気    配    の    物    理    学

──ポッカリ空いた大きな穴についての考察──



はじめに

 タルホの数ある作品の中でも、「宇宙論入門」は、周囲にほとんど似通った山々が連なっていない弧峰≠フような存在(近傍に「僕のユリーカ=v(「遠方では時計が遅れる」)が望めるとはいえ)となっているように思われます。読者にとっても、他の作品に比べると取っ付きにくく、最も敬遠されている作品の一つではないでしょうか。
 星々や宇宙については誰にも興味のある対象のはずですが、宇宙論≠ニなると、なかなかそうした分野の本を手に取ってみるまでいかない、という人も多いかと思います。
 タルホ自身も、「宇宙論入門」のはしがき=i「読者に」)で述べています。

 諸君は、あの星々に詰っているかなた、ずっとずっと、その先方は結局どうなっているのか? このことを知りたいと思って、ある種の雑誌や書籍を手にされる。けれどもそのページには、いずれも似たり寄ったりの断片的智識と、天体写真と、且つ数式の羅列があって、そこにかいてあることの概念さえよくつかむことのできないのが常である。私とても、それと同様な嘆を永くしてきた。(「宇宙論入門」、全集5、p.365)
 
 このように、宇宙論参入の行く手を阻んでいるのが、いわゆる数学≠ナあることは、多くの読者も頷かれることでしょう。しかしながらタルホは、自分の持っている武器で、敢然と宇宙論に立ち向かおうとします。

 ここに困ったことは、数学の智識がない者は一切かかる題目に触れてはならぬと云われていることである。しかしそのような言葉をきいて、引っこんだならば、これから進んで数学を修めたいという志しもふいになってしまう。人間とは言語を使用する動物だとの定義がある。そうであるなら、数学が一つの言葉であるかぎり、それが日常用語にほんやくされぬはずはない。(中略)そうだとすれば、いずれは一般常識となるべき現代物理学上における宇宙論を、ここに、自己流に、直観的に、或いは芸術的に、うかがおうとすることは、別に何人からもとがめられないであろう。却って用心ぶかい専門家たちの忠告を真に受けたなら、現代宇宙論へ我流の飛びつきによって生れるかも知れない未来の大数学者を、取り逃すことになりはせぬかと私には案じられるのである。(同上)

 このように述べてタルホは、自分なりの方法で、直観的に、芸術的に宇宙論を書こうと決意するのです。そして、自分のようなやり方で宇宙論に取り組もうとする人の中から、将来、大数学者が生まれるかもしれない、この「宇宙論入門」が、そういった読者の天分を開花させる触媒となってほしいと願っているのです。
 
 しかしながら、実際はどうでしょう。物理学の専門家が(たとえ学生であっても)、名前を聞いたこともない作家が書いた宇宙論に興味を示すことはまずないでしょうし、仮に、その書名に興味を持って『宇宙論入門』を手に取り、ページをパラパラめくったとしても、数式の出てこない本は自分の専門の役には立たないと分かって、すぐに書棚に戻してしまうことでしょう。この本が発売当初どの程度売れたのか分かりませんが、それが出版された終戦直後の1947(昭和22)年という時代にあってはなおさら、広く宣伝されて注目されるようなことはなく、ましてや物理学の専門家の手に取られた可能性はほとんどなかっただろうと思われます。

 翻って、一般読者はどうでしょうか。当時、『宇宙論入門』に興味を示したのは、たぶんタルホの名前を知っているわずかな読者だけだったでしょう。しかも、そのタルホ読者でさえ、タイトルを見ただけで、この本ばかりはちょっと…≠ニいう種類の本だったのではないでしょうか。最初に述べたように、それは今の読者にとっても、同じような状況ではないかと思われます。
 このように『宇宙論入門』は、専門家からも、読者からも遠ざけられる存在、読んでもらえない本になっているような気がするのです。

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 今回、タルホ読者なら、おそらく一度はどこかで目にした記憶があると思われる話を取り上げることにします。タイトルを「気配の物理学」としましたが、主たる対象はリーマンとロバチェフスキーの幾何学≠ナす。そのため、話の多くを「宇宙論入門」に沿って進めていくことになりますが、それゆえに、このサイトの中でもスキップされる可能性が高いページになるのではないかと思っています。
 ただ、「宇宙論入門」の中で、今回のテーマと関連する部分を読んでいく過程で、筆者なりの発見もいくつかありましたので、そのあたりに興味のある方は、これ以後もお付き合いください。

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