nishi-sugamo-shinden period

西 ★   ★  ★   ★  ★  ★ 



現在の巣鴨新田駅(都電荒川線)


 タルホは最初の上京以来住む場所を転々と替えていますが、中でも『弥勒』第2部「墓畔の館」の舞台ともなった横寺町は最も有名な場所の一つでしょう。『新文芸読本・稲垣足穂』(河出書房新社、1993年)の見返しには、『弥勒』を書いた「東京高等数学塾」をはじめとするタルホゆかりの場所を地図化したものが掲載されており、タルホファンには恰好のガイドとなっています(ほかに、明石と中野打越についてはタルホ自筆の地図を掲載)。
 ところが、横寺町と同じくらい長く住んでいたにもかかわらず、西巣鴨新田(池内舞踏場)時代については、これまであまり取り上げられることがなかったように思います。しかし、「我が転換期には必ずと云ってよいほど女性が現われている」といって1、幾人かの女性を挙げた中に、この舞踏場の経営者・池内姉妹の名を記しているくらいですから、タルホの人生そのものにとっても、大きなウェイトを占める人物であったことがわかります。ここでは、その西巣鴨新田時代について考察してみたいと思います。


■どんなきっかけで池内姉妹と知り合ったか

■いつ西巣鴨新田に転居したのか

■池内姉妹の住まいはどこにあったか

■2度目の住まい

■池内ダンシングパビリオンの建設

■当時のダンス界事情

■タルホにとってどんな時代だったのか

■いつ終わりを告げたのか

■西巣鴨新田探訪記



CONTENTS


































どんなきっかけで池内姉妹と知り合ったか
 大正10(1921)年に上京して佐藤春夫のもとに住んだ後、道玄坂・神泉時代を経て、タルホは衣巻省三兄弟のいた「恵比寿倶楽部」というアパートに移ります。池内姉妹と知り合うようになったのはこの時期のことのようで、その経緯はいくつかの作品2に書かれています。それらの記述には若干異同がありますが、ここではいちばん詳しい記述のある「鉛の銃弾」を中心に、その順序を追ってみます。

1.衣巻省三が、渋谷神泉3に住んでいたタルホのもとへ、独協一年生の少年を呼んで引き合わせた(当時、衣巻は京橋にある舞踏教習所にダンスを習いに行っていたが、その先生が池内女史であった。そしてこの少年は女史の息子ということになっているが、じつは女史の妹の子)。
2.この日、未来派展に出品して落選した油絵『空中世界』を少年にやった。
3.数日後、女史から御礼の手紙が来て、遊びに来てほしいと誘いがあった。
4.衣巻と一緒に、初めて池内姉妹4の西巣鴨新田の住まいを訪ねる(池内女史は、この頃は西巣鴨から京橋まで通っていた)。
5.タルホはすでに「恵比寿倶楽部」に移っていたが、ある日留守中に少年が訪ねて来たらしく、「タルホクン、ヤマイイカガ」とトランプのカードを並べてつくった文字があった。
6.次の晩、今度は一人で西巣鴨新田を訪れる。
7.その晩は、そこに泊まった。

 「美少年時代」には、「私はもうエビスに帰らなかった」とあるので、この2度目の訪問以来、ずっとそこに住みついてしまったことになります。


いつ西巣鴨新田に転居したのか
 では、それはいつ頃5のことでしょうか?
 「鉛の銃弾」には、「次の朝、少年が登校したあとで、私は女臭い長袖の寝巻きのままコタツに倚りかかって、中央公論二月号に発表した沙漠物語に関する新聞批評を読んだ」とあります。この中で、「次の朝」とあるのは、2度目の訪問で泊まった翌朝のことで、「沙漠物語」が「黄漠奇聞」を指していることは明らかです。「黄漠奇聞」が発表されたのは大正12(1923)年2月号ですが、実際の発行日は1ヶ月ぐらい前、つまり大正12年のお正月前後でしょう。そして新聞批評が出るというのは、発行後1ヶ月くらいしてからでしょうから、結局、この朝というのは大正12年1月〜2月頃のことではないかと思われます。もちろん、この「新聞批評」が発見されれば、日付まで判明するわけですが。
 もう一つ傍証があります。同じく「鉛の銃弾」から、少年が「恵比寿倶楽部」に来てカード文字を残していったのは、衣巻兄弟が正月休みで神戸に帰省中の出来事であったことがわかります。これは大正12年の正月のはずで、しかも「帰ったままであった」という表現があることから、1月もかなり日数が経っていることを窺わせます。2度目の訪問は、カード事件の翌晩だったわけですから、それが1月〜2月頃という推定はあながち見当外れともいえないでしょう。


池内姉妹の住まいはどこにあったか
 ここに昭和5(1930)年に発行された西巣鴨の地図があります。震災後のものになりますが、時代的に近いので、この地図を参考に池内姉妹(タルホ)の住居のあった場所を推定してみたいと思います。

(発行/内山模型製図社)

(拡大図)



 ところで、幸運にも舞踏場の住所を記している唯一の作品があります。それは「ソシァルダンスに就て」6という作品で、そこには「ちなみに私のアドレスは府下西巣鴨新田八一七池内舞踏場(大塚下車)である」とあります。
 また、「鉛の銃弾」には、池内姉妹の住まいへの道筋が次のように記されています。

 「大塚駅辺りも夜は真暗で、……飛鳥山行き小電車に乗換えると、もう辺鄙へ来たようだった。次の停留所「西巣鴨新田」の先から軌道は右へ曲るが、そのことにお構いなく、やってきたレールの延長線上を歩いて行くと、五、六分の距離に、そのアメリカ帰りの姉妹とあちら生れの少年の住いがあった」

 「姉妹の住居は、Nという老農学博士の、武蔵野を取入れた広大な地所の片隅にあった。木立越しに英国流の二階屋形が見えて、その手前を小川が横切っていた。N家の子息が京橋舞踏場の常連だったころ、「どこかに借家はないか」と訊ねた時に、「自分が結婚にそなえて建てたのがあるが、当分そこを使ったら」ということになった。それは近所の子供らがマッチ箱西洋館と呼んでいるもので、玄関二畳に、四畳半、八畳、台所である」

 この記述どおりに上の地図をたどっていくと(「西巣鴨新田駅」は、正確には「巣鴨新田駅」)、道が二手に分かれるところにさしかかります。そこを右手に行くと、道の左側に「817」という番地が見え、「丹羽邸」とあります。すなわち、上の記述の中の「Nという老農学博士の、武蔵野を取入れた広大な地所」とは、この「丹羽邸」を指すのではないかと思われます。この地図上でも、いくつかの番地にまたがった広い敷地であることがわかります。番地も一致することから、池内姉妹の住まいがこの敷地の一角にあったことはおそらく間違いありません(この地図からは、住所は西巣鴨三丁目817番地となるようです)。
 また「鉛の銃弾」には、「この住いの前に、道路を隔てて牛乳屋の小さな牧場があり」という記述が出てきます。上の地図で、「丹羽邸」の北側に「東京ミルクプラント7というのが見えますが、これがその「牛乳屋」ではないかと思われます(太い区画線が示すように、この「東京ミルクプラント」は西巣鴨ではなく滝野川に属しています)。そうすると、どの一角だったかということまでは定かではありませんが、姉妹が最初に住んでいた「マッチ箱西洋館」は、「丹羽邸」の敷地の北側にあったということになります。


2度目の住まい
 姉妹たちの「マッチ箱西洋館」に移って間もなく、彼らはすぐ近くの「芥川製菓工場のうらの借家」に引っ越すことになります。この製菓工場は「牛乳屋の北隣り」8にあって、「この二度目の住家は、玄関二畳、六畳、六畳、台所であった」とあります。引っ越したのは、「N氏の子息」が結婚して、「マッチ箱西洋館」に住むことになったからだろう思われます。
 それはいつ頃だったのか。この住まいについては、「震災後ダンスホールがこちらに移って……」あるいは「殊に震災後は奥の六畳に学生ふたりを下宿させていたので……」というような記述があることから、震災(大正12〈1923〉年9月)以前ではなかったかと考えられます。


池内ダンシングパビリオンの建設
 池内姉妹は関東大震災によって京橋の舞踏場を失うことになります。つまり、それまでは西巣鴨から京橋の舞踏場まで通っていたわけです。近所に住んでいた梅沢(トウモロコシ)なる人物の協力によって、姉妹のために住まいのそばに舞踏場が建てられることになります。その場所ははっきりとはしませんが、「彼ら(N家の子息夫婦)の広い庭とのさかい目に新たに建てられたバラック建のホール」とあるので、N邸の敷地と隣接する場所だったのでしょう。いずれにしても、その界隈から離れることはなかったわけです。ここに初めて「西巣鴨池内舞踏場(ダンシングパビリオン9)」が誕生することになります。完成・引っ越しまでにはいろいろな事件があったようですが、姉妹と息子そしてタルホの4人は、いよいよ新ダンス場へ引っ越します。彼らの住まいはホールに隣接していたようです。この引っ越しが、震災後のいつ頃であったかは定かではありません10
 以来、この場末のダンシングパビリオンには、さまざまな人物が出入りすることになります。


当時のダンス界事情
 『社交ダンスと日本人』(永井良和11著、晶文社、1991年)という本があります。都市社会学者である著者が、近代日本を社交ダンスの歴史を通じて読み解こうとした稀有な本で、豊富な資料が駆使されています。この本の中に、池内女史のことが出てきます。
 「このころダンスの指導・普及に関与したのは、来日外国人か洋行帰りの日本人であった。一九一九(大正八)年には、アメリカから帰国した早稲田大学の影山千万樹や舞踏家の池内徳子が社交ダンスを『友人間に広め』ていた」(p.44)とあります。おそらくこれが池内姉妹の姉・池内徳子のことに違いありません。彼女はアメリカから帰国後、すでに大正8年頃からダンスを教えていたことになり、「ソウシャルダンスの草分け池内姉妹」とタルホが語っているのは、なんら誇張でないことが判ります。
 また、「ジャズ音楽とフォックストロットが流行し、一九二一(大正十)年には市内に多くの同好会が組織された。……東京市内には、このほかにも新橋「みさお会」、赤坂「みどり会」、京橋「池内舞踏教授所」、本郷「西本朝春舞踏学院」、神田「水無月会」、銀座「キャバレー」、「日本会」などの同好会が組織されていた。これらの『倶楽部は大抵夕方から十時までで、月極めの会員の外に、会員の紹介ある者は男子一円、婦人五十銭位で踊らせた』」(p.46〜48)とあります。この時代が、タルホの語っているように、「姉は二十年にわたるアメリカ生活から帰ってきて、蔵前の親戚の家に落ちつき、そこから自ら経営の、京橋の社交ダンス教習所へ通っていた」時期にあたるものと思われます。
 そして、「一九二三(大正十二)年九月一日の大震災によって、ほとんどすべてのクラブが『灰塵に帰してしまった』。東京の踊り場で無傷だったのは、帝国ホテルだけである」(p.51)ということになり、池内女史の京橋舞踏場も例外ではなかったわけです。
 「関東大震災の影響で、カフェーやダンスホールなど新しい風俗現象はまず大阪で発達し、大阪で工夫された営業形態が東京にもたらされるという傾向があった。だが、社交ダンスの商業化についていえば、東京においても独自に『ダンスホール』という営業形態を生みだしはじめていた。長江(石川〈=作家・石川達三〉)は、大正末から昭和の初めにかけて営業的な「研究所」が存在したことを示している。池内ダンス研究所・若葉会・緑会・揺籃クラブ・二葉会・東会などがそれだ」(p.81)。
 このように、震災を挟んで、いくつもの競合相手が乱立する東京の社交ダンス界の中で、池内姉妹も自らの存立をかけて、日々ダンスホールの経営にあたっていたものと思われます。


タルホにとってどんな時代だったのか
 冒頭で、「我が転換期には必ずと云ってよいほど女性が現われている」といって、池内姉妹の名前を挙げていることに注目しました。別のところ12では、また次のように書いています。

 「作家はその身辺に作のヒントを得ているというなら、ダンスに明け暮れていた十数年の話を、何故私は一つも書いていない13のだろう。それは多分レトルトの中へほうり込んでみても、何物もそこに残らないことが判っていたからである。総てが風俗的類型を出さないのだ。さしあたり、三日月マークの回教小学校の混血児少女の上にピントが絞られるが、本人の顔も知らないのだから、どう展開しようもない14。それでもI姉妹は特筆しなければならない。私の今日までの作品の大半は、ひとえにこの女きょうだいのお蔭だといっても過言でない。そうなのに何ら酬ゆるところなく、お礼を云おうにも、彼女たちの其後について、てんで手懸りがないのである。私はいつか恩返しが出来るのであろうか?……」

 ここでも、姉妹がタルホにとってかけがえのない存在であったことを記しています。それにもかかわらず、ここに述べられているように、タルホ作品の中で、彼女たちに「ピントが絞られる」ことは一度もありませんでした。西巣鴨新田時代のことが最も詳しく書かれている「鉛の銃弾」においてさえ、彼女たちは‘one of them’でしかありません。それはモノやアトモスフィアを通して世界を見ようとしたタルホの創作方法からすれば当然の結果だといえるかもしれません。
 それにしても、「私の今日までの作品の大半は、ひとえにこの女きょうだいのお蔭だといっても過言でない」という彼女たちに対する最大級の感謝の言葉は、いったい何によるのでしょうか。
 「大半の作品」という表現はオーバーだとしても、この時代に150編以上の作品を書いていますし、とりわけ、のちに『ヰタ・マキニカリス』に収録した全34作品のうち、「煌ける城」「白鳩の記」「天体嗜好症」「童話の天文学者」など20編余り15がこの時代に書かれたものと思われます。すなわち、タルホ前半生の集大成であるヰタ・マキニカリス中の3分の2の作品が西巣鴨で書かれたということは、その時代が作家としてかけがえのない時代であったことは間違いありません。

 「私はもうエビスに帰らなかった。『あんたにお小遣いはあげられないけれど、おまんまくらいなら食べさせる。キヨシは学校へ行くし、家じゅうは寝坊で、あたしは二時に出てゆく……じゃまなんか決してないから、御仕事だって出来るじゃないの。そうしなさいな』と姉さんが勧めたからだ。『そのほうがいいの。女ばかりで用心が悪いから、タルちゃんにいて貰ったら大助りよ』と妹も出た。それじゃ……と云うわけでなかったが、『おれの開運はいつだって女人から』と私は思ったりして、ずるずるべったりに居留まって、家族の一員になってしまった」

 池内姉妹のもとに居候することになった状況をこのように記して16います。手前勝手で甘えも感じられますが、それだけ姉妹との相性も良かったのでしょう。おそらく年の離れた姉のような存在だったのではないか。きっかけは「少年」だったわけですが、その後ここでの生活が長く続いたということは、タルホにとっては居心地の良い環境だったに違いありません。さまざまな人間が出入りするダンス場だったということも決してマイナスではなく、萩原朔太郎、室生犀星、宇野千代らもわざわざやって来くるなど、20代のタルホはむしろそういった環境を楽しんでいたふしがあります。新聞社主催の女学生対象のアンケートで、片岡鉄兵らと「モダンボーイ」の一人に挙げられたりしたのもこの時代だったのでしょう。創作上においても上記のように順調な時代で、谷崎潤一郎17から「君の書くものにはおつりきな所があって、面白いよ」と言われたり、また芥川龍之介18のもとを訪れたのもこの時代でした。
 通算20年以上の東京生活の中でも、この西巣鴨新田時代は唯一落ち着いて順調に仕事ができた時代で、その意味ではタルホにとって「良き時代」だったということが言えると思います。


いつ終わりを告げたのか
 西巣鴨新田時代がいつ、どのようにして終わりを告げたのかという点について、残念ながらタルホ自身は明確に記していません。そのため、この時期を年譜として考える上で混乱を生じさせる原因になっています。
 大正12(1923)年、関東大震災の年に西巣鴨に移り、昭和に入って何年間かそこで過ごしたのは確かです。そして、昭和5(1930)年19には、まだダンシングパビリオンにいたと思われます。
 その翌年、昭和6(1931)年になるとタルホの身内に不幸が続きます。年明け早々、郷里の祖父母が相次いで亡くなったからです。祖父が亡くなったあと間もなく、今度は祖母の具合が悪いとの知らせに、タルホは明石に帰省20します。その後、しばらく明石にとどまり、この年の初夏に再び上京しています。
 ここで問題にしなければならないのは、このときの明石への帰省です。その様子は次のように21述べられています。

 「その晩わたしが汽車に乗ったのは、滞納一ケ年の借家人が出てしまったあとに自分ひとり取残されて、どうにも出来ず、と云って、どうにかしなければならぬ破目にあったからです。海辺の町に帰った三日目に、祖母は亡くなりました」

 これは、そのときの状況が記されている唯一の箇所22ですが、ここには帰省というよりむしろ出奔の気配があります。明石帰省というのは表向きの理由で、じつは追いつめられて東京の住まいに居られなくなった事情があったことになります。では、その住まいとはいったいどこなのか?
 さて、ここからは仮説です。この「滞納一ケ年の借家人」というのが、じつは池内姉妹のことを指しているのではないか。彼女らが出て行ってしまったあとに、タルホはダンシングパビリオンにひとり取り残されたのではないか。すなわち、明石に帰省するという名目で、ダンシングパビリオンをあとにした昭和6(1931)年1月23をもって、西巣鴨新田時代は終わりを告げたのではないか。そして初夏に再び東京に戻って住んだのが、滝野川南谷端の「中野アパート24」だったのではないか、と。
 もし、この仮説の上に立つとすると、ダンシングパビリオンの末期は経済的に相当厳しい状況にあったことになります。そして姉妹との最後は必ずしも円満な別れ方ではなかったのかもしれません。先の『社交ダンスと日本人』によると、ダンス隆盛にともなって間もなく、大資本によるダンスホールの大型化、警察の取締規則の強化などによって、弱小ホールの淘汰が始まったということですが、それと西巣鴨のホールが立ち行かなくなった時期とが、ちょうど重なっているように思われます。
 いずれにしても、タルホがこの頃の状況に一度も触れていないのは、やはりそれが「風俗的類型」にすぎなかったからだろう、と考えるほかありません。


西巣鴨新田探訪記
 今夏、思い立って西巣鴨新田を訪ねることにしました。蒸し暑い8月のある日、JR大塚駅に降り立ちました。ガード下の都電荒川線「大塚駅」から1つ目「巣鴨新田駅」で下車。

巣鴨新田駅ホーム


 線路の左側の道に沿って歩き出すと、右にカーヴする線路と反対に、道は左方向にカーヴします。線路と道の形は70年前そのままです。古い地図に載っている、道の途中の「昭和家政女学校」や、その向かいの「交番」はもちろんすでにありません。

この道の右手に「昭和家政女学校」があった

 真っ直ぐ数分歩くと、例の二手に分かれる場所にさしかかります。ここから始まる一角(旧「丹羽邸」の敷地)は、現在では住宅、アパート、事務所などが数十軒びっしりと立ち並んでいて、タルホが述べているような当時の面影はまったくありません。道なりに右手に進むと、昔とまったく同じ形のいびつな曲がり角があります。道路はすぐその先の角から右方向へ進んでいきますが、その角から正面に真っ直ぐ延びた狭い路地があります。

            

路地の奥を見る。この路地の左手が旧丹羽邸の北側半分     この角の左手奥には大きなモミの木が見える

 この路地の中程の左手に、大きなケヤキとイチョウの木があり、「保護樹木」のプレートがかかっていました。ひょっとしたら、この木は旧「丹羽邸」の敷地にあったものではないかと考え、その向こうに「武蔵野を取入れた広大な地所」を想い描いてみました。

            

    ケヤキとその奥のイチョウ                路地を反対方向から見る。手前は突き当たり。
                                      右手が旧丹羽邸

 この路地の先は地図と違って、現在は突き当たりで左右に分かれる形になっています。そして、この突き当たりになった右手からその先の「明治通り」までの一区画に「東京ミルクプラント」があったことになります。

この狭い路地の右側が「東京ミルクプラント」のあったところ。

明治通り(池袋方向)。「東京ミルクプラント」があったのはこの交差点の左手奥。

 残念ながら、タルホの記述からは、「マッチ箱西洋館」「芥川製菓工場」「池内ダンシングパビリオン」をいずれも「点」として特定することはできません。しかし、それらがこのあたり半径数十メートル内にあったことは、ほぼ間違いありません。人通りの途絶えた夏の日の午後、路地の奥から漏れてくる昭和の初めのダンス・ミュージックやステップの靴音を聴こうとしました。





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n  o  t  e  s

1★ 「我が転換期には……女性が現われている」といって
 「東京遁走曲」(『東京遁走曲』昭森社、1968年、p.107)

2★ いくつかの作品
 以下のような作品に経緯が書かれています。
 「鉛の銃弾」(『鉛の銃弾』文藝春秋、1972年、「第V章 西巣鴨新田」p.146〜)。
 「美少年時代」(『星の都』マガジンハウス、1991年、p.238〜)。この作品では、「池内」は「池谷」、少年「セイ」は「キヨシ」となっています。
 「随筆ヰタ・マキニカリス」(『東京遁走曲』上掲書、p.179〜)
 「キネマの月巷に昇る春なれば」(『多留保集5』潮出版社、1975年、p.268〜)
 「未来派へのアプローチ」(『稲垣足穂大全T』現代思潮社、1969年、p.354〜)。改題・改訂作「カフェの開く途端に月が昇った」(『稲垣足穂全集』筑摩書房、2001年、p.221〜)

3★ 渋谷神泉
 「カフェの開く……」では、少年が初めてやって来たのは「恵比寿倶楽部」だとあり、「鉛の銃弾」の記述とは異なっています。

4★ 池内姉妹
 「鉛の銃弾」では、妹は「お鶴アネ」と呼ばれています。「わが庵は都のたつみ」(『東京遁走曲』上掲書、p.113)に「池内徳子」と出てきますが、これが姉の名前ではないかと思われます。当時、姉妹が何歳ぐらいだったのかは明らかではありませんが、実母である妹に中学1年生の息子がいるのですから、30代ぐらいだったのでしょう。ちなみにタルホはこのとき22歳。

5★いつ頃
 萩原幸子氏編の「年譜」(『稲垣足穂の世界』新評社、1981年)では、大正12(1923)年の項に、「この年恵比寿から西巣鴨新田池内方に転居」とあるのみです。また、高橋康雄氏編の「稲垣足穂年譜」(『新文芸読本・稲垣足穂』河出書房新社、1993年)では、大正12年の項に、「一月、衣巻省三と恵比寿の東京最初のアパート中目黒の恵比寿倶楽部に移った後、すぐ滝野川南谷端の中野アパートに転居。時をおかず西巣鴨新田池内姉妹の池内舞踏場に移る」とあります。高橋氏が何をもとにこの記事を書かれたか不明ですが、上に挙げた参考作品を読む限り、恵比寿倶楽部→中野アパート→池内舞踏場という順序は疑問です。あとでも触れることになると思いますが、これは恵比寿倶楽部→池内舞踏場→中野アパートという順序にならなければならないはずです。

6★「ソシァルダンスに就て」
 『多留保集8』(上掲書、p.292、初出「文芸時代」1926年5月)。この作品は池内方に移って3年余り経った頃に発表されたものです。すなわち舞踏場も京橋から西巣鴨に移っていました。この時代のタルホに特徴的なレトリックでソシァルダンスを擁護しています。
 なお、前記の萩原氏の「年譜」の昭和2(1927)年の項に、「この年一月『文芸公論』にみられる住所、市外西巣鴨新田八一七池内舞踊場」とあり、この時期にも池内方にいたことが確認できます。

7★東京ミルクプラント
 『東京牛乳物語』(黒川鍾信著、新潮社、1998年)という本によると、「ミルクプラント」というのは、生乳を検査、殺菌処理・加工、乳製品製造などを行う生乳処理所のことで、昭和の初めには「東京市内だけで六十三ヵ所のミルクプラントが建設された」(p.199)とあります。タルホが西巣鴨に移った大正の終わり頃には、まだミルクプラントはなかったようですが、すでにこの場所に牧場や搾乳所があったのでしょう。なお、同書によると、昭和5年に市外滝野川町の「東京ミルクプラント」は、森永煉乳株式会社に買収されたとあります(p.203)。

8★牛乳屋の北隣り
 「キネマの月……」(上掲書、p.269)では、「牧場の右方」。

9★ ダンシングパビリオン
 「滝野川南谷端」(『大全Y』、p.598)に、「池内ダンシングパビリオン」が正式の名であったとあります。

10 定かではありません
 ちなみに、タルホは震災時には東京にいなかったようです。「私はその夏、簡閲点呼のために明石へ帰っていたが、やがて関東大震災が起こった」(「鉛の銃弾」上掲書、p.104)とあり、文脈から「その夏」は大正12年のはずだからです。タルホ作品の中に関東大震災時の情景が現れてこないのは、そのためだと思われます。
 「芥川製菓工場のうらの借家に引越して、そこで、私は初めて依頼原稿の女記者を迎えた……その頃(大正十三年頃)はまだきゃしゃで、風邪をひいて寝込むことがあった……この折の原稿が、婦人画報に出た『カールと白い電灯』及び『空中世界』で、二つ合わして「私の散文詩」という題であった」(同上、p.153〜154)という記述があります。これによれば、大正13(1924)年には、新ダンス場ではなく、まだ芥川製菓工場うらの借家にいたことになります。また、ここに述べられている初出の「私の散文詩」は、これまで一度も単行本に再録されたことがなく未見ですが、大正13年9月発表ではないかと思われる資料があります(「婦人画報」というのは間違いの可能性あり※)。そうすると、この原稿依頼の件はやはり大正13年のことだったのでしょう。ということは、新ダンス場への引っ越しは、震災の年ではなく、翌大正13年以降だったことになります。
 なお、上記の文章(p.104)のあとに、「翌年十月、久しぶりに帰京した時……この品は前年一月から西巣鴨新田のダンスの先生の家に持ってきてあったが……」とありますが、この「翌年十月」および「前年一月」は、それぞれ「翌十月」「その年一月」の間違いではないかと思われます。

 【補注:これを記してほどなく、10月12日に『稲垣足穂全集』(筑摩書房)の第1回配本『一千一秒物語』が刊行になりました。この巻の中に「カールと白い電燈」が収録されています。萩原幸子氏による巻末の解題には、この作品の初出は、大正13(1924)年9月「婦人グラフ」発表とあります】

11★永井良和
 永井良和先生は関西大学社会学部教授で、「永井ゼミのホームページ」を開設しておられます。経歴と業績、社交ダンス文献なども紹介されています。

12★ 別のところ
 「随筆ヰタ・マキニカリス」(上掲書、p.182〜183)

13★一つも書いていない
 「随筆ヰタ・マキニカリス」の初稿は「ヰタ・マキニカリス」(「新潮」1947年5月)ですが、未見のため、初出時にこのように述べているかどうかは不明。もしそうだとしても、その2年後には「美少年時代」(初出「若草」1949年8月)で、この時代のことをある程度書いたわけです。その後、「鉛の銃弾」(初出「文学界」1972年3月)の中で、この時代を再び取り上げることになりました。この作品でタルホは実に巧みな方法を考えつきました。それは、この作品タイトルが示すように、7年余り持ち歩いていたピストルの弾を縦糸にして、そこに「神戸奥平野」「上目黒大坂上」「西巣鴨新田」の3つの時代を織り込むという方法でした。それによってこの作品はまさしく「風俗的類型」を免れることになったからです。

14★どう展開しようもない
 この回教小学校の少女については、「新月挿話」という作品に書かれています。初出誌は1929年3月「クロネコ」。同年12月に改訂されて「FANTASIA」に発表。前者は『桃色のハンカチ』(現代思潮社、1974年)、後者は『稲垣足穂全集1』(筑摩書房、2000年)に収録。

15★20編余り
 いつ頃まで「ダンシングパビリオン」にいたかによりますが、この問題についてはあとで触れることにします。『ヰタ・マキニカリス』(書肆ユリイカ、1948年)の目次の順序に従えば、以下の作品が相当します(括弧内は初出タイトル)。
 「『星遣ひの術』について」(「星使ひの術」)
 「七話集」(「香爐の煙」)
 「或る小路の話」
 「セピァ色の村」
 「緑色の円筒」
 「煌ける城」
 「白鳩の記」(「武石浩玻氏と私」)
 「『タルホと虚空』」
 「星澄む郷」
 「天体嗜好症」
 「月光騎手」
 「海の彼方」(「海のかなた」)
 「童話の天文学者」
 「北極光」(「おうろら・ぼりありす」)
 「記憶」
 「放熱器」
 「飛行機の哲理」(「ブレリオ式の胴」)
 「出発」
 「似而非物語」(「近代物理学とパル教授の錯覚」および「P博士の貝殻状宇宙に就いて」)
以上の19編と、「リビァの月夜」(「サハラの月」)、「夜の好きな王の話」、および「飛行機物語」の3編を合わせた、計22編が西巣鴨新田時代に書かれたものと思われます。ちなみに、「星を売る店」は1923年7月、すなわち西巣鴨に移ってから発表されましたが、「随筆ヰタ・マキニカリス」によると前年の1922年夏に明石で書いたとあります。

16★このように記して
 「美少年時代」(上掲書、p.242)。「鉛の銃弾」では、この部分はもっと簡単な記述になっています。

17★ 谷崎潤一郎
 「ヰタ・マキニカリス註解」(『稲垣足穂全集2』同上、p.405)には、「夜の好きな王の話」を「文藝時代」に載せる手続きを取った帰途に音羽9丁目の佐藤春夫のもとに顔を出したら、そこに谷崎潤一郎がいたとあります。谷崎のこの言葉は、タルホの作品「村の騒動」(「女性」1926年11月号)に対する評だとあります。「夜の好きな王の話」は「文藝時代」1927年1月号掲載されていますから、この2つを考え合わせると、谷崎潤一郎と会ったのは大正15(1926)年の暮れ頃ではないかと思われます。なお、『佐藤春夫全集・第12巻』(講談社、1970年)の「年譜」によると、佐藤春夫が小石川区音羽9丁目18に住んでいたのは、大正14(1925)年11月〜昭和2(1927)年3月で、「コスモロジー」の記述との間に齟齬のないことが確認できます。

18★ 芥川龍之介
 田端の芥川龍之介を訪ねたのは、「随筆ヰタ・マキニカリス」(上掲書、p.186)では「昭和二年四月中旬」とあります。タルホは同年3月に出した『第三半球物語』(金星堂)を龍之介に贈呈し、それに対する礼状をもらっています。『年表作家読本・芥川龍之介』(鷺只雄編著、河出書房新社、1992年)には、昭和2(1927)年4月3日の項に、「稲垣足穂から『第三半球物語』を恵贈され、礼状を書く」とあります。「澄江堂河童談義」(『稲垣足穂全集4』同上、p.380)には、礼状をもらって、「二、三日目のおひる過ぎ」に訪ねたとあります。ちなみに、『室生犀星文学年譜』(明治書院、1982年)には、昭和2年4月2日にタルホが室生犀星を訪ねたことが出ています。龍之介の死は3ヶ月後の7月24日。

19★ 昭和5(1930)年
 「ヰタ・マキニカリス註解」(『稲垣足穂全集2』同上、p.399〜400)に、「貝殻状空間の着想がやはり、壁をへだててダンス曲のジャズを聴いていた時であった。嬉しくなって、その数時間は心がうきうきしていたことをよく憶えている」という記述が出てきます(「私の宇宙文学」〈『大全T』、p168〉にも同様の記述)。これは自作「似而非物語」について語っている箇所です。「似而非物語」というタイトルでの初出は「文芸汎論」(1937年4月)ですが、この作品は、それ以前に書かれた「近代物理学とパル教授の錯覚」(「改造」1928年4月)および「P博士の貝殻状宇宙に就いて」(「科学画報」1930年9月)の改訂作です。そして「貝殻状空間」が登場するのは後者ですから、その着想が結実したのは「P博士の貝殻状宇宙に就いて」のほうだということになります。そうすると上の記述は、この作品が発表された1930年、すなわち昭和5年頃には、まだダンシングパビリオンにいたことを物語っています。

20★ 明石に帰省
 萩原氏編の「年譜」(上掲書)には、昭和6(1931)年の項に、「一月、祖父母が前後して亡くなったので、明石に帰省」、「夏、上京」とあります。祖父母の死については、「父と子」(『大全W』、p.164)、「白昼見」(同、p.180〜183)、「地球」(同、p.262)、「雪融け」(『大全X』、p.162)などに記されています。また、「白昼見」に、「わたしはその初夏に東京へ戻り……」とあります。

21★ 次のように
 「白昼見」(『大全W』、p.183)

22★唯一の箇所
 じつは、もう一箇所次のような箇所があります。
 「日華戦争が始まる前年の十二月に、僕は神戸から最後の上京をした。西巣鴨新田で窮して、いったん都落ちをしてからはちょうど六年目の冬である」(「わが庵は都のたつみ」上掲書、p.113)
 最後の上京は昭和11(1936)年12月ですが、この「六年目」は、起点の年から数えるのか、翌年から数えるのかで、1年ずれが生じます。前者なら昭和6(1931)年、後者なら昭和5(1930)年になってしまいます。また、西巣鴨新田時代のあと再上京して滝野川南谷端時代があるので(注22参照)、実際には「都落ち」は昭和7(1932)年2月であることなど、この記述からは曖昧な点が残ります。ここでは「西巣鴨新田で窮して」という箇所が、状況を示しているという意味で重要です。

23★1月
 祖父母の死の時期、すなわちタルホが帰省した時期については、上記の各作品には異同が見られます。ここでは一々挙げませんが、祖父の死は「正月二日」(「雪融け」)、祖母の死は「一月」(「地球」)とあります。
 ところで、タルホ自身は西巣鴨新田時代の期間について、次のような言い方をしています。
 「はたち過ぎから約十年間、私は池内姉妹経営のダンス場の居候であった」(「東京遁走曲」上掲書、p.107)
 「ソウシャルダンスの草分け池内姉妹の家に十数年間居候を続けた……」(「わが庵は都のたつみ」上掲書、p.113)
 「そのまま以後十数年にわたる居候生活を、そこで送ることになった……」(「随筆ヰタ・マキニカリス」上掲書、p.179)
 「ダンスに明け暮れていた十数年の話を……」(同、p.183)
 ここに見られるように、「約十年間」「十数年」というのは実際にはオーバーな表現です。仮説に基づけば、その期間は大正12(1923)年1月(あるいは2月)〜昭和6(1931)年1月、すなわち8年間となります。

24★中野アパート
 滝野川南谷端(やばた)の中野アパート時代は西巣鴨新田時代の次の時代に当たるので、ここでのテーマではありませんが、少し触れておきたいと思います。
 萩原氏編の「年譜」(注5参照)には、昭和6(1931)年の項に、「この年11月『文科』に見られる住所、滝野川南谷端2100中野アパート」とあります。この「文科」は牧野信一らが始めた雑誌で、タルホは同年11・12月号に2回に分けて「青い箱と紅い骸骨」を発表しています。この年譜記事は、「文科」11月号に掲載されていた執筆者の住所録をたまたま氏が見つけられ、それを採録されたのでしょう。この記事が、タルホが11月に滝野川に転居したという意味でないことは明白です。ところが、高橋氏編の「年譜」(注5参照)には、同じく昭和6年の項に、「この年の秋、滝野川南谷端の中野アパートに舞い戻る」とあります。これは先の大正12年の項との関連でこのような表現になっているのだと思われますが、「秋」という時期とともに不可解です。
 作品「滝野川南谷端」にあるように、タルホの友人、丸山薫も「中野アパート」の住人でした。彼の夫人である丸山三四子著『マネキン・ガール』(時事通信社、1984年)によると、丸山薫は昭和6年の「夏も終わろうという頃」に上京して、「滝野川アパート」(中野アパートのこと)にいたタルホを訪ね、そこに住んだらどうかと誘われたとあります(p.39〜42)。そして丸山夫妻は昭和6年秋からアパートに住んでいます。これによると、タルホは昭和6年の夏の終わり頃にはすでに中野アパートに住んでいたことになります。とすれば、「白昼見」にあるように、「その初夏に」東京へ戻って、中野アパートに住んだと考えれば、つじつまが合います。
 明石に帰省する前から中野アパートに住んでいたのではないか、という疑問も生じなくもありませんが、「滞納一ケ年の借家人が出てしまったあと……」という記述からは、やはり同じ所に戻ったとは考えにくいでしょう。
 ただし、「鉛の銃弾」によれば、タルホが西巣鴨のダンシングパビリオンにいた頃、中野アパートには友人の塩崎良一、猪原太郎、石野重道らがいたこともあって、明治通りを隔ててすぐの場所にあったこのアパートにはしばしば出入りして、勝手知ったところだったようです(上掲書、p.110〜111)。