「貧窮の記」は『国民新聞』(国民新聞社発行)の「学芸」欄に3回に分けて(昭和15年4月27・29・30日)掲載されました。このページは、ほかに文芸時評や新刊紹介、あるいはラジオ番組や舞台・芸能・音楽記事などが一緒に詰め込まれた紙面構成となっています。
タルホの文章が『国民新聞』に掲載されたのは、昭和3年11月19日の「詩集『こわれた街』の会」が最初です。これは友人・衣巻省三の詩集『こわれた街』の出版記念会の様子を述べたもので、会に居合わせた国民新聞社の「S氏」から足穂に執筆依頼があったようです。以後、「新文学の基礎」(昭和4年3月25〜27日)、「芭蕉葉の夢」(昭和5年6月8日)と続きますが、ここまではタルホが西巣鴨新田すなわち池内舞踏場に住んでいた時代です。その後、「空間放語」(昭和9年8月15〜18日)を発表していますが、これは明石に帰省していた時期にあたります。それからしばらく間が空いて6年後、最後の上京をして横寺町時代の昭和15年に発表されたのが、この「貧窮の記」です。タイトルどおりの貧窮の時代に、どのような経緯で再び『国民新聞』に原稿が掲載されるようになったのかは明らかではありません。12年近く前の「S氏」とのコネクションが、ここにおいてなお続いていたとも思えません。ちなみに、『足穂拾遺物語』に収録された「作家精神」も、同じく昭和15年の11月28・29日に『国民新聞』に発表されています。
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「貧窮の記」は、一瞥しただけで、それが「弥勒」第二部(以下、すべて「第二部」を指す)の内容と部分的に重なっていることに気づかされます。しかも、丹念に見ると記述の時間的順序も「弥勒」とまったく同じことが分かります。「貧窮の記」には全部で11の段落がありますが、それらを「弥勒」と対比しながら順を追って見てみましょう。
@「二年前、神戸を逃げ出して……」
まず、冒頭に「二年前」とあるのが大問題です。なぜなら、神戸を経て最後の上京をしたのは昭和11年12月です。それが「二年前」だということは、『国民新聞』への発表が昭和15年4月であるにもかかわらず、この原稿を書いているのは昭和13年の12月前後ということになるからです。
この箇所は、「弥勒」の記述(以下、昭和15年11月『新潮』発表の初出による)では「三年前に、少年時代からの根城を明渡した……」という部分に相当するので、あるいは、この「二年前」は「三年前」の誤植ではないかという疑問も生じます。しかし、この疑問はひとまず置いておきましょう。
「K君」とは、もちろん衣巻省三のことで、「S・M氏」は室生犀星です。
A「十二月の中頃に上京した……」
この段は、衣巻家での5か月間の居候生活を経て、昭和12年5月に横寺町の旺山荘に移った時期の話です。「馬を牛に乗り更へて……」といった表現にそれでも余裕が感じられて、ホッとさせられます。
「弥勒」の「この様な状勢になると、勿論、眼は窪んで……」に相当する箇所が、ここでは「八月には、三日間何も食はない日を有つた」となっているので、その話が昭和12年8月のことだったことが新たに判明します。
B「石川淳は……」
ここでも、石川淳と会ったのが12月(昭和12年)だったことが明記されています。また、「不意にやつて来て」という表現からは、2人は酒場で偶然逢ったのでなく、石川が旺山荘に訪ねてきたように受け取れます。そうだとすると、この時期、石川のほうもタルホにかなり興味を持っていたことになります。
年が変わり昭和13年1月になって現れた、「弥勒」では“Devil”と表記されているものが、ここでは「鬼」となっています。また、「弥勒」では「阿弥陀仏の名を連呼したり、或はマリヤに願つたりし乍ら……」とあるのが、「明石のお寺に居た折に耳にした称名を……」となっており、こちらにはキリスト教の色合いが出ていません。
C「或朝、私は口の中で……」
この段落も時間的順序は「弥勒」と正確に対応しています。
D「湯から上つて身体を拭いてゐた時に……」
昭和13年3月の「セイント」発見の段。
E「世は再び去年の様に……」
昭和13年5月、旺山荘から東京高等数学塾への転居。「H氏」は第一書房の長谷川巳之吉。
「女には身だしなみ……」「聖者を解するのは……」「天をも宥め得るものに……」の3つの文句は「弥勒」と異なりますが、後の2つは「弥勒」では後段に出てきます。
F「斯うして私は……」
ショーペンハウエルの本をくれた「紳士」は、「弥勒」では「ヒルテイの好きな紳士」。しかし、「弥勒」にはなかった、季節を示す「秋の一日」(昭和13年)という言葉が差し挟まれています。このショーペンハウエルの本とは、姉崎正治訳『ショペンハウェル 意志と現識としての世界』(上・中・下、博文館、明治43年9月・44年4月・10月)のことです。「弥勒」には明記されていませんでしたが、ここでは、そのうちの「第一冊」と記されています。「卿こそそれみづからなり!」すなわち“Tat tvam asi”というヴェーダの言葉は、上巻に3度引用されていますが、「波羅門シャンクトラ」というのは足穂の思い違いでしょう。
G「鬼は相変らず……」
昭和13年12月26日の38歳の誕生日。
H「この冬に特記すべきは……」
「この冬」とは、「弥勒」では「正月の三日間は全く何物も口にする事は出来なかつた。二月になると蒲団が失くなつて了つた」という箇所に相当するので、昭和14年の正月から2月の話です。
I「世界の究極目的は……」
ここで、自分にとって仮定されるべき「超絶的指導者」とは「ミューズ」であると断定しているが、これらは「弥勒」には出てこない用語で興味をそそられます。
J「「見えざるものは……」」
「波羅門の言葉」として記されている句は、「弥勒」では「どうか、見えざるものの痕跡に過ぎぬ君の軌道の彼方に横たはるものを覚り得るまなこを開かしめよ!」という、ポン彗星への祈願の言葉の中に解消されています。
また、「弥勒」ほかこの時期の作品に散見されるキーワード「客観的事業」がここにも現れているのは興味深い。
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さて、ここで「貧窮の記」と「弥勒」はどちらが先に書かれたものかを考えてみたい。結論から言えば、次のような点から、筆者は「貧窮の記」のほうが先だと考えるのですが、どうでしょうか?
1.「弥勒」に比べると、「貧窮の記」は季節や月をはっきり示している箇所が多い。また、石川淳がイニシャルでなく実名で記されている。これらは、改訂するときは具体的な部分を削ったり簡略化していく傾向が顕著な足穂の手法からすると、「弥勒」より前に書かれたもののように思われます。
2.段落Bで、「弥勒」にある“Devil”や「マリヤ」といったキリスト教色が出ていないのは、「貧窮の記」が「弥勒」より前の形であることを思わせます。
3.段落Fの「波羅門シャンクトラ(?)の言葉であつたらうか」という箇所は、「弥勒」では「……古い波羅門の言葉であつた」とされています。後から書いたほうに疑問符のつく曖昧な人名をわざわざ書き加えるというのも不自然なので、この点からも「貧窮の記」のほうが前の形のように思えます。
4.段落Iに出てくる「超絶的指導者」や「ミューズ」という語句は、「弥勒」の世界とは異質な感じを受けます。「弥勒」を書いた後で、あえてこうした言葉を持ち出すというのは考えにくい。そうすると、「貧窮の記」は弥勒発見以前の原稿ではないか、そして「超絶的指導者」や「ミューズ」が、のちに弥勒という概念に置き換わったと考えられないだろうか?
以上のような理由から、「貧窮の記」は、すでに下書き原稿があった「弥勒」から抜粋あるいは要約したようなものではなく、「弥勒」以前に書かれた原稿だと考えたい。
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次に、先に述べたように、冒頭の「二年前」は「三年前」の誤植ではないかという疑問について考えてみましょう。
昭和11年12月の最後の上京を、もし「三年前」(正確に言えば、「三年四か月」)とすれば、「貧窮の記」は『国民新聞』発表時の昭和15年4月頃に書かれたと言っても差し支えない。そうすると、「弥勒」はそれより後に書かれたことになります。
しかしこの場合の難点は、前述のように、「弥勒」には「三年前に、少年時代からの根城を明渡した……」という記述がありますので、それを昭和15年の4月以降に書いたとすると、「三年前」というと昭和12年になって、上京時期と矛盾することです。ちなみに筆者は、タルホが「弥勒」を執筆したのは(それは下書きであったでしょうが)「昭和14年の暮れ頃」と考えています(『ユリイカ』〈総特集・稲垣足穂〉所収の「弥勒が弥勒になるまで」参照)。
また、「貧窮の記」が『国民新聞』発表時に書かれたものだとすると、すでに前年、雑誌『コギト』昭和14年7月号の表紙で弥勒を発見しているにもかかわらず、「貧窮の記」に弥勒の気配がまったく感じられないことがやはり奇妙に思われます。
では、冒頭の「二年前」が間違っていないとすると、その執筆時期は昭和13年の12月前後ということになります。
前述したように、「貧窮の記」の内容の時間的順序は正確に「弥勒」と対応していますが、出来事の時間的経過を示すものとしては、段落Hの「この冬」、つまり「弥勒」で言えば「昭和14年正月から2月」で終わっています。したがって、それは執筆時期の「昭和13年12月前後」とほぼ一致していて、必ずしも矛盾しません。昭和13年の12月前後といえば、昭和14年7月に弥勒と出会う半年以上も前です。「貧窮の記」に弥勒の気配がしないのは、そのためだということになります。
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かつて松山俊太郎氏は「弥勒から弥勒まで」(『がんじす河のまさごよりあまたおはする仏たち』所収の解説)で、「珍らしく結末の当てもなく、「タルホ氏の生活と意見」といった形で書き継がれたのが、一九三九年五月以降(おそらく七月)に『コギト』の表紙で見た「弥勒像」から、一挙に結着のめどが付いたのではないでしょうか」と述べられました。たしかに、「弥勒」が創作的自伝であるのに対して、「貧窮の記」は単なる身辺雑記です。それは氏の言われる「タルホ氏の生活と意見」に相当するものでしょうか?
それにしても、書いてから1年以上も経って、内容もそのままの形で『国民新聞』に発表したのはなぜでしょうか? 「貧窮の記」を発表した昭和15年4月当時、おそらくタルホは「地球」(『新潮』同年5月発表)を書き上げて、その次も『新潮』掲載に向けて、とっておきの「弥勒」の完成に力を注いでいただろうと思われます。なぜなら、タルホは『新潮』に発表する作品に最も力を入れていたからです。したがって、そのほかの紙誌のために発表前の「弥勒」の原稿を要約・抜粋などして新たな原稿にすることは考えられません。そこで、以前書いていた身辺雑記風の原稿(もちろんそれは「弥勒」の元になったものでしょう)を、「貧窮の記」と題してそのまま発表した、ということになるのではないでしょうか。
いずれにしても、新たに発見されたこの「貧窮の記」が、「弥勒」成立史を考える上で大きな問題を提起していることは間違いありません。
(『足穗拾遺物語』<青土社 高橋信行・編 2008.3.31発行>収録)