ス  プ  ロ  ケ  ッ  ト  を  さ  ら  に  も  う  一  回  転

──〈実物時空生成装置〉を求めて

+【付録】



 前稿の「スプロケットをもう一回転」の前書きで、「この先〈さらにもう一回転〉するチャンスがあればと思っています」と記した後、その〈さらに〉の機会が早速訪れました。前稿の〈もう一回転〉が、初稿から40年も掛かっているのに、あまりにも早すぎるではないか、と疑問に思われるかもしれませんが、その理由は、〈さらに〉はもともと〈もう〉と一緒にしていたのを分割したもので、すでに6〜7割方草稿ができていたからです。したがって、初稿の〈回転〉も含め、ここに新たに〈妄想三部作〉として、まとめてアップロードすることにしました。

1900年は大事な年


 タルホは、自分が生まれた1900年について、マックス・プランクが〈量子定数h〉を提唱した年だとして、それが単なる偶然だったにもかかわらず、同じ年に生まれたことを何度も誇らしげに語っています。たとえば、

☆マックス・プランクが、「近世」を絶縁する量子常数「h」を発表した同じ年の、同じ十二月の終りに、私は大阪市船場に生れた。(「随筆ヰタ・マキニカリス」)

☆この同じ年の十二月末、クリスマスの翌日に、私は大阪市船場に生れた。ヒルベルトの『幾何学の基礎』が刊行されたのは、この前年(1899)であるが、私が生れる二週間前には、原子力時代の扉をひらいたマックス・プランクの量子定数「h」の発表があった。(「カフェの開く途端に月が昇った」)

☆董生は、自分が生れたのは蘆花の不如帰が上演された年であったが、又、マックス=プランクが「」を発表したのと同年同月でもあったということを知った……(「父と子」)

☆この前の庚子は千九百年だった
その年にはツェッペリン伯の飛行船が
初めてコンスタンツ湖上に浮んだ
又、ライト兄弟が最初のグライダーに手をつけた
おし詰って十二月九日頃には
マックス・プランクが量子常数「h」を発表した
三週日が経ってもう
四、五日でお正月だという間際に僕は大阪の船場に生れた(「庚子所感」)

 タルホはここで〈量子常数(じょうすう)〉と表記していますが、今ではこれを一般的に〈プランク定数(ていすう)〉と称しています。その〈量子常数h〉のことを、〈「近世」を絶縁する〉あるいは〈原子力時代の扉をひらいた〉と言っていますが、タルホがこのように特記するマックス・プランクの〈量子常数h〉とは何なのか、そこからこの「さらにもう一回転」のページを始めていくことにします。


エネルギーの値は〈飛び飛び〉


 理論物理学者のハインツ・R・パージェルは、1900年当時の物理学界の様子を次のように記しています。

 マックス・プランクは、ちょうどアインシュタインが大学を卒業した1900年に、量子論の決定的なアイディアを最初に提唱した物理学者である。プランクのアイディアが出される前は、ほとんどの物理学者が考えていた古典的な自然界の姿は連続体であった。彼らは、なめらかに、連続的に互いどうし融合し合っていく物質の形を頭に描いていた。種々の物理量、たとえばエネルギーや運動量やスピンなどは連続的な量で、したがってどんな値でもとることができると考えていたのである。(『量子の世界』、地人書館、1983年)

 19世紀後半、ドイツは軍事的要請──すなわち兵器の製造──から各地で溶鉱炉の建設が盛んでした。良質な鉄を製造するために、それまで技術者の経験に頼っていたのを、物理学者による科学的な研究が要求されるようになりました。つまり高温で鉄鉱石が発する色と、鉄の強度との関係を正確に求めるような必要が生じてきたのです。
 このような時代にあって、プランクは、暗室中で熱せられた金属から放射される光の色分布の精密な測定を行っていました。それを〈黒体放射曲線〉として表そうとしていたのです。しかしながら、なかなか実験結果と公式とが一致しないことに煩悶していました。そうした中で仮説を立てたのが、エネルギーは連続的ではなく、〈離散的〉──〈飛び飛びの〉値を持つ、というものでした。すなわち、

  E=nhvE:エネルギー、n:正の整数、h:プランク定数、v:振動数)

という公式で、これは、それまで考えられていたように、〈エネルギーはどんな値でも取れる連続的なもの〉という常識を覆すものでした。エネルギー(E)は、1hvを最小単位として、2hv、3hv、4hv、……と整数倍の値しかとらない、つまり1個、2個、3個、4個、……と数えられる〈粒子〉のような性質を持っている、というものだったからです。これが〈エネルギー量子仮説〉と呼ばれるもので、これこそが後に〈量子論〉と言われるようになった物理学の始まりだったのです。


〈プランク定数〉とは


 このエネルギーと振動数との関係式において、〈h〉で表されるのがいわゆる〈プランク定数〉と呼ばれるものです。〈定数〉とは〈定まった数〉のことで、常に一定の値を持つものです。
 〈プランク定数〉は、6.626×(10のマイナス34乗)[単位はジュール・秒]とされています。これはとてつもなく小さい数です。筆者もそうですが、皆さんも、〈×(10のマイナス34乗)〉を除いた6.626ぐらいの数値を予想していたのではありませんか? 驚くなかれ、実は1京×1京×100億分の6.626、という限りなく0に近い数字なのです。
 もしも、この〈プランク定数〉が0だったら、エネルギーは〈飛び飛び〉の〈粒子〉という性質ではなくなり、古典力学に沿った〈連続性〉の世界が再現されることになります。この小さな〈プランク定数〉こそが、タルホの言うように〈「近世」を絶縁する〉ことになったわけです。〈プランク定数〉の数値は、もちろん『理科年表』に出ていますし、『広辞苑』や『大辞林』などの一般辞書にも掲載されていますので確認してください(上の数値では、小数点以下3桁まで表記)。
 我々がこのエネルギーの変化を〈飛び飛び〉に感じないわけは、〈プランク定数〉の数値があまりにも小さすぎて感知できないためです。このように〈プランク定数〉は、ミクロの世界を記述するときに必要とされるものであって、マクロな日常世界では、〈プランク定数〉が0の場合の、ニュートン古典力学で説明がつくわけです。


〈目に見える〉ってどういうこと?


 さて話は変わりますが、この前の「スプロケットをもう一回転」で〈映画〉や〈電光掲示板〉を持ち出し、それらを〈模型時空生成装置〉と称しました。それはあくまで〈模型〉なわけですから、〈時間の向き〉だの〈逆回し〉だの言っても、当然それは〈模型時空〉上の話になります。しかし〈映画〉や〈電光掲示板〉が〈時空〉を生み出す〈模型〉であるなら、そこには当然〈実物〉の〈時空〉が想定されているのでなければなりません。それはいったい何か? もちろんそれは〈物理学〉の世界になりますが、中でも〈量子論〉の世界がそれに相当するだろうと思います。
 筆者の場合、最初から直観的に〈模型時空生成装置〉は〈量子論〉と結び付いていました。タルホと出会う前、20歳の頃に映画雑誌『季刊フィルム』の論文募集に応募した原稿に、〈映画とはできるだけ映画から離れること。例えば量子論の中に映画を見たり、M・フーコーの後ろ姿にその残像を見つけたりすること。映画は見られるものであって、見るものであってはならない〉などと生意気なことを書いていたからです。
 その後読んだH・R・パージェルの『量子の世界』(1983年)と『物質の究極』(1984)[いずれも地人書館]は、〈実物〉の〈時空〉について考えるのに非常に参考になりました。特にパージェルが、もしミクロの世界からマクロの世界まで自由にピントを合わせることができる映画用カメラで撮影したとしたら、一人の人間(イラストのモデルは、かの物理学者ニールス・ボーア)がパイプをくゆらせている様子が、どのような映像として映し出されるか、という比喩を用いているのは、自分の考える〈電光掲示板〉と重なって、願ってもない援軍となりました。

 最初の頃は空気や煙の粒子がはね回ったり衝突したりしているミクロの世界だけが映し出される。これらの粒子は全部ニュートンの運動法則に従っている。もし映写機を逆回転させたとすると、スクリーン上ですべての粒子の運動が逆になる。だが定性的にはこの運動も前の場合となんら変わったところはない──はね回っている粒子の混乱状態が見られるだけだ。ニュートンの法則は過去と未来とを区別しないから、このミクロな世界の様子を眺めただけで時間の向きを決定することは我々にはできない。
 次にズームを動かしてもっと広い範囲を視野に入れてみることにしよう。(中略)ここでまた映写機を逆回ししたとしよう。(中略)細い煙の束が広がっていかないで逆にしだいに濃くなっていくのを見れば、フィルムがひょっとして逆向きに映写されているのではないか、と疑ってみるのではないだろうか。(中略)マクロな情報を得んがためにミクロな情報を放棄することにより(中略)──期せずして我々はニュートン力学と熱力学を結びつける仮定を余分に持ち込んだことになるのだ。それは、詳細なミクロの情報を失うと、エントロピーは必ず増加する、ということだ。(『量子の世界』)

 昔、"Powers of Ten"という映像作品がありました。〈10のべき乗〉の謂です。作者はチャールズ&レイ・イームズ夫妻。その映像の内容はここで説明するより、〈百聞は一見に如かず〉今ではYouTubeに上がっていますから、そちらをご覧ください。この映像作品は、1983年に本の形で出版もされました。
 パージェルが考えていたのは、まさにこの"Powers of Ten"が見せてくれたような、極大・極小の世界を自由に撮影できるカメラでしょう。
 彼は、〈はね回ったり衝突したりしている〉のが〈空気や煙の粒子〉だと言っていますが、彼の言う〈ミクロ〉の世界は、〈分子〉や〈原子〉の世界でしょうか。まさか〈素粒子〉の世界ではないはずです。〈原子〉が10億分の1m(1nm:ナノメートル)程度の大きさと言われているのに対し、光の波長は200万分の1m(500nm)なので、撮影用カメラがどんなに高性能でも、それが光学的カメラであるかぎり、〈原子〉の世界を直接見ることはできないはずだからです。

 人の目で解像できる最小の物体は、1ミリメートルの10分の1より少し小さいサイズ──ヒトの卵細胞くらいのものです。(中略)光学顕微鏡には限界があります。この限界は、技術的なものではなく、光の波としての性質によるものです。1870年代に、ドイツの物理学者エルンスト・アッベは、光の波長の半分以下の距離しか離れていない2つの物体は解像できないことを発見します。人間の目に見えるもっとも短い波長である青い光は、波長がおよそ4000オングストロームです。原子の直径は数オングストロームしかありません。(『ATOM』、SBクリエイティブ、2022年)

 人の目が、2つの物を別々なものとして見分けられるのは、0.1mm以上の大きさの物に限られるということ。1オングストローム=0.1ナノメートルですから、光の波長と原子の直径を、それぞれナノメートルに換算してみてください。なお、E・アッベは、カール・ツァイス社の光学機械の開発に多大の貢献をした人物としても知られています。

 しかしながら、〈光学的カメラであるかぎり、原子の世界を直接見ることはできない〉といっても事は微妙です。今では〈走査型トンネル顕微鏡〉などがあって、それらを用いれば、〈原子〉の姿まで〈捉える〉ことができるようになっています。それは〈光学的〉に〈見えない〉ものを、〈走査:scanning〉という方法によって、あたかも〈見える〉ように加工したものです。それを〈光学的〉に〈見た〉と言えるのか? たとえば〈走査型トンネル顕微鏡〉によって鉄の原子を〈見る〉と、そこには〈ドット〉──〈点〉が格子状に整然と並んでいることが分かります。筆者はそれを見て仰天しました。
 勘の鋭い人は、筆者が何を言わんとしているか、もうお分かりでしょう。そう、〈電光掲示板〉にそっくりなのです。〈原子〉が〈電球〉のように、びっしり並んでいたからです。


〈時間〉と〈空間〉の最小単位──〈プランク・スケール〉


 先に〈プランク定数〉の数値が非常に小さいことを述べましたが、〈時間〉の最小単位については、タルホも言及しています。

 ところで時間になると案外に簡単である。一切の現象は巨視界、すなわちニュートン的世界に置かれていると見られていたから、ミクロはただ頭の中にだけあった。最小単位としては「毫」「忽」あるいは「一弾指」で、毫は一寸の千分の一、忽は一寸の十万分の一。「一弾指」(二十念を一瞬とし、二十瞬を一弾指とす)くらいなものである。現代物理学では「一ミリマイクロ秒」を取扱っている。仏教の弾瞬など問題でない。一ミリマイクロ秒とは十億分の一秒で、これは光線が二十センチ進む時間である。(「男性における道徳」)

※この前半部分は文意が通りにくい。以下のような文意か?
 最小単位としては「毫」「忽」あるいは「一弾指」くらいなものである。毫は一寸の千分の一、忽は一寸の十万分の一、一弾指は二十念を一瞬とし、二十瞬を一弾指とする。

 〈弾指〉は、仏教で言う、指を弾いて音を出し合図することで、ご存じのように、仏教では他にも短い時間を表す言葉として、〈刹那〉や〈須臾〉があります。『倶舎論』によると、次の等式が成り立つようです。

120刹那=1怛刹那(たんせつな)
60怛刹那=1臘縛(ろうばく)
30臘縛=1須臾(しゅゆ)
30須臾=1昼夜

これを計算すると、120×60×30×30刹那=1昼夜、
1昼夜=24時間=1440分=86400秒ですから、
1刹那=86400÷6480000=1/75秒=0.01333…秒。

 つまり、1刹那は1/75秒ということになります。これは想像していたほど短い時間ではありません。今では陸上競技のタイムでさえ、1/100秒まで計測してるのですから。
 現代物理学のレベルでは、タルホが言うような「一ミリマイクロ秒」どころの話ではありません。イタリアの物理学者カルロ・ロヴェッリによれば、〈時間〉と〈空間〉の最小単位は次のようになります。

 「量子」とは基本的な粒のことであって、あらゆる現象に「最小の規模」が存在する。重力場における最小規模は「プランク・スケール」、最小の時間は「プランク時間」と呼ばれていて、相対性や重力や量子が絡む現象の特徴となっているさまざまな定数を組み合わせれば、その値を簡単に計算できる。そしてその結果、1秒の1億分の1の10億分の1の10億分の1の10億分の1の10億分の1、つまり〈10のマイナス44乗〉という時間が得られる。プランク時間と呼ばれるこの極端に短い時間では、量子力学に特有の3つの性質がもたらす効果、すなわち時間への量子効果がはっきりと現われる。(中略)
 時間が「量子化される」ということは、時間tのほとんどの値が存在しないということだ。わたしたちが想像し得るもっとも正確な時計を用いてなんらかの時間の幅が計れたとすると、その測定値は特別ないくつかの値に限られていて、離散的であることが判明するはずだ。時間が連続的に継続するとは考えられず、不連続だと考えるしかない。一様に流れるのではなく、いわばカンガルーのようにぴょんぴょんと、一つの値から別の値に飛ぶものとして捉えるべきなのだ。
 言葉を変えれば、時間には最小幅が存在する。その値に満たないところでは、時間の概念は存在しない。もっとも基本的な意味での「時」すら存在しないのだ。(中略)
 プランク時間の空間における姉妹がプランク長で、この最小限の長さより短いところでは、長さの概念が意味をなさなくなる。プランク長は約〈10のマイナス33乗〉センチメートル、つまり1センチメートルの10億分の1の10億分の1の10億分の1の100万分の1である。(『時間は存在しない』、NHK出版、2019年)

 ここには桁数のみで数値までは記されていませんが、〈プランク時間〉の数値は5.391×〈10のマイナス44乗〉秒、〈プランク長〉の数値は1.616×〈10のマイナス33乗〉センチメートルとされています。ちなみに、〈プランク時間〉は、光が〈プランク長〉を横切る時間で、最速のものが最小のものを通過する時間ですから、これ以上短い時間単位は無いことになります。タルホは先に、〈一ミリマイクロ秒とは十億分の一秒で、これは光線が二十センチ進む時間である〉と述べていますが、これが上の〈プランク時間〉と〈プランク長〉に照らして、合っているかどうか計算してみてください。
 すなわち、この〈プランク時間〉と〈プランク長〉が、〈時間〉と〈空間〉の最小単位ということになります。これ以下の数値は、〈時間〉と〈空間〉の概念が意味をなさないわけです。
 ロヴェッリは、このレベルでは〈空間〉のみならず〈時間〉の値も〈離散的〉──すなわち〈飛び飛び〉になっており、〈時間が連続的に継続するとは考えられず、不連続だと考えるしかない〉と述べています。


〈結び目〉が〈点滅〉している?


 前稿の「スプロケットをもう一回転」の最後に、「〈時空〉とは、〈物質〉が動くことではない、明かりが〈点滅〉することだ」という〈妄想〉を述べました。その根拠を、映画の〈断続的動作〉による〈仮現運動〉に求めたわけですが、しかしそれは、少なくとも〈光学的〉に〈見える〉世界でのみ成立する話になります。その大きさは先に述べたように、光の波長200万分の1メートル(500ナノメートル)以上に限られ、到底〈原子〉のスケールの世界では成立しません。ましてや〈霧箱〉内の〈飛跡〉や〈衝突〉の〈痕跡〉によってしか認知できない〈素粒子〉についてはなおさらです。
 道元が〈有時に経歴の功徳あり〉と言ったのは、もちろん〈ミクロ〉の世界でなく、〈マクロ〉の世界についてです。筆者はそれを、「〈時空〉とは、〈物質〉が動くことではない、明かりが〈点滅〉することだ」と解釈したわけです。

 では、光学的に〈見えない〉世界で〈仮現運動〉は成立するのか?
 しかし、その問い自体が論理矛盾になっています。
 ただ、これまで〈時間〉と〈空間〉の極小を求めてきて、その終着点──最小規模の〈プランク・スケール〉に辿り着いたとき、カルロ・ロヴェッリが言うように、その世界では〈時空〉は〈飛び飛び〉になっていた、すなわち〈断続的〉になっていた、と。
 皆さんも感づいておられるように、こういう話を聞くと筆者の脳は、どうしても次のような類推を始めてしまいます。

 〈模型時空生成装置〉では、35ミリフィルムが1秒間に24コマのシャッタースピードで点滅しているが、〈実物時空生成装置〉では、プランク長〈1.616×(10のマイナス33乗)センチメートル〉の〈量子〉が、プランク時間〈5.391×(10のマイナス44乗)〉秒のシャッタースピードで〈点滅〉している。すなわち、〈時空〉は〈プランク・スケール〉のレベルで生滅している。

 〈模型時空生成装置〉が〈スクリーン世界〉に〈2次元〉の〈点滅〉を投影しているのなら、〈実物時空生成装置〉は〈実物世界〉に〈3次元〉の〈点滅〉を投影しているのではありませんか?
 我々が〈スクリーン世界〉の動きを〈飛び飛び〉に感じないわけは、シャッタースピードが1コマ/24分の1秒と非常に短いからで、〈実物世界〉の〈点滅〉を〈飛び飛び〉に感じないわけは、〈プランク・スケール〉の数値があまりにも小さすぎて感知できないからです。日常世界は〈量子力学〉でなく、感知可能なニュートン〈古典力学〉に支配されているからです。
 仏教の言う〈刹那生滅〉は、ここにおいて〈刹那〉を〈プランク時間〉と訂正されなければなりません。〈プランク時間生滅〉です。1/75秒の〈刹那〉なんて問題にならないからです。
 すなわち、

 〈1刹那〉ごとに生滅を繰り返していて〈実体〉がないことを、〈刹那生滅〉あるいは〈刹那無常〉という。

は、次のように言い換えられなければなりません。

 〈1プランク時間〉ごとに生滅を繰り返していて〈実体〉がないことを、〈プランク時間生滅〉あるいは〈プランク時間無常〉という。

 〈実物世界〉に〈実体〉がないのはもちろん、〈実物時空生成装置〉が〈実物世界〉に〈プランク時間〉のシャッタースピードで〈3次元〉の〈点滅〉を投影しているだけだからです。

 量子論の歴史の初期からすでに、物質の究極は〈波〉か〈粒子〉かという問題について、シュレディンガーの波動方程式とハイゼンベルクの行列力学の議論がありましたが、今では、両者は〈相補的〉なものであるとされています。
 ロヴェッリは、インドのナーガールジュナ(龍樹)の〈空〉の思想を援用しながら、〈世界は「関係」でてきている〉という考えを示していますが、〈時空〉の最小単位が〈飛び飛び〉になっていることを、やはり〈粒〉と考えています。
 しかし、〈量子〉の世界が〈関係〉であるなら、〈量子〉はすでに〈モノ〉ではないはず。〈モノ〉が動いているのではない、〈プランク時間〉単位で明かりが〈点滅〉している、それが〈時空〉ではありませんか。世界──物質の究極は〈波〉か〈粒〉かではなく、むしろ世界はエネルギーの〈網〉のことではありませんか。その〈結び目〉が〈粒子〉のように〈見える〉のではありませんか。〈結び目〉がなければ〈網〉はできません。〈結び目〉だけでは〈網〉は成立しません。〈網〉の〈結び目〉が〈点滅〉しているのではありませんか──〈インドラの網〉のように。
 量子の「重ね合わせ」や「もつれ」は、世界が〈網〉だからこそ起きる現象ではありませんか。1つの〈結び目〉は他の全部の〈結び目〉と繋がっているのですから、1つの〈結び目〉を持ち上げると、他のすべての〈結び目〉も持ち上がってくるのは当然です。〈結び目〉で点滅している1つの〈光子〉が〈宝珠〉なら、他のすべての〈光子〉と映じ合っているのは当然です。


〈妄想三部作 完〉




【付録】


※タルホが「時間」と「空間」について言及している箇所を、以下に作品名の五十音順に掲載しておきます。

「黒い空間」(芦の都)

有名な哲学者のカントもやはりこんな空間を取上げて、どこまでも一様に流れてゆく時間と合わして、この空間時間は、人間の精神に、経験とは独立に与えられた直観の形式である……(宇宙論入門)

ニュートンもカントも共にこの「絶対空間」の観念から脱することができなかった。(宇宙論入門)

ミンコフスキーは、一九〇八年の秋、ケルンで開かれた万国科学者大会の講演で、次のように述べた。
「今日以後時間そのもの、空間そのものは蔭の下に没し去り、ひとりこの両者を結合したものだけが独自性を保つであろう」(宇宙論入門)

非ユークリッド空間の発見者は、ガウスだと言われている。(カフェの開く途端に……)

他に、「自我の真空放電」があった。このスペクトルの縞目のような画面は、あとになって、「空間に向って堕落しつつある時間」に変形した。その題名が示している通り、これはベルグソンを読み出してからの話になる。(カフェの開く途端に……)

未来派の特徴は、「時間空間は既にきのう死んだ」と彼らが宣言書の中で言っている通り、画面の平らべったさの上に存する。(カフェの開く途端に……)

すなわち彼女は時間的である。……それはまちまちな存在者ではなく、抱合的な存在それ自らを意味している。(かものはし論)

すなわち男性とは……流れを流れしめる台、空間であり、主観を整理するための客観的枠組であり、「存在」に対しては「存在の仮定」であり、生命に形式を採らしめる物質なのだ。(かものはし論)

なんら努力を強いることなくひらけて行く底の時間性は、優雅の大元で、そこには永遠への究極的努力というべき怠惰の予想がある。(かものはし論)

科学をもって時間空間訳だと云えるならば、芸術とは男性の意識にまでもたらそうとする女性的原理でなかろうか。(かものはし論)

すなわち諸天族および菩薩群であるが、それらはまことに球的空間性に擁護された時間性の見本ともいうべきものである。女性的ふくよかさの中に閃く叡智であり、男性的均整中に含有された優雅であるからだ。(かものはし論)

「真空の時間」(空間の虹色のひづみ)

マイナスの空間 負数空間(空間の虹色のひづみ)

空間のひづみ(空間の虹色のひづみ)

われわれの思うこと、為すことが「時間」を図式化し、「死」によって裏打ちされている事実は、取りも直さず、それがつまりは「快感関与」であることを示している。(少年愛の美学)

女性の時間がリーマン的で、常にそれ自身の内部に収縮しようとしているのに較べて、男性の時間は、ともするとロヴァチェフスキー的に逸脱したがっている。(少年愛の美学)

それは彼が、(生理的な)ユーモリストではあっても、(物理学的な)コメディアンではないことに依っている。言い換えると、彼はまだ「時間的」(風俗)であって、「空間的」(オブジェ)ではない。彼はついに軟派にとどまっている。(少年愛の美学)

彼ら(ペディスト)は、自らの少年姿を「時間」の鏡面に恢復しようとするナルチストである。(少年愛の美学)

私も又、臭素加里の匂いのする非常に希薄な「タルホ空間」に少うし物質を注ぎ込んで、人形共を活動させたいと思う。(随筆ヰタ・マキニカリス)

或る場所に植っていたものが、若干の時間を要して空間中を運ばれてきて、移植されると同時に別物になっている──しかもそれは依然として数時間前にその通りであった所のものでしかない──それはいったい何故であろう?……「何物にせよ、毀さずにそれをその境界からわれわれの許へ移し更えることは不可能だ。肝腎のものはわれわれの現実界の閾の所で消える」(菫とヘルメット)

P氏貝殻状空間論(生活に夢を……)

非ユークリッド幾何学の大先輩ベルンハルト・リーマンは、宇宙の構造として、「単楕円空間」を持ち出しています。(生活に夢を…… p118)

空間の色(生活に夢を……)

そうだ。このX、Y、Zのいずれとも直角に交わっているZ'を以て、アインシュタインは t という字を使っている。これは時間のことだ。時間を伴っていない空間は無いし、場所にかかわりのない時間も存しない。空間時間をいっしょにした四次元の時空、これがミンコフスキーの時空連続体だ。この場合、t は√−1を以て表わされる。……だからこれを虚時間と呼ぶ。(生活に夢を……)

ロバチェフスキー鞍状空間の見事な自然模型です。(生活に夢を……)

リーマンのいわゆる「n次元連続系」にはカントも早くから感付いていたようです。(中略)──リーマンでは、時間および空間は、彼のいわゆる「n次元連続体」における特別な場合として、解釈されています。(生活に夢を……)

白い大理石の街は「時間」のために滅されて、跡形もなく、ひとりの男が砂上に坐ってしくしく泣いているばかりであった。(世界のはて)

不意に貝殻状空間が自分の脳裡に浮んだ。この場合は、望遠鏡裡に映った後頭部は一つでなく、それが幾重にもかさなっているのである。(タルホ=コスモロジー)

いったいここにきみとぼくという二人が、この限定された時間空間の中にいることが事実であるなら、それと同様、同じきみとぼくが、また別な時間空間の中に存在することも可能でないか──若しそれが夢であるなら、いまここに、このわれわれが歩いているというのもひとしく夢でなければならない……(タルホと虚空)

莫大な時間 莫大な時間経過(ガモフ博士)(男性における道徳)
※(美のはかなさ)(カフェの開く途端)にも

時間そのものの質的変化(男性における道徳)
※(物質の将来)にも

だいたい時間及び空間というのが曲者である。この二大分類は古代ギリシア以来の伝統であり、カントはこの二者を以て、「対象認識の先験的(超越論的)形式だ」としているが、この両者が撤廃され、一つの項としてまとめられるのは、それこそ時間の問題だろう。(男性における道徳)

つまり先方に相当量の質料がある場合、空間は遠心力の影響を受けて、自ら双曲線的にひらかれるのである。(父と子)

メッチンジャー張りの石垣の上にキュービズムの日本流の櫓を載っけてみたいという望みは、いまも私の頭から去っていない。このオブジェは原則として縦軸の「時間」と、横軸の「空間」に両股をかけて、その背後の深淵にくい込んでいるのでなければならない。(天守閣とミナレット)

ベルグソンの『時間と自由意志』(Time and Freewill)(鉛の銃弾)

この半跏思惟像はさしずめアウゲンブリックの状態を写したものだ、僕は思った。弥勒には、阿弥陀仏のような無限数が課せられていない。それには未来仏として、はっきり五十六億七千万年という有限数が条件づけられているが、これはわれわれと同じように、弥勒菩薩が時間線上の存在であることを示すものでないか。若しもこの菩薩が、なにか遠い々々過去を喚び起そうとしている風に窺われるのならば、それは、彼はその昔々をすでに現在の自分にまで取戻しているからに他ならない。従って彼がずっと々々先のことを瞑想しているように受取れるのであったならば、それは彼が未来浄土をすでに先取りしていることになる。(雙ヶ丘)

それは突きつめると危く停止しようとするが、いつもそこから遁れて次の段階に入り、凝滞しようとして更に新たな段階に移り、いつ果てるものでもない。十月の返り花を咲かせるプルーストの時間であろうか。そう、確かにベルグソン的持続である。しかし、それと同時に、計量され得る時間、物理学的連続であって、現代の専門家らが脳髄を拷問にかけるような方法をもって取組んでいる超経験的な時間でもある。私は「羽衣」の中に、そのような時間を(この曲が序破急の典型的なものであるなどいうこと以外に)感じる者である。(日本の天上界)

それは、デ=クインシーが鴉片の夢を叙して、「空間が膨張して云うに云われぬ無限無極にまで拡大された」と述べているものに匹敵する。(日本の天上界)

ハイデッガーの"Augenblick"(瞬視)は、「今」を以っては説明し得ないものである。それは「本来的現在」である。「瞬視」によって人は本来的な自己に覚醒し、もはや偶然だの環境だのに倚りすがらないで、ひとつの選択の下に自らを投企する。「瞬視」は絶対的偶然であり、何ら時間中に在るものでなく、時間そのもの、そこから「世界内」のもろもろの偶然と歴史とが導き出されるところの根本偶然(Urzufall)なのだ。(美のはかなさ)

われわれは、歴史的現存が、その時間様式において、死の事実によって決定的に規定されていることを発見する。これが意味するところは、第一に、個人の死ではない。(美のはかなさ)

「神は空間だけでなく、時間もいっしょに造った筈だ」
今から千五百年の昔に、北アフリカ、ヒッポの司教だった聖アウグスティヌスが書いているが、このコトバほどぴったりと「膨張宇宙論」に当嵌まるものはない。(物質の将来 p.188)

ガモフ博士は、「当方(こちら側)に物質が多量に存在する場合には、空間は自ら楕円形に成らざるを得ないし、先方に物質が多い場合には、空間は双曲線状になる」と云っている。(物質の将来)

古来、哲学者たちによっていろいろに説明されて来た「時間論」も、結局、今から約千六百年前に北アフリカ、ヒッポの司教であった聖アウグスティヌスのそれを超えることは出来ないと、云われている。「世界は時間の中に創造されたのでなく、時間と共に創造されたということは疑い得ない」と彼は云っているが、この時間論の要諦は、「未来というのも現在の未来(現在における未来)であり、過去というのも現在の過去のことである」の一言に尽きる。それから約千年後に書かれた道元の『正法眼蔵』(有時の章)にも、「時すでにこれ有なり、有はみな時なり」としてある。「山すぎ川を渡って、いまこの楼中に坐しているのだと人は思いがちであるが、そうではない。時が過ぎて行くのでなくて、常に自分が今に居るのだ」(物質の将来)

このわれわれ各自が黒坊主として瞬間毎に虐殺され、瞬間毎に生れかわっているのだということは、その後何十年も経って、ハイデッガーを俟って初めて教えられたのである。(物質の将来)

ハイデッガーの「アウゲンブリック」(瞬視)は、「今」をもってしては説明出来ないものである。これは歴史の中の一点ではなくて、却って歴史がそこから始まる所の原点なのである。われわれが日常性への配慮に堕ちている時、将来は「期待」に、現在は「単にそこに居合せているだけのもの」になり、過去は「忘却」に置かれているが、いったん本来的時間性に目醒めると、これらの三者は、それぞれに、「先取り」「瞬視」「取戻し」に転換される。(物質の将来)
※(雙ヶ丘)にも

アインシュタインは「ベルグソン的時間」について全く無関心だったが、それでも彼は時々ヴァイオリンを奏して愉しんでいたでないか。音楽的操作には、いかなる小部分でも過去と未来との共存がある筈である。(物質の将来)

たまたま山林中で変死者に出食わして、覚えず脱帽する。これは、いま眼の前にしているのは結局一つの減少に過ぎなかったことを覚り、合せて、自分らが、死んでも生れても、どうしてもそれから逃れることができない存在そのものに対して畏敬を払うことである。時間的な存在者を介して、その背後の非時間的な存在に気付くわけだ。(Prostata〜Rectum機械学)

地のある所へ針がやってきて時間を示すことはよく判るけれど、長い針が「分」を知らせるとはどういうわけかと。お父さんは答えるのです。もう少し大きくなるとひとりでに判ると。(放熱器)

芸術家がよって立つ瞬間とは、便宜的に截断配列した時計的瞬間ではなく、事物が其処から発生し、常に歴史が始まるところの根源的瞬間なのである。(僕の触背美学)

常に其処から歴史が始まり時が流れ出すところのアウゲンブリックに立脚してこそ、われわれの総ての行為や思惟が許される。(僕の触背美学 p.288)

抽象時間を台にしてうごくあらゆる機械類は、ロダンが云うようにがらくたに属する。(僕の触背美学)

ラリー=シーモンに到って初めて、臭素加里の匂いがした偽時間と偽空間にふさわしい役者が生まれた。(僕の触背美学)

時間と神々(僕の弥勒浄土)

それは、ベルグソンが夙に指摘している通り、「時」の物体化です。(僕のユリーカ)

アインシュタインが「ベルグソン的時間」にてんで取り合わなかったのも当り前で、純粋持続などというものを持ち出せば、科学は成立しないし…(僕のユリーカ)

空間とは大いなるフイゴである"(僕のユリーカ)

野川隆の透明な、些か臭素加里くさい詩の中で、私は初めて「ロバチェフスキー空間」を知った。(ロバチェフスキー空間を……)

N君のマイナスの空間云々には、「物の存在が空間というケイスの形を条件付けている」という考えがほのめいている。(ロバチェフスキー空間を……)

吉岡氏は、「空間の本質として天体を持ってくるのは、存在的な見方であって、存在学的には逆に空間の本質によって天体の問題も考え得る」(身体があるから空間が考えられるのでなくて、現実の規定である空間性から身体性が考えられる)立場かも知れない。(ロバチェフスキー空間を……)

「年を取ると、遠くへ去ったものはいよいよ近くに、間近に迫ったことはますます遠くへ結び付けられる」(中山義秀)。これは心理的な双曲線空間である。(ロバチェフスキー空間を……)

円錐が最初から在ったというのは不都合なので、私は、哲学の始祖たちの宇宙論に例外なく窺えるところの「円」を、担ぎ出した。この円が廻転して「時間」が発生し、遠心力のために無数の弧に分裂したのが、それぞれ円の中心に落下し、互いに鉢合せをした結果、おのおのが円錐体になったというのであるが、こんな経過は、私はいち早く画面にして、『カイネ博士に依って語られしもの』という題をつけ、三科インディペンデント第二回展覧会(上野山下、青陽軒)に出品した。(私の宇宙文学)

彼(ショーペンハウエル)によると、「悪」の特徴は時間に執することである。個人、家族、家系、あるいはもっと抽象的なもの、国家、組織というたぐいについて、その時間的延長をひたすらにこい願い、この境地を失うことを極力惧れている。だから、悪人ほどに死を恐がっている者はない。(わたしの神変自在なソロバン)
※同様の例、多数

そこに置かれた形象よりも、その空間の方が大事であることはヴァレリーの場合と同じですが、ヴァレリーの空間が方法(メトード)であるに反して、カルラではそれが総て!(私の祖父とシャルル・パティエ)

カルラには十分に次元の意識はありますが、暗喩を用いることは嫌いなようです。メタフォールにおいて隠された部分は、因果律によって次なるイメージに繋がりますが、カルラでは、唯、白っちゃけた空間の断片だけです。(私の祖父とシャルル・パティエ)





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