"ART SMITH'S STORY" を読む

──「白鴎の群を越え行く時」と対照しながら



も く じ

"ART SMITH'S STORY" について

「白鴎の群を越え行く時」と"ART SMITH'S STORY"

"ART SMITH'S STORY" の内容についての疑問

アート・スミスとタルホ

【補遺】

【付録】




CONTENTS










"ART SMITH'S STORY" について


 筆者は以前から、"ART SMITH'S STORY"という書名の洋書が、何種類かネット上で販売されていることを知っていました。そして、これがタルホの言うアート・スミスの『生い立ちの記』(『アート・スミス物語』)のことだろうと想像はしていましたが、購入するのはためらっていました。
 ところが、ふとした拍子から、この本の中身がネット上に公開されていることを知りました。それは"Internet Archive"というページで、原本は米国議会図書館蔵となっています。今回、幸いそれを読むことができたので(Google翻訳で)、これを機会に、改めてタルホとアート・スミスについて考えてみようと思った次第です。

*

 原著の表紙には、大写しのアート・スミスの顔写真があって、タイトルは"THE STORY OF ART SMITH"となっています。
 表紙を捲ると扉が出てきますが、ここにあるタイトルは表紙と違って、"ART SMITH'S STORY"となっています。昔はこんな不統一は気にしなかったのでしょうか。
 タイトルの下には、"The Autobiography of the Boy Aviator Which Appeared as a Serial in The Bulletin"とあります。Google翻訳によると、「会報誌に連載された少年飛行士の自伝」と出てきます。ここで〈会報誌〉と訳された"The Bulletin"は、辞書を引くと、他に〈公報〉〈定期報告書〉〈小新聞〉などの意味が出てきます。ただ、ここは"The"が付いているので、〈ブレティン〉は固有名詞なのでしょう。この扉のいちばん下に、"PUBLISHED BY The Bulletin SAN FRANCISCO"とあって、この本は、サンフランシスコの"The Bulletin"から発行されたと記されています。ネットで調べると、サンフランシスコの"The Bulletin"は、1895年〜1924年にかけて発行された新聞となっています。つまり、日本でも同様の例がたくさんあるように、新聞紙名と発行元が同じ名前になっているわけです。
 さて、問題は中段にある"EDITED BY ROSE WILDER LANE"です。「ローズ・ワイルダー・レーンによって編集された」とあります。wikiによると、このローズ・ワイルダー・レーンとは、あの『大草原の小さな家』で有名なローラ・インガルス・ワイルダーの娘で、作家・ジャーナリストです。彼女の著作リストを見ると、確かに"The Story of Art Smith (1915) "、とあり、同じ頃"Charlie  Chaplin's Own Story (1916)"や"Henry Ford's Own Story (1917)"など、いくつか有名人の〈自伝〉を書いていたことが分かります。
 扉には"EDITED BY"とありますが、実際は彼女が〈ゴーストライター〉だったようです。次のような記事がネット上に見られるからです(以下はGoogle翻訳)。

「レーンは実際、歴史上最初のゴーストライターだったらしい。1915年、彼女の雇用主であるサンフランシスコ・ブレティン紙は、スカイライティング(筆者注:飛行機で空中に絵や文字を描くこと)の初期の実践者であり、アメリカで初めて環状飛行(筆者注:loop  the loop/宙返り飛行)をした飛行士の一人として知られるアート・スミスという名の若き飛行士と話し、彼の思索を散文に変えるよう彼女に命じた。その結果は非常に好評だったので、新聞社はそれを『アート・スミスの物語:少年飛行士の自伝』という本として出版しました。翌年、レーンはチャーリー・チャップリンの物語を幽霊に(筆者注:代作)し、その翌年には『ヘンリー・フォード自身の物語:農民の少年がいかにして何百万もの人々と関わる力に立ち上がり、それでも人間性との触れ合いを決して失わなかった』を出版した。」(ベン・ヤゴダ、英語教授、デラウェア大学/"THE NEW YORKER")

 これを見ると、1915年、サンフランシスコの〈ブレティン〉紙は、社員のレーンに対して、アート・スミスに取材して、それを〈自伝〉として新聞紙上に連載するよう命じた、それが結果的に読者に好評だったので、〈ブレティン〉社は、それを単行本にまとめて出版した、という経緯のようです。
 筆者が想像するに、この1915年は、パナマ太平洋万国大博覧会がサンフランシスコで開催された年で、博覧会のデモ飛行で墜死したリンカーン・ビーチ―に代わって、アート・スミスが夜間宙返り飛行を行って話題を集めたことから、地元の新聞社である〈ブレティン〉は、このチャンスを逃すまいと、アート・スミスをテーマにした連載記事を新聞に載せようと目論んだのではないか、と。

*

 ところで、ここで気になるのは、タルホは作品の中で、この新聞のことを一度も〈ブレティン〉と呼んでいないことです。たとえば「弥勒」(第1部)では、

 『アート・スミス物語』は桑港のブルメン紙に連載されたが、それが少しずつこちらの専門誌に紹介されていた。

 ここでは〈ブルメン〉と言っていますが、タルホの表記には以下の3種類があります。

 〈ブルメン〉:「飛行機物語」「ロバチェフスキー空間を旋りて」「弥勒」
 〈ブルーメン〉:「タルホ=コスモロジー」「墜落」
 〈ブレメン〉:「ヒコーキ野郎たち」(ただし改訂前の「扇の港」では〈ブルメン〉)

 このように表記は揺らいでいますが、〈ブレティン〉は一度も使っていません。タルホの〈ブルメン〉〈ブルーメン〉あるいは〈ブレメン〉が、〈ブレティン〉のことを指しているのは間違いないと思うのですが、なぜかその呼称が食い違っています。筆者は以前、〈Blumen〉〈Bluemen〉〈Blemen〉〈Brumen〉〈Breumen〉〈Bremen〉などでネット上を検索してみたことがあるのですが、いずれもそれらしい新聞にはヒットしませんでした。上に挙げた「弥勒」で記しているように、タルホは日本で発行されていた〈専門誌〉の翻訳で読んだわけですが、当然その雑誌には記事の基となった新聞紙名も紹介されていたことでしょう。後で記すように、タルホはこの物語の内容を、驚くべき記憶力によって正確に再現していますから、新聞紙名を間違えるというのはちょっと考えにくいのですが、その名前が食い違っているのです。タルホの作品の中からその〈専門誌〉を探ってみると、『飛行界』などの誌名が候補に浮かびますが、特定できません。

*

 この問題は今のところ、その理由を明らかにすることができないので、このまま保留して先に進みましょう。
 さて、この"ART SMITH'S STORY"が〈ブレティン〉紙に掲載されるようになったのが、いつからか判明しませんが、おそらくアート・スミスがリンカーン・ビーチ―の後釜として、夜間宙返りをして有名になった以降のことでしょう。
 パナマ太平洋万国大博覧会が開催されたのは1915年2月20日〜12月4日で、ビーチーが期間中に墜死したのは3月14日。そしてアート・スミスが登場したのは、4月以降のことです(これについては、最後にもう一度詳しく触れます)。そうすると新聞連載は、早ければ4月頃から始まったのかもしれません。単行本になった原著の冒頭には、〈JUL 12 1915〉と記されていますので、早くも7月には本が出版されたことになります。
 1915(大正4)年といえば、タルホは14歳で、4月から関西学院中学部2年に進級する年です。『アート・スミス物語』が日本の〈専門誌〉に紹介されるようになったのが、いつ頃からか分かりませんが、〈ブレティン〉紙の連載と、それほど大きなタイムラグはなかったのではないかと思います。
 というのは、アート・スミスは翌1916(大正5)年3月18日に来日しており、後で記すように、鳴尾飛行場で偶然スミスに接近したときタルホは、「『わたしは、あなたがサンフランシスコのブレメン紙に連載した生い立ちの記を殆ど諳んじている』せめてこれくらいは先方へ伝えたかった」(「ヒコーキ野郎たち」)と書いていて、すでに〈諳んじる〉ほど読んでいたからです(ネットの資料によると、鳴尾で飛行した日付は4月24日、26日、27日のようで、タルホはちょうど4月から中学3年生になっていました)。

*

 このように、タルホは中学2年生の間に、日本の〈専門誌〉を通じて『アート・スミス物語』を〈諳んじる〉ほど読んでいたわけですが、物語の内容はどのようなものだったのか。今回、ネットを通じて読めるようになった内容をもとに、タルホ自身がそれをどのように書き記しているか見ていくことにします。
 何と言っても、『アート・スミス物語』について最もページを割いて記しているのは、作品「墜落」です。その第3章「白鴎の群を越え行く時」は、全篇がスミスの記事になっており、特にその前半部は、『アート・スミス物語』の内容を、ほぼそのまま再現するような記述になっています。以下、「白鴎の群を越え行く時」を、原文と対照しながら、その内容を段落ごとに検討していくことにします。



「白鴎の群を越え行く時」と"ART SMITH'S STORY"


(*小見出しの( )内のp.は、ちくま文庫〈稲垣足穂コレクション7〉『ライト兄弟に始まる』収録の「墜落」のページ/原文p.は、"ART SMITH'S STORY"の該当ページ)

@アート=スミスは、……(p.336/原文p.6)

 この最初の段落で、アート・スミスには〈きょうだいは無かった〉とタルホは書いていますが、原文は次のようにあります(訳文はGoogle翻訳。筆者が手を入れた部分もあります)。

There had been three children older than I. They all died when I was little. I was the only one left.
(原文p.9/私より年上の子供が3人いましたが、私が幼い頃に全員亡くなってしまいました。 残ったのは私だけでした。)

 アートの上に3人きょうだいがいたけれども、アートの他は皆子供の頃に亡くなってしまった、というのが真相のようです。
 父親が建築請負業であることや、彼が目を悪くした原因など(原文p.8)については、タルホは正確に記しています。
 アートは少年時代、いろんな凧を納屋いっぱいに持っていたこと、夜中にサーカスの象が貨車から降ろされるのを見ていたこと、ローラースケートで段差越えなどをしたこと、しかし女の子はそんなことに興味を持っていなかったので、エイミー(タルホは〈エミー〉と表記していますが、"Aimee"なので、ここでは〈エイミー〉で統一)に会うまでは、自分も女の子に興味がなかった、などといったことも、ほぼ原文どおりです(原文p.6)。
 〈ジェームズ湖〉は、地図を見ると、アートの住まいがあるインディアナ州フォートウェインから北西に50〜60kmの所にあるようです。原文(p.6)によると、母親、親友のアル、エイミーたちと2週間のキャンプ旅行に行ったときの話です。それは〈6年前〉、アートが〈15歳の夏〉だったとあります。
 原文は全体を通して、その出来事が何年のことだったか、つまりアートが何歳のときだったか、ということがあまり細かく書かれていません。したがって、いま読んでいる場面がいつの話なのかを、頭の中で整理しながら読み進めることができないのが不満です。その意味で、ここの記述は貴重です。アート・スミスは1890年2月27日生まれなので、〈15歳の夏〉とは1905年で、それが〈6年前〉ということは、これを記している〈現在〉は1911年だということが分かるからです。ただし、この〈1911年〉は筆者の疑問となっている点で、それについては後で記すつもりです。

静かで長い東部の夕暮、…(p.337/原文p.7)

 この段落は、アートが飛行家を志すきっかけになったエピソードで、タルホも印象深かったようで、この「白鴎の群を越え行く時」の他でも何度か言及している箇所です。空を飛んでいたのは〈ノスリ〉だとタルホが言っている鳥は、原文では"turkey-buzzard"となっています。Google翻訳では〈シチメンノスリ〉と出てきますが、〈シチメンノスリ〉で検索しても何も出てきません。"turkey-buzzard"で検索すると、"turkey vulture" 〈ヒメコンドル〉と出てきて、これはコンドル科の鳥のようです。〈ノスリ〉はタカ科の鳥ですが、どちらにしても〈ヒメコンドル〉は翼長が170cm前後、〈ノスリ〉は100〜140cmという非常に大型の鳥です。それが羽根を動かさないで悠々と空に大きな円を描いていたのです。

家へ帰るなり彼は、……(p.337/原文p.8)

 アートはさっそく飛行機に関する雑誌記事を集めて勉強を始めます。「サイエンティフィック・アメリカン」誌などが飛行機に対して多額の懸賞金を出していることを知り、そのお金を獲得して、父親の目を治そうと決心します。このあたりは立身出世物語を地でいくような話で泣かせます。
 ここでタルホは、〈ちょうどライト兄弟の巡回興行団がこの町にやってきた。…〉という話を挿入していますが、これはアートが初めて実物の飛行機を作っているときのことで(原文p.13)、もう少し後のエピソードになります。

ある夕方、適当な時間が来た。(p.338/原文p.8)

 ついにアートは父親に飛行家になりたいと告白します。もちろん父親はびっくりして「なぜ?」と尋ねます(原文p.9)。アートは前年から学校を辞めて、建築事務所で働いていたからです。父親にその理由を聞かれて、アートは返事に窮します。なぜそれを望んだのかという理由が、頭の中で複雑に絡み合っていたからです。
 父親が飛行機を作る費用はどれくらいかと尋ねたとき、アートは1,800ドルぐらいだと答えます(タルホは〈二千弗〉としています)。しかし懸賞金は10万ドル近くあると付け加えます(原文p.10)。
 つまり、当時〈飛行家になる〉ためには、自分で飛行機を作らなければならなかったわけです。

アートはそれから、…(p.339/原文p.10)

 ここでタルホは、アートが飛行機製作のために要する部品の内訳を示しながら、詳しい見積書を3日間かけて作った、と書いていますが、原文には、

A week later I had all the figures.
(原文p.10/1週間後、すべての数字が手に入りました。)

と簡単に書いてあるだけです。
 またタルホは、(一九一〇年初めのLA市における国際飛行大会以来、地方有志の需要に応じるために、飛行機用エンジンや部品を取扱う会社が、あちらこちらに現われていた。)という補注を加えていますが、物語はまだ1905年の話です。

その紙片を父に渡してから、……(p.339/原文p.10)

 アートはまず、ゴム動力の模型飛行機を製作して、両親に見せようとします。完成までには3〜4か月かかったと言っています(原文p.10)。居間で飛ばしてみると3フィートぐらい飛び上がりました。庭へ出てトマトの蔓の間を走らせると、飛行機は上昇しながら安定して飛行しました。しかし最後は、物干し竿(タルホは〈家の廂〉)に衝突して、粉々に壊れてしまいます。

やはり夕暮時、…(p.339/原文p.11)

 アートは母親に告げます。

"If I could make a real machine and fly in it I could make money, lots of money. Dad could go up to Chicago and see thedoctors there."
(原文p.11/「もし本物の機械を作って、それで飛ぶことができたら、大金を稼げる。お父さんはシカゴまで行って、そこの医者に診てもらうことができるよ。」)

 ある日の夕食後、父親は母親とテーブルの向こう側に並んで座って、アートに語りかけます。

"Art," said dad, "we think you can be depended on. We mortgaged the house today. You can have the money for youraeroplane."
(原文p.11/「アート、お前は頼りになると思うよ。今日、家を抵当に入れたんだ。飛行機を買うお金もあるよ。」(タルホは〈われわれはお前を信頼するに足りると思う〉と記していますが、そのほうがより的確。)

と言って、テーブルの上に1,800ドル(タルホは〈二千弗〉)の小切手を置きました。それを見て、〈アートは全身に漲り渡る一箇の人間の力を感じた〉とタルホは記しています。
 原文は、

I felt for the first time a man's courage and strength.
(原文p.12/私は初めて男の勇気と強さを感じました。)

とあり、さらにそのときのアートの気持ちを以下のように詳しく述べます。

I realized what it meant to dad and mother to mortgage their home, with dad's sight growing less every day, and give themoney to me, a fifteen-year-old boy, to use for an aeroplane. I knew, too, as surely as I do now, that I would make goodand repay that money many times over. It was a great moment for me.
(原文p.12/父と母にとって、父の視力が日に日に衰えていく中で家を抵当に入れ、そのお金を15歳の少年である私に飛行機代として渡すことが何を意味するのか、私は理解しました。私も、今と同じように、必ず利益を得て、そのお金を何倍にもして返済するだろうと確信していました。私にとって素晴らしい瞬間でした。)

Aもう何も云うことは無かった。(p.340/原文p.13)

 タルホの記述はここから〈第2節〉に入ります。タルホは記していませんが、原文では、アートは働いていた建築事務所のオーナーであるウェザーホッグさんに仕事を辞めると言いに行きます(原文p.12)。
 アートは飛行機製作に没頭する決心をしたのです。スタビライザー(筆者注:安定装置)についての独自の発明を他人に覗かれないように、作業場の納屋の窓ガラスを白ペンキで塗りつぶします(原文p.13)。さらに資料によって飛行機を徹底的に研究するだけでなく、インディアナポリスにやってきたライト兄弟の飛行機を実際に見に行きます。それが先ほど触れた、〈ちょうどライト兄弟の巡回興行団がこの町にやってきた。…〉の話です。ただ、タルホが言うように、その場所は〈この町〉ではなく、原文では、インディアナポリス(フォートウェインからは200kmほど南)です。
 〈こうして苦心三ケ月。翌年一月十三日に、飛行機は遂に成った!〉とタルホは書いていますが、原文(p.14)には、作業が終了したのは〈1月17日〉だとあります。ただし、この〈1月〉が何年のことなのか、原文にははっきり書かれていないのです。
 飛行家になろうと思ったのは〈15歳の夏〉つまり〈1905年〉でした。ちなみにそれが〈8月〉のことだとすると、それから〈1か月〉経った頃、〈飛行家になりたい〉と父に告白し、最初に模型飛行機を作るのに、それから〈3〜4か月〉かかっています。その後、本物の飛行機を作るのに、6週間の予定が〈3か月〉に延びたとあります。これらを勘案すると、飛行機が完成したのは、〈1905年〉の〈8月〉から8か月後、つまり早くても翌〈1906年〉の4月頃になってしまいます。したがって、この〈1月17日〉は〈1906年〉でなく、〈1907年〉のことになるはずです。前にも言いましたが、原著の"ART SMITH'S STORY"は、こういった点が非常に分かりにくいのです。
 飛行機は完成しましたが、父親からもらった資金は、あと23ドルしか残っていませんでした。タルホは金額まで書いていませんが、アートはその中から、8ドルかけて新しいセーターを買います。飛行機で上空を飛ぶと寒さが厳しいと聞いていたからです(原文p.14)。

友だちのアルと、父と、アートは、…(p.340/原文p.14)

 親友のアルと父親とアートの3人は、人目に触れないよう、真夜中になってから飛行機を納屋から古い球技場まで運びます。そこにテントを張って一晩、飛行機を隠しておくのです。翌朝、飛行機を飛ばして、フォートウェインの町の人々を驚かせるつもりだったからです。発明したスタビライザーを秘密にしておきたいこともあって、アルともう一人の少年ウィルがテントに泊まって、飛行機を監視することにします。

新しい飛行機の木製部分や金属は…(p.341/原文p.15)

 ここでタルホは、〈発動機は紐育から届いたエルブリッジ2衝程式四十馬力である。〉と書いていますが、原文には、

At last it was done, a Curtiss-type biplane, with a two-cycle, 40- horsepower Eldridge engine.
(原文p.14/ついに完成したのは、2サイクル、40馬力のエルドリッジエンジンを搭載したカーティス型複葉機でした。)

とあって、〈エルブリッジ〉でなく、〈エルドリッジ〉となっています。また、原文にはエンジンが〈紐育〉から届いたとは特に書かれていません。
 アルがプロペラを回す役目です。アートは"Let 'er go!"と掛け声をかけて、いよいよ飛行を開始します。"Let 'er go!"は"Let  her go!"のことで、飛行機を指しているのでしょうか。タルホは、「『廻せ!』とアルの方へ怒鳴った。」と書いています。

広場の斑ら雪を蹴飛ばして…(p.341/原文p.16)

 飛行機が完成したのが冬の1月17日で、タルホは〈斑ら雪〉と記していますが、当日は少し雪が積もっていました。原文には、次のようにあります。

There was a light snow, perhaps a couple of inches, over everything,…
(原文p.16/おそらく数インチほどの雪がうっすらと全面に積もっていて、…)

 飛行機は無事空中に飛び上がりました。タルホが言うように、〈空気の座布団の上に首尾よく載っかった〉のです。しかしハンドルの前後への操作に反応して、飛行機は20フィートから40フィートぐらいの高さで、急激な上下運動を繰り返します。3度目にハンドルを前方に押したとき、マシンは猛スピードで半回転して落下し、粉々に砕け散りました。
 その瞬間、アートには何が問題だったのかが分かりました。軽量のマシンに比べて前後の昇降舵が大きすぎたのです。
 現代のように、シミュレーションによる訓練をするわけでなく、いきなりぶっつけ本番で、高価な飛行機を初めて操ろうとするのですから、無謀と言えば無謀な話です。しかしながら、そこにこそ冒険時代の飛行家の真骨頂があったのだと言えます。

「アートや、アートはどこに居る?」(p.342/原文p.17)

 目のほとんど見えない父親は、衝撃音を聞いて驚き、悲鳴を上げます。手探りしながら壊れた飛行機のそばにやって来て、「アート! マイボーイ!」と叫びました。
 アートのほうは、「お父さん! 僕は大丈夫です! エンジンも大丈夫です。」と答えて、立ち上がろうとした途端、気を失ってしまいます。
 それから5週間、アートは床に就きました。その間ずっと頭を離れなかったのは、住まいの抵当の期限が5か月以内に迫っていたこと、急がないと飛行機の懸賞金を期限までに獲得できなくなってしまうことでした。
 ある夜、父親が部屋にやって来て言いました。

「アートや、ウェザーホッグさんの事務所の仕事に戻ったほうがいいんじゃないか。お母さんも、お前にこれ以上怪我をしてほしくないと言ってるよ。」

「じゃあ、家のことはどうするの?」

「そんなことは問題じゃない。怪我をしてほしくないだけだ。」

「でもお父さん、僕は飛行家になりたいんだ!」

 父親は1分間も沈黙して、口を開きました。

「分かった、アート。できる限り援助するよ。」

Bこれから我がアート=スミスの、…(p.342/原文p.19)

 さて、この〈第3節〉に来てタルホは驚くべきことを述べています。すなわち、

「私は、一九一五年春、即ち巴奈馬太平洋万国大博覧会の当時、桑港の「ブルーメン」紙に連載された彼の自叙伝の記憶に拠ってこのペンを運んでいるが、同じ調子で続けるわけに行かない。あとは要点にとどめることにする。」

 つまり、これまで書いてきたことは、〈記憶に拠って〉いると言っているのです。もちろんそれは、中学時代に〈諳んじる〉ほど読んだ記憶です。
 この「墜落」の第3章に置かれている「白鴎の群を越え行く時」は、『全集6』の解題によれば、昭和30(1955)年6月「作家」に発表されたのが初出です。タルホが『アート・スミス物語』を読んだのは中学2年のとき、1915年のことですから、それから40年経っていることになります。
 この「白鴎の群を越え行く時」のうち、これまで見てきた部分は、文庫本のページにしてわずか6ページ半の分量ですが、今回原文と対照しながら読んだとき、物語の展開が非常に正確に再現されていることに驚嘆せざるを得ません。
 もちろん、上で指摘したように、飛行機製作の費用〈1,800ドル〉を〈2,000ドル〉としたり、模型飛行機が〈物干し竿〉に衝突したのを〈家の廂〉としたり、飛行機が完成した〈1月17日〉を〈1月13日〉にするなど、細かい食い違いはありますが、それより、初めて飛行機を飛ばした日が〈斑ら雪〉模様の天候だった、という情景を正確に記憶していることのほうに驚いてしまいます。
 それにしても、〈記憶に拠ってこのペンを運んでいる〉というのは本当か? そんな疑問を呈すると、〈では、タルホが嘘をつく必要があるのか〉という反論も想定されますが、筆者がわずかに疑念を挟むのは、別の箇所で次のような記述があるからです。

「懐かしのアート・スミス(六月第八二号)
 一九一五年の春、サンフランシスコのブルーメン紙に連載されたスミス自叙伝の訳文を、大阪の中正夫が持っていた。私は『飛行機物語』の中へ入れるつもりで、中君からそれを借り受けて、「赤翼の飛行機」を書いた。ところが三省堂出版部の沢渡恒は、「この部分は別に発表した方がいい。将来何かの役に立つだろうから取って置いては」と云って、返してきた。その旧稿に手を加えたのである。」(『タルホ=コスモロジー』『全集11』p.481〜482)」

 ここには極めて重要なことが書かれています。タルホが読んだ〈専門誌〉の連載『アート・スミス物語』を、中正夫という人物が持っていたというのです。それを借り受け参考にして、「赤翼の飛行機」というタイトルで一編書き、それを『飛行機物語』に編入しようとした。この『飛行機物語』とは、昭和18(1943)年1月に三省堂から発行された『空の日本 飛行機物語』のことです(余談ですが、戦時中にもかかわらず、奥付には〈5000部〉という大きな印刷部数の数字が書かれています)。
 ところが「赤翼の飛行機」の原稿が戻されてきたので、戦後の昭和30(1955)年になって、この旧稿に手を加え「懐かしのアート・スミス」と改題して「作家」に発表した、という経緯になります。つまり、この「赤翼の飛行機」は原稿のまま、戦争を挟んで12年も、ずっと手元に置いていたことになります。
 すなわち、中正夫所有の訳文⇒「赤翼の飛行機」⇒「懐かしのアート・スミス」⇒「白鴎の群を越え行く時」という順序になり、中所有の訳文が「白鴎の群を越え行く時」にまで反映されていても不思議はありません。
 しかし、訳文が反映されているのなら、なぜ〈1,800ドル〉や〈物干し竿〉や〈1月17日〉といった金額や場所や日付が間違っているのか? 今度はそちらのほうが疑問になってきます。
 ちなみに、この中正夫は、タルホと同年配の飛行機好きの市岡中学生だったとあります(「ヒコーキ野郎たち」)。また、武石浩玻の最期の飛行を大阪で実際に見たといって、そのときの様子をタルホに語っています(「ライト兄弟に始まる」)。その後、タルホが上京して自動車学校に通っていた頃、元朝日新聞記者の阿部蒼天が「飛行画報」を出していたことから、那須徳三郎と一緒に彼の家を訪ねたら、奥から中正夫が出てきた、と言っています(「ヒコーキ野郎たち」)。

こんどは父と母が納屋に移り、…(p.343/原文p.19)

 前段で〈あとは要点にとどめることにする。〉とタルホは述べていますが、これまでの物語は、原文29章のうちの6章分で、全体の5分の1そこそこです。この調子で書き進めていくと、原稿枚数が大幅に増えてしまうことを懸念したのかもしれません。あるいは物語の後半部は、アートが飛行家として認められ、全米各地を巡業して回る記述が多くなり、似たような内容が続いて変化に乏しい、といった理由もあるかもしれません。
 この段落では、タルホは末尾のエイミーの言葉を特記しています。

「あなたはもう此処へ来ては不可ないと、お父さんがおっしゃいました。だってあなたには定まった職がないんですもの」

 原文(p.21)は次のとおり。

"You mustn't come here any more, Art," she said. "Papa says I can't go with you any more. He says you're no good,because you haven't any steady job."

アルだけが忠実であった。(p.343/原文p.22〜23)

 親友のアル・ワートマン(Al Wertman)は、葉巻工場の勤めを辞めて、アートの飛行機作りを手伝いたいと申し出たばかりでなく、貯金の50ドルを提供してもよいと言います(原文p.23)。当時、アルはアートと同い年で16歳だったとあるので、物語は1906年のことになります。また、「彼は現在、インディアナ州に自分の葉巻工場を持っています。」(原文p.23)とあることから、最初に記したように、この物語が書かれているとされる〈1911年〉現在、アルは工場主になっていることが分かります。

本物の飛行機を見学する必要があったので、…(p.344/原文p.28)

 シカゴに〈航空センター〉というのがあることを知っていたので、アートはそこに行って自分の経験不足を補おうと決心します。アルと一緒に、節約のために貨物列車に乗って出発します。シカゴに着くと、初めて経験する大都会の貧困の実態を目の当たりにします。
 〈シカゴ航空学校〉では、20人ぐらいの若者が全員、飛行機を作っていました。彼らの飛行機を見て、アートは自分のシャーシの組み立てが間違っていて、それが原因で自分の飛行機が頻繁に車輪を壊していたことに気づきます。
 ここで〈先方の飛行場には、ダイアモンドの襟ピンを付けた紳士連がいたので、…〉とタルホが記しているのは間違いで、これはもっと後に出てくる、シカゴのミルズ・アビエイターズ出身で、テキサスでの飛行を要請しにきた人物と勘違いしているのだと思います。

He was from the Mills Aviators in Chicago.……He was a fat, well-dressed man, with a diamond in his tie, and diamond rings.
(原文p.44/彼は太っていて身なりが良く、ネクタイにはダイヤモンドが入っており、指輪はダイヤモンドでした。)

 シカゴからの帰り道は無賃乗車と野宿を続けながら、3週間後、2人はようやく故郷フォートウェインに戻りました。

野外飛行を初めてやった時、…(p.344/原文p.33〜36)

 作業場のテントに入ってきた猫を、〈パンク〉と名づけてマスコットにします。
 なお、ここでタルホの言う〈ヴォルプラン〉は、"volplane(ヴォルプレーン)"のことで、飛行機のエンジンを止めて滑空すること。

機械の調子が良いので、(p.345/原文62〜63)

 この段落には、少し立ち止まる必要があります。
 タルホは次のように書いています。

「機械の調子が良いので、思い切って高く上昇してみた。飛行機は、恰も灰緑色の巨きな鉢の中程に浮んでいるようだった。ぐるりの地平線は一様にせり上って、いま少しで向う側が覗けそうなのである。それで上舵を引くと、相変らず地平線の壁はそれに従ってせり上ってくる。」

 この部分を読んだとき筆者は、〈おいおい、いくら何でもこんなところにまで、ロバチェフスキーを持ち出すなよ〉と、少しうんざりした気持ちになりました。
 これと同じ情景を最初に知ったのは、単行本『おくれわらび』に収録された「生活に夢を持っていない人々のための童話」を読んだときで、その[5]の末尾に置かれた、兼高かおると芥川隆行との架空対談〔問答〕に出てくる、特種飛行船「ホワイトムーン号」からの展望です。

K 地表が地球上のリーマン面とは異っていることに、お気づきでしょうか?

A なるほど遠近法が逆だ。向うへ行くほど地平線がせり上がっている。

K 左右だってそうでしょう?

A カーヴがあべこべだ。こりゃ驚いた。地平線がそり返っているんですね。

K もう少し行くと、いよいよそのことが明らかになりますよ。

A こりゃ天下無類の奇観だ。これはロバチェフスキー鞍状空間の見事な自然模型です。

K 地平線の両端が高まって、すでにアーチになりかけているのがお判りになって?

A 右と左がのし上って、その両端がくっ付きそうです。

K とうとう環形に繋りました。どちらが左右とも云えなくなりました。つまりあたしたちは、今、途方もなく巨きな洞窟の内部を前後の方向に進んでいることになります。

 「白鴎の群を越え行く時」を初めて読んだとき、まだ「ロバチェフスキー空間を旋りて」を読んでいなかったのでしょう。なぜなら、「ロバチェフスキー空間…」には、ちゃんと次のように書いてあるからです。

「それは、パナマ運河開通祝賀の万国大博覧会がサンフランシスコで開かれて、会場で宙返りを見せていた曲芸飛行家アート・スミスが、彼の自叙伝を現地のブルメン紙に連載、それが日本の専門雑誌に紹介されていた時のことであった。草刈飛行(グラースカッティング)の域を脱して、初めて舵を引いて高く昇ってみた時、大地は眼下に灰緑色の巨大なお椀の底を見るように窪んでいて、地平線は眼の高さにあり、いま数呎を昇ったなら、地平の壁の向う側が覗けそうであったと。」(ちくま文庫〈稲垣足穂コレクション7〉『僕のユリーカ=x収録「改訂増補 ロバチェフスキー空間を旋りて」p.148)

 もちろん、こちらを先に読んでいたら、〈こんなところにまで、ロバチェフスキーを持ち出すなよ〉とは思わなかったでしょう。
 ただし、アート・スミスが飛行機から見たその光景と、ロバチェフスキー空間とは何ら関係はありません。前者はアート自身も語っているように、空気の密度と光の屈折との問題で、後者は正負の曲率を持っている〈鞍状空間〉、すなわち幾何学上の空間のことだからです。
 タルホが、〈リーマン空間〉を卵の表面になぞらえているのはいいとして、〈ロバチェフスキー空間〉については、卵の殻の裏面のような情景をイメージしている印象を受けます(それが誤りであることは、本サイトの〈気配の物理学, Part 5〉を参照)。

 さて、タルホが記している箇所が、原文ではどうなっているか、少し長くなりますが、訳文と併せて確かめてみましょう。

At five thousand feet I looked at the earth and saw a curious thing. The earth was not flat now; it curved up at the edges.I could see it, a sort of gray-green bowl, with patches of color here and there, curving up around me on all sides. If I wentonly ten feet higher, I was sure I could see over the edge.
I lifted the machine up, and then up again. I passed 5,500 feet. The edges of the bowl were still curving up around me. Onlya few feet higher I found myself craning my neck, trying to see over the rim of it, and still the higher I went the deeperthe bowl grew.
I was very cold by this time, chilled through. My hands were numb on the wheel. I pushed the machine a little higher; theedges of the earth curved upward a little more.
Then I realized that I must come down. My gasoline would not hold out much longer. I could not risk volplaning from thatheight into unknown country. I nosed the machine over, and descended in long, smooth swoops. When I looked at theearth again it lay flat be- neath me. I could see the hills and rivers and little towns, and the swirling currents of the airrippling over them caught my planes.
I reached Adrian and came down to it in wide circles. The machine stopped safely, and got out in the midst of a swelteringcrowd in the hot July sun. I was chilled to the bone,
I know now the reason why the earth apparently curves upward about an aviator. The density of the air is greatest at thesurface of the earth. Light waves, entering this denser medium, are deflected by it just as they are in entering water.Everyone has noticed how a spoon or a flower-stem seems bent where it enters the water, if you look at it from the rightangle. The earth seems bent in the same way when an aviator looks down at it, except that the density of the air,increasing gradually, gives a curved effect, instead of a sharp angle.
Just the same, it seems uncanny the first time an aviator sees the earth turned into a bowl, rising all around him.
(原文p.62〜63/5,000フィートのところで地球を見て、奇妙なものを見つけました。地球は今では平らではありませんでした。端が湾曲しているように、それは見えました。灰緑色のボウルのようなもので、ところどころに色の斑点があり、私の周りで四方八方に湾曲していました。ほんの 10 フィート上に行けば、きっと端の向こうまで見えるはずです。
私は機械を持ち上げて、また持ち上げました。5,500フィートを通過しました。ボウルの端はまだ私の周りで湾曲していました。ほんの数フィート高くなっただけで、自分が首を伸ばしてその縁の向こうを見ようとしていることに気づきましたが、それでも高くなればなるほど、ボウルは深くなっていきました。
この頃にはすっかり寒くなって、すっかり冷え切ってしまいました。ハンドルを握る手はしびれていました。私はマシンを少し高く押し上げました。地球の端はもう少し上向きに湾曲しました。
それから私は降りなければならないことに気づきました。私のガソリンはもう長くはもたないだろう。あの高さから未知の国にヴォルプレーンする危険を冒すことはできませんでした。私は機首を上げて、長く滑らかな急降下をしました。もう一度地球を見ると、それは私の下に平らに横たわっていました。丘や川や小さな町が見え、その上をさざ波のように渦巻く空気の流れが飛行機を捉えました。
私はエイドリアンに到達し、大きく旋回してそこに降りてきました。マシンは安全に停止し、うだるような群衆の真っただ中で脱出しました。7月の暑い太陽、骨の髄まで冷えてしまいましたが。
飛行士の周りで地球が明らかに上向きに曲がる理由がわかりました。空気の密度は地球の表面で最大になります。この密度の高い媒体に入る光波は、水に入るときと同じように、媒体によって偏向されます。スプーンや花の茎を正しい角度から見ると、水に入る部分が曲がって見えることに誰もが気づいたことがあるでしょう。飛行士が地球を見下ろすと、地球は同じように曲がっているように見えますが、空気の密度が徐々に増加するため、鋭角ではなく湾曲した効果が得られます。
同様に、飛行士が、地球がボウルに変わり、彼の周りに隆起しているのを初めて見たとき、それは不気味に思えます。)

 たしかに、飛行機から見えるこの現象は、いかにもタルホ好みですから、『アート・スミス物語』の中でも、最も強く印象に残ったものの一つだったはずです。だからこそ、このイメージが西田正秋の〈マイナスの空間〉や、後になって〈ロバチェフスキー空間〉と親和性を持つようになったのだろうと思います。

雛罌粟色のジャケットを着たエミーをうしろに乗せて、…(p.345/原文p.80)

 この話は、タルホも後で記しているように、アートとエイミーが飛行機に乗って駆け落ちしたときのエピソードです。原文では、

and when we skimmed over it I saw a bird circling a hundred feet below us. I thought it might be the same bird we hadwatched that evening four years before.
(原文p.80/湖の上をかすめると、100フィート下で鳥が旋回しているのが見えました。 私はそれが、4年前に私たちがその夕方に見たのと同じ鳥かもしれないと思いました。)

 最初にボートから鳥を見上げたのが1905年(15歳の夏)でしたから、それが4年前ということは、この〈駆け落ち飛行〉は1909年、アート19歳のときだということになります(エイミーは1歳年下)。
 ちなみに、エイミーに着せたのは、アートの赤いセーターで、ジャケットではありません。

ある時、馬力の弱い飛行機が…(p.345/原文p.42, 47, 57, 59, 60, 77)

 この段落は、あちこちのエピソードが繋ぎ合わされています。

Nothing but my mother's prayer saved me.
(原文p.42/母の祈り以外は私を救ってくれませんでした。)

 母親の話は、故郷フォートウェインのドライビングパークにおける飛行時のこと。
 次の、墜落してエンジンだけが残ったという話は、テキサス州ブライアンでのこと。アートは、エンジン以外の残骸にガソリンをかけてマッチで火を付けようとしたとき、赤毛の少年がやってきて、「待ってくれ」と言います。

"Mister, us boys-we're making glides. I wish you'd leave us all that canvass and things," he said.
(原文p.47/「ミスター、私たち少年、私たちは滑空しています。キャンバスやその他のものをすべて私たちに残してほしいのですが」と彼は言いました。)

 タルホは、「グライダーのカーヴにほしい」と記しています。
 その次の「その町じゅうが南京豆の殻で埋まってしまった。」というのは、ベレスフォードの町での出来事。

Next morning Beresford was deserted. Everyone had left town, or gone to bed. There was nothing on the streets butbanana peelings and peanut shells.
(原文p.57/翌朝、ベレスフォードには人影がありませんでした。誰もが町を出たか、寝てしまったのです。路上にはバナナの皮とピーナツの殻以外は何もありませんでした。)

 飛行機の巡業で、まとまったお金を稼ぐことができるようになったアートは、ようやく父親をシカゴの眼科医に連れていくことができました。しかし、医者の診断の結果は期待を裏切るものでした。

 "It's all right, Art. Don't feel bad. He says nothing can be done," dad said, at last.
(原文p.59/「大丈夫だよ、アート。気分を悪くしないでくれ。医者は何もできないと言っているよ。」父は最後に言いました。)

He said he would go back to Fort Wayne that night. Mother was waiting there, and he wanted to see her. We talked a longtime about me and my flying. He said he was very glad and proud that I was succeeding with it. He did not say one word ofcomplaint or self-pity that day, and has never said one since;
(原文p.60/父はその夜フォートウェインに戻ると言いました。母がそこで待っていて、父は母に会いたかったのです。私たちは、私と私の飛行について長い間話しました。父は、私がそれに成功したことをとてもうれしく誇りに思っていると言いました。その日、父は一言も不平や自己憐憫の言葉を言わなかったし、それ以来一度も口に出していません。)

 ある日、アートが母親に〈一緒に飛行機に乗らないか〉と言うと、母親は〈いやですよ、それならお父さんを連れていってくださいよ〉と言われたので、アートは父親を飛行機に同乗させることにします。

I looked back quickly. Dad was waving his hand at the crowd. He could not see them, but he knew where the grandstandwas. His face was beaming; he certainly was enjoying the flight.
(原文p.77/私は急いで振り返りました。父は群衆に向かって手を振っていました。父には彼らの姿は見えませんでしたが、観客席がどこにあるのかは知っていました。父の顔は輝いていました。父は確かにフライトを楽しんでいました。)

 このあたりの記述を、タルホは簡略にまとめています。

C夙に宙返りの念願があったので、…(p.347/原文p.88)

 アートは、先輩飛行士のロイド=トンプソンに自分のマシンを見てもらいます。

In May, when I was beginning trial flights, De Lloyd Thompson gave an exhibition in Fort Wayne. He had followed LincolnBeachey in fancy flying in this country. I watched his work in the air, and saw looping for the first time. After his flightsThompson went with me to inspect my machine. He said positively that it would not do the work.
"You're wrong," I said. "She will not only do straight looping; she will do the sidewise roll." He said I was crazy; I would killmyself if I tried it.
(原文p.88/私が試験飛行を始めていた5月に、デ・ロイド・トンプソンがフォートウェインでエキシビションを開催しました。彼はリンカーン・ビーチーに続いてこの国で曲芸飛行をしていました。彼の空中飛行を見て、ループものを初めて見ました。飛行後、トンプソンは私と一緒に私のマシンを検査しに行きました。彼は、それではうまくいかないだろう、ときっぱりと言いました。
「あなたは間違っています」と私は言いました。「飛行機はまっすぐなループだけでなく、横方向のロールもするでしょう」。彼は、私が気が狂っていると言いました。私がそれを試したら自分を殺すことになるだろうと。)

 タルホはこの話も簡潔にまとめています。

アートにはしかし自信があった。(p.347/原文p.4, 5, 89)

 この原文の第28章で(本書の編者レーンは)、アートがどのようにループ飛行を初めて成功させたかについて、冒頭の章で説明したことを読者に再確認させます。
 タルホもそれに従って、第1章の記述を振り返っています。
 「どの雲も銀色の裏地を持っている」と言ったのが、タルホが言うように詩人かどうかアートは述べていませんが、その個所は次のとおりです。

The man who said "Every cloud has a silver lining" knew what he was talking about, although probably he did not realize it.No matter how gray the clouds seem from below, when you look down at them they are always a fleecy, shining mass, witha shimmer like white silk.
(原文p.4/「どんな雲にも銀の裏地がある」と言った男は、おそらく気づいていなかったものの、自分が何を言っているのかを知っていました。下から見ると雲がどんなに灰色に見えても、見下ろすと常に白い絹のようなきらめきを持った、ふわふわした輝く塊です。)

 次にタルホは、「舵を押して落ちて行く際に得られる運動量は、機体を逆転させて再び頭を擡げさせるのに十分なエネルギーでなければならぬ」と、非常に難しそうな書き方をしていますが、原文にはそんな物理の定義のようなことを述べているところはありません。おそらくそれに対応するのは、次の箇所だと思われます。

When the machine is on end the gasoline in-take fails. The engine stops. The only thing that starts it again is that upwardswing. If she picks up on the upward swing, I reasoned, all I need is sufficient momentum to turn the machine completelyover and swing her upward-that was it-the momentum!
(原文p.5/マシンが停止状態になると、ガソリンの吸入が失敗します。 エンジンが停止します。それを再び始める唯一のものは、その上向きのスイングです。もし飛行機が上向きのスイングに乗ったら、私に必要なのは、マシンを完全にひっくり返して、飛行機を上向きにスイングさせるのに十分な勢いだけだ、と私は推論しました。それだけです。勢いはそれだけです!)

 この次から、タルホも冒頭の章から第28章の記述に戻ります。

No one had known of my flight that day. Only Aimee had watched me go up. When she saw me come tumbling down fromthe sky and land safely she ran across the field to me, and we hugged each other like two kids.
(原文p.89/その日は誰も私のフライトを知りませんでした。私が上がっていくのを見ていたのはエイミーだけでした。私が空から転げ落ちて無事に着地するのを見たとき、彼女は野原を横切って私のところに走って行き、私たちは二人の子供のように抱き合いました。)

ある夕べ、彼ら二人はヴェランダで、…(p.348/原文p.90)

 この段落の最初の部分は、タルホが何度も引用している印象的な箇所です。
 中でもいちばん記憶に残るのは、やはり「弥勒」の次の箇所でしょう。

「静かな永い東部の夏の夕暮時だった。飛行家は愛妻と共にヴェランダに出て、航空界の未来の可能性について議論を戦わした末に、双方ともに疲れて黙っていた。彼女はいつも彼よりは多く詩やロマンスを読んでいた。それで、美しくイルミネートされた飛行機に充ち満ちている夜の空の絵を頭に浮べて、そのことを口に出した。このアイデアが彼を動かして、そして現在のように万国大博覧会の上空の星月夜に光の白雨を降らせることによって、「彼と同じようなことを考えたり、同様な事をやったりしているところの人々」を狂喜させるようになった、というのだった。」(ちくま文庫〈稲垣足穂コレクション8〉『弥勒』p.120)

 「弥勒」の記述は、「白鴎の群を越え行く時」の該当箇所とほぼ同じものになっています。ただし注意しなければならないのは、「白鴎の群れ…」には〈ある夕べ、彼ら二人はヴェランダで、航空術の将来について語り交わしていた。〉とあるのみで、「弥勒」にあるように〈愛妻と共に〉と書いていないので、話の順序から二人の結婚前の出来事かと錯覚しますが、そうではなく、このエピソードは結婚後のことになります。
 原文では、次の箇所に相当します。

 I was discussing these things with Aimee one evening last fall. She sees the poetry and romance of things much quickerthan I do, and she suggested the picture of the night sky, full of aeroplanes brightly lighted. The idea appealed to me. Wewere in Fort Wayne, and E. A. Moross was giving an exhibition there. Next day I met him, and we discussed night flying withan illuminated machine. He was enthusiastic about it, and I began working on the idea. I made several night flights with themachine outlined in lights, and then it occurred to me to use fireworks, which would leave a blazing trail of light acrossthe sky.
(原文p.90/去年の秋のある晩、私はエイミーとこれらのことについて話し合っていました。彼女は私よりもずっと早く物事の詩やロマンスを理解しており、明るく照らされた飛行機でいっぱいの夜空の写真を提案してくれました。そのアイデアは私にとって魅力的でした。私たちはフォートウェインにいて、E・A・モロスがそこでエキシビションを行っていました。翌日、私は彼に会って、照明付きのマシンによる夜間飛行について話し合いました。彼はそれに熱心だったので、私はそのアイデアに取り組み始めました。ライトで輪郭を描いた機体を使って夜間飛行を数回行った後、空に燃えるような光の跡を残す花火を使うことを思いつきました。)

 これを見ると、二人は別に〈ヴェランダ〉で話をしたとは書いてありません。タルホの脚色だということが分かります。
 ビリー=バスターというのは、アートのマネージャーになった人物。
 ビーチーについての記述の部分は、タルホ自身のコメント。

ビリーに一度逢っておくようにと、(p.349/原文p.91)

 ビリーに逢うように勧めた〈仲間の飛行家〉とは、チャーリー・ホイットマー。

When I walked in Billy glanced at me, and looked over my shoulder at the door. "Where's Mr. Smith?" he asked. He hadtaken me for a messenger.
(原文p.91/私が中に入ると、ビリーは私をちらっと見て、肩越しにドアの方を見ました。「スミスさんはどこですか?」彼は尋ねました。彼は私をメッセンジャーだと思っていたのです。)

 アートは、wikiの写真を見るかぎり、母親と同じくらいの背丈なので小柄といっていいでしょう。それに20歳前とはいえ、顔立ちも子どもっぽいので、使いの少年だと見られたのも無理はありません。

博覧会の役人に飛行を見せた晩、…(p.349/原文p.93〜94)

 花火の扱いに失敗したアートは、強く自分を責めます。

They said I had make a spectacular flight. I knew I had made a criminal mistake, and an aviator should never make mistakes.All aviation has been made possible by the ability of each flyer to be sure of himself and his machine. An error meansmore than the individual wreck, it means an injury to aviation.
(原文p.94/彼らは私が素晴らしい飛行をしたと言っていました。私は自分が犯罪的な間違いを犯したことを知っていました。そして飛行士は決して間違いを犯すべきではありません。すべての航空は、各飛行士が自分自身と自分の機体を確信する能力によって可能になりました。エラーは個人の事故以上に意味があり、航空業界への損害を意味します。)

D既にスミス夫人だったエミーとのあいだには、(p.349)

「既にスミス夫人だったエミーとのあいだには、駆落ち騒ぎまで起っていた。」とタルホが言っているのは意味が分かりません。なぜなら、2人はこれから飛行機で駆け落ちして隣州で結婚するつもりだからです。

We would have to fly to Hillsdale, Mich., a seventy-mile trip. It was the nearest point where we could be married quickly,without her parents' consent.
(原文p.78/ミシガン州のヒルズデールまでは飛行機で70マイル飛ばなければなりません。それは彼女の両親の同意なしで私たちがすぐに結婚できる最も近いポイントでした。)

 ミシガン州のヒルズデールは、インディアナ州フォートウェインの北方に位置する町です。エイミーの両親が〈今後3年間は娘を誰とも結婚させない〉と断言したことから、彼らは〈飛行機による駆け落ち〉の挙に出ます。前にも記しましたが、この騒動は1909年、アートが19歳(エイミーは18歳)のときの出来事になります。アートは自分の赤い(タルホの言う〈雛罌粟色の〉セーターをエイミーに着せて飛行機に乗り込みます。エンジンを始動し、2人は〈人生最大の飛行〉に出発します。
 ところが好事魔多し、飛行中にマシンの具合が悪くなります。

We came up a little to the west of it, and just as I leaned against the controls to swing the machine that way I found thatmy aerilions did not work. A flange of a pulley had broken, and the control wire was jammed tight. The aerilions wereuseless.
(原文p.81/私たちはその少し西に来て、機体をその方向に振ろうとコントロールに寄りかかったとき、エアリリオンが機能しないことに気づきました。プーリーのフランジが破損し、制御ワイヤーがしっかりと詰まっていました。エアリリオンは役に立ちませんでした。)

 タルホはこの部分を、〈操縦索の滑車のふちが毀れ、横辷りになりながら…〉と言っていますが、滑車のフランジが破損し、そこに制御ワイヤーが挟まって動かなくなってしまった、ということでしょう。〈エアリリオンは、機械のバランスを取る小さなフラップ〉とあるので、それが役に立たなくなって、飛行機のバランスが取れなくなったということになります。
 必死の操縦の甲斐あって、なんとか地面への激突は避けられたものの、飛行機は軟らかい砂地に着地して一回転、大破します。
 タルホはこの事故後のことを詳しく書いていませんので、原文に沿ってそれを少し補っておきましょう。

*

 マットレスを配達していた家具店の運転手が、たまたまその事故を見つけて、2人を救出しホテルに運んでくれました。その事情を知ったのは後からで、アートの意識が戻ったのは4時間後でした。
 エイミーも大怪我をしていましたが、命に別状はないようでした。アートが「自分たちは結婚したいのだ」とそばにいた人に告げます。エイミーが手を差し伸べてきたので、自分が座らせられていたロッキングチェアを、誰かが、エイミーの寝ているベッドに近付けようとしたはずみに、椅子がベッドにぶつかり、その衝撃で2人とも再び気を失ってしまいます。
 1時間後に再び意識が戻ると、部屋には人がたくさんいて、その中に牧師や郡職員もいました。そこでさっそく簡単な結婚の儀式が行われ、2人は正式に結ばれます。エイミーの両親とアートの母親がやって来たのはその後でした。あたかも映画の一シーンを思わせる話です。
 医師の診断の結果、ヒルズデールには病院もないことから、2人はそのホテルで3週間、寝ていなければなりませんでした。
 3週間後、アートはようやく松葉杖で歩けるようになったので、エイミーを簡易ベッドに乗せ、荷車でフォートウェインまで連れて帰りました。

*

 これまでのタルホの話は、時間的順序が前後しています。アートが初めて宙返り飛行を行ったり、夜間照明飛行のアイデアをエイミーが提案したというのは、結婚後のことです。したがって、先にも述べたように、〈ある夕べ、彼ら二人はヴェランダで、航空術の将来について語り交わしていた。〉というエピソードは、結婚後の話だということになります。

「雛菊刈りをやっていた頃、彼はまことに優しい良人でしたが、…(p.350/原文になし)

 前段の末尾にあるように、〈こんな仲だったのに、桑港では離婚沙汰が提起された。〉とタルホは記しています。
 ところが、単行本の"ART SMITH'S STORY"には、その〈離婚沙汰〉の記述がありません。原著は、パナマ太平洋万国大博覧会でリンカーン・ビーチーの後を継いで、自分が飛行機に乗ることになった、というところで物語が終わっているのです。
 これはどういうことか? タルホが読んだ連載の翻訳『アート・スミス物語』には、その〈離婚沙汰〉の話も載っていたのでしょう。ということは、アート・スミスは、ブレティン社の編集者、ローズ・ワイルダー・レーンに、その話までしたのでしょうか。それはないような気がします。

これがエミー側の言い分である。(p.350/原文になし)

 前段でタルホが記述している〈エミー側の言い分〉というのは、レーンがエイミーに取材したのかもしれません。それとも〈結局スミスは敗訴して、月々五十弗の生活費を前夫人に支払わねばならないことになった。〉というような話は、新聞記事がもとになったのかもしれません。
 いずれにしても、単行本にするに当たって、さすがにそういうところは具合が悪いだろうということで、その部分は削除したのでしょう。

ある日、白髯のユデー大佐がマリーナへ乗り付けた。(p.351/原文p.85)

 ここに出てくる〈ユデー大佐〉は、〈コデー大佐(Colonel Cody)〉の誤り。
 これ以降のタルホの記述は、『アート・スミス物語』の内容からは離れていきますので、原文と対比しながらのコメントはここまでとします。



"ART SMITH'S STORY" の内容についての疑問


 さて、原著の"ART SMITH'S STORY"の第28章には、次のような記述があります。

After the accident which cost America one of her finest aviators─a loss that will be regretted always─Billy was more  insistent than ever that we come to San Francisco. He finally made arrangements with the Exposition for two trial flights  here.
(原文p.91/アメリカで最も優れた飛行士の一人を失った事故の後、その損失は常に後悔されることになるでしょうが、ビリーは私たちがサンフランシスコに来るようこれまで以上に強く主張しました。彼は最終的に、博覧会とここでの 2 回の試験飛行の手配をしました。)

 〈アメリカで最も優れた飛行士の一人を失った〉とあるのは、もちろんリンカーン・ビーチ―のことを指しています。その死は1915年3月14日でした。そしてアートのマネージャーのビリーが、〈サンフランシスコに来るよう〉というのは、パナマ太平洋万国大博覧会のことを言っているのは間違いありません。
 この記述の後、次のように続きます。

I was to give a day flight on Saturday, April 3, and a night flight on Sunday. Billy and I reached San Francisco late Fridaynight, with the aeroplane.
(原文p.91/4月3日土曜日に昼間の飛行をし、日曜日に夜間の飛行をすることになっていました。ビリーと私は金曜日の夜遅くに飛行機と一緒にサンフランシスコに到着しました。)

 この夜間飛行の話は、先に述べたように、アートが花火を爆発させて失敗した試験飛行のことを指しています。この〈4月3日〉というは、もちろん1915年の4月3日のことでなくてはなりません。つまりビーチ―の死から、わずか20日後にアート・スミスが夜間飛行の試験飛行をすることになったわけです。
 そして最終第29章の最後に、次のようなことが記されているのです。

Three weeks later I celebrated my twenty-first birthday by signing my San Francisco contract. It was just five years fromthe time I had watched the bird flying over James Lake. I am flying now over the domes and towers of the world's greatest  Exposition.
(原文p.94/3週間後、私はサンフランシスコとの契約に署名して21歳の誕生日を祝いました。ジェームズ湖の上空を飛ぶ鳥を観察してからわずか5年後のことでした。私は今、世界最大の博覧会のドームやタワーの上を飛んでいます。)

 この記述は明らかに事実に反しています。なぜなら、パナマ太平洋万国大博覧会は1915年に行われたのですから、1890年生まれのアートは、そのとき〈21歳〉でなく、〈25歳〉でなければなりません。しかも、4月3日の試験飛行の3週間後といえば、4月下旬になります。アートの誕生日は2月27日ですから、これも変です。また、ジェームズ湖上の鳥の観察は〈15歳の夏〉だったのですから、それからは〈5年後〉でなく、〈10年後〉のはずです。なぜこんな明らかな間違いを犯しているのか。
 最初にも指摘しましたが、この"ART SMITH'S STORY"には、それが何年の出来事だったかが全く書かれていません。何より、アート・スミスの生年月日さえ一度も記されていないのです。〈1890年2月27日生まれ〉というwikiの情報は間違っているのかと思いましたが、他のネット上の記事も同じ生年月日を採用しています。中でも故郷インディアナ州フォートウェインにあるアート・スミスの墓誌の写真が、インスタに上げられているのは決定的です。そこには〈1890−1926〉とはっきり墓石に彫られているからです。
 編者のレーンは、物語の最初に、〈15歳の夏〉が〈6年前〉だったと記しているので、この物語が〈1911〉年に書かれたという設定にしています。しかし物語の最後は、〈1915年〉に行われたパナマ太平洋万国大博覧会の記述で終わっているのですから、物語として明らかに矛盾しています。
 物語がなぜこんな不統一のままになっているのか、その理由は分かりませんが、あるいは、博覧会当時持ち上がっていたというエイミーとの離婚問題の件を、この単行本では避けて物語を終わらせようと考えたせいかもしれない、とも筆者は考えています。結果として、その目論見は物語として破綻していますが。
 編者ローズ・ワイルダー・レーンへの不満ばかりを述べましたが、感嘆すべき点も幾つかあります。録音機も無い時代に、インタビューのメモから、どのようにしてこれほどの内容を書き起こすことができるのか、彼女の技能に驚かされます。特に、操縦と機体の動きの記述、たとえば先にも引用しましたが、〈ループ・ザ・ループ(宙返り飛行)〉における技術的な側面を、アートに対する取材メモだけから詳しく再現していることなどは驚嘆させられます。



アート・スミスとタルホ


 さて、今回初めて"ART SMITH'S STORY"を(機械翻訳で)読んでみて、タルホが夢中になった理由の一端が分かったような気がしました。
 それは、主人公アート・スミスの年齢が、タルホが物語を読んだ年齢とほぼ同じだったことです。物語はアートが〈15歳の夏〉から始まっています。タルホが連載を読んだのが、中学部2年〜3年の頃ですから、やはり14〜15歳になります。飛行機を自作して、自分で操縦して飛ぶという、まさに冒険的な時代の話で、初恋のエイミーとのエピソードも相まって、思春期さなかのタルホは、おそらくアート・スミスに自分を投影しながら、心を躍らせて読み進めたのではないでしょうか。
 何年か後、タルホは自身も実際に飛行家を目指そうとしますが、それはアート・スミスの物語の影響が大きかったのではないか、と筆者は強く思いました。
 たしかに、作品「白鳩の記」では、

「わたしはブリリアントなアート・スミス氏とも握手しました。しかし、最初の飛行家及びその機械から受けたものに較べてみると、そこには常に何物かがかけていました。」

と述べて、アート・スミスと武石浩玻を比較しているタルホですが、〈握手云々〉はあくまでもフィクションですから、このレトリック全体を文字どおりに受け取ることはできません。浩玻の墜死が大きな衝撃を与えたことは間違いありませんが、そのときタルホはまだ12歳、その事件がきっかけとなって飛行家を目指したのか、というとそうは思えないのです。

 さて、作品「父と子」に、次のような一節があります。

「息子の頭に飛行機以外の何物もないらしいのを顧みて、民間飛行学校の学資くらいは無理をして拵えてやるにしても、どうもこの仕事は生産的でない、一度失敗したらそれっ切りで、いま一度というわけに行かないのだからと、そんなことも考えてみた。でも自動車学校云々を董生が持ち出した時、その費用を出してやった。」(『全集7』p.171〜172)

 これは董生の父親、周蔵の考えを述べているのですが、これを書いていたとき、タルホの脳裏にはアート・スミスの物語が去来していたのではないかと思われます。なぜなら、アートの父親は、〈お前は信頼するに足りる息子だ〉と言って、家を抵当に入れてまで、息子のために1,800ドルという大金を用立てたのですから。しかも最初の飛行で墜落して大怪我をしたのに、〈それでも飛行家になりたいんだ〉とアートが言ったとき、1分間も沈黙した後、〈分かった、アート。できる限り援助するよ。〉と答えた父親。一人息子だとはいえ、アートに対する両親の愛情の深さは比類のないもので、おそらくタルホは非常に羨ましく思ったに違いありません。しかしそのタルホにしても、親は自動車免許を取るために上京する費用を出してくれたわけで、飛行学校に入学しようとしたときも、父親は、

「しかし保証金不要の練習所だと云うのならば、結果はどうともあれその数カ月の費用ぐらいは倖い手許にあるから、と彼は云ってくれた。」(「ヒコーキ野郎たち」『全集6』p.267)

というのですから、タルホの親も一人息子にできる限りの援助をしようとしたのだと思われます。しかし結局、

「航空局の第一回陸軍委託練習生の募集があったが、近眼鏡を必要とする点で董生は断念の他はなかった。」(「父と子」『全集7』p.172)

とあるように、この計画は頓挫することになり、〈褐色の胡桃型塵除眼鏡〉を買うことでせめてもの印とし、飛行家になる夢は断念せざるを得なくなります。
 しかしながら、仮に練習生に合格して、パイロットの訓練を受け、飛行機を操縦することができるようになったとして、はたしてタルホはそれによって何をしようとしたのか? 軍にしろ民間にしろ、高価な飛行機を飛ばすためにはその目的があるわけです。その目的に沿った仕事がタルホにできるのかと考えたとき、到底それを想像することができません。しかも時代は1919年、アート・スミスが初めて自作飛行機を飛ばしたときから、かれこれ10年以上も経っています。〈精神が物質に打ち勝つ〉時代、〈人類解放の夢が托されていた〉時代は、すでに終わっていたのです。
 〈何のために飛行家になろうとしたのか?〉と尋ねたら、タルホは何と答えるでしょうか。

「もちろん墜落するためや」



【補遺】


 「弥勒」第1部に次のような記述があります。級友のFに、温めていた自叙伝のことを尋ねられたとき、江美留が唯一できていた結びの一節というのは、以下のようなものでした。

「世界における自分の事業はやっと端緒についた。距離や速力や高度やその他多くの懸案が残っているし、個人としては両親ならびに妻の幸福も保証されねばならない。そこには男の仕事がある。社会の進歩は常に人間の夢に依る。将来の航空界が何をもたらせるかについては、ワットが鉄瓶の蓋を持上げる湯気を見て、最初の蒸気機関を夢みた以上のことを自分には想像なし得ない。そうだ、飛行家とは革命家である。これを肯じる者こそ、かの白鴎の群をこえて高く、脚下に自分を打ち見守る無数の白い顔々を見ながら飛び上って行く時に、自分が覚える感激の意味を了解するであろう」(ちくま文庫〈稲垣足穂コレクション8〉『弥勒』p.132〜133)

 この記述の前に、「例の米国飛行家の半生記に影響されたのか、江美留の頭にもそれに似たものを綴ってみたいという念願が湧いていた。」とあるので、それが『アート・スミス物語』であることは明らかです。
 そして、江美留の結びの一節は、今回見てきた"ART SMITH'S STORY"の最後の記述を、そのままリライトしたような文章となっています。
(ちなみに、上の江美留の一節中に、作品「墜落」の第3章のタイトル「白鴎の群を越え行く時」と同様の言葉が登場していることを指摘しておきます。)

My work in aviation is really just beginning. I want to do a big share in opening the great air-sea to the world's navigation.There is man's work in that. I have begun it now; some day I will be doing it.
For a few more years it must be a question of money. Aimee's comfort must be assured; dad and mother must have theircomfortable home and an income which will care for them. Then I will build the aeroplanes I want. I will explore the greataltitudes. I will work on transportation problems.
The world is carried forward by man's great dreams. The greatest dream of all is the conquest of the air. What it will meanto human life we know no more than Watt knew when he watched the lid of the kettle and dreamed of the first steamengine. Aerial navigation will mean, as the steam engine did, more than we can imagine now.
Big men are working on it. Big men will some day conquer all the difficulties which we are fighting.
We are only pioneers, but we are pioneers with a great idea. Some time in future centuries the whole world will berevolutionized by that idea. Then it will know the value of the hope and the thrill we feel as our aeroplanes rise from theearth, pass through the clouds, and fly high in the clear upper air.
〈THE END. 〉
(原文p.94/航空業界での私の仕事はまだ始まったばかりです。私は、大空と海を世界の航行に開放することに大きな役割を果たしたいと考えています。そこには人間の業がある。私は今それを始めました。いつか私もやります。
あと数年はお金の問題になるに違いない。エイミーの快適さは保証されなければなりません。お父さんとお母さんには、快適な家と、世話をしてくれる家がなければなりません。それから私は私が望む飛行機を作ります。素晴らしい高地を探検してみます。交通問題に取り組みます。
世界は人間の大きな夢によって前進しています。最大の夢は空の征服です。それが人間の生活にとって何を意味するのかは、ワットがやかんの蓋を眺めながら最初の蒸気エンジンの夢を見たときに知っていたのと同様に、私たちにもわかりません。航空航行は、蒸気機関がそうであったように、今私たちが想像できる以上の意味を持つことになるでしょう。
偉い人たちが取り組んでいます。大きな男たちは、いつか私たちが戦っているすべての困難を克服するでしょう。
私たちは単なる先駆者ですが、素晴らしいアイデアを持った先駆者です。今後数世紀のうちのある時点で、全世界がその考えによって革命を起こすでしょう。そうすれば、飛行機が地球から上昇し、雲を通り抜け、澄んだ上空を高く飛ぶときに私たちが感じる希望とスリルの価値を知るでしょう。
〈終わり。〉)



【付録】


※タルホがアート・スミスに言及している箇所を、以下に作品名の五十音順に掲載しておきます。

翌年春にやってきたスミスのカーティス式(100馬力)は、イモリのように下面が赤で、上面の黒地にART SMITHと白く大字が書かれ、方向舵にはアメリカ国旗の星と横縞があしらわれていた。(「Curtiss! Curtiss!」『全集6』p.452)

それは、あの湖水地方に有りがちな、暖い長い秋の夕暮でした。…(全篇が「生い立ちの記」を基にした創作)(「「逆転」──思い出のスミスに」『全集6』p.382〜387)

先日も埴谷雄高さんが、かれが少年時代に台湾で見たというアートスミスのヒコーキについて、「金属製の機体の先端に跨ってハンドルを取っていた云々」と書いていたが、当時のヒコーキは何より軽量でなければならず、強度においても鋼鉄などの要求はなかった。(「空間の虹色のひづみ」『全集11』p.320)

赤翼の飛行機の先端にハンドルを握ったスミス氏の地上接吻飛行にさいしてぱたぱたと翻っていた背広服の袖口やズボンの裾でも無い。実に、午後の飛行を待って馬場に寝ころんでいた時に、手枕の傍に見付けたコバルトヴァイオレットの一点、しかもその小さな存在をいち早く自分に知らしめた強い香気ではなかったろうか?(「夏至物語」『全集8』p.49)

わたしはブリリアントなアート・スミス氏とも握手しました。(「白鳩の記」『全集2』p.146)

この云いがたきものは、少年の、粉がふいたような頬を埋めた緑色のマントーの襟と、お正月の夕べに点った映画街の悲しく華やかな電飾にアレンジされて、わたしの心を、アート・スミスの赤翼の飛行機よりもなお高く揚げたのでした。(「WC」『全集1』p.188)

懐かしのアート・スミス(六月第八二号)(昭和三〇年)
一九一五年の春、サンフランシスコのブルーメン紙に連載されたスミス自叙伝の訳文を、大阪の中正夫が持っていた。私は『飛行機物語』の中へ入れるつもりで、中君からそれを借り受けて、「赤翼の飛行機」を書いた。ところが三省堂出版部の沢渡恒は、「この部分は別に発表した方がいい。将来何かの役に立つだろうから取って置いては」と云って、返してきた。その旧稿に手を加えたのである。(「タルホ=コスモロジー」『全集11』p.481〜482)

「稲垣君、私はあなたと共に大正三年関学に赴任した佐々木です。……アートスミスがきたときの前後、あなたの飛行機熱やアートスミスについて教えられた事も思い出します。」(「タルホ=コスモロジー」『全集11』p.491〜492)

次はサンフランシスコの金門わきに開かれた、パナマ太平洋万国博覧会である。宝玉塔の七色サーチライトの放射回転が呼び物で、他には週に二回、マリナの芝生からアート・スミスの赤翼の飛行機が舞い上がって、曲芸を見せた。世界嚆矢の花火仕掛けの夜間宙返り飛行もこの時の話である。これは「ファンシーフライト」であって、俗悪な今日のショーではない。(「タルホ的万国博感」『全集11』p.277)

機械は二台あった。アート・スミスが使用していた複葉で、エンジンはさすがに立派なものだったが、……
ナイルスやスミスやペテイロッシィにくらべて、こちらは天空の韋駄天走りだ、とも喩えたい放胆な操縦振りが、……(Joe Bouquelのこと)(「ちんば靴」『全集1』p.77〜78)

大正五年四月、米国の曲芸飛行家アート=スミスがやってきた時、沢田中尉はこのスミスのカーティス式複葉を真似た駆逐機を、自身で設計した。(「墜落」『全集6』p.329)

私は、一九一五年春、即ち巴奈馬太平洋万国大博覧会の当時、桑港の「ブルーメン」紙に連載された彼の自叙伝の記憶に拠ってこのペンを運んでいるが、同じ調子で続けるわけに行かない。(「墜落」『全集6』p.336)

大正年代に、四条通りに、「三崎の小母さん」というボンネットにネットをたらしたハイカラ婦人がいて、横田商会の松之助忍術映画用の大道具を一手に納入していた。サンフランシスコの大博覧会へ出掛けたのがきっかけで、以来、度々渡米するようになり、アート・スミスがやってきた時、深草練兵場で宙返り飛行会の勧進元になったりしていた。(「吊籠に夢む」『全集6』p.295)

当時二十四歳の青年校長相羽有は仲々のやり手で、がむしゃらの英語でアート・スミスに近付いて、先方の自動車に肩をならべて合乗りするような人柄であった。(「東京遁走曲」『全集9』p.21)

狐色に焦げたポテトフライでさえも、ある時それが聖餐ではなかったとは云えない。羽田穴守の自動車学校にいた頃、私は横浜駅前のレストランの卓で、「これはアート=スミスが鳴尾競馬場でランチに食べたものである」との説明の下に、それを友だちに食べさせたことに思い当たるからである。しかしその頃スミス氏はまだ健在であった。だから厳密な意味では、「聖体」でなかった。(「浪花シリーズ」『全集9』p.474)

大正十一年四月十六日の午後、日比谷の帝国ホテルが全焼した。私にはアート=スミスやカザリン=スチンソン嬢の思い出があるなつかしい建物であった。(「鉛の銃弾」『全集10』p.371)

マリナのみどりは日毎に濃度を増し、野も山も凉風に快よい季節になったけれど、美しい自然の上を心の儘に飛び廻る人はいなかった。高楼のあいだに覗く青空はなんとなく物足りなさを覚えさせ、宝玉塔の夜々のきらめき、また市民に一抹の淋しさを唆っていた折柄、インデアナの田舎から、「ビーチ―のやったことは何でもやる」との前触れの下に、まだ名もきいたことのない童顔のひこうかが現われた。アート・スミスである(『全集8』の〈マソナ〉は〈マリナ〉の誤り:筆者)。(「日本人とは?」『全集8』p.286〜287)

埴谷雄高も先日、エイゼンシュテインの『十月』を論じたエッセイの中で、(彼自身の幼時の回顧として)「その飛行機は胴体に覆いがないので、その鉄骨の先端に腰かけてハンドルを握っているアート・スミス云々」とか、「張りめぐらされた細い多くの鉄線とやや太い鉄骨が」とか書いていた。「パテェの赤い雄鶏を求めて」『全集10』p.192)

右手の消防隊の車庫の内部に、赤い消防自動車を見た。その前面の放熱器が赤塗りの枠に囲まれて、こちらを向いていたことに、わたしはアート・スミスの赤翼の複葉飛行機を思い起した。(「鼻高天狗はニセ天狗」『全集10』p.250)

赤色にぬられた複葉飛行機の翼が、ピカリピカリと私たちの方へ反射して、何ともいえずにきれいだったことをよく憶えています。──この若い飛行家は、前年の春、第一人者とうたわれていた冒険飛行家B氏を失ってのち、緑は深んでもさびしかったパナマ太平洋万国大博覧会の上空に突然あらわれて人々をおどろかせたのでした。かれは、友だちの少女といっしょに、湖水に浮んだボウトの中から鳥を見て、飛行家を志願したのでした。私はそのくだりをほとんど暗誦しています。(以下続く)(「飛行機物語」『全集2』p.327)

私は、ブルメン紙上に連載されていたかれの「生い立ちの記」をよんでいたから、そんなことも知っていたのです。(「飛行機物語」『全集2』p.328)

島津は其の後、所沢で得た知識を基にルノー九〇馬力を作った。更にマース、幾原知重、海野幾之介、磯部少佐、ナイルス、スミス等の飛行機に付いていた、水冷却V字型八気筒、直立六気筒等々の修理調整に彼は当たったし、……(「ヒコーキ野郎たち」『全集6』p.215)

うすっぺらだがグラフィック用の良紙が使ってあり、鶯色の表紙にアート・スミスの笑顔を置き、その上方に白く縁取られた赤文字が横に「飛行画報」と並んでいた。(「ヒコーキ野郎たち」『全集6』p.231)

去年の春この同じ場所に、上面を黒く下面を赤に、そして方向舵には横縞と星とをあしらい、上翼のおもてにART SMITHと白く大書したカーティス複葉機が置かれていた。これにならんで普通の茶褐色に塗り上げられたのがあって、この二機の周りに新聞記者やら名士やら軍人やら幼年学校の生徒やらがこみ合っていた。お昼すぎに私が、枝川の松並木にそうた馬場の西外れクローバーの上にひとり佇んでいたら、観覧席の方から黄に塗られた豆自動車が走ってきた。スミスはうしろに見物中から呼び出したらしい一人の男の子を乗せていたが、柵外からワーッワーッと歓声があがるたびに右手を上げて応じ、少年もまた極まり悪げに両手を差し上げて万歳をしていた。私のすぐ前まできてバックしようとして、米国冒険飛行家は灰青色のひとみをこちらに注いだ。彼の鳥打帽の弁慶縞は黒だとばかし思っていたのに、実は青緑色の格子であることが判明した。
私がスミスと話したという噂が学校で流れたが、その真相は以上に尽きている。中学三年生に何が出来るものか! 「わたしは、あなたがサンフランシスコのブレメン紙に連載した生い立ちの記を殆ど諳じている」せめてこれくらいは先方へ伝えたかったが、ためらっているうちに黄色の豆自動車は後ずさりして、後輪にブレーキをかけると同時にハンドルを左に切ったのでくるりと一回転して、観覧席の方へ走り去った。この次第が岡本という英語の先生によって、粉飾誇張されて各教室に伝えられたわけである。たぶん誰か遠くの方から見ていた者があったのであろう。岡本先生は、私が別の先生から、「デヴィス先生に附添って貰ってスミスと話をしてみたらどうか」と勧められたことを知っていたのかも知れない。(「ヒコーキ野郎たち」『全集6』p.242〜243)

私は前田の弟と入れ換って、傍えにあった両眼ひと続きの短冊型の眼鏡をかけて操縦席に上ってみた。この同じ眼鏡をかぶり、この黒革張りの席へ先日スミスが腰をおろしたのだということを我が身に云い聞かせながら、両足で足楫をふんまえて、槓桿を右手に握り、前面からまともにプロペラの風が吹きつけ、下方遥かに摂津の海面や陸地が移動して行くさまを想像しようとした。(「ヒコーキ野郎たち」『全集6』p.244)

アート・スミスはこの大正五年の春、三月二十二日にマニラに去ったナイルスと入れ代りに日本へやってきたのであるが、六月十六日に札幌で不慮の事故に遭って負傷、一度アメリカへ帰って翌春びっこを引きながら再来した時に、即ち五月十日に沖野ヶ原を訪れて、「おおモラヌ・ソルニエー!」と懐かしげに叫んで、約一時間各部を弄り廻してから岩名政次郎をうしろに乗せて飛び立った。(「ヒコーキ野郎たち」『全集6』p.248)

そんな一つの玄関に「櫛引弓人事務所」の標札を見付けて、私は懐かしさに打たれた。桑港のパナマ太平洋万国大博覧会からアート・スミスを連れてきた銀髪のマネジャーの名前だったからである。(「ヒコーキ野郎たち」『全集6』p.251)

アート・スミス少年がインディアナ州フォートウェインの町で最初に作り上げた飛行機にも、このエルブリッジ発動機が取付けられた。(「ヒコーキ野郎たち」『全集6』p.271)

アート・スミスの冒険飛行の夜はおろかなこと、ベーブ・ルースのホームランを待ちかまえるポログランドの群衆だって、こうもぎっしりと詰りはしないであろうその見事さに、わたしは思わず知らずに会心の笑を浮べたのでした。(「星を造る人」『全集2』p.44)

『アート・スミス物語』は桑港のブルメン紙に連載されたが、それが少しずつこちらの専門誌に紹介されていた。最近に読んだのはこんな箇所である──
静かな永い東部の夏の夕暮時だった。飛行家は愛妻と共にヴェランダに出て、航空界の未来の可能性について議論を戦わした末に、双方ともに疲れて黙っていた。……(「弥勒」『全集7』p.240)

そしてあのタイトルバックにあったような六月の夜の都会の上空で、スミスやボークェルを遥かに凌駕した演技が行われねばならない。(「弥勒」『全集7』p.244)

カーティスについては、マースの「雲雀号」アットウォーターの「鴎号」武石浩玻の「白鳩号」幾原知重、高左右隆之、ナイルス、スミス、ルス・ロー夫人、いずれの機体もその細部にかけて私はよく知っているが、貫禄の点ではどうもライトの方が優れていると思わないわけにいかない。(「ライト兄弟に始まる」『全集6』p.78)

ビーチェーに入れ代って、博覧会の夜天でマグネシュームの炬火をつけて宙返りをやってのけたのが、お馴染のアート・スミスである。(「ライト兄弟に始まる」『全集6』p.87)

──大正五年、アート・スミスが来日した時、三重県の御木本真珠養殖所で、この方法が用いられた。三方を山で囲まれ、海の方へひらいている、幅二十米突、長さ四十米突の空地から離陸し、演技を終えて、降りてきた赤翼のカーティス機は、ロープをひっかけても止まらず、みんなは胆を冷やしたが、最後から二本目の綱でやっとくい止められた。(「ライト兄弟に始まる」『全集6』p.93)

日本で発動機付きモデルを初めて飛ばしたのは、大阪の松屋町うらの河野仙太郎氏である。……彼は師団近くの上本町に材料店を開いていた。そこの土間には、アート・スミスが使っていたプロペラが立てかけてあった。(「ライト兄弟に始まる」『全集6』p.139)

大正八年頃の蒲田は、未だ其処此処に水流が行き交うて、花菖蒲の名所であった。……仲間に十三、四歳の美少年が居て、なんでも山陰地方の大きな旅館の息子で、母親が日本のアート・スミスに仕立ててくれと云っているのだと聞いたが、彼は一人で穴守稲荷の裏の旅館に泊っていた。(「ラジエーター」『全集8』p.89)

リンカンビーチー(Lincoln Beachey)こう云えば知っている方があるかも知れません。スミスやナイルスがまだ世に出ないさきに、北米飛行界の鬼才として、……(「Little Tokyo's Wit」『全集6』p.362)

それは、パナマ運河開通祝賀の万国大博覧会がサンフランシスコで開かれて、会場で宙返りを見せていた曲芸飛行家アート・スミスが、彼の自叙伝を現地のブルメン紙に連載、それが日本の専門雑誌に紹介されていた時のことであった。草刈飛行(グラースカッティング)の域を脱して、初めて舵を引いて高く昇ってみた時、大地は眼下に灰緑色の巨大なお椀の底を見るように窪んでいて、地平線は眼の高さにあり、いま数呎を昇ったなら、地平の壁の向う側が覗けそうであったと。(「改訂増補 ロバチェフスキー空間を旋りて」『全集5』p.101)

中江はまた、昔々のアート・スミスと御木本幸吉真珠王が、飛行機を背景にして立っている写真を先日送ってきてくれた。(「ヰタ・マキニカリス註解」『全集2』p.363)

赤いオンドリが代表する一群の中には、勿論、方向舵に横縞と星々を描いた、アート・スミスの赤翼の複葉飛行機も属している。(「ヰタ・マキニカリス註解」『全集2』p.363)

この短篇(「星を造る人」)の終りに近く出てくる新聞記事、「神戸の空の清らかな色と秀麗な山の姿を見て云々」は、アート・スミスの夜間宙返り飛行があった時の大阪朝日のキャッチフレーズ、「大阪の空に煙の多いのを見て、シカゴを思い出すと云って眼に涙を滲ませて懐かしがった人は、今宵の飛行を最後にして此地を去ろうとしている」をもじったのである。(「ヰタ・マキニカリス註解」『全集2』p.375)





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