──ポッカリ空いた大きな穴についての考察──
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[Part 2]
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■ロバチェフスキー≠ニの最初の出会い
タルホ読者なら、リーマン∞ロバチェフスキー≠ニいうのが、数学者の名前だということはご存じでしょう。彼らは非ユークリッド幾何学≠フ創始者として知られています。彼らについては、「改訂増補 ロバチェフスキー空間を旋りて」(全集5、p.88)という作品に詳しく述べられており、それがタルホの非ユークリッド幾何学遍歴のまとめ≠フようになっています。ここではまず、その作品をもとに、タルホとロバチェフスキー、リーマンとの関わりの跡を、順を追って辿ってみたいと思います。
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ロバチェフスキー≠ニの最初の出会いは、野川隆の詩によってであった、とタルホは述べています。
野川隆の透明な、いささか臭素加里臭い詩の中で、私は初めて「ロバチェフスキー空間」を知った。そういう述語が、あちらこちらで使われていたからである。(「改訂増補 ロバチェフスキー空間を旋りて」、全集5、p.92)
これは野川の「GGPG」(※)掲載の詩を指しているので、1925年頃のことになります。この前衛的美術詩文雑誌=uGGPG」には、タルホも1925年5月の「パンダライの酒場」をはじめ、数編の作品を発表しています。
※ 「GGPG」は玉村善之助や野川隆らが編集・発行していた雑誌。国立国会図書館のデジタルコレクションには残念ながら入っていませんが、近年、復刻版が刊行されています(不二出版、2007年)。「改訂増補 ロバチェフスキー空間を旋りて」には、「GGPG」の正式名が "Gi, Gigem, Gim Gam Prii, Gim Gem" だとありますが、正しくは「GE・GJMGJGAM・PRRR・GJMGEM(ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム)」。アルファベットはI≠ナはなくJ≠ニなっています。
野川の詩は、たとえば、
それ故、同じ3角形でも、ロバチエフスキー空間では最もよく燃へ、ユークリツド空間はそれに次ぎ、リーマン空間では余りはつきり見へないのである。(「ハイアロイド・メムブレーン氏の憶説」、GGPG、1925.6)
あるいは、
…君はリーマン・ヘルムホルツをたたき出すのであらう。
「零だわ、
「零だわ、
空間曲率は零だわよ」
其処で変換群は私を含みつつ、ロバチエフスキイ・ボリアイ空間に浸入することになる。(「Pseudo-spharischer Raum」(※)、GGPG、1926.1)
というように、ロバチェフスキー∞リーマン∞ヘルムホルツ∞ボリアイ≠ニいった名前が出てきます。
※ spharischer≠フa≠ヘウムラウト。
野川の別の詩では、
(純正数学の異状なる勝利──ミンコフスキイ)
(中略)
切り抜き細工の数字の穴から額帯鏡でのぞいて見ると、入射光線と反射光線の重なるあたりで、ミンコフスキイがさかさまに映り、その曲んだ立面投影図が、黄色い弾性体となつて、横に振動して居る。(「フリント・ガラスの旋転体」、GGPG、1925.5)
などとミンコフスキー≠フ名前も登場しています。
しかしタルホは、これによってロバチェフスキー≠ルかの名前を知ったのみで、詩的言語として使っただけの野川同様、彼らの幾何学について理解したわけではありませんでした。(※)
※ 野川隆がどんな本からこうした数学者の名前を知ったのか分かりませんが、ひょっとして彼は、後に述べるように梶島二郎の『非ゆうくりっど幾何学』を読んでいたのかもしれません。なぜなら、『非ゆうくりっど幾何学』は、野川が「GGPG」に詩を発表する3〜4年前に刊行されているからで、それに彼の詩には、曲率≠ニいう言葉を含め、数学者や物理学者の名前が一通り出てくることから、単なる断片の知識ではなく、まとまった本を参照したような様子が窺われるからです。
非ユークリッド幾何学≠ノついてはどうでしょう。
これは、『わたしの耽美主義』(大一三、前年期(※)の新潮)」というエッセーにある「チックタック氏公開状」の中の文句で、トリスタン・ツァラの『アンチピリン氏最初の天上冒険』の向うを張って書いたものである。自分の文章における「非ユークリッド幾何学」の初登場である。(「改訂増補 ロバチェフスキー空間を旋りて」、全集5、p.97)
※ 前年期≠ヘ前半期≠フ誤植か? 初出の「私の耽美主義」は大正13(1924)年6月に「新潮」発表。
このようにタルホは述べています。「私の耽美主義」発表は、「GGPG」よりさらに1年ぐらい前です。しかし「新潮」の初出時では、非ユークリッド幾何学≠ナはなく新ユークリッド幾何学≠ニなっており、まだ非ユークリッド幾何学≠ェ言葉として定着していなかったことが分かります。ただし、『天体嗜好症』(1928年5月)収録時には非ユークリッド幾何学≠ニ訂正されています。
ミンコフスキー≠ヘ今回のテーマからは外れますが、ちなみに、
遡って大正八年六月頃の『スピード』という月刊誌に、『スピードと芸術』という私の短文が載っている。この枕として、「ミンコフスキー」の名が初めて登場する。(中略)ある日、東京時事の科学欄に簡単な量子論の紹介を読んだ。「この故に、ミンコフスキーの世界線は連続的でなく、飛躍するものであることが判った云々」を鵜呑みして、只名前だけを借りたわけである。(同上、p.97)
「スピードと芸術」は未見ですが、ここでもミンコフスキー≠ヘ名前だけでした。
これらを参照すると、非ユークリッド幾何学≠熈ロバチェフスキー≠焉Aこの時代までは、あくまでもその名前だけで、内容的に理解しているわけではなかったことが分かります。その理由は、タルホが怠惰だったというよりも、おそらくその時代に参考になるような一般的な解説書に出会うことができなかったからではないかと思います。せいぜい、ロバチェフスキーは、ボリアイやリーマンと並んで、ユークリッド幾何学の平行線公準を覆す非ユークリッド幾何学を創始した人物>氛氓ニいった程度の知識しか得られなかったのだろうと思います。
しかし前記ヘルマン・ミンコフスキーの業績と合わして、新幾何学の正しい意味を知るには、『宇宙論入門』のペンを執った時まで、待たねばならなかった。(同上、p.97)
『ヰタ・マキニカリス』を編集していた頃、私はここまでハッキリと、当の事柄が判っていなかった。自分の文章に「ロバチェフスキー」が出てくるのは、まだ戦後の話である。(同上、p.103)
このように書くタルホですが、「宇宙論入門」のペンを執り始めたのは、戦争末期の1944年頃ですから、「GGPG」の話からは20年近く一挙に時代が飛んでしまいます。実はその前に、「GGPG」の出会いから8年後、1933年になって、もう一度新幾何学≠ニ出会っています。それが梶島二郎著『非ゆうくりっど幾何学』です。
■梶島二郎著『非ゆうくりっど幾何学』
1932(昭和7)年、タルホは東京に居られなくなり、故郷の明石に戻ります。翌1933年、出入りしていた寺(無量光寺)で、偶然、梶島二郎の『非ゆうくりっど幾何学』を手にすることになります。この本は1922(大正11)年に出版された本で、かねてから名前は知っていたようで、待望の非ユークリッド幾何学の本にめぐり合った=i同上、p.109)と言っていますから、いつか手に取りたいと思っていたわけです。
この本によって初めて、タルホはロバチェフスキー≠ニ非ユークリッド幾何学≠フ内容について具体的な知識を得ることになります。以来、この本は身辺必携の大事なものとなり、1936年、小学一年の二学期から二十五年に亘って馴染だった海峡の町、明石に訣別を告げた日にも、唯一の持物として『非ゆうくりっど幾何学』が残っていた=i同上、p.113)というほどの存在になっていました。そして東京で落ち着いた先、横寺町の住まい近くの酒場・飯塚縄のれんで、この本が一冊あれば怖いものはない≠ニ周りに吹聴したりするのでした。(※)
※ 非ユークリッド幾何学についてこの頃勉強した成果が、「浄土とは何処?」(「浄土」、1937年10月)とその改訂作である「あべこべになった世界に就て」(「カルト・ブランシュ」、1939年2月)に表れています。
梶島二郎の『非ゆうくりっど幾何学』は、現在、国立国会図書館のデジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960486)に入っていて、ネット上でも見ることができますので参照してください。
ただしこの本は、カタカナ交じりで書かれているのですが、今ならカタカナ書きにされる外国人名などは、逆にひらがなになっているので、読むのに骨が折れる本です。書名が「ゆうくりっど」とひらがなになっているのも、そのためです。以下の引用部分は、その表記を仮名遣いも含め現代的表記に改めています。
それほどタルホにとって大事な本だったわけですが、のちにこの本から引用したと思われる部分は、それほど多くありません。というのも『非ゆうくりっど幾何学』は、内容の大半が図や数式で占められており、自分の作品にそのまま引用して取り入れられるような性質の本ではないからです。タルホがその数式の部分まで読み込んで内容を理解したとは思えませんので、おのずから引用されるのは、主に概要や歴史的記述の部分に限られることになります。それにもかかわらず、この本が一冊あれば怖いものはない≠ニ言っていたわけですから、タルホにとっては本そのものが護符≠フようなものだったのかもしれません。
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さて、梶島二郎の『非ゆうくりっど幾何学』とはどのような本だったのか、ここで一応その概要を見ておくことにしましょう。
『非ゆうくりっど幾何学』の目次を見ると、
第1章 非ユークリッド幾何学の沿革
第2章 平行線の公準を含まぬ諸定理
第3章 双曲線的幾何学
第4章 双曲線的平面三角法
第5章 楕円的幾何学
第6章 楕円的平面三角法
第7章 非ユークリッド幾何学の近世の発達と空間の観念
附録1 サッケーリの仮設の一般性とルジャンドルの命題
附録2 双曲線函数
となっており、ここにはロバチェフスキー≠フ名前もリーマン≠フ名前も登場しません。しかし内容を見ると、この中の双曲線的幾何学≠ニいうのがロバチェフスキーとボリアイの幾何学に相当し、楕円的幾何学≠ェリーマンの幾何学に対応していることが分かります。
第2章から第6章は(附録を含め)、定理と証明、作図題など、主に図と数式を用いた記述で占められていますので、タルホが参照したのは主として、第1章と第7章だろうと思われます。それらの章の細目は、以下のとおりです。
第1章 非ユークリッド幾何学の沿革
1 幾何学の起源
2 幾何原本
3 平行線の公準
4 平行線の公準に代わる命題
5 平行線の公準の説明
6 非ユークリッド幾何学に至るまで
7 非ユークリッド幾何学の発見
第7章 非ユークリッド幾何学の近世の発達と空間の観念
1 リーマン以後
2 双曲線的平面のユークリッド空間に於ける表現
3 空間の曲率
4 四次元の世界
5 剛体の自由可動性
6 幾何学と変形の連続群
7 射影幾何学の影響と純論理的幾何学の体系
8 非アルキメデス幾何学
9 非ユークリッド幾何学と物理的世界
10 空間に関する哲学説と数学の基礎
11 何れが真の幾何学であるか
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さて、ユークリッド幾何学には平行線の公準≠ニいうのがありますが(第5公準とも呼ばれています)、『非ゆうくりっど幾何学』では、次のように述べています。
其中最も普通に知れて居るものは、プレーフェヤー(Playfair)の公理と称するもので、二つの相交る直線は、同一の直線に平行であることは出来ない。
という形式である。是れは
一つの点を通り、一つの与えられたる直線に平行なる直線は一つ在り、而して唯一に限る、
ということと同じであって、是れからして平行線の性質が導かれる。(『非ゆうくりっど幾何学』、p.6〜7)
これをさらに分かりやすく言い換えると、一つの直線外の1点を通り、この直線に平行な直線はただ1つある≠ニいうことになります。
ギリシャの数学者ユークリッド(紀元前300年頃)のこの公準に疑問を挟んだ人たちがいました。タルホもその名前に言及しているサッケーリ(1667−1733)やルジャンドル(1752−1833)です。さらにその後、ユークリッドの平行線公準を包括した新しい幾何学が可能であるという論文を発表したのが、ロシアのニコライ・ロバチェフスキー(1793−1856)とハンガリーのヨハン・ボリアイ(1802−1860)だったわけです。この2人はそれぞれ別々に研究していました。
ロバチェウスキーはカザン(Kazan)の大学の教授であって、1815年以来平行線の公準には大に興味を懐いて居った。それは1815より1817年頃の講義の原稿が今尚現存して居るが、其の中に其有様が見えると伝えられて居る。(中略)
それから三年の後、カザン大学の数学物理学会で一つの論文を発表したが、其原稿は後年紛失してしまった。唯だ、其時の論説の要旨はユークリッドの幾何学より一層一般的のものであって、其の中には一つの点を通り一つの直線に二つの平行なる直線の引けること、及び三角形の内角の和は常に二直角より小なることを説明したものであると云われて居る。(同上、p.19〜20)
以上、タルホとロバチェフスキーとの出会い、そして梶島二郎の『非ゆうくりっど幾何学』の概要についてまとめてみました。
[Part 3]からは、「宇宙論入門」に沿って、ロバチェフスキーの幾何学について見ていくことにします。
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