T A K E I S H I  K O H A  を 知 っ て い ま す か ?




武石浩玻(1884−1913)


 イナガキ・タルホの作品世界において、飛行機は重要なテーマのひとつとなっています。1912(明治45)年に須磨天神浜でアメリカ人アトウォーターのカーチス式水上機を初めて見て以来、タルホは模型飛行機づくりに熱中した時期を経て、10代の終わりには仲間と本物の(しかし怪しげな)飛行機を製作したり、実際に飛行家を目指したりしています。そうした飛行機遍歴の中でも、飛行家・武石浩玻の存在は特別な位置を占めています。そのきっかけはもちろん、1913(大正2)年5月4日の京都深草練兵場における武石浩玻の墜落死でした。いまから100年前の出来事です。この事故は少年タルホに強い衝撃を与えました。時にタルホ12歳。以来、浩玻への追慕・追跡は終生やむことはありまんでした。

C  H  A  P  T  E  R


PART 1

 「武石浩玻氏と私」

 タルホは飛行機を見に行けなかった

 武石浩玻著『飛行機全書』

 武石浩玻の足跡

 京阪都市聯絡飛行

 5月3日、鳴尾での旋回飛行

 5月4日、最期の飛行



PART 2

 「君、飛行機はどんなふうだつた?」

 ネガティヴな一日

 早くても遅くてもいけなかった

 改訂で削除されたもの

 新たなアプローチ

 大いなる僥倖

 もう一本の白羽の矢



あとがき




CONTENTS










































PART 1


「武石浩玻氏と私」
 武石浩玻をテーマにした最初の作品は、1925(大正14)年9月に「新潮」に発表した「武石浩玻氏と私」です。タルホ24歳のときです。「チョコレート」で文壇にデビューして3年あまり経っていました。すでに最初の単行本『一千一秒物語』も刊行され、「黄漠奇聞」「星を売る店」「星使いの術」などを発表して、異空間的タルホ・ワールドはますます膨張を続けていました。そうした時期に発表された「武石浩玻氏と私」は、それまでの作品とはかなり趣の異なったものでした。
 「この作者は『煌ける城』だの、『星を売る店』だの、気障な、わけの判らぬものばかりを書いてきたが、今回の作を読んで初めて安心した。飛行家武石氏への少年の思慕がほのぼのとこちらの胸に伝わってきて、涙ぐまれるばかりの懐かしい作品になっている」とか「作者の病みつきの元が実によく判った」という、須藤鍾一や宇野浩二の批評1にその評価の一端が表れています。それまでの作品がほとんど感覚的世界のみで成り立っていたために、作者の本心を測りかねていた人たちも、初めてその心情的世界を覗いたような気がして安心した、ということでしょう。「武石浩玻氏と私」というタイトルも学校の作文のように直截的で、それまでのものとは異質な感じがします。ただ、関西で起きた飛行機墜落事故から12年以上経過していたこの時期に、一般の人にとっては三面記事的なこのニュースを、当時の中央の文壇関係者がどれほど記憶していたか定かではありません。作品はおろか「武石浩玻」という名前自体創作だと考えた人も多かったのではないでしょうか。「武石浩玻氏と私」はもちろん文学作品ですが、作品中の事件に関する記述は、これから検証するように事実に基づいたものとなっています。
 なお、「武石浩玻氏と私」はのちに「白鳩の記」と改題・改訂されました。


タルホは飛行機を見に行けなかった
 では、武石浩玻の墜落事故は「武石浩玻氏と私」の中では、どのように描かれているでしょうか。
 アメリカから帰朝した飛行家・武石浩玻の記事が連日、大阪朝日新聞に掲載されるようになって、私(タルホ)はその「都市聯絡飛行」(鳴尾―大阪―京都)を見に行こうと心待ちにしています。飛行機の故障で2日間延期されて、いよいよ飛行大会は5月3、4、5日の3日間に決定されます。ところが、1日目の5月3日は、学校を休ませたくない母親から「まだ飛行機は充分に故障がなほつてゐないかも知れぬし、それにあすは日曜だから――」となだめられて中止することになります。これからすると3日は土曜日だったことになります。そこで明日の日曜日こそはと張り切っていると、当日(4日)出かけようとしたところで、お腹が痛み出します。「午前中は電車も汽車も大へんな人出だから、飛行機が鳴尾へ帰つてくる午後にした方がいゝだらう」と再び慰められているうちに、結局その日も計画はお流れになってしまいます。そうこうしているうちに、その日の号外によって墜落事故があったことを知ることになります。
 すなわち、あれほど心待ちにしていた飛行機を結局見に行くことができず、しかも墜落したことをニュースで知るはめになったわけです。
 少年タルホに強いショックを与え、その後作品の中に繰り返し登場することになる武石浩玻墜落死事件でしたが、その日タルホは現場に居合わすどころか、飛行機を見に行くことさえできなかったのです。この事実はたいへん重要だと思われます。


武石浩玻著『飛行機全書』
 タルホにおけるこの事件の意味について考える前に、武石浩玻の都市聯絡飛行および墜落事故がどのようなものであったかを具体的に見てみることにします。
 ここに『飛行機全書』という一冊の本があります。1913(大正2)年6月23日、東京神田鎌倉町の政教社から発行されました。この本には「武石浩玻遺稿」と銘打たれています。すなわち、本書は1ヶ月半前の5月4日に事故死した浩玻の遺稿集として出版されました。前半部に収められた「飛行機全書」2が彼の遺稿となったもので、240頁にわたって飛行機全般について詳しく述べられています。後半部には「附録」として「京阪都市聯絡飛行記事」3(187頁)が収録されています。これは彼の墜落死を機に、あとから編集されたもので、浩玻の帰朝から、都市聯絡飛行、事故の模様、葬儀の記事、事故原因、各氏の追懐談まで、その一部始終が詳細にまとめられています。合わせて400頁以上の本が没後わずか1ヶ月半で刊行されたことになり、その迅速さに驚かされます。
 この本が出版された当時、タルホはもちろんその存在を知っていました。それどころか、この『飛行機全書』は生涯にわたってタルホの身辺を幾度も出入りすることになります。その経緯が次のように4述べられています。

 「この新刊書の代価一円五十銭は大金なので、私は買えなかった。幸い神戸二中へ通っていた友人が同校の図書室から借り出して、私に数週間又貸ししてくれた。その次に同書は神戸三ノ宮加納町三丁目辺りの古本屋で見付かって、私は買った。大正十二、三年頃5の話である。この本は暫く手許に置いてから誰かにくれてやったように憶えている。自分には整理癖があっていまも昔も、必要不必要に拘らず、なるべく身辺に物を置かない流儀であるからだ。大正も終り近くになって東京西巣鴨新田に住んでいた頃、「港区」芝辺りに住んで居る一読者が、「大掃除の日に出てきた」と云って『飛行機全書』を持ってきてくれた。この本もいろんな人々に見せたあとで失われた。次は6京都へ越して五、六年目、当時明大の仏文科に籍を置いていた北海道の木ノ内洋二が、古本屋で見付け、代金は萩原幸子が出してくれたと云って、一冊送ってよこした。巻末には北海道の古本屋のラベルが貼られ、「帯広にてこれを購う」との記入があった。この第四次『飛行機全書』はそのまま身辺にとどめ置かれて、やがて私の近くの桃山学園の松村実の手に渡った。松村君は私の文章が仲介役をつとめて、近来武石浩玻研究に打ち込んでいたからである。「これで『飛行機全書』もいよいよ大尾を迎えた」と思っていたところ、最初の御縁の神戸二中(今は兵庫第二高校)の国漢の先生、田中稔から真新しいのが一冊送られてきた。同君はもともと古本探しの名人であるが、この第五次の『飛行機全書』は、全ページに亘ってしみが吹き出していたものの、表紙のクロースは純白、金文字はピカピカしていて、私が全く知らなかった箱付きであった。まだ読まれていない本だと判ったのである」

 このようにタルホにとって『飛行機全書』は縁浅からぬ本で、武石浩玻をテーマにした作品では、実際に同書から数多くの引用がなされています。
 ここでは、『飛行機全書』中の「京阪都市聯絡飛行記事」に掲載されている写真を中心に、武石浩玻と飛行機について概観することにします。

武石浩玻の足跡
 そもそも武石浩玻はどのような経歴の持ち主でしょうか。タルホの作品「墜落」7の中に、彼の経歴が簡潔にまとめられています。それをもとに、飛行家になるまでの浩玻の足跡を略年譜にすると次のようになります。

 1884(明治17)年10月20日、茨城県那珂郡に生まれる。水戸中学時代は『新文壇』『中学時代』『文庫』『新声』『ホトトギス』『宝船』『俳星』等への投稿家であった。
 1902(明治35)年3月19日8、卒業式を迎えないうちに家を飛び出し、横浜に出て、郵船上海航路の「神戸丸」のボーイとなる。6月、欧州航路「神奈川丸」に転船を命じられる。欧州への初旅後、暫く家郷で静養。
 1903(明治36)年4月17日、郷土の代議士から紹介状を貰って、再び出郷。21日に「土佐丸」で横浜を発ち、5月8日にシアトル上陸。13日にサンフランシスコに出で、日本人福音会に身を寄せる。グラマースクール、ハイスクールに学び、以後アメリカ各地で雑貨の行商をする。
 1908(明治41)年、ユタ州ソルトレークシティの邦字新聞『絡機(ロッキー)時報』に主筆として招かれる。仕事の傍ら大学の予科に通う。8ヶ月後フレスノに移り農園生活に入る。
 1909(明治42)年5月5日9、活動写真でライトの飛行を見る。11月、この頃かなり飛行機熱が高まる
 1912(明治45)年2月17日、サンジェゴ湾ノースアイランドにあるカーティス飛行学校に入学。5月1日、Aero Club of Americaのテストに合格。10月6日、滞空時間20分30秒のワシントン州最初の大飛行を見せる。
 1913(大正2)年2月、スメルザの日本人農園主たちが株主になってThe Sumeruza Aviation Companyが組織され、浩玻のために、サンフランシスコのホールスコット発動機会社に新しい飛行機製作を依託。3月5日、飛行機を受け取る。4月7日、横浜入港の春洋丸で帰朝10

カーチス飛行学校に在学中の武石氏11


飛行学校在学中の武石氏と其学友



京阪都市聯絡飛行
 今回の飛行大会の主催者である大阪朝日新聞社は、浩玻在米中から日本での飛行を交渉していました。そして、国内新記録を樹立するべく「都市(京阪神)聯絡長距離飛行」と「高飛行」を条件に、成功の暁には功労金によって報いるという、一種の懸賞飛行を行うことになりました。
 1913(大正2)年4月7日の帰朝後の足取りを、再び「墜落」から追っていくと次のようになります。

 4月8〜11日、郷里で過ごす。
 12日、大阪へ。
 13日、大阪朝日新聞社の招待で南地の芦辺踊りを見物。
 18日、関係者と京阪間の地勢を視察。京都深草練兵場を着陸地と決定する。
 22日、上京、郷里へ。
 23日、再び大阪へ。
 25日、新聞紙上に京阪都市聯絡飛行の計画が発表される。
 26日、飛行順序等の詳細が発表される。その概要は以下のとおり。5月1日はカーチス飛行学校卒業1周年記念として、鳴尾競馬場で午前・午後数回飛行。5月2日も鳴尾で数回飛行。5月3日は都市聯絡飛行として、鳴尾競馬場―大阪城東練兵場―京都深草練兵場12を往復。5月4日は高飛行として、午前に神戸上空を旋回飛行、午後は六甲山上を飛行して鳴尾に帰着。
 29日、飛行機の組立が完了。
 5月1日、飛行当日のこの日は雨天となり、中止と決定。午後、暴雨風で飛行機を格納した天幕が倒れ、翼の一部と昇降舵が破壊される。この修理のために日程は2日順延13され、計画も5月3、4、5日の3日間に縮小される。


5月3日、鳴尾での旋回飛行
 以下は、『飛行機全書』をもとにした飛行大会の概略です。
 変更後1日目の5月3日は、鳴尾上空で午前・午後を通じて3回の飛行が行われました。タルホが学校を休んでも見に行こうとしていた日です。
 浩玻の飛行機は3回とも気流に悩まされて操縦に苦労したようですが、無事に飛行を終えました。

格納庫を出づ(鳴尾)


滑走前(鳴尾)14


波状飛行(鳴尾)


咲き乱れたる紫雲英やクローバーの上へ15


高いぞ高いぞ(鳴尾にて)16



5月4日、最期の飛行
 いよいよ運命の5月4日がやってきました。前日に続いて絶好の天候でした。浩玻は昨日と同様、早朝、大阪から阪神電車で鳴尾に到着します。タルホはといえばこの日17、出かけようと着物を着替えていると、お腹が痛み出しました。どうしようかと案じているうちに刻々と時間が過ぎていきます。大阪城東練兵場にはすでに十数万の観客が飛行機の到着を今か今かと待ちかまえていました。

 10時22分、飛行機は鳴尾をテイク・オフ。
 10時40分、城東練兵場に着陸。各種セレモニーが行われる。

武石氏と近藤氏の令妹(大阪城東練兵場にて)18


 12時22分、一旦、飛行を開始するが、30秒後に着陸。
 12時31分、いよいよ京都深草練兵場に向けて飛び立つ。

大阪京都間飛行(八幡附近)


 12時50分、深草練兵場から機影が確認される。
 12時52分、練兵場に接近。
 12時55分30秒、急降下後墜落。浩玻は深草衛戍病院に担ぎ込まれるが絶命。

深草練兵場降下の刹那(嗚呼此の雄姿数秒の後既に亡し)

飛行機破壊の刹那

壮烈なる最期




PART 1 終わり


PART 2 へ


























n     o     t     e     s




1★須藤鍾一や宇野浩二の批評
 「『ヰタ・マキニカリス』註解」(『稲垣足穂全集2』筑摩書房、2000年、p.386)参照。須藤鍾一(1886−1956)は報知新聞記者、博文館編集部を経て小説家に。

2 「飛行機全書」
 ここでは目次のみ掲げます。
第一章 序論
 第一節 空想の実現/第二節 空中船と飛行機/第三節 飛行と軍事/第四節 飛行と平和的事業/第五 節 国民的恥辱
第二章 気球及び空中船
 第一節 気球の発明/第二節 空中船/第三節 空中船の構造
第三章 飛行機発達史
 第一節 実験時代/第二節 仏国に於ける新機運/第三節 ライト兄弟の全盛/第四節 英仏海峡横断の  壮挙/第五節 ファルマン式の霸権/第六節 単葉式の優勢/第七節 最近の飛行界
第四章 飛行機詳説
 第一節 自然の模倣/第二節 飛行の理/第三節 単葉式と複葉式/第四節 飛行速力/第五節 空気の 運動/第六節 安定と操縦/第七節 出立と著陸/第八節 製作材料
第五章 推進機
 第一節 推進機梗概/第二節 現在の推進機
第六章 発動機
 第一節 発動機問題/第二節 軽油発動機/第三節 発動機一覧
第七章 代表的飛行機
 第一節 ブレリオ式/第二節 アントアネット式/第三節 サントスヂュモント式/第四節 エスノルトペルテリー式/第五節 ニヨポル式/第六節 其他の単葉式/第七節 ヴォアザン式/第八節 ファルマン式/第九節 ライト式/第十節 カーチス式/第十一節 コーデイ式/第十二節 ブレゲ式/第十三節 其他の複葉式
附録
 其一 飛行家と飛行免状/其二 犠牲者表/其三 飛行略表/其四 飛行レコード/其五 用語摘解/附   飛行機国防論

3★「京阪都市聯絡飛行記事」
 目次は以下のとおりです。
緒言
武石氏の帰朝
  飛行の順序/大に京阪神を飛ばん
新機軸に成れる飛行機
在米中の冒険飛行
四日間を如何に飛ぶべきか
  1 第一日の記念飛行/2 第二日の予備飛行/3 第三日の都市聯絡飛行/4 第四日の高飛行
組立を終る
大暴風雨と武石氏
鳴尾の旋回飛行
  1 第一回飛行/2 第二回の大飛行/3 第三回飛行/4 飛行中の感想/5 本邦飛行の守護神
吁武石氏の最期――都市聯絡飛行
  1 鳴尾出発/2 大阪練兵場著/3 鳴阪間飛行の感想/4 金の腕時計と花環/5 故近藤氏令妹の対面/6 大阪練兵場出発/7 大阪京都間飛行沿道/8 深草練兵場の光景/9 飛行機破壊す/10 武石氏絶命す/11 機は斯の如くに破壊せり/12 無惨なる遺物/13 号外々々/14 遺骸に告別/15 霊前に御命名を伝ふ
死して余栄あり
  1 天皇陛下の優諚、皇后陛下の御詞及び久邇宮殿下の御下賜金/2 朝日社の弔慰及一般弔慰金募集/3 各方面の弔詞/4 各新聞の弔文/5 見も知らぬ人の拝礼
骨肉の情
  1 令兄如洋師の思出/2 永訣式
盛なる葬儀
  1 葬送/2 祭場の儀礼/3 深草練兵場の追悼会
埋骨式
  1 骨拾ひ/2 遺骨郷里に帰る/3 水戸駅の出迎/4 両親遺骨を迎ふ/5 埋骨式
飛行機破壊の原因
  1 燕返しの奇禍/2 田中館博士の調査/3 重心の急変か/4 飛行家都築氏の談/5 木片出づ/6 カ校出身海軍大尉談
武石氏の追懐
  1 氏の閲歴/2 一個の立志談/3 談片/4 嗚呼三人の写真/5 絶筆を旧師に贈る/6 田中館博士の追懐/7 武石氏の飛行機国防論……大阪朝日新聞/8 男山に詣でたる武石君……素川生/9 武石氏の飛行を見にける日……土屋元作/10 大胆にして小心……素天生/11 薩摩琵琶歌武石浩玻……天囚居士作/12 悼其死……日本及日本人評林/13 追悼……湯浅半月/14 悲報を悼みて……青々/15 武石君を悼む……比露思/壱万円の提供/飛行機破壊原因取調報告

4 次のように
 「パテェの赤い雄鶏を求めて」(稲垣足穂全集10』、p.193〜194)。

5 大正十二、三年頃
  大正12、3年というと1923、24年頃。「武石浩玻氏と私」を発表したのが1925年ですから、その1、2年前ということになります。「武石浩玻氏と私」はおそらく、このとき手にした『飛行機全書』を参考にして書かれたのではないかと思われます。

6★ 次は
 「東京遁走曲」(『東京遁走曲』昭森社、1968年、p.33)によると、『空の日本 飛行機物語』(三省堂、1943年、『稲垣足穂全集6』筑摩書房、2001年、「飛行機物語」として所収)を書いていたときに、口絵写真として武石浩玻の肖像写真を使用するために、上野図書館で『飛行機全書』を借り出しているようです(『空の日本 飛行機物語』には、たしかに『飛行機全書』と同じ写真――本ホームページ冒頭の肖像写真――が使用されています)。また、後で見るように、その執筆にも『飛行機全書』が使われているようです。したがって、正確にいえば、これ以前に1回追加しなければなりません。

7★「墜落」
 『稲垣足穂全集6』同上、所収。「墜落」は4章からなり、そのうちの「1 深草に置く露の身の」で、武石浩玻の経歴、墜落事故に至る経過が、資料を駆使してまとめられています。

8★ 1902(明治35)年3月19日
 「武石道之介航海日誌」(『ライト兄弟に始まる』徳間書店、1970年、および『稲垣足穂大全V』現代思潮社、1970年、所収。初出「作家」1966年4月)には、明治35年3月17日から同年8月8日までの浩玻の日記が掲載されています。巻末附記によると、「この日記は、私の若い友人、松村実が茨城県大洗町の武石家から借受けてきた史料に拠ったものである。明治34年10月1日(火)から同35年8月31日(日)までで、黒クロースばりの中型手帳にペン字で丹念に清書されている」とあります。したがって、タルホ版「武石道之助航海日誌」に採用されたのは、原日記の一部であることが分かります。

9★1909(明治42)年5月5日
 「武石浩玻在米日記」(同上、所収。初出「作家」<先覚――武石浩玻の在米日記>、1965年8月)には、この日から明治45年2月13日までの日記が掲載されています。巻末附記によると、「大型簿記帳300頁を埋めた記載中からの抜萃である。明治41年11月1日から同45年(大正元)2月13日までである」とあります。

10★4月7日、横浜入港の春洋丸で帰朝
 年譜からわかるように、浩玻の帰朝はカーティス飛行学校の試験に合格してからまだ1年経っていません。しかも自分の飛行機を手にしたのはほんの1ヶ月前です。しかも帰国のための準備や航海日数を除くと、この1ヶ月間の飛行時間はわずかだったと思われます(3月10日に彼の地で25マイルを往復飛行したとあります)。
 「武石浩玻氏と私」に、「武石浩玻といふ飛行家が、アメリカから帰つてきたといふ記事が朝日新聞に出てから、毎日つゞけて掲載されるその人の経歴や写真を待ちかまへて見てゐた私は……」とあるのは、この頃のことになります。

11★ カーチス飛行学校に在学中の武石氏
 以下の写真およびキャプションはすべて「京阪都市聯絡飛行記事」掲載のものです。

12★鳴尾競馬場―大阪城東練兵場―京都深草練兵場

(地図は『新詳高等地図三訂版』帝国書院、S54より)


 都市聯絡飛行の舞台は、現在ではいずれも存在しません。したがって地図上でその場所と位置関係を確認しておく必要があります。鳴尾競馬場は現在の西宮市の東南端、武庫川河口の西岸にありました。大阪城東練兵場は大阪城の東側、環状線の外側に位置していました。京都深草練兵場は現在の伏見区、京阪電鉄「ふかくさ」と「ふじのもり」間の西側に広がっていました。
 直線距離にして、鳴尾競馬場―城東練兵場は約16km、城東練兵場―深草練兵場は約37kmです。5月4日の飛行では、鳴尾―城東間を18分、城東―深草間を24分余りで飛んでいます。平均時速は60マイルといいますから、100km/h近いスピードということになります。
 なお、当時タルホの家は明石錦江町にあり、明石駅のすぐ近くでした。鳴尾までの距離は約40kmですから、当時でも電車を利用すれば1時間くらいで行けたのではないでしょうか。

「城東練兵場」(大阪都心)

「鳴尾競馬場」(西宮)

「深草練兵場」(京都南部)


【「城東練兵場」「鳴尾競馬場」「深草練兵場」の場所を示した以上3点の地図は、『日本図誌大系』(朝倉書店、昭和48年刊行)の「近畿T」(p.3「大阪都心」、p.139「西宮」)および「近畿U」(p.157「京都南部」)より、出版元の御了解のもとに転載させていただきました】

13★日程は2日順延
 「武石浩玻氏と私」には、「前夜からひどい嵐になり、そのために倒れたテントで破損した飛行機の舵を修繕するために中一日を延期し、飛行は五月の三日と四日と五日にきまりました」とあり、正確な記述であることが分かります。

14★滑走前(鳴尾)
 「逆さハンティングの素顔の操縦振りは、大正初期に続々と来日した米国飛行家らによっても示されたので、われわれ幼少年は、飛行機乗りとは鳥打帽を逆さにかむるものだと思い込んでいたくらいである」(「ライト兄弟に始まる」『稲垣足穂全集6』同上、p.34)という言葉を裏付けるような浩玻のいでたちです。飛行家に欠かせないアイテムは鳥打帽と、もう一つは「胡桃型塵除メガネ」でした。浩玻はそのメガネさえかけていません。
 カーチス式飛行機は、操縦席がエンジンの前部にあって、操縦者はまったくむき出しになっています。この姿勢で数百メートル〜1千メートルの高度を時速100キロ近い速度で飛ぶわけですから、当時の飛行家=冒険家だったことがうなずけます。
 操縦者は操縦桿をまたぐような格好で座っています。この構造が事故後の負傷状況を特徴づけるものとなりました(「墜落」『稲垣足穂全集6』同上、p.314〜315)。

15★咲き乱れたる紫雲英やクローバーの上へ
 飛行機とクローバーとの関係は、タルホがたびたび言及するところです。「武石浩玻氏と私」の中に、「咲き乱れた紫雲英やクローバーの上の滑走開始」という言葉が出てきますが、これは『飛行機全書』中のこの写真キャプションからの引用のように思われます。低いアングルからこの写真を撮ったカメラマンは、おそらくクローバーと飛行機を同時にフレームの中に納めようと意図したものと思われます。そしてタルホはこの写真に強いインパクトを受けたに違いありません。
 同作品にはほかにも、「白いクローバーがいつぱい咲いてゐるところへひよつくり出てきて笑ひかけた武石氏」、「鳴尾にはクローバーや紫雲英が咲きみだれてゐよう」、「ガソリンとクローバーの匂ひをかぎながら」など、クローバーが随所に出てきます。
 ちなみに、その他の作品中にも次のような例があります。
 「靴についたモービル油のしみをみつめながら、鳴尾のトラックに咲きみだれたクロヴァに腰をおろした僕は、近い将来の空界の覇者である自分をうっとりと考えていた」(「Little Tokyo's Witに就いて」『稲垣足穂全集6』同上、p.368)
 「翦風号は朝露に濡れたクローヴァの葉裏を白くなびかせながら」(「扇の港」『多留保集』潮出版社1974年、p.139)
 「滑走車のタイヤが触れたり離れたりしたところの――競馬場のトラックに咲きみだれていたクローバー――そんな可憐な草花にも関係がある或物だ、と私は考えたのでした。五月になると真白いじゅうたんを打ちひろげるうまごやしの花にあんなにもよく調和した飛行機を、私はその後どこにも知りません」(「飛行機の哲理」『稲垣足穂全集2』同上、p.208〜209)
 「にもかかわらず、大空が、クローバーの花が、村里の牛が何事もなかったように知らんかおをしているのはなぜであるか?」(「ファルマン」『稲垣足穂全集2』同上、p.355)
 「あのゴム臭い大型複葉飛行機は、取分けグッドイヤー会社製の白いタイアが付いた三箇の滑走車は、(春風にはためく朝日の社旗に似合うよりも先に)まるでそれ自体が「蹄鉄」であったかのように、クローバーに調和していた」(ライト兄弟に始まる」『稲垣足穂全集6』同上、p.198)
 「春毎にひろびろした馬場を埋める雪のようなクローバーの絨毯の上を滑走しては浮かび上り、またそこへ降りてきて、ちょうど蜻蛉が水面に卵を生みつけている時のような恰好をして草花のマットの上でバウンドする飛行機」(「蘆の都」『大全X』、p.179)
 飛行機とクローバーとの関係は、タルホにとって重要な哲学的命題となっています。後で見るように、このクローバーは「菜の花」に置き換えられます。

16★高いぞ高いぞ(鳴尾にて)
 満員の鳴尾競馬場。「武石浩玻氏と私」に、「午前中は電車も汽車も大へんな人出だから、飛行機が鳴尾へ帰つてくる午後にした方がいゝだらう」と家族に慰められる箇所があります。「京阪都市聯絡飛行記事」には記載されていませんが、当日の鳴尾はおそらく数万人の人出だったのではないでしょうか。「早朝より二分毎に大阪神戸の両方より電車を出せる阪神線は毎電車満員の盛況にて男女生徒の団体さへ多く午前十時頃には一般観覧席、特別観覧席とも一パイに詰りしが尚一電車毎に繰込む人の数夥しく人気さながら湧くが如し」と、飛行初日の熱気が記されています。

17★この日
 「京阪都市聯絡飛行記事」にも5月4日は、「殊に当日は日曜日のことゝて……」とあり、「武石浩玻氏と私」(「白鳩の記」)の記述が正確であることを裏付けています。

18★武石氏と近藤氏の令妹(大阪城東練兵場にて)
 近藤氏とは飛行家・近藤元久のこと。近藤はカーチス飛行学校で浩玻と同期生。浩玻が1912(明治45)年5月1日に飛行試験に合格したのに対し、近藤はその4日前の4月27日に合格、浩玻のライセンス番号122に対し、近藤のそれは120でした。近藤はしかし同年10月6日にニューヨーク州ハモンズポートで風車塔に衝突、飛行機による日本人最初の犠牲者となりました(「墜落」『稲垣足穂全集6』、p.305参照)。
 この写真は、近藤の兄の夫人に伴われて、3人の妹が浩玻に挨拶に訪れた場面。2日目の5月4日、鳴尾から飛び立って大阪城東練兵場に到着し、これから京都深草練兵場に向けて飛び立とうとするしばしの間の出来事でした。