気    配    の    物    理    学

──ポッカリ空いた大きな穴についての考察──



[Part 1]
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ポッカリ大きな穴があいた

 この日、われわれは四辺が暗いうちに、お握り弁当を縫い止めにした風呂敷包みを、斜めに背中に掛けて、校庭を出発。国道筋に白い埃をあげ、「年は明治の四十一、茅渟の浦わの秋高く……」と高唱しながら、東方へ一里離れた舞子浜の出鼻まで、大観艦式見物に出向いたのだった。(「カフェの開く途端に月が昇った」、全集5、p.175〜176)

 タルホは明治40年、小学校1年生のときに大阪から明石へ転居、その年の2学期から明石尋常小学校に通い始めます。上の歌の中に年は明治の四十一≠ニ出てきますから、この大観艦式を見物に行ったのは、明石の小学校2年生のときだったということになります。
 話は次のように続きます。

 この数日後に、当日のお召艦だった「浅間(※)」が、舞子明石間の波打際近くにやってきて、錨をおろした。それは石炭積込みの用事であったが、軍艦が泊っていたあいだ、その辺りが何処か余所の海岸のような気持を起させた。軍艦が去ってしまうと、そこにポッカリ大きな穴があいたように思われた。(同上、p.176)

※ https://ja.wikipedia.org/wiki/Japanese_cruiser_Asama.jpg
 wikiによれば、このとき軍艦浅間≠明治天皇のお召艦として観艦式が行われたのは、明治41年11月18日となっています。(https://ja.wikipedia.org/wiki/観艦式

 観艦式が行われた数日後、お召艦の軍艦浅間≠ェ単独で、タルホの明石の住まいにもっと近い海岸にやって来て、しばらくの間碇泊したというのです。すると辺りの景色が一変して、見慣れたはずの海岸が、どこか見知らぬ海岸のような気持ちになった。数日して浅間≠ェ出航して居なくなってしまうと、そこにポッカリ大きな穴があいたように思われた≠ニ述べています。
 この話は、タルホのいくつかの作品の中で何度も取り上げられていますから、おそらくこのときの印象は、タルホが後になって付け足したものではなく、小学校2年生のときに覚えた感情≠そのまま素直に表現したものだろうと思われます。

 同じことが他の作品では、

 明治四十一年秋、神戸沖の観艦式が済んでから、お召艦をつとめた「浅間」が舞子の磯ぎわにやってきて、投錨した。石炭を積み込んでいたのだと今になって推測されるが、どっしりした鋼鉄構造物がお馴染の渚を見も知らぬ海岸に一変させてしまったことをよく憶えている。数日経って軍艦が去ると共に、その辺は元通りの穏やかな白砂青松の名所に立返った。これに似た経験を、その後しばしばサーカスの天幕が立った広場などで私は持ったものである。(「新歳時記の物理学」、全集9、p.366)

 さらには、

 ──その中の一隻で、艦尾に「浅間」と読まれるのが、明石潟の渚近くにやって来て数日間碇泊していたが、これが去ると忽ち其処ががらんとした場所に一変した。曾て天保山桟橋に横附けにされていたロゼッタ丸も、矢張り解纜した折に同様な寂莫感をそこに残したことであろうが、この奇妙さは別れの感情だけでは片付けられなかった。(「父と子」、全集7、p.167)

 このように、このときの体験は、タルホにとって忘れがたいものとして、長い間心に懸っていたのです。しかも、ここではこの奇妙さは別れの感情だけでは片付けられなかった≠ニ言っているように、あのポッカリ大きな穴があいたような&s思議な感覚を、感情的なもので片付けるのでなく、もっと別の形で解釈したい、という思いがずっと心の底にあったことになります(もちろん小学校2年生≠ゥらではないでしょうが)。

リーマン的≠ニロバチェフスキー的

 作品「父と子」(※1)では、この奇妙さは別れの感情だけでは片付けられなかった≠ニ書いた後、次のように続けます。

 四十年経ってやっと、「船が去れば其処は元通りのリーマン的重力世界に復帰する」という解釈に彼は到達した。サーカスが懸っていた空地の円形砂場、一般焼跡、ポンペイのような廃墟にあっても、似たようなことが生じる。より屡々向うにある大建築、山岳、天体、そしておそらく偉人に対した場合にも、経験されるものに相違ない。つまり先方に相当量の質料(※2)がある場合、空間は遠心力の影響を受けて、自ら双曲線的にひらかれるのである。(同上、p.167)

(※1) 「父と子」は「石膏」(1939年、「新潮」)と「熊野」(1947年、「新潮」)とを合併した形で、「作家」(1956年)に発表されました。この軍艦浅間≠フ話は、初出の「石膏」「熊野」どちらにも出てこず、「作家」発表の時点(1956年9月)で書き加えられたものです。記述は、この全集版とほぼ同じですが、これについては後に詳しく論じる予定です。
(※2) 質料≠ヘ質量≠ゥ。

 さて、ここで突如リーマン的≠サして双曲線的≠ニいう言葉が登場してきます。
 また、先の「新歳時記の物理学」では、次のような文章が続きます。

 木片細工の和船ですら、それがまとまった質量として眼前に捉えられると、帆の方へ吸い付けられるように覚えられるものだ。彼我のあいだに一時的な双曲線的曲率が発生するからであろう。つまり我が佇む突堤そのものの引力の他に、いま一つ別な新しい磁場のようなものがそこに生じるのである。(全集9、p.366〜367)

 ここでは双曲線的曲率≠ニいう言葉が出てきます。
 さらに別の作品では、

 突堤に大汽船が碇泊していると、そばに立つわれわれはその巨きな質量の方へ吸い寄せられるように覚える。船が去ってしまえば、元通りのリーマン的世界で、白鴎が遊んでいる。港内にも大空にも巨船がぎっしりうずまった場合を想像すると、われわれはもはや此処に止っておられなくなる。遠心力につかまって、自身がフライング・ダッチマンにならねばならない。これがロバチェフスキー的消息であろうか?「ある宇宙模型をめぐって」、全集5、p.258)

 ここではリーマン的∞ロバチェフスキー的≠ニいう言葉が。

 靄の朝歩いていると、物象や人影が立ち現われては薄れて行くので、恰もロシアの小説を読んでいるような、リーマン的孤独感に導かれますが、埠頭に横付けられた巨船に向って立っているような場合には、ロバチェフスキー的な吸引を身に感じて、自己喪失の不安に襲われます。山上に立つのはツァラトゥストラの寂寥でしょう。でも彼が、自分の周囲に果てもなく打ち連っている山々に気がつくならば、その方へ引き寄せられるような目まいを覚えて、些か慌てずにはおられないことだろうと思います。理論的に云うならば、こんな重畳とした山並は、普通なら先へ行く程ぼやけている筈なのに、ここでは遠い山ほどくっきりと、怖ろしいばかりに色鮮やかに浮き上っていることになります。(「僕のユリーカ=v、全集5、p.45)

 ここでも同じく、リーマン的∞ロバチェフスキー的≠ニいう言葉が出てきます。
 こうして見てくると、タルホはリーマン的≠ニロバチェフスキー的≠ニいう言葉を対比的に使っていることが分かります。さらに言えば、

 リーマン的=∞○○的=@⇔ ロバチェフスキー的=∞双曲線的

 このように、それぞれが対比されていることが読み取れます。
 双曲線的≠ノ対比される○○的≠ニいう言葉は、ここには登場してきませんが、これは、後ほど明らかになるように、楕円的≠ニいう言葉が相当します。

 さて、筆者はこれから、タルホが小学校2年生のときに覚えた、あのポッカリ大きな穴があいたような&s思議な感覚を、後にどのようにしてリーマン的≠ニロバチェフスキー的≠ニいう言葉を遣って解釈するようになったのか──この点について考えていこうと思います。

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