ス  プ  ロ  ケ  ッ  ト  を  も  う  一  回  転

──映画の原理から『正法眼蔵』〈有時〉を読み解く




 このサイトに以前から掲載している「スプロケットの回転」は、元は1987年12月の『別冊 幻想文学』「タルホ・スペシャル」号に掲載されたものです。問答形式のラフな内容ですが、自分にとっては非常に大事なテーマを扱っているつもりでした。ただし、その時点では単なる〈思い付き〉に留まっていて、いつかその内容についてもっと掘り下げてみたい、『正法眼蔵』〈有時〉の巻にもう一度きちんと向き合ってみたい、という思いがずっとありました。
 それから40年近く、ようやくその機会がやってきました。タイトルを「スプロケットをもう一回転」としたのは、その意味です。40年かかってその程度かと言われれば、返す言葉がありません。タルホに倣って、〈物事は常に過程である〉という考えで(タルホがそう言った確証はありませんが、いかにも言いそうなので)、この先〈さらにもう一回転〉するチャンスがあればと思っています。


〈常に自分が今に居るのだ〉


 タルホは、〈時間〉と〈空間〉について、さまざまなところで言及していますが、結局、次のようなミンコフスキーの言葉を、タルホも自身の考え方として採用しているように思われます(ただしタルホには、〈時間〉と〈空間〉をエロティシズム論と絡めて論ずる独自の〈時空論〉がありますが、それはここでは取り上げません)。

 ミンコフスキーは、一九〇八年の秋、ケルンで開かれた万国科学者大会の講演で、次のように述べた。
 「今日以後時間そのもの、空間そのものは蔭の下に没し去り、ひとりこの両者を結合したものだけが独自性を保つであろう」(「宇宙論入門」)

 ヘルマン・ミンコフスキーの〈時空論〉に関しては、別の箇所でも次のように、より詳しく取り上げています。

 このX、Y、Zのいずれとも直角に交わっているZ'を以て、アインシュタインは t という字を使っている。これは時間のことだ。時間を伴っていない空間は無いし、場所にかかわりのない時間も存しない。空間と時間をいっしょにした四次元の時空、これがミンコフスキーの時空連続体だ。(「生活に夢を持っていない……」)

 タルホ自身も、こうしたミンコフスキーの〈時空論〉を踏まえて、以下のような認識を示しています。

 だいたい時間及び空間というのが曲者である。この二大分類は古代ギリシア以来の伝統であり、カントはこの二者を以て、「対象認識の先験的(超越論的)形式だ」としているが、この両者が撤廃され、一つの項としてまとめられるのは、それこそ時間の問題だろう。(「男性における道徳」)

 一方、ミンコフスキーとは別に、カトリックの司教、聖アウグスティヌスを取り上げて、次のような〈時空論〉を展開しています。

 「神は空間だけでなく、時間もいっしょに造った筈だ」
 今から千五百年の昔に、北アフリカ、ヒッポの司教だった聖アウグスティヌスが書いているが、このコトバほどぴったりと「膨張宇宙論」に当嵌まるものはない。(「物質の将来」)

 同じ「物質の将来」の中では、どういうわけか、この記述の十数ページ後に、重複してアウグスティヌスを持ち出しながら、さらに一歩踏み込んだ記述をしています。

 古来、哲学者たちによっていろいろに説明されて来た「時間論」も、結局、今から約千六百年前に北アフリカ、ヒッポの司教であった聖アウグスティヌスのそれを超えることは出来ないと、云われている。「世界は時間の中に創造されたのでなく、時間と共に創造されたということは疑い得ない」と彼は云っているが、この時間論の要諦は、「未来というのも現在の未来(現在における未来)であり、過去というのも現在の過去のことである」の一言に尽きる。(「物質の将来」)

 ここでタルホが〈この時間論の要諦は〉と言っている論旨はよく分かりませんが、つまるところは、次の「未来というのも現在の未来(現在における未来)であり、過去というのも現在の過去のことである」というのが、タルホの言いたいことだろうと思います。

 しかし、今回筆者が考察したいのは、ミンコフスキーやアウグスティヌスの〈時空論〉ではなく、上の記述のすぐ後に続く、次の一文についてです。
 
 それから約千年後に書かれた道元の『正法眼蔵』(有時の章)にも、「時すでにこれなり、有はみな時なり」としてある。「山すぎ川を渡って、いまこの楼中に坐しているのだと人は思いがちであるが、そうではない。時が過ぎて行くのでなくて、常に自分が今に居るのだ」(「物質の将来」)

 ※「時すでにこれなり」は、正しくは「時すでにこれ有なり」。「有」が脱落している。

 すなわち、道元の『正法眼蔵』〈有時〉の巻についてです。
 ここで言う、「時すでにこれ有なり、有はみな時なり」というのは、先に挙げたタルホの「時間を伴っていない空間は無いし、場所にかかわりのない時間も存しない」と同じことを述べたもので、まさに「空間と時間をいっしょにした四次元時空──ミンコフスキーの時空連続体」を想起させます。


映画の仕組みをもう一度


 さて今回、「スプロケットをもう一回転」のサブタイトルとして、「──映画の原理から『正法眼蔵』〈有時〉を読み解く」と掲げた手前、ここで一応、映画の原理をおさらいしておこうと思います。
 今さらですが、ご存じのように映画のフィルムには、1コマごとに少しずつ位置の異なった静止画像が焼き付けられています。それらが連ねられてロール状に巻かれています。もちろんフィルムを使ったアナログ時代の映画の話です。そのロール状のフィルムをプロジェクター(映写機)に装填し、一定の機械的動作によって1コマずつ〈順番に〉送っていくと、スクリーン上に投影された映像が〈動いているように〉見える、というのが映画の基本的な仕組みです。
 実は、このプロジェクターには仕掛けがあります。フィルムの1コマずつに焼き付けられている静止した画像を順番にスクリーン上に映し出すわけですが、次の画像を送り出すときは、瞬間的にシャッターが閉じているのです。そして画像が送られるとシャッターが開いて画像が見える。その次の画像を送る瞬間またシャッターが閉じる。そして送られるとまたシャッターが開く。この閉じたり開いたりという動作を非常に短い時間で繰り返しているわけです(これを間欠輸動といいます)。もしもこの断続的な動作がないと、映像はただシャーシャーと流れるような状態に見えるはずです。フィルム映画の時代、途中でフィルムが切れて、スクリーン上の映像がそんな状態になるのを見た人もいるでしょう。
 このように、映画の仕組みで重要なことは、まず1コマずつが独立した画像であること、次にそれら画像のつながりを、光を当てたり遮ったりする断続的動作で〈順番に〉映し出す、ということです。動作が〈断続的〉であるということ、映画の仕組みのこの特徴は、いくら強調してもしすぎることはありません。
 普通、1秒間に24コマ(1.5フィート/約45センチメートル)のスピードでこの断続的動作を行うと、自然な動きの動画になるとされています。ラリー・シーモンが活躍した無声映画の時代は、1秒間に16コマ(1フィート/約30センチメートル)とされていましたから、少しちょこまかした動きに見えます。1巻物というのはフィルムの長さが1000フィート(約300メートル)なので、1000秒すなわち16、7分で映画が終わっていました。
 こうした断続的動作を行うと、なぜ自然な動きに見えるのか。それは人の目の〈仮現運動〉のせいだというのはご存じでしょうか。昔はこういう現象を押しなべて〈残像現象〉と言っていたように思いますが、学術的には〈仮現運動〉と称して、〈残像現象〉とは区別されています。〈仮現運動〉(apparent movement)とは〈見かけの運動〉の意で、実際には動いてないのに動いているように見える現象のことです。
 では、なぜ〈仮現運動〉が起こるのか、意外なことに、それについては専門的な議論がいまだに続いているようですが、ここでは触れません(興味のある人は、https://hosei.ecats-library.jp/da/repository/00010557/14_bungaku_69_yoshimura_sato.pdf などを参照)。
 すなわち映画は、この〈仮現運動〉によって、断続的動作を見ているに過ぎない画像を、動くもの、すなわち〈動画〉として〈錯覚〉してしまうわけです。子供の頃、ノートの端に描いた〈パラパラ漫画〉が動いて見えたのも、それと同じ原理です。
 また、電光掲示板(ネオンサイン)の文字が、右から左に、あるいは下から上に動いて見えるのも同様です。人は、それが〈錯覚〉だと分かっていても、それらを〈動いていない〉と見るのは不可能です。電光掲示板の場合は、映画のように1コマずつの〈画像〉ですらありません。仏像の頭にある螺髪(らほつ)のように、ドット(点)が平面にびっしり敷き詰められていて、そのドットが1つずつ上下左右に〈順番に〉点滅しているだけです。その動作が〈仮現運動〉として、文字や絵が動いているように見えるわけです。


〈模型時空生成装置〉


 筆者はかつて、本サイトの「私のタルホ的年代記──I. 妄想篇」でも記しましたが、この映画の仕組み(連続写真撮影/再生装置)のことを、〈模型時空生成装置〉と名付けました。カタカタと断続的動作を繰り返す〈魔法の装置〉の中をフィルムが通過することによって、静止した画像の連なりに過ぎなかったものが、動きを伴った映像として我々の眼前のスクリーン上に出現する──すなわち、そこに〈時間〉と〈空間〉を伴った世界が生成されるからです。
 では、なぜ〈模型〉なのか? もちろんそれは、〈空間〉といっても、〈2次元〉の映像世界だからです。しかし、それをホログラフィーや3Dに変換したとしても、それが〈映像〉である限り〈模型〉であることに変わりありません。
 もう一つ重要なことは、〈実物世界〉においては、それがどのような時空構造になっているのか、時空を止めて確認することはできませんが、〈模型〉装置であれば、フィルムを取り出して、その1コマ1コマが別々の画像のつながりであることを、目で見て確認することができることです。つまり、その動画の仕組みを知ることができるからです。
 昔、この〈模型時空生成装置〉の話を友人にしたら、彼は、〈じゃあ、フィルムの黒い部分は実物世界の何に相当するのか?〉と聞き返しました。そのとき自分が何と答えたのか忘れてしまいましたが、なかなか穿った質問だと今になって思います。彼の言う〈フィルムの黒い部分〉というのは、〈コマの境目〉のことで、シャッターが〈閉じている〉間に移動する部分です。すなわち画像に動きをもたらす〈断続〉のつなぎ目、〈魔法〉の〈区切り〉部分への注目です。それは〈実物世界〉の何に相当するのか?
 肝腎なことは、フィルムの〈黒い部分〉や〈画像の部分〉が何に相当するのか、あるいはシャッターが〈閉じている時〉と〈開いている時〉は何を意味するのか、ということではなく、〈模型時空生成装置〉の仕組みは、明かりが交互に点いたり消えたりすること、すなわち明かりが〈点滅〉するということで、3次元の物が〈動くのを見る〉のではなく、その装置によって2次元スクリーン上において物が〈動いているように見える〉こと、このような視点が〈実物世界〉を類推する上で、より本質的なことだろうと思うのです。
 余談になりますが、では仮にシャッターの開閉を通常と逆にしたらどうなるか。こんな映写機は実際にはありませんので、あくまで想像ですが、シャッターが開いているときにコマをつなぐ黒い部分がレンズの前で静止し、シャッターが閉じているときに画像が静止する、ということになれば、スクリーン上は真ん中に黒い筋の入った上下2つの映像になってしまうのではないか。昔、〈映しても映らない映画〉なんて馬鹿げたことを考えていたことがありますが、つなぎの黒い部分をフレーム大にすれば、画面は黒い部分が断続的に投影されるだけになる──あるいは真相はこんなことだったのかもしれません。


〈時〉は過ぎ去るだけではない


 前置きはこれぐらいにして、そろそろ本題に入っていきましょう。ここで、映画のある場面を設定してみます。
 〈自分〉はいまウォークラリーに参加して、自然の中を気持ちよく歩いています。ただし、映像には常に〈自分〉の後ろ姿が映っています。たとえば、手前に〈自分〉の後ろ姿があって、その〈自分〉が遠くの山を見ながら歩いているような光景です。〈自分〉は歩いているので、前方にある景色は次々に変わっていきます。山を登り終わると、次に川が目の前に現れてきます。しかし、手前にある〈自分〉の後ろ姿は常に変わりません──このような〈景色〉と〈自分〉の映像を、〈自分〉がまた観客として見ている、というシチュエーションです。
 さて、こうして山を登ったり、川を渡ったりしながら、ウォークラリーの行程を無事歩き終わって、いま〈自分〉はホテルに到着してホッとしています。
 ホテルの2階から外の景色を眺めながら、ラリーの様子を思い返して、〈自分〉は次のような感慨に耽ります。ここはナレーションです。

 数時間前、美しい山や川を眺めながらずっと歩いてきたけれど、正直言って、疲れて途中で脱落しそうになった。でも何とか頑張ってゴールにたどり着いて、今はこうしてホテルの一室でくつろいでいる。自分はもうそこには居ないけれども、あの山や川はもちろんあるだろう。あのときの景色は過ぎ去って、こうしてホテルで安楽にしている今と比べると、天と地ほど時が隔たったように感じられるなあ。

 このホテルのシーンでの回想は、主人公の〈自分〉が一日を振り返って抱く感慨としては、何ら特別のものではなく、当たり前のことだろうと思います。しかしながら、これを〈時間〉と〈空間〉との関係で見た場合、それだけでは物事の半面を捉えたに過ぎない、と言うのが道元です。

 たとゑば、河をすぎ、山をすぎしがごとくなりと。いまはその山河、たとひあるらめども、われすぎゝたりて、いま玉殿朱楼に処せり、山河とわれと、天と地となりとおもふ。
 しかあれども、道理この一条のみにあらず。いはゆる山をのぼり河をわたりし時にわれありき、われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず。

 道元曰く。しかしながら道理はそれだけではない。山を登り、川を渡った〈時〉に〈自分〉があった。当然、〈自分〉に〈時〉がなければならない。〈自分〉は紛れもなく今もこうしてある。だから〈時〉は過ぎ去るはずがない。
 ※〈われすでにあり〉は〈われすでにありき〉ではないことに注意。

 ここで道元が言っていることは、先に挙げたように、タルホの〈時が過ぎて行くのでなくて、常に自分が今に居るのだ〉という見解が、そのまま当てはまるのではないでしょうか。


〈今〉はいずこに?


 さてさて、これからサブタイトルに掲げたように、〈映画の原理から『正法眼蔵』〈有時〉を読み解いていく〉ことにしますが、そこで当然起きる疑問についてまずお答えしておきます。

 〈そもそも道元の時代に映画なんてないのに、道元がそんな発想をするはずがないじゃないか〉

 ごもっともです。でも、そんなことを言ったら、仏教の〈刹那生滅〉なんて、量子論なんか無かった古代のインドで、そんな発想が出てくるわけないじゃないか、っていう話になってきませんか。
 仮に道元が現代に生きていたとしても、映画なんか持ち出したら、それでは筆者と同じレベルになってしまいます。天才・道元がそんなレベルなはずがありません! 道元が、〈有時〉──すなわち時空の発想を得たのは、もちろん〈映画〉なんかではありません。では、何か?
 それは〈絵巻物〉だった、と筆者は睨んでいます。時間的経過を伴った場面が、右から左に順次、同一平面上に描かれている〈絵巻物〉──これって〈フィルム〉みたいじゃありません?

 怪しげな仮説をまくらにして、我々も〈絵巻物〉をひもどくようなつもりで、ウォークラリー映画のフィルムを、プロジェクターから取り出して1コマずつ点検してみることにしましょう。
 当然、山に登ったシーンも川を渡ったシーンもすぐに見つかります。〈自分〉の後ろ姿を前景に、向こうには山が見えます。そうした瞬間ごとの出来事が、似通った画像として、1コマずつに確かに焼き付けられています。どの1コマにも〈自分〉が写っています。山に登ったときにも川を渡ったときにも〈自分〉がいます。そして、ホテルでくつろぐ今も〈自分〉はいます。
 映画を見ると、景色はどんどん移り変わり、〈時〉が過ぎ去っていったように思われる。けれどもフィルムで確かめると、それぞれの〈時〉ごとに紛れもなく〈自分〉があり、今もこうして〈自分〉はある、だから〈時〉は過ぎ去ってはいない──ということではありませんか。

 道元は、さらに次のように続けます。

 時もし去来の相にあらずば、上山の時は有時の而今なり。時もし去来の相を保任せば、われに有時の而今ある、これ有時なり。

 〈去来〉は〈行ったり来たりする〉ことですが、この場合は〈来ては去る〉、すなわち〈過ぎ去る〉〈飛び去る〉、というような意味でしょう。〈時〉がもし飛び去るものでないならば、山に登った時が〈有時〉の〈今〉である。〈時〉がもし飛び去るものであれば、〈自分〉に〈有時〉の〈今〉がある。これが〈有時〉というものだ。

 〈而今〉は、〈これから〉ではなく、〈今〉〈瞬間〉の意のようです。
 これはいったい何を言わんとしているのか? 「去来の相にあらずば」──すなわち〈時〉が飛び去るものでないならば──とは、映画の例で言えば〈フィルムを取り出して見れば〉ということになります。「上山の時は有時の而今なり」とは、1コマずつに刻印されている、山を登った〈瞬間〉や川を渡った〈瞬間〉が、〈今〉であるということ。
 反対に、「去来の相を保任せば」──〈時〉が飛び去るものであれば──とは、それを〈動く映像として見れば〉ということで、〈自分〉以外の山や川は過ぎ去ってしまうので、常に〈自分〉に〈今〉がある──これが「われに有時の而今ある」ということになります。
 言い換えれば、ここで道元は、映画における〈断続の相〉と〈連続の相〉との両方の視点を提示しているのだと言えます。


〈今〉は山中、〈今〉は浜


 この話をもっと分かりやすくするために、次の歌を例に引こうと思います。よく知られている文部省唱歌の「汽車」です。

 今は山中 今は浜
 今は鉄橋渡るぞと
 思う間もなく トンネルの
 闇を通って広野原(ひろのはら)

 ここでは〈今〉が3回も強調されています。〈山中〉や〈浜〉や〈鉄橋〉に〈今〉があると言っています。これは、〈時間〉は飛び去るものではない、という見方になります。
 ところが2番の歌詞には、こう出てきます。

 森や林や田や畑
 後へ後へと飛んで行く

 これは反対に、森や林が飛んで行っている見方なので、〈今〉は〈自分〉にあることになります。

 同じように汽車を歌った曲に、「汽車ポッポ」があります。こちらの歌詞は、

 スピード スピード 窓の外
 畑も飛ぶ飛ぶ家も飛ぶ

 ですから、こちらも〈今〉は〈自分〉にあります。
 もっとも汽車を外から見れば、飛んでいるのは汽車のほうなのですが……。
 しかし、この見方もいわゆる〈天動説的〉見方です。たとえばプラットホームにいる人から見れば、動いているのは汽車ですが、汽車に乗っている人から見れば、動いているのは外の景色です。もし両者が共に加速度のない惰性運動をしているとすれば、どちらが動いているということは言えない──というのが、アインシュタインの特殊相対性理論の一つでした。

 道元は、先に〈時さるべからず〉と言っています。さらに、

 時は飛去するとのみ解会すべからず、飛去は時の能とのみは学すべからず。時もし飛去に一任せば、間隙ありぬべし。
 尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり。有時なるによりて吾有時なり。

と重ねて述べています。ここの記述は、いかにも〈連続の相〉を否定して、〈断続の相〉を肯定しているように見えます。〈つらなりながら時時なり〉とは、いかにも〈フィルム〉の〈断続〉を彷彿とさせるではありませんか。
 しかしながら一方で、先に述べたように、

 時もし去来の相にあらずば、……。時もし去来の相を保任せば、……。

とも言っているのです。ここで注意しなければならないのは、〈もし去来の相にあらずば〉と〈もし去来の相を保任せば〉とを併記しつつ、〈もし……ずば〉〈もし……せば〉という仮定法によって、どちらか一方の見解が正しいとは言っていないことです。つまり道元も特殊相対性理論のように、〈自分が飛んでいる〉のか〈景色が飛んでいる〉のかを、言っていないのです。
 すなわち、〈道理この一条のみにあらず〉と道元が言ったのは、時が〈去来の相にない〉場合を提示するためであって、〈去来の相にある〉場合を否定しているわけではない、ということが分かります。


〈自分〉を〈排列〉する!?


 道元は、なぜこのような〈時間〉と〈空間〉の考え方をするのか。実は、その大前提を、〈有時〉の巻の冒頭において、次のような衝撃的な一文で明示しているのです。

 われを排列しおきて尽界とせり、この尽界の頭々物々を、時々なりと☆見すべし。物々の相礙せざるは、時々の相礙せざるがごとし。(中略)
 われを排列してわれこれをみるなり。自己の時なる道理、それかくのごとし。
※☆=ショ:見偏にとらかんむり+且

 〈自分〉を〈排列〉しておいて〈尽界〉──全世界とする。この全世界の一つひとつを、〈時々〉であると見做すべきである。一つひとつの物がお互いに妨げないのは、時々が妨げ合わないのと同じである。(中略)
 〈自分〉を〈排列〉して〈自分〉がこれを見るのである。自己が〈時〉である道理、それはこのようなものである。

 この目眩いがするような衝撃的な一文中のキーワードは、何といっても〈排列〉でしょう。辞書によると〈排列〉とは、〈順序よく並べつらねる。一定の基準に従って並べること。配列。〉(『大漢語林』)という意味です。つまり〈自分を排列する〉とは、〈自分を一定の基準に従って、順次よく並べること〉になります。
 これはいったい全体何を意味しているのか? しかしながら、この〈排列〉の語義を満たした納得できる注釈に、筆者はいまだ出会ったことがありません。そもそも〈排列〉の語釈をしていません。
 〈自分を一定の基準に従って、順序よく並べること〉から、人はどんなイメージを呼び起こすのでしょうか。運動会や軍隊における人の整列? しかし並んでいるのは他人ではなく全部〈自分〉ですよ。
 筆者には、この〈排列〉の語からは、〈模型時空生成装置〉のフィルムのコマの連なり以外にイメージすることができません。というより、〈模型時空生成装置〉のことが頭にあったから、〈排列〉の語をイメージできた、と言ったほうが正確かもしれません。先に映画のシチュエーションを設定したのは、まさにこの〈排列〉を具体的な形で示したかったからに他なりません。
 すなわち、フィルムの1コマずつには、必ず〈自分〉の後ろ姿が焼き付けられています。その〈自分〉の向こうには、視線の届く限り山や川の景色──つまり〈尽界〉が、1コマずつに焼き付けられています。〈物〉や〈時〉が重なり合わないのは、1コマ1コマが、〈別々に〉焼き付けられて連なっているからに他なりません。
 このように〈自分〉が1コマずつに規則正しく〈排列〉されたフィルムを、〈自分〉がまた観客として見るのです。〈自分〉が〈時〉である仕組みは、このように〈入れ子〉の〈自分〉を見る──ということではありませんか。
 〈われ〉を〈排列〉することによって、〈われ〉=〈尽界〉=〈時〉という等式が成立する、言い換えれば、〈われ〉と無関係な〈空間〉と〈時間〉はない、〈われ〉が〈時空〉なのだ、と言っているのではありませんか。
 いずれにしても、〈時空論〉に〈われ〉を含めないのが、いわゆる〈客観性〉を重んじる近代ひいては現代物理学の伝統ですが、目を東洋に向けても、〈時空〉と〈われ〉との関係に〈排列〉を持ち出したのは、一人道元のみでしょう。


空間的に見た〈電光掲示板〉


 さて、ここからしばらくは映画のフィルムを離れて、少し別の角度から〈有時〉にアプローチしてみましょう。
 先に〈電光掲示板〉、すなわちネオンサインについて少し触れました。これも〈仮現運動〉という点では映画と同様です。こちらも〈文字〉や〈画像〉を表示するものですが、それが表示される媒体は、〈フィルム〉でなく〈ドット〉──すなわち〈点〉です。昔はこのドットに電球やブラウン管が使われていたようで、今はLEDだということです。
 我々がそれを〈文字〉だと判断したり、何かの〈動画〉だと判別できるのは、我々と電光掲示板との間に、そのように認識できる適当な距離がある場合です。試しに、どんどん電光掲示板に近づいていってみましょう。そうすると最終的には、点滅している電球が眼の前にあるだけになります。近づきすぎると、電球が〈文字〉を表しているのか、〈画像〉を表しているのか判断できなくなる、というのは想像できるでしょう。
 このように〈電光掲示板〉は、あまり近づきすぎると、電球の点滅しか認識できなくなり、〈空間的〉に、それが何を意味しているのか判断できなくなります。
 〈仮現運動〉ではありませんが、印刷物でも、それを見る距離によって全く別物になる、という現象があります。昔の新聞写真のように、見るからに〈ドット〉の濃淡から成り立っているのが分かるものもありますが、精巧なカラー印刷も〈ドット〉の組み合わせでできているのを、初めてルーペを覗いて発見したときの感動は、今でも忘れることができません。ルーペで覗いた世界は、原色の〈ドット〉の集まりがあるだけで、それが何の〈画像〉であるか判断することはできません。
 また、〈点描〉で有名な画家のジョルジュ・スーラの絵は、基本的に〈ドット〉から成り立っています。絵具をパレット上で混ぜるのではなく、観る者の網膜上で混ぜるというアイデアは独創的ですが、ここでも絵と見る者との間の距離が重要になります。筆者は大作『アニエールの水浴』を実際に間近で見たことがありますが、〈ドット〉は必ずしも原色ではなく、混ぜられた絵具を使っているのが分かって、少し〈がっかり〉したことがあります。いずれにせよ、〈点描〉には〈印刷物〉的発想があるように思います。


〈電光掲示板〉と〈映画〉との違い


 〈電光掲示板〉との距離が近すぎると、〈空間的〉にその意味するところが判断できなくなる、と述べましたが、では〈時間的〉にはどうでしょう。
 電光掲示板の横書きの〈文〉が、右から左に向かって流れているように見えるとき、〈時間の向き〉を逆に──〈逆回し〉にしたとすると、〈文〉は左から右へ、文末から文頭に向かって流れていくように見えるはずです。読めなくはないでしょうが、ストレスが溜まりそうです。ただし、そもそも電光掲示板は、人に情報を提供するために作られているのですから、人が読みやすいようになっています。上下を逆にしたり、文末から読むようには作られていません。
 仮に、この電光掲示板が、重力のない宇宙空間に漂っているとしたらどうでしょう。どちらが上か下か、どちらが左か右か判別できません。このような電光掲示板にどんどん近づいていったら、最終的には、やはり電球の点滅しか認識できなくなります。
 さて、この電球の点滅しか認識できなくなった距離で、〈時間の向き〉を逆にしたとすると、はたして我々は、時間が逆転したと認識できるでしょうか? 筆者はこのように考えます。
 〈同じように〉電球が点滅しているだけで、〈時間の向き〉が逆になったことを区別できないのではないか、つまりこの距離では、〈時間の向き〉を判断できないのではないか、と思います。
 たとえば、明かりが〈右〉に移動したら、明かりが〈左〉にあったときより、時間的に〈後〉だと判断しても、電光掲示板を上下逆から見たら、明かりは〈右〉から〈左〉に移動して、〈時間の向き〉が逆になったように見えるからです。
 すなわち、この距離では、時間的にどちらが〈前〉でどちらが〈後〉か判断できません。時間的前後が言えないということは、〈過去〉と〈未来〉を区別できないことになります。

 これが〈電光掲示板〉と〈映画〉との大きな違いです。〈映画〉は、フィルムを〈逆回し〉にすると、すぐにそれが分かります。〈映画〉は、〈時間の向き〉が〈一方向〉の仕組みだからです。
 もちろん〈電光掲示板〉も、そこから遠ざかっていけば、〈動画〉が映し出されていることが判断でき、〈時間の向き〉もはっきり分かります。もし〈時間の向き〉を逆にすれば、〈動画〉が〈逆回し〉になったことを認識できるでしょう。


時間的に見た〈電光掲示板〉


 ここに電球が複数個並んでいます。そのうちの1つの電球が点灯します。その電球の明かりが消えると同時に、右隣の電球が点灯します。右隣の電球の明かりが消えると同時に、さらに右隣の電球が点灯する……、このような動作が連続すると、これを遠くから見ている人には、明かりの点が右の方向に動いていくように見えるはずです。
 この現象は、〈物〉が実際に右のほうに動いていくのとは異なります。なぜなら、上の例は〈仮現運動〉だからです。明かりが点いた1個の〈電球〉が右のほうに移動しているわけではありません。明かりが次々に点滅しているだけです。
 最初の〈点灯〉(電球ではありません)を〈今日〉とします。右隣の〈点灯〉(電球ではありません)を〈明日〉とします。すると、最初の〈点灯〉が右隣の〈点灯〉に〈なる〉わけではありません。言い換えると、〈今日〉が〈明日〉に〈なる〉わけではありません。ただ、最初の〈点灯〉が消えて、右隣が〈点灯〉しただけです。〈仮現運動〉によって、〈今日〉が〈明日〉に〈なる〉ように見えるだけです。なぜなら、〈電球〉そのものが右隣に〈移動〉したわけではないからです。
 このことは、複数個の電球のうち、1つの〈点灯〉を〈今日〉としたとき、その左隣の〈点灯〉を〈昨日〉としても同じです。〈昨日〉が〈今日〉に〈なった〉わけではありません。ただ、左隣の〈点灯〉が消えて、その右隣が〈点灯〉しただけです。〈仮現運動〉によって、〈昨日〉が〈今日〉に〈なった〉ように見えるだけです。なぜなら、〈電球〉が右隣に〈移動〉したわけではないからです。
 この〈今日〉や〈明日〉を、それぞれ時間的にもっと細かく分割しても同じです。〈午前〉の明かりが〈午後〉の明かりに〈なる〉わけではありません。〈午前〉の明かりが右隣に〈移動〉したわけではありません。
 さらに細かく、時間を〈瞬間〉に分割しても同じです。〈瞬間〉が右隣に〈移動〉するわけではありません。左隣の〈点灯〉が消えて、その右隣が〈点灯〉しただけです。
 反対に、もっと時間的スパンを大きくとって、〈四季〉に置き換えても同じです。〈春〉が〈夏〉に〈なる〉わけではありません。〈春〉が右隣に〈移動〉するわけではありません。

 このことは、先に述べたように、〈右隣〉を〈左隣〉に置き換えても同じです。この距離では、〈右〉〈左〉、〈明日〉〈昨日〉の区別ができません。〈時間の向き〉を区別することができないのです。


〈有時に経歴の功徳あり〉


 さて、以上のような思考実験を行った後で、道元の次の文章を読むと、どのように感じるでしょうか。

 有時に経歴の功徳あり、いはゆる今日より明日へ経歴す、今日より昨日に経歴す、昨日より今日ゑ経歴す。今日より今日に経歴す、明日より明日に経歴す。経歴はそれ時の功徳なるがゆゑに。(中略)
 経歴といふは、風雨の東西するがごとく学しきたるべからず。尽界は不動転なるにあらず、不進退なるにあらず、経歴なり。経歴は、たとへば春のごとし、春に許多般の様子あり、これを経歴とゆふ。外物なきに経歴すると参学すべし。たとへば、春の経歴はかならず春を経歴するなり。経歴は春にあらざれども、春の経歴なるがゆへに、経歴いま春の時に成道せり。

【経】@へる。過ぎる。通る。(ア)ある場所や過程などを通って行く。「経由」「経歴」。(イ)時がたつ。時日を過ごす。「経年」。
【歴】@へる。すぎる。うつる。わたる。「歴戦」。A経過してきた事柄。「履歴」「経歴」。
【経歴】歴も、経る・過ぎる意。@通り過ぎる。A過ぎ去る。年月を経る。Bへめぐる。あちこち巡り歩く。遊歴。遍歴。
【許多】@あまた。多数。たくさん。   (『大漢語林』)

 この文章中のキーワードは〈経歴〉です。辞書によると、〈経〉も〈歴〉も〈過ぎる〉という意味があり、〈経歴〉は結局〈時間的経過〉を表すようです。しかし、辞書的な〈経歴〉と、道元が使っている〈経歴〉には決定的な違いがあります。それは辞書の〈時間の向き〉が〈一方向である〉のに対し、道元の〈時間の向き〉は〈一方向でない〉ことです。
 したがって、ここで言う道元の〈経歴〉は、〈時間の向き〉が〈一方向である〉〈映画〉では説明できません。筆者が〈電光掲示板〉を持ち出してくどくど述べたのはそのためです。
 〈経歴〉というのは、〈風雨の東西するがごとく学しきたるべからず〉、あるいは〈外物なきに経歴すると参学すべし〉と道元は言います。〈経歴〉は、風や雨が西から東に移っていくように考えてはならない、〈物〉がないのに〈経歴〉するのだ、と言うのです。
 〈経歴〉は、風や雨のように〈物〉が移動することではない、すなわち〈電球〉が移動することではない、〈左〉の明かりが消えて、〈右〉の明かりが点くのだ、と言っているのではありませんか。
 試しに、〈経歴〉を〈点滅〉に置き換えて、もう一度上の文章を読んでみてください。

 〈有時に経歴の功徳あり〉

 道元のこの言葉は、言い換えると、〈時空〉とは、〈物質〉が動くことではない、明かりが〈点滅〉することだ、ということになります。さらに言えば、〈時空〉の〈中〉で明かりが〈点滅〉するのではなく、〈点滅〉することがすなわち〈時空〉なのだ、とこのように筆者は考えています。

 最後に付け加えたいことがあります。〈有時〉の巻ではありませんが、『正法眼蔵』〈現成公案〉の中の次の一節です。

 たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。
 しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。
 かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。

 ここで道元が、〈尽界〉を〈断続的〉だとしているのは明らかです。〈薪〉は〈薪〉として前後際断しており、〈灰〉は〈灰〉として前後際断している、〈薪〉が〈灰〉になる、というふうに見てはいけない、〈生〉は〈生〉として前後際断しており、〈死〉は〈死〉として前後際断している、〈生〉が〈死〉になる、というふうに見てはいけない、と言っているからです。
 これは、フィルムを動かしてスクリーンに投影して見れば、〈仮現運動〉によって〈薪〉が〈灰〉になるように見えるけれども、フィルムを取り出して見れば、1コマ1コマに〈薪〉は〈薪〉としてあり、〈灰〉は〈灰〉としてあるだけで、〈薪〉が〈灰〉になるわけではない、〈生〉が〈死〉になるように見えるけれども、フィルムを取り出して見れば、1コマ1コマに〈生〉は〈生〉としてあり、〈死〉は〈死〉としてあるだけで、〈生〉が〈死〉になるわけではない、ということではありませんか。
 さらに言えば、〈薪〉が〈灰〉になるのではなく、1つの明かりが消えて、隣の明かりが点いたのだ、〈生〉が〈死〉になるのではなく、1つの明かりが消えて、隣の明かりが点いたのだ、ということではありませんか。

※筆者は今回、これまでの『正法眼蔵』の注釈書や評論書にあるように、〈存在〉だの〈実体〉だの、あるいは〈空〉だの〈無〉だのいう言葉を用いないことを自らのルールにしました。その代わり、〈映画〉と〈電光掲示板〉によってのみ〈有時〉を理解しようとしました。なぜなら、〈ある考えは別の世界の言葉で語ってこそ生き延びることができる〉と思っているからです。それが成功したかどうか分かりませんが、もしここまで読んでいただけたのなら、成否にかかわらず、この〈妄想〉も生き延びることができるかもしれません。


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【補註】


 ボーアとハイゼンベルクらによる量子論の、いわゆる〈コペンハーゲン解釈〉によれば、一つは〈量子的リアリティ〉は確率的なものであって、確定的なものではないということ、もう一つは、〈量子的リアリティ〉は我々の観測の仕方によって決まる、ということになります。
 ここにおいて、それまで堅固だった古典物理学の決定論的性格と客観性とが崩壊することになりました。特に2番目の、〈量子的リアリティ〉とは観測者が創り出すリアリティである、という見解は、古典物理学が描く客観的世界に、ついに〈我々〉という〈主観的〉項が挿入されたわけで、全く新しい世界観がここに誕生したことになります。
 理論物理学者のハインツ・パージェルの言葉によれば、次のようになります。

 量子論によれば、観測者が何を測定しようとしているかということがその測定自身に影響を及ぼすことになる。量子の世界で現実に起こっていることは、その世界を我々がどのように観測しようとしているかに依存しているのだ。我々が観測しようとするまいと、それとは無関係に存在する世界では決してないのである。つまり量子の世界の様子は我々が何を見ようとするかによって部分的に決まるのであって、観測者がリアリティを創り出すことに部分的に参加していると言ってもよい。(『量子の世界』、地人書館、1983年)

 それから100年経った現在、物理学を〈我々〉でなく〈我〉の単位で論じようとする〈QBイズム〉という考え方が出てきました(QBイズムはQuantum-Bayesianism(量子ベイズ主義)のこと。ベイズ(トーマス・)は18世紀の英国の牧師で、統計・確率について研究業績を残した人物。現在でも〈ベイズ統計〉としてさまざまな分野で活用されている)。

 波動関数は、我々のものでなく、個人のものと考えるQBismという理論が、21世紀に入って提案されている。(『量子力学の100年』佐藤文隆、青土社、2024年)
 コペンハーゲン解釈では確かに認識主体としての人間は登場している。だがその人間は「我々」であって「個人」ではなかった。それに対してウィグナーの論議※ではWとFという個人による違いを際立たせている。コペンハーゲン解釈は確かに「人間」を導入して哲学的に困難を乗り切ったのであるが、それはあくまでも自然対人間という意味での総体的な人間であって、実存を問うような個々人を登場させたわけではない。(同上)

※〈波動関数は本人(W)と友人(F)、すなわち個人によって異なる〉とする、ユージン・ウィグナー(1902-1995)が提起した思考実験。

 この〈QBイズム〉について、イタリアの理論物理学者カルロ・ロヴェッリは次のように述べています。

 思うにQBイズムの弱点は──ここが本書の議論全体の転回点になるのだが──現実を知識の主体、つまりそれを知る「わたし」につなぎ留めているところにある。まるで、「わたし」が自然の外側に立っているかのように。QBイズムは、観察者を世界の一部として見るのではなく、観察者の内に映った世界を見ているのだ。そうすることで素朴な唯物論から脱したが、結局は絶対的な観念論に堕ちることとなった。観察者自身も観察される可能性があるということが重要なのだ。実際の観察者が量子論で記述されている、ということを疑う理由はどこにもない。
 わたしが観察者を観察すれば、わたしにはその観察者に見えないものが見える。ここから理にかなった類推を行えば、観察者としてのわたしにも見えないものが存在するはずだ。わたしが求めているのは、宇宙の構造を説明し、宇宙の内側の観察者であるという事実の何たるかを明確にする物理理論であって、観察している自分によって宇宙が左右される理論ではない。(『世界は「関係」でできている』、NHK出版、2021年)

 ここにきてようやく、道元の言葉を借りれば、〈われ〉=〈尽界〉=〈時〉の世界を論じる条件が揃ったわけで、〈量子論〉はこれからますますエキサイティングになっていくような気がします。

 上のパージェルの〈観測〉とロヴェッリの〈観察〉が同じ〈observation〉の訳語かどうか分かりませんが、〈観察〉と言えば、〈観察映画〉で著名な想田和弘監督が、新作の『五香宮の猫』の封切りに合わせた取材に答えて述べていることが興味深いので、ここに紹介しておきます。

 観察することは参与観察するということ。自分が撮影する時には、撮影する行為によってその状況が変わる。つまりは自分の存在によって変えられた世界しか観察することができない。それは自分が参与している世界を観察しているのであって、自分もその一部となるわけです。

 上の言葉は、具体的には次のようないきさつから出てきたもののようですが、〈観察映画〉の本質的な部分なのかもしれません。

 妻が(猫の:筆者註)避妊去勢手術の活動に関わっていたので、そこでカメラを回すと面白いかもしれないと思ったんです。その時は特に明確に映画にしようという意図はなかったんですが、そういうこともあって妻が登場人物の一人となったんです。
 ここでは、猫を通した人間社会を観察しているつもりです。わたしたちも、その一人になったということです。そして観察の対象であるその社会の一員に自分たちもなったわけなので、自分を除外するわけにはいかない。これが僕が観察することの哲学と一致するんです。

 想田和弘監督の〈観察〉はそのまま、パージェルの言う〈量子論〉の〈観測〉に置き換えても差し支えないように思われます(〈観察映画〉についての詳細は、〈観察映画についての覚え書き〉等を参照)。