PART 2





 「君、飛行機はどんなふうだつた?」

 ネガティヴな一日

 早くても遅くてもいけなかった

 改訂で削除されたもの

 新たなアプローチ

 大いなる僥倖

 もう一本の白羽の矢





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「君、飛行機はどんなふうだつた?」
 以上が墜落までの概要です。ニュースはその日のうちに号外によって伝えられました。「武石浩玻氏と私」では、2度目の号外で「武石氏絶命」が伝えられたと述べています。おそらくこの日一日、少年タルホの心は興奮してざわめき立ち、収まることがなかったでしょう。しかし「武石浩玻氏と私」ではこのあと、そのときの心の動揺を記さず、すぐに天王寺の博覧会のことに転換19されます。
 翌日の朝刊はこの事故の模様を大きく取り上げたはずですし、週明けの教室20はこの話題でもちきりだったろうと思われます。鳴尾かあるいは大阪まで飛行機を見に行った生徒がスポークスマンとなり、その周りを大勢が取り囲んで口々に質問を浴びせかけている光景が目に浮かびます。タルホもその中の一人だったはずです。
 飛行機を見に行く計画が不発に終わってしまった無念さとともに、教室でのタルホ少年は大いに「引け目」を感じていたのではないでしょうか。「自分は腹が痛くなって飛行機を見に行けなかった」と友達の前で弁解しなくてはならなかったのですから。

葬儀/棺の通過


 この年の夏、大阪の天王寺公園で開かれる全国発明品博覧会に、武石浩玻の遺品の数々が展示されることになりました。それを知ってすぐにタルホは大阪まで見に行こうと決心したに違いありません。この間、どのような気持ちで過ごし、どんな気持ちからそれを見に行こうと思ったのでしょうか。それは語られていません。愛する人の臨終に立ち会えなかった者が、しばらくたってから亡き人の墓参に行くような気持ち? もちろん12歳の子供はもっと無邪気だったでしょう。
 そのスーヴェニールはあまりにも生々しいものでした。当日の写真や、久邇宮殿下から追贈された「白鳩」の命名書の前には、無惨に破壊した飛行機の破片や血染めの革服などが並べられていたからです。ゴム引きの翼布はいまだに新しい香りを発していました。ところが少年タルホには、それら痛ましい品々がなぜだか「玩具」のように思われたのでした。それと同時にある想いにいざなわれます。それは「死」ということの不思議さでした。ついこの間、大勢の人々を興奮に巻き込んだ当人が、なぜここにいないのか? 握っていたハンドルがこのように砕けたというだけで、どうしてもうどこにもいないのか? かつて眼下に見下ろした天王寺公園の一隅に、いまでは自ら操縦していた飛行機の破片が陳列されて、再び人々にいろいろな想いをさせている。これはいったいなぜなのか? それは「時空と死」についての根源的なメディテーションでした。
 もちろんこの部分には創作上の作為が入っているはずで、基本的には「執筆時のタルホが12歳の自分に仮託したイマジネーション」と考えるのが妥当でしょう。
 博覧会を見学後、大阪船場にいる姉夫婦の家に立ち寄り、飛行機を見たという姉にそのときの様子を尋ねます。

久邇宮殿下白鳩御命名書

破壊したる推進機


 大阪から帰った翌日、学校で友達にも何度目かの同じ質問を発せずにおれませんでした。
 
 「君、飛行機はどんなふうだつた?」
 「赤つて黄いろかい?」
 「茶褐色?」
 「鳶色かい?」
 「号外を見てびつくりしたかい」
 「バリバリつていつたの?」

 友達に矢継ぎ早に質問を浴びせかけるこちらのタルホは、いたいけでいじらしく、切なくなります。


ネガティヴな一日
 タルホの心のカレンダーでは、5月4日だけが「ネガ」のように反転していました。したがって、なんとかそれをもう一回反転させること。すなわち、「飛行機を見に行っていたら味わったであろう気分」を取り戻すことでした。そのためにタルホのとった方法は、あらゆる機会をとらえ、あらゆる方法を駆使して、架空の一日を疑似体験してみることでした。
 都市聯絡飛行のニュース映画はおそらく何度も見たのでしょう。とくに西村天囚作の琵琶歌21とマーチによって脚色されたドキュメント・フィルムはタルホの心を捉えました。また、ノートの端に描いたいわゆる「パラパラ漫画」でさえ「白鳩号」を彷彿とさせるのに十分でした。しかし、こうした映像はいずれもあっけなく終わってしまいました。
 そのほかにも、通学路にある店のショーウインドウに飾られた浩玻の写真にいつまでも見入ったり、彼の肖像画を何度も何度も繰り返し描いたりしたことが述べられています。
 さらに、「武石浩玻氏と私」には次のようにあります。

 「又、白鳩号の模型をこしらへて、茶褐色に塗つたその翼をお日さまの真下にかざしてみたり、それをしづかにまはして、下翼にうつゝた上翼や針金の影がうごくのを機上の武石氏になつたつもりでしらべてみたり、おしまひには二階から墜落させてこはしてしまつたり、――」

 あるいは、宇治へ遠足22に出かけたときには、

 「すぐる日白鳩号がその上をとんで行つた大和絵画風な竹林や、「上方はやさし」とそれを見た武石氏が云つたといふ淀川を下る舟にどんなことを思つたか? 又、飛行地下検分にきた武石氏の靴もふんだにちがひない男山八幡宮の敷石をやはりふんでみて、さらに武石氏も買つた白羽の矢を社前で手にして何を思つたか? ……などはくはしくのべる必要もないでせう」

 注意したいのは、ここでは視点が逆転してしまっていることです。「飛行機を見に行っていたら味わったであろう気分」から「飛行機に乗っていたら味わっていたであろう気分」へと倒錯しています。すなわち、自分を武石浩玻になぞらえ、武石浩玻自身を追体験しようとしているのです。しかも、墜落の瞬間を追体験23しようとしていることが明らかに見てとれます。武石浩玻との一体感獲得への強い欲求。ここには「死とエロティシズム」の気配が濃厚です。たしかにタルホは次のように述べています。

 「そのうちに私は、あんなによく晴れた逝く春の一日を、あんな油のついたパイプやバルブがぎつしりつまつた発動機がゴムびきのきやしやな翼にたくさんな針金や金具でとめられてある飛行機を操縦して、人々にさはがれながら、人々をびつくらさせて霞のなかへ消えて行き、そして墜落して死んでしまつたら、どんなにいゝことだらうと思ひ出してゐました」

 これは「自分も武石浩玻のように死ねたら、どんなにいいことだろう」というよりも、むしろ「自分が武石浩玻として死んだのだったら、どんなにいいことだったろう」ということのように思えます。もちろん、このような願望も、先の博覧会場でのメディテーションと同様、基本的には創作上のレトリックと考えるべきだと思われますし、そうした意識が明確な形24になっていくのは、ここに描かれている時代よりもう少し後のことでしょう。


早くても遅くてもいけなかった
 武石浩玻の都市聯絡飛行計画は、タルホによれば「或る歴史的な時期25に為されました。それより早くてもいけなかつたし、遅れてもいけなかつたといふ種類」だったというのです。
 関西の人たちが初めて飛行機を目の当たりにしたのは、2年前の1911(明治44)年3月、大阪城東練兵場でアメリカのボールドウィン飛行興行団のマースが操縦したカーチス式複葉機でした。1年前にはアトウォーターが須磨天神浜においてカーチス式水上機で飛行ぶりを見せています。タルホが生まれて初めて見た実物の飛行機はこの水上機でした。そして、関西で初めて行われる日本人による飛行、それが武石浩玻の都市聯絡飛行でした。
 こうした気運の中で、とりわけ少年たちの興味の対象として飛行機は恰好のものだったろうと想像されます。年に1度ぐらいしか実物を見るチャンスのない時代では、飛行機に対する思いはなおさら募ったことだろうと想像されます。少年タルホにとっても、心の中で飛行機が大きな位置を占めつつあり、飛行機への思い入れは1年前とは比べものにならないくらい強くなっていたはずです。最初に見たアトウォーターの飛行機は水上機でした。しかし今度の飛行機は、飛行場を滑走して飛び立つ「正真正銘の」飛行機26です。それだけでも浩玻の飛行機を見に行くことには大きな意味がありました。
 タルホには1年前から飛行機に対する下地ができていた、ということが重要だと思われます。もしその下地がなく、浩玻の飛行がタルホにとって初めての機会であったなら、これほど熱意をもって迎えたか疑問です。また、この1年後には同じ鳴尾競馬場で第1回民間飛行大会が開催されるようになり、すでに一人の飛行家が英雄として称賛される時代ではなくなっていました。
 仮に時間軸を1年ずらしてみると、武石浩玻の飛行がタルホ11歳のときであったならやはり幼すぎ、13歳(中学生)になっていたら飛行機に対する知識はもっと増えていたでしょうが、興味の対象も飛行機だけではなくなっていたでしょう。
 それほど際どい時期27だったというわけです。その両者が1913(大正2)年5月4日、タルホ12歳28のときに――出会えなかったというかたちで――決定的な出会いをした。そしてこの日は永遠に取り戻すことのできないネガティヴな一日として記憶されることになります。
 しかし、飛行機に対するタルホの情熱は、実際にはこの経験をきっかけに逆にますます高まっていきます。先述の「飛行機の気分」を取り戻すさまざまな行為に始まって、中学生になると飛行場の常連29となり、飛行家助手気取りで格納庫から飛行機を出し入れするのを手伝い得意になったりしています。3年生のときには、来日した飛行家アート・スミスと握手30までしました。しかしながら、こうしたさまざまな経験も武石浩玻=白鳩号との「歴史的」な出会いに比べると常に「何物」かが欠けているのでした。
 そして、武石浩玻によってもたらされたその「何物」かさえも、今では次第に自分から遠ざかり消えかかろうとしている。それを捉えようと焦慮しつつ、プロペラーを撫でながら、飛行機の翼を触りながら、ガソリンとクローバーの匂いを嗅ぎながら、活動写真のメロディーを口笛で吹きながら……、白鳩号と武石浩玻の面影を想い描こうとするのでした。


改訂で削除されたもの
 改訂版である「白鳩の記」は以上で記述が終わっています。この最後の場面は、文脈からはおそらく中学生時代に設定されているのだと思われます。
 初稿の「武石浩玻氏と私」には、「白鳩の記」への改訂の過程31で削除された部分があります。それはこの後に置かれていた約2ページ分です。
 場面は、あれから十数年経った5月4日現在という設定になっています。「それから春と秋はグルグルめぐり、とうとう私がおとなになつてしまつた今年になりました。その五月四日に、――ふいにその日であることに気がついた私がカレンダーを見ると、十何年かまへと同じ日曜日になつてゐました」とあります。そして、「私はあれ以後の五月四日は四年目までしか、それが何曜でどんなことを思つたかをおぼえてゐない自分自身に対して、かなしい笑をうかばせずにをられませんでした」と述懐しています。
 その後、武石浩玻について友人との会話が続き、さらに、「私は今は飛行機と云へば、じつはちよつと同乗するのさへいやなのです。それより京都の郊外のお寺かどこかでしづかにくらしてみたい――といふのがこの頃の気持なのです」という思いがけないような言葉に出くわします。
 「が、さうは云ひながら、おそく起きた朝などきこえてくるプロペラーのうなりに、何気なくあげたひとみにうつる姿が、やはり何にたとへん方なく目ざましいものである以上、それのみにすごした日々をふりかへり、私ははたちをいくらこしてゐるのだと問ひかけた今日早そんな気持でゐる自身をなげかはしく思はないこともないのです。『いや俺は飛行機を忘れてゐるのでない、今ちよつと横路へはひつてゐるだけなのだ』昔の友だちにさう告げねばならぬ感激をよびもどすとき、……」と、非常に屈折した心境を述べています。
 「武石浩玻と飛行機」ばかりで過ごした日々から、時間的にも気持ちの上でも遠く隔たってしまった現在の自分。ここに語られているところは、この時期のタルホのかなり正直な心境ではないかと思われます。次第に遠ざかり、消えかかろうとするものをつかまえようと焦慮している中学生の自分。それはまた同時に現在の自分の姿でもありました。したがって、作家として、なんとしてもその痕跡をとどめておきたい。「武石浩玻氏と私」が書かれなければならなかった理由32も、じつはここにあったのだといえます。


新たなアプローチ
 その後タルホは、武石浩玻をどのように作品に取り上げてきたでしょうか。以下、簡単に触れておきます。
 「武石浩玻氏と私」発表から半年後、タルホは「武石氏続記」33という先の作品についての後日談のようなものを書いています。しかしその後は、長い間武石浩玻をテーマとした作品34を書くことはありませんでした。それから17年後、あるきっかけから再びそのチャンスが訪れました。三省堂出版部に勤めていた沢渡恒氏の勧めによって、青少年向けの飛行機の本を書くことになったからです。この本は戦時中、1943(昭和18)年に『空の日本 飛行機物語』35として出版され、その中に「白鳩の記」と題した一章が加えられました。
 これは「武石浩玻氏と私」の改訂作「白鳩の記」と同じタイトルですが、内容はまったく別のもので、新たに浩玻の生い立ちから事故までを物語風に綴った形式になっています。40頁にわたるこの章の執筆にあたっても『飛行機全書』が多く用いられています。語り口は青少年向けですが、資料を駆使して作品をつくるという意味で、その後の武石浩玻への取り組みの新たな出発点となるものでした。
 戦後、京都に移ってからタルホは『空の日本 飛行機物語』の改訂を行います。「作家」誌上に1955(昭和30)年から5ヶ月(5回)にわたって連載した「Souvenir de l'Aeroplane36」(T〜X)がそれです。このうちの「X」が三省堂版の「第5章・白鳩の記」に相当します。文体の変更、若干の増補を除けば、旧作の内容がほぼ踏襲されています。言い換えれば、旧作は「青少年向け」とはいえ、内容的にはそれに合わせて「レベルを落としたものでは決してなかった」ということになります。
 そして、奇妙ですが、この連載の最後に「菜の花と飛行機」37という作品が「追加」という形で付せられています。サブタイトルに「武石浩玻事件に対する解釈学的吟味」とあることからわかるように、資料を用いた客観的な手法により、ここではとくに墜落原因に焦点を合わせ、さまざまな角度からその考究に当たっています。さらにこの作品には実存主義的色彩38が色濃く表れており、ここにおいて武石浩玻事件は初めて実存主義的概念によって捉えられることになりました。
 「武石浩玻氏と私」から30年。この間、長く厳しい心身困窮の時代を経て、タルホの思想的根拠は大きく変化し、その住む世界ははるかに豊饒なものとなっていました。武石浩玻との一体感を求めてひたすら死を想ったようなかつての心境からは遠く隔たっていました。しかしながら、武石浩玻追跡は、新たなアプローチによってさらに続けられることになります。


大いなる僥倖
 その後、タルホは大いなる僥倖に恵まれることになります。それは志代夫人の職場の同僚でタルホ読者でもあった近在の桃山学園職員・松村実氏が、水戸武石家から浩玻の古い資料を借り出すことに成功したからです。それは主に日記帳やノートの類で、これによって「先覚――武石浩玻在米日記」および「武石道之介航海日誌」が世に送り出されることになりました。あれほど恋い焦がれていた人の遺品を、半世紀を経て、みずから手にする巡り合わせになったわけです。遺品を手にしたタルホの感慨はいかばかりだったでしょうか。
 「春の終りの日に、大阪練兵場を飛び立って京都へ向い、再び帰ってこなかった飛行機に感動した自分は、半世紀後、昔日の飛行家が志を立てて飛行術を習得した記録を、当人のナマナマしい筆蹟の日記として知ることになろうなど、どうして思おうぞ!」と心の昂ぶりを記しています39
 そして、先にも引用した「墜落」中の一編「深草に置く露の身の£40が、浩玻に対する最後の作品となりました。この作品は、先の二つの日記を得たことによって、浩玻の在米中から事故までの飛行歴を通観できる形になっています。なお、この中で浩玻の検死診断書41を『飛行機全書』から転載しているのが目を引きます。それはじつに40箇所にも及ぶ負傷部位を生々しく記したもので、タルホはそれら凄惨な診断報告を一つずつ執拗に転記していきます。「武石浩玻がどんな傷を受けたか、それを知っておきたい人もあるだろう」とその理由を述べています。しかし、むしろそれはタルホ自身が浩玻の40箇所の傷の一つ一つを我が身の痛みとして感じ取ろうとしているように思えます。いまさらながらの「一体感」でしょうか? そうは思えません。
 「菜の花と飛行機」は最終的には「菜の花と飛行機との格闘」として「ライト兄弟に始まる」の中の第四章に収められました。同様に、「深草に置く露の身の」も「墜落」の中の第一章にあてられています。すなわち、不思議なことですが、戦後に書かれた武石浩玻物は(戦時中の『空の日本 飛行機物語』の中の「白鳩の記」も含めて)、単独のものはなく、最終的にはいずれも「タルホ飛行機物語」の中の一部分としてその場所を与えられているのです。そして、それらの作品にはかつての「焦慮」や「死へのメディテーション」といった趣はなく、全体としては夭折した飛行家たちへのレクイエムのような響きが感じられます。
 武石浩玻の墜落事故は、日本航空史上ではわずかな記事でしかありません。それにもかかわらず、これほど懇ろにしかも深い共感をもってその生涯を取り上げられた飛行家は武石浩玻のほかに例がないでしょう。これにまさる「鎮魂」はないのではないでしょうか。


もう一本の白羽の矢
 それにしても、なぜ武石浩玻がそれほどまでに生涯にわたってタルホを捉え続けた42のかという疑問が残ります。
 「武石浩玻氏と私」から削除された部分に次のような言葉があります。

 「僕も武石浩玻が好きで、子供のとき恋人のやうに思つてゐましたが、東郷大将がえらいといふやうな気持ではないのです。どう云つていゝか、武石浩玻といふ人のかんじは他の飛行家とまるでちがつてゐるでせう。――あの頃は飛行機がめづらしかつたので、あんなさはぎになつたとも云へるが、その理由は僕はべつなものも関係してゐると思ふのです」
 「さうですな――あんなに人格的な反映をあたへた人はありませんね」
 「武石氏の頭は短かく刈つてあるでせう」私はふいにそのことを思ひうかべました「武石氏は帰朝間ぎわになつて日本へ帰るなら、髪をのばしてゐる必要はないと云つて刈つてしまつたんださうです。それから飛行機に乗るときメガネをつけてゐないでせう――これなんかも……どう云ふんでせうかね」
 ……
 「僕は武石氏の顔は発見だと思ふのです。こんな意味で、飛行機といふものが現代に新らしい意義をもたらしたものなら、武石浩玻とはまたその現代――それはこの数十年間と見てもいゝし、この世紀を通じた日本にまでひきのばしてもいゝのです――といふものを外的にも内的にも代表する個性のうちの最も鮮やかなものであると決めるのにためらひません。さうはお考へになりませんか」
 ……
 「今もなほ自分の心のなかに、あの風立ちやすい春の日の一日のやうに何かを暗示してほゝ笑んでゐる武石浩玻その人を、一生涯忘れられぬひとりに入れるのは何にしても間ちがひのないことだ――と」

 20世紀の黎明期に人類が創造した最も目覚ましい機械=飛行機、それまで自動車や船に興味を抱いていた機械好きな少年にとっても、それは別の種類の高揚感をもたらすまったく新しい対象であった。しかもそれを操るのが職業としての軍人ではなく、中学時代から詩や短歌をつくり、勇躍アメリカで飛行技術を習得し、みずから最新機を携えて帰ってきた一人の青年であった。最初は彼と飛行機に対する単純な熱中に過ぎなかったものが、今それを顧みるとき、彼の不羈の個性と生涯に、はからずも現代人としての最も鮮やかな典型を見いだした、ということでしょうか。同時にそこには、自分の理想の姿が投影されていることは言うまでもありません。
 その意味で、最初の作品のタイトルが「白鳩の記」でなく「武石浩玻氏と私」であったことは象徴的です。

*          *          *


 「我が少年の日の春遅くに、大阪を経て淀川にそうて北進した飛行機を、搭乗者に舵を取直す余裕も与えないで伏見の練兵場に突き当てたのは、実は、西宮神崎にかけて毎春豪勢な敷物をくりひろげる菜の花であった」

 「さて武石は、自らエアロノートの先駆たらんと決意したことに依って、ともかくも実存に到達した。以来、彼の遭遇するところはもはや偶然ではなくなった。こうなると、今回の京阪飛行を一つのエポック(一回きりのもの)として保留するための条件としては、彼がもともと好きだったというブレリオ式単葉ではなく、行きがかり上そうなったところのカーティス式複葉でなければならなかったし、彼はこの飛行機の先端座席で、五分刈頭に鼠色のスコッチの鳥打帽を逆さにかむり、素顔のままでハンドルを握っていなければならなかったのである。
 彼を乗せて帰ってきた「春洋丸」も、途中のハワイで訃報に接した木村、徳田両中尉殉職の飛行機がブレリオ式単葉であったことも、相共に下阪した朝日社員美土路昌一が石清水八幡の白羽の矢を受けるように勧めたことも、……総ては予定されていたのだ。それもひとえに「飛行の神」が武石を選び取り、これに愛の宣告を下すべき仕儀に置かれていたからである。珍重空中飛行器 電光影裡斬春風」

 長年にわたり、さまざまな資料をもとに思考を巡らせた「Takeishi-Kohaとの格闘始末記」は、ついに以上のような結論43に達せざるを得ないのでした。前者はタルホの未来派的感覚あるいは実存主義的方法によって解き明かされなければならないのでしょうし、また後者の結論は、もしそうであるなら、そっくり次のように言い換えられなければなりません。

 「さてイナガキ・タルホは、自ら文学者の先駆たらんと決意したことに依って、ともかくも実存に到達した。以来、彼の遭遇するところはもはや偶然ではなくなった。こうなると、あの京阪飛行を一つのエポック(一回きりのもの)として保留するための条件としては、彼がもともと好きだったという飛行機ではなく、行きがかり上そうなったところの文学でなければならなかったし、浩玻の遺品である日記を50年後みずから手にすることになったのも、『飛行機全書』を何度も手にしたのも、「武石浩玻氏と私」を書こうと思ったのも、天王寺公園の全国発明品博覧会で白鳩号の残骸を見たのも、京阪飛行が2日延びたのも、5月3日が土曜日で学校に行かなければならなかったのも、なのに5月4日の日曜日には朝からお腹が痛み出して飛行機を見に行けなくなったのも、そのとき彼が満12歳だったことも、……総ては予定されていたのだ。それもひとえに「文学の神」がイナガキ・タルホを選び取り、これに愛の宣告を下すべき仕儀に置かれていたからである――」と。

 この「神」が放った白羽の矢の的は、1913(大正2)年5月3日、4日の2日間に、鳴尾・大阪・京都の三都に繰り出した数十万の人々の中にはなく、飛行機を見に行けないで明石錦江町の家でお腹を押さえて寝ていた12歳の少年だったからです。








※タルホ作品のヴァリアントについては、萩原幸子氏からの資料提供により記すことができました。厚く御礼申し上げます。


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CONTENTS


























































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19★すぐに天王寺の博覧会のことに転換
 『ヰタ・マキニカリス』(書肆ユリイカ、1948年)収録時に次のような情景が書き加えられました。

「観に行かなくてよかつた」
と父はその晩かた、電灯の点つた茶ノ間で夕刊を伏せたときに云ひました。
「どうや? そんな所を見たかつたか」
母の方を向いてつけ足しました。母はあわてて首をよこに振るやうにして、かの女のかほをしかめました。

 ここでも、事故に対する両親の反応が描かれただけで、タルホ自身の心の動きは述べられません。

20★週明けの教室
 事故のあった1913(大正2)年5月、タルホは何年生だったのでしょうか。1907(明治40)年4月、タルホは大阪の浪華尋常小学校に入学しますが、1学期の終わりには明石に移り、2学期から明石尋常小学校に通うようになります。そして1914(大正3)年4月、関西学院普通部に入学します。したがって、浩玻の事故は関西学院入学の前年ということになります。すると尋常小学校6年生のときでしょうか。しかし、ここで注意しなければならないのは、小学校期間が「7年」存在することです。この件に関してこれまで年譜では触れられることがありませんでしたし、タルホ自身あまり言及していないようです。これはどういう理由でしょうか。小学生のときに留年するような長い休学の形跡はないようです。
 ただ、「ライト兄弟に始まる」(『大全T』p.584)に、「一年間お世話になった高等小学校云々」という言葉が出てきます。これはタルホが高等小学校に1年間通ったことを意味するのでしょうか。もし、尋常小学校6年間のあと高等小学校に1年間通った、とすれば「7年」のつじつまが合います。浩玻の事故はこの高等小学校時代のことかもしれません。

21★ 西村天囚作の琵琶歌
 大阪朝日新聞に掲載された西村天囚作の薩摩琵琶歌「武石浩玻」は、『飛行機全書』にも転載されています。
 「……比(ころ)は大正二年。夏の初の比かとよ。錦をかざる故郷の。空すみ渡る、五月四日。都市聯絡の大飛行鳴尾を出でゝ、浪華潟、三つの浜辺を見おろして、早くも飛来る天王寺。公園上を旋回し、天辺高く舞ふたるは、雁か燕か白雲の。……」と、格調高く都市聯絡飛行の様子がうたわれています。小学初年から仕舞に親しんでいたタルホは、琵琶歌の文語調のリズムにも愛着を覚えたのかも知れません。西村天囚(1865−1924)は大阪朝日新聞社員で、小説家、漢学者。

22★宇治へ遠足
 宇治への遠足は関西学院1年生の秋のこと。「カフェの開く途端に月が昇った」(「未来派へのアプローチ」)、「ライト兄弟に始まる(第4章「菜の花と飛行機との格闘」)」、「宇治桃山はわたしの里」等参照。

23★ 墜落の瞬間を追体験
 模型飛行機を墜落させるということはその代替行為だと思われます。『ヰタ・マキニカリス』版「白鳩の記」では次のような一文が挿入されています。
 「八幡様の白羽の矢は大阪出発の飛行機の支柱にむすびつけられ、かくて深草練兵場のかなた、澄み切つた青空を背景に、五千フイートの高度に現はれた飛行機は、真一文字に頭を下げて降りてきて、練兵場のまんなかに立つニレの樹の向う側へ激突し、もんどり打つて破壊したのでした。遠足みやげの白羽の矢はわたしの手にかざされて、空気を切つて走り、そしておしまひに急角度に地面に投じられるのでした」
 「ライト兄弟に始まる」第4章「菜の花と飛行機との格闘」(『稲垣足穂全集6』、p.176)には、「自転車で急坂を下りながら、深草練兵場への急降下の感じを味おうとしたり、……」とあり、タルホが墜落の気分を味わおうとしていたことは確かです。。

24★ 明確な形
 「武石浩玻追体験」は主に中学時代のことだと思われます。後年タルホは、「十二、三才の頃からは飛行機で死ぬことが理想であった」(『東京遁走曲』昭森社、1968年、p.15)と述べていますが、この言葉の裏にはもちろん武石浩玻の死があるのでしょう。しかし、「死の美学」として飛行機による自らの死を想像するには、ある種の形而上学的な動機が必要なはずです。タルホは中学時代にウェデキント、ショーペンハウエル、ベルグソンなどにの本に接しますが、それらに触れることによって、「死の概念」が明確に形成されるようになる時期まで待たねばならないでしょう。それが何年生のときか判然としませんが、「12、3歳」よりはもう少し後のはずです。
 関西学院卒業(18歳)後は実際に飛行学校への入学を希望していましたし、それがかなわず志望先を自動車学校に切り替えて上京、免許取得後明石に帰ってからも、なおも飛行家志望の夢を捨てていなかったようです。結局、飛行家になることを断念しなければならなかった(飛行機で死ぬことが不可能になった)10代後半のこの時期は、タルホ思想の形成期として重要で、(同じくこの時期の未来派への傾倒と併せて)さらに研究が必要でしょう。

25★或る歴史的な時期
 以下、「……現代の人心に或る形而上学的影響を与へずにはおさまらなかつたのでした」までの一文が初めて挿入されたのは、『ヰタ・マキニカリス』版「白鳩の記」です。さらに『大全』版ではハイデッガーの用語を持ち出して、それが「‘Geschehen’に相当するものである」と言っています。ただし、この‘geschehen(生起する)’という言葉はここで初めて用いられたわけではなく、後で触れる「菜の花と飛行機」(「作家」1955年5月)にすでに登場しています。
 ちなみに、ハイデッガーの名前が最初に登場するのは、1948年10月「叙説」に発表した「実存哲学の余白」(『多留保集8』収録)においてではないかと思われます。同年11月発表の「詩の倫理U」(「日本未来派」、『同3』収録)にも名前が見えるので、この頃なにがしかの本を手にしたのかもしれません。
 なお、『ヰタ・マキニカリス』発行は同年5月ですが、この改訂時にハイデッガーを知っていたのかどうかは微妙なところです。

26★ 「正真正銘の」飛行機
 当時の少年タルホが、水上飛行機と通常の飛行機の違いをここまで知っていたわけではありませんが、後年タルホは両者の違いを次のように美しく表現しています。
 「どうも水上飛行機は、滑走車付きのように面白くない。……それは、立木にひっかかったり、砂地に突っ込んでとんぼ返りをするわけでない。岸辺に繋がれた飛行艇は、漣を受けて両翼をゆさぶり、頭部を優しげに頷かせることであろうが、なおクローバーの上に置き放しになった飛行機が、春風を受けてひとりでに数米移動するのに及ばないのである」(「ライト兄弟に始まる」『稲垣足穂全集6』、p.141〜142)
 なんという詩的なまなざし! おそらく、中学生になって飛行場(鳴尾競馬場)に出入りしていた頃の経験だろうと思われます。「格納庫から引き出されてくる折に、土地の僅かな凸凹につれて両翼をゆるがせたりする実物飛行機の感じ」(同上、p.143)などという表現と併せて、他の追随を許さないタルホの真骨頂です。

27★ 際どい時期
 タルホ自身次のように述べています。
 「あれこれ考え合わせると、武石はちょうど良い時期にめぐり合ったと云わないわけに行かない。武石事件の一ヶ月前の三月二十八日に、所沢附近で陸軍のブレリオ式単葉が墜落、木村徳田両中尉が殉職して、天下の同情が翕然として集っていた矢先であったから、これに輪をかけた武石ブームが湧き上ったのである。もしも順序があべこべだったら、到底あんなに迄の全国的な人気の的にならなかったであろう。また彼の帰朝がいま少し遅れていたならば、同僚飛行家が続々とアメリカから帰り始めたのと一致する」(「ライト兄弟に始まる」『稲垣足穂全集6』、p.192)

28★タルホ12歳
 1900年12月26日生まれのタルホはこのとき12歳4ヶ月、1884年10月20日生まれの浩玻は28歳6ヶ月でした。

29★ 飛行場の常連
 「武石浩玻氏と私」には、「オーバーオールをきて鳴尾のトラックを、柵のそとからうらやましさうに見てゐる友だちのまへを、土地の凸凹につれて快よい翼のゆるぎを見せる機体を押して行く手つだひに得意をおぼえる日をかぞへました」という記述があります。また「ヒコーキ野郎たち」には、鳴尾競馬場に出入りして飛行機関係者と顔なじみになっていた様子が描かれています(『稲垣足穂全集6』、p.242〜247参照)。それは中学4年生(16歳)頃の話でしょうか。

30★ アート・スミスと握手
 「ヒコーキ野郎たち」には、その様子が次のように書かれています。
 「お昼すぎに私が、枝川の松並木にそうた馬場の西外れのクローバーの上にひとりで佇んでいたら、観覧席の方から黄に塗られた豆自動車が走ってきた。……私のすぐ前まできてバックしようとして、米国冒険飛行家は灰青色のひとみをこちらに注いだ。……私がスミスと話をしたという噂が学校で流れたが、その真相は以上に尽きている。中学三年生に何が出来るものか! 『わたしは、あなたがサンフランシスコのブレメン紙に連載した生い立ちの記を殆ど諳んじている』せめてこれくらいは先方へ伝えたかったが、ためらっているうちに黄色の豆自動車は後ずさりして、後輪にブレーキをかけると同時にハンドルを左に切ったのでくるりと一回転して、観覧席の方へ走り去った」(同上、p.242〜243)
 ここには「握手した」とは書かれていません。アート・スミスは大正5(1916)年と大正6(1917)年の2回来日して、各地で巡業飛行していますが、鳴尾競馬場でタルホが見たのは、大正5年春の飛行。
 ところで、2回目の来日で、秋田の八橋競馬場で行った曲芸飛行の模様を紹介した「鳥人アートスミス秋田大飛行」というホームページがあります。当時の熱狂ぶりを「秋田魁新報」の記事と絵葉書写真で再現した、たいへんおもしろい内容ですので、ご参照ください。

31★ 「白鳩の記」への改訂の過程
 「武石浩玻氏と私」のヴァリアントを整理すると次のようになります。
1.「武石浩玻氏と私」(「新潮」発表、1925年9月)
2.『天体嗜好症』(春陽堂、1928年)収録。
 このとき「白鳩の記」と改題。文中の「武石浩玻」という固有名詞がすべて伏せられ、最終行にただ1箇所「Takeishi Koha」とアルファベットで記されるようになった。
3.『ヰタ・マキニカリス』(書肆ユリイカ、1948年)収録。
 このとき末尾の部分を削除。
4.『大全T』(現代思潮社、1969年)収録。
 最後の改訂。ハイデッガーの用語が登場。
 「『ヰタ・マキニカリス』註解」(『稲垣足穂全集2』、p.387)には、「新潮」発表後、「この短篇は其後どこにも訂正はない」とありますが、実際にはこのように改訂されています。

【補注:『稲垣足穂全集2』の「解題」によると、上記3と4との間に、「昭和四十三(一九六八)年四月『日本短篇文学全集33』(筑摩書房)に改訂して収録された」とあります。なお、昭和31(1956)年の的場書房版『ヰタ・マキニカリス』は、書肆ユリイカ版のリプリント】

32★書かれなければならなかった理由
 先に引用したように、タルホは大正12、3年頃、神戸三ノ宮の古本屋で『飛行機全書』を見つけました。武石浩玻をテーマに書こうとして本を探したのか、たまたま見つけて書こうとしたのかはわかりませんが、その本を手にしたことが執筆のきっかけになったものと思われます。
 「『ヰタ・マキニカリス』註解」(同上、p.386)によると、「この作は最初は百数十枚に及ぶもので、まず大阪朝日へ手紙を書いた。しかし先方が連載してもよいと云ってくると、さすがに躊躇した」とあります。「この作」とは「武石浩玻氏と私」の原形のことで、意外にも最初は新聞連載の形を考えていたわけです。結局、「大阪朝日」ではなく、「新潮」に発表されることになったのですが、「うんうん云いながら百数十枚を二十五枚に圧縮した」とあります。「百数十枚」という原稿は当時のタルホとしては考えられないような多い枚数で、たぶん最初の原稿は資料的なものを主体とした内容だったのではないかと想像されます。
 「大阪朝日」というのは、もちろん浩玻の都市聯絡飛行が大阪朝日新聞社主催だったからでしょうが、躊躇した理由は何でしょうか。作品の完成度として不満だったからか、それまでの作品とは異質なものだったために自らの「作品」とすることにためらいを覚えたからか、あるいは「一度でも新聞小説を書いたら、終りである。そういう連中が何を云おうと、私は信用しない」(「わが庵は都のたつみ」『東京遁走曲』昭森社、1968年、p.122。『タルホ=コスモロジー』文藝春秋、p.110も参照)と言っているように、新聞連載を潔しとしないタルホの姿勢によるものでしょうか。それにもかかわらず、一度は新聞社に手紙を書いたのですから、それほどこのテーマは書かずにおれない重要なものだったわけです。

33★ 「武石氏続記」
 「武石氏続記」(「文党」1926年4月)は、友人であった詩人・丸山薫および関西学院同窓の猪原太郎による「武石浩玻氏と私」の読後感想、そしてN氏(おそらく「ライト兄弟に始まる」<同上、p.181>に登場する俳人・南部三稜のこと)の事故目撃談からなっています。この冒頭にも、(「武石浩玻氏と私」は)「最初大阪朝日に寄せるものとして腹案したのを都合上四分の一にみじかくしてしまった」とあります。この作品は、1991年に刊行された『星の都』(マガジンハウス)に収録されています。初出後初めて単行本に再録されもので、その意味で貴重な作品です(『星の都』には初めて目にする作品が多く含まれており、書誌的に重要な一冊となっています)。

34★ 武石浩玻をテーマとした作品
 1941(昭和16年)に、「白鳩の賦」という作品を「にっぽん」という雑誌に発表しているようですが、見ることができません。タイトルからは武石浩玻の白鳩号のことのようですが。

35★『空の日本 飛行機物語』
 この本には軍国主義時代の匂いも感じられますが、何よりも飛行機について語る喜びのようなものが感じられ、また青少年向けの語り口に他の作品とは違った趣があり、単行本として特異な一冊となっています。この本の執筆のためには、『飛行機全書』のほかにもいくつかの資料・参考書を用いたと思われます。また、執筆と並行して飛行機関係の写真収集のために自らあちこちに足を運んだようです(『東京遁走曲』同上、p.31〜36参照)。
 目次は次のとおり。
第1章 夜あけ(1)
第2章 夜あけ(2)
第3章 日野少佐及び徳川大尉
第4章 私の模型飛行機
 1.はじめて見た模型飛行機/2.実物模型への関心/3.翼及び翼布/4.張線/5.滑走車/6.発動機/7.放熱器/8.模型のなげき
第5章 白鳩の記
第6章 民間の人々
第7章 空の日本
 ちなみに、この『空の日本 飛行機物語』は、のちにさまざまな変遷を経てまとめられることになる「ライト兄弟に始まる」の原形となるものです。また、この後出版された『星の学者』『宇宙論入門』『明石』などのように、それまでには見られなかった資料的側面が強調された最初の作品、という点でも意義深いものとなっています。いずれも勧められて書いたという点が共通していますが、いわゆる「博覧強記のタルホ」はこのあたりが出発点になっているのではないでしょうか。「自分の仕事だとは到底云えない。共に資料物を出ないからだ」(「タルホ=コスモロジー」同上、p.165)とのちに言っていますが、こうした手法がその後の創作活動に新しい世界を切り開いたことも確かです。

【補注:『空の日本 飛行機物語』は、『稲垣足穂全集6』に「飛行機物語」として収録】

36★Aeroplane
 原題の、Aeroplaneのeはアクサン付き。

37★「菜の花と飛行機」
 「追加」というからには、この「菜の花と飛行機」は最初から想定されていたのではなく、急遽付け加えられたように思われます。最初に引用したように、タルホは「京都へ越して五、六年目」に、木ノ内、萩原両氏の厚意によって何度目かの『飛行機全書』を手にしています。京都へ移ったのは1950(昭和25)年2月ですから、それから5、6年目というと1955、6年頃にあたります。ひょっとして「Souvenir de l'Aeroplane」(eはアクサン付き)連載中の頃だったのではないでしょうか。ちょうどその時期久しぶりに本を手にして、それを参考に急遽「菜の花と飛行機」を追加した、ということも考えられます。

38★ 実存主義的色彩
 戦後の困窮時代に触れたと思われる実存主義思想(とくにハイデッガー)が、「武石浩玻事件に対する解釈学的吟味」を促すことになり、この作品に結実したといえます。この「菜の花と飛行機」は、のちに「菜の花の飛行機の翼に及す影響」(「実存主義」1960年4月、および「作家」1961年4月)として改題・改訂、さらに「菜の花と飛行機との格闘」(「作家」1965年12月、「南北」<「ライト兄弟に始まる・第4章」>1968年10月、および『大全T』<「同」>1969年6月)として再改題・改訂されました。改訂の過程で、当初用いられていた「Geschehen」「世界」「投企」などのいわゆる実存主義的用語は影をひそめ、内容的にも次第に簡潔になっていきます。

39★心の昂ぶりを記しています
 『タルホ=コスモロジー』(同上、p.201)。ちなみに、タルホはのちに京都の住まいから程近い男山の「飛行神社」に赴き、そこに保管されていた白鳩号の遺品と再び対面しています(「パテェの赤い雄鶏を求めて」同上、p.74〜76参照)。そして、ハンドルと前輪を手に神妙な顔をした写真が残されています。

40★深草に置く露の身の
 この題名は、西村天囚の琵琶歌の一節「深草に置く露の身の、消えて果敢(はか)なくなりければ……」から採られています。

41★ 浩玻の検死診断書
 「墜落」(同上、p.314〜315)

42★タルホを捉え続けた
 そもそも「タルホにとって武石浩玻体験はA感覚体験であった!」
 唐突ですが、このような「仮説」を立てたくなる誘惑を禁じ得ません。なにも「プラトニック・ラブ」というのではありません。なぜなら、タルホのA感覚理論に次のような命題があるからです。

 「肛門感覚とは、ひと口に云えば小児の性感である。「らちのあかないもの」「どうしようもないもの」「只それだけのもの」の魅力である。つまりフロイトが「前快」と呼んでいるものに相応する」(「ヴァニラとマニラ」『稲垣足穂全集3』、p.27)
 「切迫的ではあるが完結(弛緩)しないという処が、それの「抽象化」のための条件になっている」(「少年愛の美学」『稲垣足穂全集4』、p.107)
 「抽象化とは、「存在」そのもののユニークな可能性であり、「存在」の構成的組立である。この作業にあずかって力があるのは、非妥協的なVorlust的エネルギーである」(同上、p.139)
 「ウラニズムにはもともと安易なEndlustが伴っていない。「抽象」には終局的な満足はない。……A感覚を仲介にした様々な幻想の形態化、及び空白への幾何学的充填はひっきょう空しき業であるのかも知れない。しかし世紀を前進せしめるものは、これを除いて他には無い!」(同上、p.140〜141)

 ここで、もし、決して「成就」することのない5月4日の体験を、永遠の「前快」状態に置かれているものと仮定します。すると、以下の各条件をも満足させるように思われるからです。
 すなわち、それは「らちのあかないもの」「どうしようもないもの」「只それだけのもの」であり、その非妥協的なVorlust(前快)的エネルギーによって、さまざまな抽象化と呼ばれる作業に赴くことになります(ネガティヴな一日を回復せんがための少年タルホの涙ぐましいばかりの苦心の数々、さらに作家となってからは浩玻追跡の執念を見よ!)。それは切迫的ではあるが完結しないがゆえに、終局的な満足はありません。このような、A感覚を仲介にしたさまざまな幻想の形態化、および空白への幾何学的充填はひっきょう空しき業であるのかも知れません。しかし世紀を前進せしめるものは、これを除いて他には無いのです!
 つまり、「飛行機を見に行けなかった」ことによって、その経験が「後快」ではなく「前快」状態に置かれることになり、かえってA感覚的抽象化のためには絶好の条件となった、ということになります。
 ここではとりあえず仮説の提示のみにとどめて……。

43★ 以上のような結論
 「ライト兄弟に始まる」(同上、p.199、200〜201)