付けていた。その頃の西洋人らは、素性正しく、家族的で、つまり「ケンタッキー的」であった。ケンタッキーホームの団欒をいうのでない。「ケンタッキーホームを合唱するような品の良さに彼らは置かれていた」というのである。私の学校に隣り合わしたカナディアンスクールの連中にしても、──Heat for the seatとか、put me work! for the nestとか印刷されたお尻打ち板とのあいだに繋りがあって、「ケンタッキーホーム」と「スワニーリヴァ」をまだまだ十分に保持していたのである。」(「緑色のハット」)


 「ケンタッキーホーム」も、フォスターの「ケンタッキーの我が家」(“My Old Kentucky Home”)のこと。
 1番の歌詞は以下のとおり。タルホがうまく歌えなかったというのは、くり返しの部分。

The sun shines bright in my old Kentucky Home,
'Tis summer, the darkeys are gay,
The corn top's ripe and the meadow's in the bloom,
While the birds make music all the day,
The young folks roll on the little cabin floor,
All merry, all happy, and bright,
By'n by hard times comes a-knocking at the door,
Then my old Kentucky Home, good-night!

 Weep no more, my lady,
 Oh weep no more today!
 We will sing one song for the old Kentucky Home,
 For the old Kentucky Home, far away.




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CONTENTS






































その他の作品に登場する曲




 「古典物語」のほかにも、曲名が出てくる作品がたくさんあるので、紹介しておきましょう。(50音順)



「アルルの女」


「それは──」とBは云いかけて、右手で字を書くふうを示しながら、「それは俺の英語の字引のなかほどにあって、赤インキのすじが一本引いてある。いま君に話すわけにはいかないから、紙に写して封筒に入れて、君の家の郵便函の中へほうりこんでおくよ。でも云っておくが、たれにもそれを見せてはいかん。それから今日のことをSに告げたら承知せんぞ。もしSに話したら、君をぶん殴るよ」そう云ってから、声を落して、「いや君に喋ってしまってから君を殴ってみても仕方がないからな。大丈夫だ。安心したまえ! じゃここで失敬する」
 と云いさまBはくるりと向きを変えると、てっぺんに風車が付いた格子井戸が見える方へ曲って行った。折から若葉の上を渡ってきた風に入りまじって、しばらく巧みなアルルの女の口笛が聞えていた。」(「フェヴァリット」)

「そう云えば、学校の杜が匂わしい若葉に包まれ出した頃でしたが、私は一度、眩しいほど陽が射したテニスコートに立っていた彼の顔のたとえば「アルルの女」とでも云いたいような、なまめかしい白さに、今迄になかった或る強い感情に胸を打たれて、急に眼先が真暗になったことがあるのを、憶えています。」(「鼻眼鏡」)


 「アルルの女」は、有名なG・ビゼーの曲。おそらく、その第2組曲第4曲「ファランドール」の出だしのメロディーでしょう。
 「フェヴァリット」で、多理を或る倶楽部に誘おうとするB(「ミシンと蝙蝠傘」では「ブンちゃん」)は、多理より5つ以上年上。ブンちゃんは、ベース入りのハーモニカを吹く。また彼の口笛は、口をとがらせて吹くのではなく、歯の間から聴かせるやり方。さらに「或る倶楽部の話」を含めてこの場面を総合すると、「ブンちゃんは歯の間で「アルルの女」の口笛を吹きながら去って行った」ということになります。


「ヴォルガの舟唄」


「さて六ちゃんは相変らず道を歩く時は、ヴォルガの舟唄か、「ハイデルベルヒの初夏の宵」をうたい、平岩は畳の上で田谷力三のセイラーダンスの真似をやり、石野は平岩の家の井戸へ落した冷しビールを拾おうとパンツのまま井戸の中へ降りて、折から帰宅したお袋に、「当分井戸水は飲めやしまへんがな」と叱られたりしていたが、奥平野の蝙蝠倶楽部はおのずから解体に瀕していた。」(「鉛の銃弾」)


 「ヴォルガの舟唄」はロシア民謡。
 「ハイデルベルヒの初夏の宵」は不祥。


「美しき天然」


「秘密な土曜日遊びの提案者ジュウちゃんは、黄色に見えるほどに白い、しなやかな両手の指先を器用に働かせて、まず『美しき天然』を弾いてみせる。そんな時、彼は小生意気な小指のタッチを添えて、白い列の上部に間を置いて配置された小型の黒い列が何用のものであるかを、教えてくれるのだった。この黒鍵を使わなければ、「空に囀る鳥の声」のムードは、活動写真で見る風景や水流のように、イキイキと眼前に動いてこないようであった。」(「ミシンと蝙蝠傘」)

「「美しき天然」は、歌詞旋律共に世界的名作である、と確信された。「あれは明治の小官吏の家庭情緒に過ぎぬ」などとは、孔雀の脚にしか注意しない者の云い草である。何故なら、この唱歌こそ、美的、智的、道義的信条の要約であり、特に芸術家には夜ごと日毎うたい続けらるべき制作の歌声に相違ないからだ。」(「死の館にて」)

「ああ世は夢か幻か、獄屋にひとり思い寝の……『美しき天然』の節まわしで、ヴァイオリンに合わして歌われていた「野口男三郎事件」は、未だ小学校へ上らなかった頃、家にあった貸本で知った。」(「少年愛の美学」)


 「美しき天然」は、武島羽衣・作詞、田中穂積・作曲による唱歌で、明治38(1905)年に雑誌に発表(詳しくは池田小百合氏のウェブサイト「なっとく童謡・唱歌」参照)。
 ジュウちゃんによって、タルホは黒鍵が半音を弾くのに使われるということを教わり、半音がメロディの微妙なニュアンスを醸し出すのだということを知る。「弥勒」にも、「彼は、急調な舞踏曲Two-step Zaragozaの半音下る──ニルヴァーナがほのめいていると解釈される一節を、口笛によって、幾回も吹き当てようとした」とあるように、どうもタルホは「半音」に惹かれるようです。
 それにしても、「死の館にて」の妙な力み方はいったい何なのか? 4番まである歌詞の末尾には、それぞれ「神の御手の尊しや」「神のたくみの尊しや」「神の力の尊しや」「神の御業の尊しや」と、いずれも神の力を称える言葉が添えられています。その「神」は日本の神というより、キリスト教的な「造物主」のニュアンスが感じられます(これについても、上記、池田小百合氏のサイトには、作詞者の武島羽衣について興味深い記述があります)。「死の館にて」は、チフスで大塚病院に入院していたときの話ですが、カトリックに傾斜していた時代だったことを考えれば、この「美しき天然」の歌にタルホが強く共鳴したのもうなずけます。


「Over There」


「久しぶりに秋晴れの波止場に立った私は、波に戯れている一羽のカモメを見て、ふと昔の事を呼び起した。折からけたたましい音を立てて頭上に迫ってきた一台の大型飛行艇が、今は西洋の港で立派な青年として活躍しているであろう西村君を確信させた。私の口笛には、おのずから米国出征軍がうたう壮快なラッパの音がはいった“Over There”が出てきた。」(「紫色の35mmのきれっぱし」)


 “Over There” は、英国の“It's A Long Way To Tipperaryと並び、第一次大戦下で流行した米国の軍歌。


「オールド・ブラック・ジョー」


「K・Yを初めて知ったのは、私が三年生になった春の終りのことでした。帰りの汽車にひとり乗っていた時で、鷹取駅を発車すると、幸い乗客が少ないので私はポケットにバットの小箱を探って、然し一応左右に眼をくばる為に立ち上ると、うしろから、
  I hear their
  gentle voices
  callingOld Black Joe
 英語の唱歌がきこえたのでした。それは発音を辿りながらうたっているのですが、節廻しがなかなか上手で、小さな声がそれこそgentle voice なのです。で、そっと覗いてみると、私とは背合せの腰掛からすべり落ち相な、殆んどあおむけの姿勢になって、私の学校の制服をつけた少年が、胸の上に、紫リボンのたれた唱歌帳をひろげているのでした。」(「鼻眼鏡」)


 「オールド・ブラック・ジョー」もフォスターの歌曲。
 この曲が、タルホの通う学校の「唱歌帳」に載っていたことが分かります。


「オリエンタルダンス」/「エジプチァンミッドナイトパレイド」


「と、石野が立止った。どこからか音楽が聞えてくる。「オリエンタルダンスだ」と云うが、むしろ「エジプチァンミッドナイトパレイド」という曲に近い。
 辺を見廻したが、ただゴーゴーと鳴っている水門と、遠くにキラつく事務所の灯と、菫色に暮れ迫ってくる池のおもてばかりである。そして音楽は……というと、これは、クラジオレットや、ハーモニカや、バイオリンや、マンドリンをめちゃくちゃに鳴らしているような、まるでおもちゃ箱をぶちまけたような賑やかさである。──が、それが静かな山の夕ぐれの空気を顫わせて、遠くの遠くから伝わってくるせいか、そこには云知れぬ愁いがこめられて、聞いている悲しさと快さったらない。」(「煌ける城」)


 この「オリエンタルダンス」と「エジプチァンミッドナイトパレイド」は、「煌ける城」にしか出てこないようですから、創作上の曲名かという疑問も生じます。ただ「エジプチァンミッドナイトパレイド」については、詳細は不明ですが、Hager's orchestraという楽団が演奏する “Egyptian Midnight Parade” という曲があるようです。「オリエンタルダンス」についても詳細は不明。


「グッドバイダブリンベイ」


「私はしかし、カナダ帰りの女の音楽先生に教わった「チベレリ」や「マデロン」や「グッドバイダブリンベイ」など、第一次大戦初期の英国軍歌を口笛で吹いていた。それは海港神戸の少年には似つかわしいと思われるのであった。」(「デカンショ節「流行歌」」)


 アイルランド・ダブリン生まれのスタンリー・マーフィー(Stanley Murphy, 1875-1919)の作曲に、“I'm on my way to Dublin Bay”という曲があり、歌詞の中に、“Goodbye! I'm on my way to dear old Dublin Bay” とあるので、タルホの言う「グッドバイダブリンベイ」は、この曲のことだと思われます。


「ケーニッヒカールマーチ」


「例の管理人の息子の友人に、ケーニッヒカールマーチや、歌劇マルタの抜萃や、スコットランドの円舞曲を上手に口笛で吹く若者がいました。かれのかおは、いつも口先をとんがらせているせいか蛸のように見えましたが、からだは尾長猿の感じで、そればかりか、或る時シャツを着換えているのを見たら、背に赤いポツポツが一面に出来ていました。けれどもそんなことに似合わず、この男の口笛にはいつもうっとりさせられるのでした。自分にはなかなおぼえ込まれない或る半音下る箇所なんか、甘く、柔らかく、微妙であり、どうしてあんな巧みな節廻しと美しい音色が出るのかふしぎなくらいでした。」(「赤い雄鶏」)


 「ミシンと蝙蝠傘」にも、 「彼と同年配で、夜八時頃の風呂屋で出会う余所のお兄さんがいた。本人はタコのような尖った口をしているのに、いやそのタコ口のせいであろうか、決ったように湯気の中で、うっとりするような美しい活動写真の楽隊を、口笛で順々に吹くのだった。即ち歌劇マルタからの抜萃やスコットランドの円舞曲などである」という同様の記述があります。
 「ケーニッヒカールマーチ」は、オーストリア皇帝・カール1世を称えるための行進曲。作曲者はカール・ルートヴィヒ・ウンラート(Carl Ludwig Unrath, 1828-1908)。いかにも行進曲らしい行進曲で、「カール大帝行進曲」「カール王行進曲」とも呼ばれています。


「太湖船」


「そればかりか、彼の家を出て、赤いランターンが下がったチャイナ・クォーターの狭い石甃の上を、口笛の「太湖船」に合わして歩いていた私は、やがてガスの光で育ったような少女と共にある公園の夜や、活動館の客席を想像して、風船玉のように飛びかけていました。」(「或る小径の話」)


 「太湖船(たいこせん)」は、古くから親しまれていた中国の楽曲。
 神戸の中国人街では、こういった曲も聴かれていたのかもしれません。


「テルミー」


「レコード曲は、ヤングマンスファンシーやテルミーの間に、ときどきてなもんやないかないか道頓堀よ≠ェ挟まる。おやじはそれをそんなこと内証内証道頓堀よ≠ニはき違えていた。それをうたいながら彼は古い新香をパリッ、パリッとやって、焼酎を啜っていた。」(「鉛の銃弾」)


 「テルミー」は、アメリカのマックス・コートランダー(Max Kortlander,1890-1961)が作曲した “Tell me” (1919年) のこと。日本では二村定一(ふたむら・ていいち)のレコードでヒット。
 ここで言っているのは、タルホが昭和の初め頃に住んでいた西巣鴨新田のダンスホールでの話。YouTubeに出てくる “TellMe” のSPレコードのラベルにも、“Fox Trot” とダンスのステップが書いてあるように、当時こういった曲がダンス音楽としてかかっていたのでしょう。
 ちなみに、「てなもんやないかないか道頓堀」は、同じ二村定一が歌った「浪花小唄」のこと。


「Two-step, Zaragoza」


「「それはそうと自動車のエグゾーストの匂いにはニルヴァナがありはしないかね」
 と私は口に出した。
「うん、つまりこいつも頽廃(デケイ)だからナ。おれはこのガスの匂いと、Two-step Zaragoza ──朝日館のオーケストラで活劇の初めに鳴らせていたやつよ、あの曲とのあいだに共通のものを感じる」
 そう云ってNは、かれみずから、「二十世紀の悲哀だ」と称するクイックマーチの一節を口笛で鳴らした。」(「星を売る店」)

「それは、悲しいばかりに澄んだ、かつ軽やかな、同時に玩具箱をぶちまけたように賑やかなものであった。いま読者に対して、ピアノのキーを叩いて示すわけに行かないけれども、私が知っている範囲では “Two-step Zaragoza” というマーチが、その日自分が目撃した葬送舞踏会の感じに近いと思う。その曲は南方のメロディであろうが、私は、少くともいま指摘したい点から云うならば、なにも西班牙情調でなく、われわれの文明が今後久しい世紀を経て到達するであろうもの、云わばその時地上に打ち建てられる最終の都市の姿が、もはや夜とも昼とも云いがたい世界黄昏の光線の中に透き通って聳えているさまが描かれるのである。」(「青い箱と紅い骸骨」)

「そうすると成程、キネマの二重写しのように、そこにはサンフランシスコめく夜景と重り合って、おそらくこの文明が幾十世紀もあとになって到達するであろう「最終の都市」が感じられるのだった。そしてその不可思議な未来の建築群が、もはや曙とも夕暮ともつかないトワイライトの中に、半透明に、そして何の物音も無く浮び上っているさまが彷彿とするのであった。──しかしこれだって、あの字幕が映り出す出すと同時に始まる厭世的なクイックマーチのせいかも知れない。そう思って彼は、急調な舞踏曲Two-step Zaragozaの半音下る、──ニルヴァーナがほのめいていると解釈される一節を、口笛によって、幾回も吹き当てようとした。」(「弥勒」)

「ハテ、この匂いは野にあった花の記憶に由来するのか、それとも、初夏の宵に、新刊書を並べ立てたブックストアの明るい窓の前ですれ違ったひとから発散していたものだったろうか……数日前に眼にとめたカード絵の残像なのか知らなどと戸惑わずにおられない。それに彼の場合にあっては、この捉え所のない、微量なベンゼンを台にした有機化合物は、全然別なもの、西洋皿の色彩風景でも、或る音楽の半音下る箇所であってもいっこうに差支えないのだった。」(「夏至物語」)

「時折に自分をとらえて、淡い焦慮の渦の中へ捲き込む相手をもって、かつて僕は一種の「永遠癖」だと考えた。それでは不十分なので「宇宙的郷愁」に取りかえたが、この都会的、世紀末的、同時に未来的な情緒は、つとに自動車のエグゾーストの匂い、雨の降る街頭に嗅ぎつけたあのガソリンの憂愁の中に、兆していた。それからまた、青き夜の映画館の椅子で聴いた音楽の、半音下る箇所にも、それは確かに在った。」(「美のはかなさ」)

「第一次大戦が漸く終り、アメリカ政府が大量に払下げた “カーティス・ジェニー” を使用して、復員のオーマー・ロックレア中尉が世界最初の翼上歩行と空中乗換をやってのけた頃のこと、ユニヴァーサル会社の連続冒険活劇に、ワニタ・ハンセン、ジャック・マルホール共演の “真鍮の砲弾” というのがあった。大正八年の春から夏の終りにかけてである。このシリーズの毎回の初めに、ボール紙細工の都会の夜景が現われ、その上空に飛来した一箇の砲弾(実は巨大な拳銃弾)が炸裂すると、内部から新しいタマが生れて、これがクイックマーチ “サラゴーサ” の旋律につれて踊りながら、その尖端でもって夜空にThe Brass Bullet と書き付けるのだった。」(「タルホ=コスモロジー」)


 タルホの記述を総合すると、「Two-step Zaragoza」は、大正8(1919)年に、神戸の朝日館で上映された(無声)映画「真鍮の砲弾」の最初に、映画館のオーケストラによって演奏された曲だということが分かります。
 この映画は、自動車免許を取得するために初めて上京した折に、東京の帝国館で観たのが最初で、その後、神戸に戻って朝日館で再び観たようです。このメロディは、生涯にわたってタルホの心の中に生き続けていたのですから、おそらく何回も映画館に足を運んだのでしょう。
 この「Two-step Zaragoza」は、ポン彗星幻想物語を構成する聴覚的アイテムの一つで、その意味では、「タルホ・ミュージック」の中でも、最も重要な曲だと言えるかもしれません。
 しかし残念なことに、タルホ晩年の音源で、この曲のメロディをはっきりと口ずさんでいるにもかかわらず、その詳細は不明です。


「Twinkle, twinkle, little star(きらきら星)」


  「Twinkle, twinlke, little star.
   How I wonder what you are.
 少年紳士は、こう歌うのが得意だった。「驢馬を買ってやるからな、その背に花を積んで銀座で売り給え」僕らの師匠なんか彼についてそんなことを云っている。」(「きらきら草紙」)


 “Twinkle, twinlke, little star” は、「きらきら星」とも呼ばれる童謡。
 少年紳士は石野重道、師匠とは佐藤春夫のこと。


「どこへ?」


「応接間でシューベルトの歌曲 “どこへ?” を二人で聴きました。歌手はテナーのレオ・スレザークでした。」(「菫色のANUS」)


 「どこへ?」は、シューベルトの歌曲 “Wohin?” のこと。レオ・スレザーク (Leo Slezak,1873-1946) は、チェコスロバキア生まれのテノール歌手。。


「パシフィック231」


「オネゲール作曲 “pacific231” は何人も知っていよう。英国文学には、キップリングその他、SLに関する多くの名短篇がある。森鴎外訳の独逸短篇に、漆黒の嵐の夜を火の粉を飛ばして疾駆する機関車のボイラーの上に、大鎌を片手にした、眼窩の空っぽな、鼻の窪んだ先生が跨がっているというのがあった。これはTotentanzの変奏曲であろう。」(「轣轆」)

「それに現今では機関車が余りに巨大になってしまった。パシフィック何とか……新型急行機関車の車輪の数を題名にした意想曲があるが、機関車もその辺までは海水着の美女を汽缶の上に跨らせるのにふさわしかった。せいぜいが「デペロの機関車」までの話で、キャバレーだってその頃は、開いたとたんに向うから赤い満月を昇らせることが出来たのである。」(「痔の記憶」)


 オネゲール(Oscar-Arthur Honegger, 1892-1955)は、フランスの作曲家。タルホが「新型急行機関車の車輪の数を題名にした」と言っているように、「パシフィック231」の数字は、機関車の(片側の)車輪の数を、前から順番に2-3-1と表しています。
 ちなみに、「Totentanz」は、ヨーロッパ中世のいわゆる「死の舞踏」のこと。
 デペロは、イタリア未来派の美術家。


「マデロン」


「私はしかし、カナダ帰りの女の音楽先生に教わった「チベレリ」や「マデロン」や「グッドバイダブリンベイ」など、第一次大戦初期の英国軍歌を口笛で吹いていた。それは海港神戸の少年には似つかわしいと思われるのであった。」(「デカンショ節」)

「“The dark angel” で推賞すべきは、白薔薇の咲いた垣根のそばで恋人達がマデロンマーチを歌う所なんかではない。煙の輪を打ち出す砲兵陣地と、次第にマグネシウム式炸裂に埋められて行く前面の原野とが、恰もうまく継がれていない切紙細工のような食い違いを見せて、それ故にまやかしものの危機を示しながら、際どく覚束なげに振動していたことの上に存する。」(「僕の触背美学」)

「“The dark angel” を見て、白バラ咲きみだれた朝再び逢えるかどうかわからぬ別れにまできた恋人たちに唄われるマデロンマーチがいいと思った人なら、あのマグネシヤ式光弾がとびちがう戦争の場面に、私たち二十世紀の人間のみもつことができる不思議なうつくしさをかんじてくれねばならぬはずである。」(「形式及内容としての活動写真」)


 タルホは、「マデロン」も一まとめにして「第一次大戦初期の英国軍歌」と言っていますが、この曲は第一次大戦下のフランスの歌。
 “The dark angel” は1925年のアメリカ映画。「私の祖父とシャルル・パテェ」で、この部分のことを詳しく記述しているので紹介しておきます。
 「スクリーンで関心があったのは、セットとトリック場面である。例えば私が『文芸時代』の同人になった頃、ロナルド・コールマン主演の『ダーク・エンゼル』があった。私はこれに挟まれた砲兵陣地の場面に心を奪われた。並列した砲口からタバコの煙の輪のようなものが次々と打ち出されて、前面の野づらが炸裂弾におおわれてしまうと、総攻撃の大軍団がイナゴのように下方から匍い上ってくるのだった。画面は明らかに上下のつぎ合わせであって、硝煙におおわれた野と、手前の砲兵陣地とがくい違って、そのさかい目がぴったり合わずに頻りに動揺していた。私はこの次第を甚だ面白いと見たが、川端康成はあのぎょろりとした眼を左右に向け、落着き払って、「あの場面は全然不用ですね」と言い張るのであった。」


「Young man's Fancy」


「いつの頃からかアパートの一室で、お父さんと二人暮しをしていた小さい男の子が、ある朝、急に髯を剃り、身なりをととのえたお父さんに伴われて、いっしょに外へ出た。「お父さん、お父さん、何処へ行くの」と訊ねると、父は、「おいおい、この若い俺をつかまえて、人なかで、お父さんだなんて殺生なことを云ってくれるなよ。お前はどう思っているのか知らぬが、俺はもともとお前のお父さんでも何でもありゃしないんだから」と云いながら、片手にしていたスーツケイスを持ち直し、ついでに紅薔薇色のネクタイを結んだ襟元をもつくろって、浮々と口笛で流行歌 “Young man's Fancy” なんかを吹き始める。こうして奇妙な父子は波止場までやってきたが、折から解纜の銅鑼が鳴り響いたのを合図に、お父さんは、彼の幼い息子がしっかりと握っている上衣の裾を邪慳に振り払って、アバヨ!とばかり、あっけに取られている少年の前を、そこに横付けになっていた大汽船のタラップを駆け上り、そのまま濃い緑の海の向うに去ってしまう。僕はこうして一人ぼっちになった。
 これは、いまから二十年以上も前、ある深更に、神戸からひどく酔払って車での帰途、西宮夙川の踏切で貨物列車の打撃をくらってそのままになってしまった渡辺温君の『父を失う話』の梗概である。」(「蘆の都」)

「只、「水平線の彼方へ去る」という一事が、私に、先年夙川の踏切で自動車事故の為に亡くなった渡辺温君の小品『父を失う話』を喚び起させました。
 それは、ともかくお父さんではあるが、一向にそれらしくないのみか、余所の小父さんのような、ひょっとして何処かの悪党ではないかと疑えるような紳士と二人きりで、アパート棲いをしてきた少年が、その父から置いてけ堀を食う話なのです。其朝、紳士は髭を剃り、身装を調え、スーツケース一箇を下げて息子の手を引いて外へ出ます。「お父さん、今日はどこへ行くの」と何遍もひつこく訊ねられたのに対して、「おいおいこの若い俺をつかまえて、見っともないことを人前で云ってくれるなよ。俺はお前のお父さんでも何でもありゃしないのだから」とそのお父さんは口に出し、序でに赤い襟飾を直して、口笛で流行歌 “Young man's fancy” などを鳴らせます。こうして二人で桟橋まで来て何事かを待っている風情でしたが、やがて銅鑼が鳴り出したのを合図に、お父さんは慌てたように旅行鞄を取上げて眼前の大汽船の舷梯を駆け上り、呆気にとられた少年を埠頭に残したまま、アバヨ!とばかり海の向うへ去ってしまいます。──」(「愚かなる母の記」)

「それなら私自身はどうかと云えば……私のお父さんは何も友だちのようではないし、赤いネクタイをして、口笛で “Youngman'sFancy” を吹くわけでないし、ましてどこかの小父さんでなかったろうかという懸念などさらに挟めませんが、お祖父さんは、旅廻りの見世物師でした。(「北極光」)

「レコード曲は、ヤングマンスファンシーやテルミーの間に、ときどき?てなもんやないかないか道頓堀よ、が挟まる。おやじはそれを?そんなこと内証内証道頓堀よ、とはき違えていた。それをうたいながら彼は古い新香をパリッ、パリッとやって、焼酎を啜っていた。」(「鉛の銃弾」)


 この “Young man's Fancy” は、Milton Ager(1893-1979)という人が1920年に作曲した、“A Young man's Fancy” ではないかと思われます。


「Lion chase」/「Fairy land」/「Gaslight sonata」


「階段を登ると、ふすまを取り外した部屋の青畳のまんなかに、レコードや機械やポスター類をとりでにしてKが寝ころんで、タバコを喫っていた。
「君の好きそうなのがあるよ」
 とKはのっそり起き上って、“Lion chase” というのをレコード盤にのっけた。
「星屑青く燃ゆるアビシニア高原の夜はふけて……」
 針が止ったとき私は云った。
「──ライオンの唸り声がきこえてくるくらいなら、ついでに二、三発の銃声を加えたかったな」
 次は、童話の王女様と花馬車に相乗りして、丘々の道を進んで行くような気持を起させる、鈴の音がまじった “Fairy land” ──その次は、いっこうわけの判らぬ “Gaslight sonata” ──時計の針は八時を廻っていた。」(「星を売る店」)


 「Lion chase」「Fairy land」「Gaslight sonata」というこれらの曲は、「星を売る店」以外には見られないようですから、創作上の曲名かもしれません。ただし、タルホ晩年の音源に、何か速いテンポの曲を口ずさみ、その後に鼻を鳴らして咆哮しているのがあり、それを「猛獣狩り」と言っているのがあります。ひょっとして、それが「Lion chase」という可能性もありますが、詳細は不明。


「 リゴレット」


「「K・Yがこんなになったからには、自分の何の気遣いも無用だ」そんないわば、娘を嫁がした母親の気持に似たものにホッとした時、既にベルが鳴って、椅子にかえった私の前には、絢爛たるリゴレットの舞台が開いていました。」(「鼻眼鏡」)


 関西学院を卒業して足かけ5年後、東京の帝劇におけるイタリア・オペラの公演を聴きに行ったタルホが、偶然ロビーで母校の後輩K・Yに出会ったという話。1923(大正12)年頃の話か?
 「リゴレット」は、G・ヴェルディ作曲の歌劇。ここでは、その中の有名な「女心の歌」を。


「ルールブリタニア」


「ある晩 ルールブリタニヤを歌いながら帽子をほうり上げると、星にぶッつかった 星がひとつ落ちてきた煉瓦の上でカチンと音がした」(「一千一秒物語」)

「ある晩、土星がルールブリタニアを歌いながら街角を曲ってきて、そこにあるバーへ入ろうとしたが、入口に環が閊えたので、環を外して表へ立てかけておいてから、彼は入って行った。」(「第三半球物語」)

「私の『第三半球物語』には、土星が或る晩ルールブリタニアを唄いながら街かどを曲ってきて、そこにある酒場へはいる話があるが、こんどは土星でなく、只土星の環だけが陽気なポロネーズの旋律につれて、セーヌ河を下っているというのはどうか?」(「パテェの赤い雄鶏を求めて」)


 「ルールブリタニア」(Rule Britannia)は、英国の愛国歌。




「「タルホ・ミュージック」から見えてくるもの

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CONTENTS
















































「タルホ・ミュージック」から見えてくるもの



 「タルホ・ミュージック」を実際に聴いて、皆さんはどんな印象を持たれたでしょうか?
 イメージしていたものとはずいぶん異なっていたでしょうか、それとも想像とあまり違わなかったでしょうか。印象は人によってさまざまでしょうが、それでも音楽の輪郭は、かなりはっきりしてきたのではないかと思います。
 これまで取り上げた「タルホ・ミュージック」は、タルホがその曲を知った時期と機会によって、いくつかに分類することができます。


タルホ・ミュージックを分類してみる


1.学校の音楽の時間に習ったもの
 「十月が宴会を開いた」
 「スワニイリヴァ」
 「オールドケンタッキーホーム」
 オールド・ブラック・ジョー
 通学の汽車の中で、下級生が学校の「唱歌集」を広げて「オールド・ブラック・ジョー」を歌っていたとあるので、フォスターの曲は学校の音楽の時間に習ったものと思われます。
 「十月が宴会を開いた」は、カナダ帰りの女性の音楽の先生が教えてくれた曲でした。
 そのほかに「讃美歌第三百五十七番」も学校で歌ったことがあったでしょう。

2.「唱歌集」以外で、音楽の先生に教えてもらったもの
 「チペレリ」
 「マデロン」
 「グッドバイダブリンベイ」
 これらはいずれも外国の軍歌ですが、音楽の先生に教わったというのが意外です。このカナダ帰りの女性の先生は、かなり進取の気性に富んだ人だったのでしょう。

3.大阪第四師団軍楽隊の演奏によって知ったもの
 「越後獅子」
 「歌劇マルタ」
 「白衣の婦人」
 「ファウスト序曲」
 「バグダッドの太守」
 「リゴレット」」
 この中で、タルホが大阪第四師団軍楽隊の演奏だとはっきり述べているのは、「白衣の婦人」と「バグダッドの太守」だけです。特に、これらの曲は「マーチではないものを楽隊から教えられた最初」だと言っているのは重要です。「白衣の婦人」や「バグダッドの太守」はもともとは管弦楽曲で、いわゆるクラシック音楽です。タルホが聴いたのは軍楽隊用に編曲されたものだったにもかかわらず、明らかにマーチとは違う音楽の存在に気づかされた、しかもそれは自分の好みに合った音楽だった、ということでしょう。
 「越後獅子」「歌劇マルタ」「ファウスト(序曲)」「リゴレット」をここに入れた理由は後述します。

4.映画館で演奏される無声映画の伴奏音楽によって知ったもの
 「グッドナイトレディス」
 「Two-step Zaragoza
 「Two-step Zaragoza」は、連続冒険活劇「真鍮の砲弾」の伴奏音楽だとはっきり述べています。「グッドナイトレディス」も連続冒険活劇「深夜の人」と結び付いているようなので、その映画の伴奏音楽だったのではないでしょうか。

5.ダンス・ミュージックとして知ったもの
 「テルミー」
 「Young man's Fancy
 大正の終わりから昭和の初めにかけて、タルホは西巣鴨新田の「池内舞踏場」に住んでいました。そこでは毎日さまざまなダンス・ミュージックがレコードから流れていたでしょうから、当然そうした音楽には詳しかったはずです。

6.その他
 これらの分類から漏れたものが、以下の曲です。
 「アルルの女」
 「ヴォルガの舟唄」
 「美しき天然」
 「Over There
 「ケーニッヒカールマーチ」
 「太湖船」
 「Twinkle, twinlke, little star
 「どこへ?」
 「パシフィック231
 「ルールブリタニア」
 このうち、「アルルの女」「美しき天然」「ケーニッヒカールマーチ」なども、大阪第四師団軍楽隊が演奏していた曲ではないかという気がします。
 「ヴォルガの舟唄」は、神戸・奥平野時代、すなわち1920年頃の話。ロシア革命(1917年)が起こって3年後です。「六ちゃん」が「ヴォルガの舟唄」というロシアの歌をうたっている当時の日本の音楽的状況とは、いったいどんなものだったのでしょうか?
 「Over There」は第一次大戦時の軍歌です。「チペレリ」と同時代に覚えたのでしょうか。
 「太湖船」は、神戸のチャイナタウンにふさわしい曲。そういった場所でよく耳にしていたのかもしれません。
 「Twinkle, twinlke, little star」は、学校の「唱歌集」にあったのかもしれません。
 「どこへ?」というシューベルトの歌曲は、タルホ・ミュージックの中ではちょっと異色です。いつの時代に聴いたのでしょうか?
 「パシフィック231」は、タルホの未来派遍歴と関係があるような気がします。
 「ルールブリタニア」は、「一千一秒物語」と「第三半球物語」に出てくるのみで、他の曲のように時代的な属性を持っているというより、この勇ましい曲を物語世界の効果として採用したという感じがします。


大阪第四師団軍楽隊とその演奏曲目


 この「タルホが口ずさんだ音楽」のページを作る過程で、大阪第四師団軍楽隊について極めて貴重な資料に出会いました。それは「音楽研究」(第28巻、大阪音楽大学音楽博物館年報、2012年)に掲載された塩津洋子氏による「関西吹奏楽の祖 陸軍第四師団軍楽隊」です。これはウェブサイト上に掲載されていますので、ぜひ参照してください。以下の引用は、すべてそれによっています。
 この論考は、大阪第四師団軍楽隊の明治21年の着任から大正12年の廃隊までの歴史を、当時の記録資料をもとに概観したものですが、まさにタルホ少年時代の関西の音楽状況を知ることのできる、非常に貴重な資料となっています。
 ここでは、その資料をもとに、興味深い内容をいくつか紹介していきましょう。
 陸軍の軍楽隊の増設に伴い、その中の一つが大阪鎮台軍楽隊として大阪に赴任したのは、明治21(1888)年3月でした。その後、組織の改編を経て「第四師団軍楽隊」という名称になったのは、2か月後の明治21年5月。以後、大正12(1923)年3月に廃隊になるまでの35年間が、大阪第四師団軍楽隊の歴史です。
 この軍楽隊が35年間に演奏した曲は、主として演奏会で取り上げたものだけでも、467曲、延べ演奏回数は1,010回が確認できたということです。そのうち、演奏回数の多かった曲のベスト10が紹介されています。

 第1位 「安宅の松」長唄 17回
 第2位 Guillaume tell, opera(G. Rossini) 16回
 第3位 Tannhauser, opera(R. Wagner) 13回
 第4位 Carmen, opera(G. Bizet) 12回
 第5位 Rigoretto, opera(G. Verdi) 11回
 第6位 Il trovatore, opera(G. Verdi) 10回
     Martha, opera(F. Flotow) 10回
 第8位 Faust, opera(Ch. Gounod) 9回
    「六段の調」筝曲 9回
 第10位 Les dunes de l'ocean, waltz(F. Benoist?)  8回
     La dame blanche, opera(A. Boieldieu) 8回
     La caife de Bagdad, opera(A. Boieldieu) 8回
     Slavonic march(P. I. Tchaikovsky) 8回

 色を付けた曲が、いわゆるタルホ・ミュージックで、10位までに5曲も入っています。「リゴレット」「歌劇マルタ」「ファウスト」「白衣の婦人」「バグダッドの太守」です。このうちの「バグダッドの太守」は、すでに明治23年2月1日に開催された音楽会で演奏された記録があるということです(“La caife de Bagdad” とあるのは、“Le calife de Bagdad” か?)なお、オペラ「ファウスト」はR・ワグナーではなく、Ch・グノーとなっています。
 ベスト10に日本の曲が2曲入っているのは、「洋楽曲ばかりでは楽しめないという聴衆に配慮して、耳に馴染んだ “日本の曲” をプログラム中に配すことが慣例的に行われていたことに起因する」とあります。さらに、「長唄や筝曲を吹奏楽曲にアレンジした「越後獅子」「春雨」「都の春」などの演奏回数が多い」とあり、「越後獅子」も演奏曲目に入っていたことが明らかにされています。
 先に「「古典物語」に登場する曲」の項でも述べたように、小玉武司氏のサイト「唄本から見た明治の流行り歌」にある、「明治の一般大衆に広まったのは、「春雨」と同じようにむしろ軍楽隊のブラスバンドや西洋楽器の流行のおかげと考えられます」という記述と呼応しています。
 なお、演奏曲目にオペラが多いことについては、「同隊あるいは当時の聴衆がそれほど “オペラ好き” であった訳ではなく、入手した楽譜の事情に影響を受けているのではないかと推測している」と述べられています。


大阪第四師団軍楽隊の「公園奏楽」


 大阪第四師団軍楽隊は、どういった場所で演奏していたのか。塩津氏は次のように述べています。
 
「第四師団軍楽隊は様々な場面での演奏を通じて、人々に親しまれる存在となっていった。特に明治45(1912)年6月から大阪の天王寺公園で始めた、いわゆる “公園奏楽” は、オープンスペースで誰でも自由に聴くことができるため、大阪市民に大きな楽しみを提供することとなった。これは天王寺公園に奏楽堂が出来たことを機に始めたもので、月に3回行われた。後には、中之島公園や兵庫県の明石公園でも、定期的な奏楽を行うようになった」

 そしてタルホの次の文章は、まさに上の記述を裏付けています。

 「明石公園の本丸趾には万国旗が微風にさゆらいで、大阪第四師団軍楽隊が奏する、《序曲・白衣の婦人》が鳴り響いていた。金管楽団を取巻いて椅子席があり、そのうしろに群集が立っていた」(「緑の蔭」)

 この「公園奏楽」は、明治45(1912)年から天王寺公園で始められ、その後、明石公園でも行われたということですから、それはちょうどタルホの関西学院時代(1914〜1919年)に当たります。しかも定期的に行われたとありますから、タルホが級友のN君と「越後獅子」をハーモニカ演奏しようとしたり、タコ口のお兄さんが「歌劇マルタ」や「ケーニッヒカールマーチ」を口笛で上手に吹いたり、ブンちゃんが歯の隙間で「アルルの女」を奏でたりすることができたのは、彼らがみんなこの大阪第四師団軍楽隊の演奏を聴きに出かけて、そういった曲を覚えたからに違いありません。
 しかも、「第四師団軍楽隊の公園奏楽では「ミリタリー・コンサート」と題して、曲目解説と原語表記も付いたプログラムが作成されており、きちんとした演奏会の形を取っている」ということですから、子供たちでも曲名や作曲者の名前を知ることができたわけです。
 塩津氏の論考の中に、天王寺公園における演奏会の模様を写した写真が掲載されています。それを見ると、四阿(あずまや)のような建物を、数百人の観客が十重二十重に取り巻いています。おそらく中央の建物が「奏楽堂」で、軍楽隊はその下で演奏しているのでしょう。タルホが言っているように、近くには椅子席もあるのかもしれませんが、ほとんどは立ち見のようです。遠くから伸び上がって見ている観客の後ろ姿に、当時の人たちの熱気のようなものを感じます。タルホもこんな群集に交じって熱心に聴いていたのでしょう。


活動写真館の楽隊


 塩津氏の論考の中に、もう一つ興味深い点があります。それは、活動写真館(映画館)における楽隊についての記述です。

 「大正期に入ると、歌劇、マンドリン、ハーモニカ、ピアノ、少年音楽隊、活動写真館の楽隊、レコードなど、洋楽の世界に様々な新しいジャンルと動きが現れて来る。中でも管弦楽の台頭は、軍楽隊の地位を脅かす可能性のあるものであった。(中略)
 大正期の管弦楽団を考える時、重要なもう一つの分野は映画館の管弦楽団である。当時は無声映画のため、内容を説明する弁士と効果音楽が不可欠であった。映画館での演奏は明治末期の民間音楽隊から始まり、荒削りな吹奏楽よりピアノや弦楽器の入った小アンサンブルへ、そして管弦楽へと変遷する。映画と管弦楽の組合せが定着するのは、大正8(1919)〜9(1920)年頃である。新聞広告には “見よ…権威ある映画と…聞け…充実せる説明と管弦楽を” といったフレーズが見られる。映画館はこぞって管弦楽団を配置し、その魅力をアピールした。10〜15人程度の小規模な管弦楽団であるが、効果音楽だけでなく、上映の合間に単独の演奏も行う。その曲名は指揮者名とともに映画案内に明記され、興行の重要な要件となっている。」
 
 この中に、「映画と管弦楽の組合せが定着するのは、大正8(1919)〜9(1920)年頃である」と述べられています。神戸の朝日館で「真鍮の砲弾」が上映された年が、まさに大正8(1919)年ですから、ちょうどその頃から、映画館の伴奏音楽が、管弦楽になったことが分かります。
 タルホが「星を売る店」で、「おれはこのガスの匂いと、Two-step Zaragoza──朝日館のオーケストラで活劇の初めに鳴らせていたやつよ、あの曲とのあいだに共通のものを感じる」と言っているように、このとき朝日館の楽団は軍楽隊でなくオーケストラ(管弦楽団)だったわけです。そして、「その曲名は指揮者名とともに映画案内に明記され、興行の重要な要件となっている」とありますから、「Two-step Zaragoza」も映画案内に明記され、それを見てタルホもその曲名を知ったのでしょう。
 ただ、「ある寒い晩、活動写真の余興として、大阪第四師団軍楽隊が白幕の前で、序曲バクダートの酋長を聴かせてくれた」(「浪花シリーズ」)とありますが、これはもう少し以前、タルホ関西学院在学中の話でしょうから、その頃はまだ、管弦楽団でなく軍楽隊が映画館で演奏していたことが分かります。


「少ない歌を大事にした」


 これまで取り上げた、いわゆる「タルホ・ミュージック」は、関西学院時代(1914〜1919年)を中心としたものだったことが分かりました。そのソースは主に音楽の授業であり、それ以外では大阪第四師団軍楽隊の演奏によるものが大きなウェートを占めていました。つまり、その音楽はあくまでナマ演奏によるものだったのです。
 日本でラジオ放送が始まったのは、大正14(1925)年ということですから、タルホの関西学院時代よりしばらく後のことになります。
 レコードに関しても同様で、レコード音楽が一般的になったのは、昭和に入ってからのようです。同じ「音楽研究」(第22巻、大阪音楽大学音楽博物館年報、2007年)に掲載された、郡修彦氏の「日本のSPレコード史」を見ると、次のようにあります。

 「従来のメガフォン状の集音喇叭を使用する録音方式に対し、電話機の原理を応用したマイクロフォンに真空管を使用した増幅器を組み合わせてレコードの録音を行う電気録音は格段の忠実性を誇り、これにより音質が向上し録音可能な音の範囲が飛躍的に拡大されてレコード産業は大きく発展した。(中略)日本では1927年(昭和2年)に電気録音が開始され、名古屋の放送局の器材を使用したツルレコードが最初であった。
 (中略)1927年(昭和2年)にポリドール(ドイツ・グラモフォン)、コロンビア、ビクターの世界大手の商品を日本で製造販売する体制が整えられ、日本製の洋楽レコードが登場した。同時にマイクロフォン使用による国内録音の邦楽レコードも登場し、1920年代の前半と後半ではレコード産業は大きく様相を変えたのである。以後、新形態の業界に中小会社の参入も多く、1930年代は大小の各社が毎月膨大な数の新譜レコードを競って発売する状況が続いた。」

 タルホが西巣鴨新田の池内姉妹のもとに住むようになったのは大正12(1923)年初めのことですが、同地に「池内舞踏場」ができたのは、同年9月に起こった関東大震災以降のことです。上の記述によると、レコードが一般的になったのは昭和2年以降のことのようですから、昭和初期には池内舞踏場でもレコード音楽が賑やかに流れていたことでしょう。宇野千代や萩原朔太郎らが舞踏場にやってきたというのは、この頃だったわけです。


 こうしてタルホ・ミュージックを振り返ってみると、音楽情報のあふれる現代とは比べものにならない時代だった、ということを改めて思い知らされます。ラジオやレコードといったメディアの登場によって、音楽情報が爆発的に拡大したのは昭和初期。タルホが少年だった大正時代、音楽はまだそういったメディアのない、「ナマ」の時代だったわけです。
 『稲垣足穂全集13』(筑摩書房)に初めて収録された「聞いて貰いたい事」という、タルホが関西学院中学部3年生のとき(1916年11月26日)に書いた文章があります。そこには、第一次世界大戦が勃発して3年目の現在、欧米の飛行機発展の目覚ましさと比べて、我が日本飛行界の貧弱さと怠惰を嘆きつつ、我ら覚醒した青年が努めて航空思想を鼓吹しなければならない、とコブシを振り上げて力説する憂国少年タルホがいます。そして、この中学3年生のタルホに最もふさわしい音楽は、やはり「チペレリ」であり、「マデロン」であり、「Over There」であるような気がします。
 冒頭に紹介したタルホ晩年の音源には、「少ない歌を大事にした」というようなことを語っている箇所があります。生涯に数少ない歌をくり返しくり返し口ずさんだことでしょう。だからこそ、音楽の先生に教わってから60年も経った病床にあってなお、「チペレリ」の歌を英語で間違いなくうたうことができたのだろうと思います。

(※タルホ晩年の音源は、萩原幸子氏より提供されたものです)



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