「盥」 (『タルホ事典』潮出版社、昭和50年10月10日)




 『タルホ事典』は、昭和49年9月から昭和50年7月まで全8巻にわたって刊行された『多留保集』の別巻として刊行されました。「盥」は一枚のリーフレット(栞)に両面印刷された形でその中に差し挟まれたものです*1
 「盥」の文章はタルホが書いたものではありません。それは筆者がタルホに宛てて書き送った手紙の一部(前半部)を、タルホがそのまま(言葉遣いに多少手を入れているかもしれませんが)抜粋して「盥」と題して載せたものです。
 この『タルホ事典』が刊行された前年の昭和49年、筆者は初めてタルホに手紙を書きました。その内容は「A感覚論の方程式化」についてでした。柄にもなく図と数式を用いた妄想的なものでした。もちろん返事は来ませんでした。構わず第2弾を書き送りました。それにも返事はありませんでした。さらに第3弾として送ったのが「盥」の手紙です。そして初めて返事のハガキ(11月16日付)をもらいました。そこには、「@とAは着想が奇抜すぎて、人をして唐突な感に導くきらいがあるが、Bは穏当でこの手紙が一等よく出来ている」とありました。
 それをきっかけにして、翌昭和50年の正月明けに京都のタルホを訪ねました。もちろんその場でも手紙の話題が出ましたが、図に頼りすぎるのはよくないと言われました。そして「最初の手紙の双曲線は失敗だったが、それに比べれば3度目の図はよかった。しかし両端が曖昧だ」と言われました。
 しかし、ここで手紙の内容に立ち入るには及びません。ただ、タルホがこの3度目の手紙の中のどの部分に注目したかを指摘しておけばよいでしょう。それはタルホが「盥」のタイトルを付けていることによって明らかです。


 おそらく何十人もの読者が、筆者のようにタルホに手紙を書き送ったことでしょう。そしてその中には、この「盥」のように、本人の知らないうちにタルホによってタイトルを付けられ、「稲垣足穂」の署名で発表されているものもあるでしょう。もちろん、作品中に断り書きをして紹介された例も数多くありますが、説明なしに作品の中に紛れ込んでいるものもあるはずです。それらはあたかも昆虫の擬態のように、読者には一見してタルホ作品と見分けがつきません。現に、この「盥」に騙されて引用してしまった人を、筆者は一人知っています。注意深く読めば、それがタルホ本人のものでないことが分かる仕掛けになっているにもかかわらずです。
 こうした例は読者からの手紙に限りません。他人の著作からの引用を含めて、それらを転載、象嵌、サマライズ、パラフレーズしたような作品が多々あるのがタルホ文学の特徴です。美術の世界では、コラージュ、パロディ、レディメイドなどの手法が夙に知られていますが、あるいはそうした手法がタルホ文学においても重要な部分を形成しているのではないでしょうか。筆者は、ここでその問題について考察する準備も材料も持ち合わせていませんが、今後、そうした事例をある程度、整理・研究していく必要があるのではないでしょうか。
 タルホは、人間には本質的に「自己同一性」が無いとして、自分と他人とのあいだに区別をつけていない、というようなことを繰り返し述べています。作品中のおびただしい数の引用は、この根本原理によるものではないかとさえ思われますが、自分の創作のために、タルホは他人の言説をまさに湯水のように使っていたのです。これは自らの創作およびその改訂のために、発表誌紙を非常に贅沢に自由に使ったことと併せて、特筆すべきことです。
 一方でタルホは、自分の考えは誰のものでもないのだから、誰でもどしどし使ったらいい、というような気前のいいことも言っています。これらは著作権意識が緩やかな時代だったからこそ成り立つ考え方だと、世俗の議論に引き寄せて考えることもできるでしょうが、事はもっと根源的な問題でしょう。しかし、私たちがタルホの作品を「湯水のように」使えるようになるまでには、少なくともその著作権保護期間が終わる没後50年、すなわち2027年10月25日まで、あと20年待たねばなりません*2。そして、その暁にはタルホの全作品がデジタル・テキスト化されてネット上に開放され、誰もが自由に読むことができ、自在に全文検索できるようになるのが望ましい。個々の作品が網目のようにリンクしているタルホ世界は、ネット世界にこそふさわしいからです。そうなってこそ初めて、タルホ・テキストを縦横にどしどし使いこなせるのではないでしょうか。
 表現が紙媒体に限られていた時代に生きていたタルホが、もし現代のネット時代に生を受けていたら、どんな創作活動をしているだろうかと夢想します。それでもまだ、ちびたエンピツでチラシ広告の裏に細かい文字を書き連ねているでしょうか?


(『足穂拾遺物語』〈高橋信行編、青土社、2008年3月〉収録)



*1 リーフレットにあるイソギンチャク・マークの三角旗のイラストはタルホによるものでしょう。
*2 2018年、著作権保護期間が50年から70年に延長されました。したがって、さらに20年後、2047年まで待たなければならなくなり、その頃には湯水も冷めているかもしれません。

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