弥  勒  が  弥  勒  に  な  る  ま  で  (II)

──第1部と第2部の〈弥勒〉を物語の時空構造から考えてみる




も く じ

* * *

〈黒い宝石〉と〈百科辞典〉

「あれからいったいどれくらいの時が流れたか知ら」

〈あの預言者〉から〈未来仏の預言〉へ

「あれが地球です。」

〈生まれ変わった場所〉は〈この地球上〉とは限らない

〈黄ばんだ星〉は〈遠い未来の地球〉

〈過去〉〈現在〉〈未来〉

江美留は何を〈嘘〉だったと言ったのか

もしも江美留の〈脳内独り語り〉が無かったとしたら

五十六億七千万年を隔てて、第1部と第2部がループ

エピグラフ≠ノついて、もう一度考えてみる

〈進化過程における予感〉あるいは〈彼岸意識〉

[補遺]




BACK
















〈黒い宝石〉と〈百科辞典〉


 「弥勒」第1部に〈弥勒〉を暗示することが出てくるのは、末尾近くの次の一節以降です(「弥勒」には、タイトル以外に〈弥勒〉という言葉自体は、第1部・第2部を通して一切出てきません)。

「それは、毎日のように出入りしていた或る閑暇な夫妻の家で見た写真であった。」

 「弥勒」の最終稿である【大全/タルホスコープ】版では上のような記述になっていますが、実は初稿の【コリントン卿の幻想】では、この箇所は次のようになっていました。

「或日、江美留の親しい暇な夫妻の間に、黒い宝石についての異つた意見が交されてゐた。その為に彼の傍の書棚から、百科辞典の一冊を抜き出したが、偶然、彼の指先がかゝつた頁には奇妙な仏像の銅版があつた。その異様さは暫く彼をしてそれを見詰めさせないでは置かなかつた。」

 このように当初は、親しい夫妻の家にあった百科辞典(事典)を、あるきっかけから調べようとしたときに、たまたま開いたページに、〈奇妙な仏像〉(弥勒菩薩像)の写真があるのが目に留まった、となっていたのです。その後の改訂である【小山書店】版、【作家】版でも同じような設定になっていました。偶然開いた百科辞典のページに、弥勒菩薩像の写真があった、という展開は、物語としてなかなかスリリングで面白いと思います。ところが最終稿では、〈黒い宝石〉や〈百科辞典〉の記述がすべて省かれてしまいました。あまりに作為的で冗長だと思われたからでしょうか。単に〈写真〉を見たという記述だけが残されることになったのです。
 しかしそれによって、その写真がどんな状況に置かれていたのかが曖昧になってしまいました。壁にピン止めしてあったのか、写真立てに納まっていたのか、それとも何かの本で見たのか、読者には分からなくなってしまいました。もしも弥勒菩薩像の写真が壁に貼ってあったり、写真立てに飾ってあったりしたのなら、その弥勒菩薩像が夫妻にとって親しいものだったことになりますし、毎日のように出入りしていたという夫妻の家で、今までそれに気付かないはずはありません。しかしそれでは〈百科辞典〉のような劇的な効果が生まれません。何より夫人が弥勒菩薩のことをよく知っていたのなら、この後の夫人との〈弥勒〉にまつわる話自体が成立しなくなってしまいます。
 なぜその写真が〈弥勒菩薩像〉だと分かったのか。〈李王家博物館三国時代とあった〉というのですから、もちろん写真にその名前も記されていたのでしょう。ただ弥勒菩薩の説明については、それまでは〈百科辞典〉の註に記されていたことになっていたのに、〈百科辞典〉の話を削除してしまったので、最終稿では、後で辞典を引いて調べた、ということになりました。
 〈黒い宝石〉はともかく、なぜ〈百科辞典〉の話を削除したのか? その本当の理由は分かりませんが、そもそも筆者には一つの疑問がありました。それは日本語の百科事典なら普通、〈弥勒菩薩〉の項目に載せられている写真は、広隆寺の弥勒菩薩像か中宮寺のそれだろう、ということです。わざわざ李王家博物館所蔵の弥勒菩薩像を載せる必然性がありません。ネタバレをすれば、〈百科辞典〉で偶然写真を見た、というのはもちろん創作であって、実際は、雑誌『コギト』の表紙に載っていたのを見たことがきっかけで、「弥勒」第1部・第2部の物語が成ったからです。〈百科辞典〉云々は、この後に続く、夫人との〈一夜の散歩)と関連付けたいために創り上げたエピソードだったのです。
 しかしながら、それがあまり一般的でない李王家博物館(現在は韓国国立中央博物館)所蔵の弥勒菩薩像だったからこそ、却って通俗性を免れ、そこに独特の存在感を醸し出しているとも言えます。


「あれからいったいどれくらいの時が流れたか知ら」


 次の段落から、前の晩の夫人とのいわゆる〈一夜の散歩〉あるいは〈一夜の語らい〉の話になります。この部分は「美しき穉き婦人に始まる」(「山風蠱」の改題・改訂)第1部の末尾の記述に対応しています。夫人と星座の話については、両者ともほぼ同様の記述がなされているので、その出来事自体は事実だったに違いありません。
 ちなみに「弥勒が弥勒になるまで(I)」で述べたように、「山風蠱」は1938(昭和13)年〜1939(昭和14)年頃に書かれ、「弥勒」第1部は1939(昭和14)年の後半に書かれたとすると、両者のタイムラグは1年ぐらいしかありません。
 「弥勒」には次のような記述があります。

「彼にはずっと以前、それは思い出すことも不可能な遠い昔に、こんな花束を解きほぐしたように大きな星々が燦めいている下を、サンダルを穿いて、今宵の連れといっしょに歩いたことがあるような気がした。そこは多分アゼンスかコリントの街であった。」

 これは「美しき穉き婦人に始まる」における、

「ひょっとして自分は古代希臘の町でいまと同一のことを考えたのでないか」

という部分に対応しています。
 しかし「弥勒」ではこの後、夫人に見立てた〈幻想の同伴者〉と江美留との架空の対話が繰り広げられていきます。つまり以下の話は、夫人との〈会話〉でなく、江美留自身の〈脳内独り語り〉だということです。読者はこの点を念頭に置いて、混乱しないように読み進める必要があります。

「ねえ、いつかもこうして貴女と一緒に歩いていたようです」
「そう、わたしもさっきから頻りにそう思っていました。──あれからいったいどれくらいの時が流れたか知ら」
「それは大変なものでしょう」と彼は、もう一ぺん頭上を振り仰ぐ。

 夫人は、〈あれからいったいどれくらいの時が流れたか知ら〉と江美留に尋ねますが、前後の文章を踏まえると、江美留が言わんとしているのは、〈いつかもこうして貴女と一緒に歩いていた〉のは、古代ギリシャのアテネの街だったわけですから、あれから2500年ぐらいの時が流れたことになります。
 ここで語られている世界を、一括りに〈幻想〉または〈妄想〉と片づけて読み進めることもできますが、しばし立ち止まって理解しようとすれば、そこにいわゆる〈デジャヴ〉あるいは〈前世〉〈生まれ変わり〉といった概念を持ち出すと分かりやすいのではないでしょうか。
 つまり、〈貴女と私は、(前世では)2500年前のギリシャのアテネに住んでいて、今晩のように一緒に夜空を見上げていたんですよ〉〈だからそのときの微かな記憶が呼び起こされて、こんな晩がかつてもあったような気がしたんですよ〉と。
 タルホ自身がそのような野暮なことを要請しているわけではありませんが、読者としては、頭の中である程度こうした補足を加えながら読むのも面白いと思います。

 気になるのは、それに続く記述です。

「そこに散らばっている星々は、曾て見たものより、更に現に見上げているところよりも、いっそう変っていなければならなかった。」

 これは何を言わんとしているのか。〈曾て見たものより……いっそう変っていなければならなかった〉、これは分かります。文脈上からは〈アゼンスかコリントの街〉で見たときより、ということになるからです。しかし〈更に現に見上げているところよりも、いっそう変っていなければならなかった〉とは一体どういうことか?
 星々が、〈過去〉ならまだしも、〈現在〉よりも変わっていなければならなかった、というのなら、それは〈未来〉においてしかありません。しかし、遠い〈未来〉に〈変わっていなければならなかった〉という、そんな自明なことをなぜ敢えて言う必要があるのか?
 夫人との話における〈時制〉の問題については後で記しますが、この記述は〈時制〉とは別のことを言わんとしているような気もします。それは何か?
 これに続く天体の夢の話の後に、以下のような記述があります。

「いや、その昔、天球面に数億箇と算定された星雲も今は無限遠線の彼方へ逸脱して、大望遠鏡に赤色フィルターを冠してのみ寥々と検出されるものとても、遠き過去の幽霊として学者らに解釈されていた。而して視よ、我が銀河系内の局部恒星系の面々にもすでにかような異変が出来したのだと仮定しよう。」

 分かりにくいかもしれませんが、これはタルホ言うところの、宇宙の「単楕円構造」「二重かぞえ」のことを指しているのだと思われます。つまり宇宙を「単楕円構造」と考えないと、星々(星雲)を二重に勘定することになる、半分は〈幽霊〉のような虚像である、という考え方です。すなわち先の記述は、実は膨張宇宙に散らばっている星々(星雲)は、いま見上げているものとはまったく違った様相を呈していなければならない、それが星雲界のみならず〈我が銀河系内の局部恒星系〉の星々までにも及ぼされている、というようなことを言いたいのではないか、と。
 ちなみに先の記述は、【小山書店】版からで、【コリントン卿の幻想】にはありません。参考に【小山書店】版の記述を挙げておきます。

「いや、その昔百万箇と指呼された他の世界、その星雲共もいまは測り知られぬ彼方へ逸脱して、天球面に寥々とみとめられるものとても実は残留せる虚像、すなはちそこから来るかの如き観を与へる幽霊星雲(フアントムネピユラ)として学者らに解釈されてゐた、而して視よ、我等の隣人、この銀河系中なる局部恒星系の面々にも、いまや斯くの如き異変が出態[〈出来〉の誤りか:筆者註]したのだと、さう仮定しよう。」


〈あの預言者〉から〈未来仏の預言〉へ


 その後、江美留は次のような言葉を発します。

「若しも、地球という遊星に何らかの功績があったとすれば、それは只一つ、未来仏の預言を出したということだけですね」

 上は最終稿【大全/タルホスコープ】からの引用ですが、ここは非常に問題となる箇所ですから、以下にそれ以前の改訂稿も掲示しておきます。

【コリントン卿の幻想】
「若しも地球と云ふ遊星に何かの功績があつたとしたら、それは只一つあの豫言者を出したと云ふ事だけですね」
☆〈豫言者〉の〈豫〉は、〈予〉の旧字。

【小山書店】
「若しも、地球といふ遊星に何らかの功績があつた[〈と〉が脱字]すれば、それは只一つ、あの預言者を出したといふことですね」
☆ここで〈豫(予)言者〉が〈預言者〉に訂正された。

【作家】
「若しも、地球といふ遊星に何らかの功績があつたとすれば、それは只、一つ、あの預言者を出したといふことですね」

 これらを見ると、初稿の【コリントン卿の幻想】から【小山書店】を経て【作家】までは〈預言者(予言者)〉だったのが、【大全/タルホスコープ】の改訂において、それが〈未来仏の預言〉に差し替えられたことが分かります(ちなみに、〈遊星〉とは〈惑星〉のこと)。このことは夙に松山俊太郎氏が指摘した点で、氏はこの改訂を〈稲垣氏の重大な「勇み足」として、絶対に認められません〉と述べています。
 最終稿における改訂のように、前日の会話の中で江美留がすでに〈未来仏〉という弥勒を暗示する言葉を発したのなら、翌日夫妻の家で彼が弥勒像の写真を見たことが、決定的な出来事ではなくなってしまいます。〈これこそゆうべ持ち出すべきであった〉と述べているのですから、文脈上、前後の辻褄が合わなくなってきます。
 また、翌日になって〈「ゆうべ話したのは嘘でした」と、ここに口外すべきであった〉と悔やむのは、前日口に出したのが〈未来仏〉でなく〈あの預言者〉だったからこそではないか、ということです。
 では、最終稿以前の〈あの預言者〉とは一体誰を指しているのか? 〈預言者〉という言葉から連想するのは普通、旧約聖書に登場する預言者たちですが、ここは複数でなく単数なので、一人の預言者を指しているはずです。松山氏は〈預言者キリスト〉と述べているので、イエス・キリストのことを想定しているのでしょう。イエスは預言者? 〈悔い改めよ。神の国は近づけり〉と言ったからでしょうか? イエスは預言するほうでなく、預言される側では? この言葉は最初、洗礼者ヨハネが述べたとされているようですが、だからといって、〈あの預言者〉を洗礼者ヨハネとするのも無理があるように思います。
 いずれにせよ、ここで〈あの預言者〉といった場合、キリスト教世界の言葉と解釈するのが普通だと思いますし、タルホ自身もやはりそのように考えていたのではないでしょうか。その場合は、松山氏が言うように〈イエス・キリスト〉のことだと考えるのが自然でしょう。そうすると、この後に続く、〈あの小っぽけな遊星だって、救済から漏れるという法はないのだ〉という江美留の言葉も、当然〈キリスト教の救済〉という意味になってきます(蛇足になりますが、ここは江美留の会話文なのに、どうして〈救済から漏れるという法はないのです〉でなく、〈…ないのだ〉という言葉遣いになっているのか疑問です)。
 しかし、こうした推測も全く根拠がないわけではありません。「弥勒」第2部に出てくるように、1938(昭和13)年3月には、例の〈セイントの啓示〉がありました。それは、この第1部を書いている、わずか1年半前の出来事です。〈その中には磔刑になった者すら居る〉と述べており、その啓示は特にイエス・キリストへの注目であったはずですから、後にタルホが一層キリスト教世界への傾斜を深めていく過程においては、当時はいまだ初期の時代だったとはいえ、上のような認識を抱いたとしても不思議はないからです。
 ちなみに、この〈あの預言者/未来仏の預言〉の記述が出てくる少し前に、江美留が折々に見る夢の話が置かれています。その中に〈旧約に出てくる人物〉という言葉があり、まさに聖書を連想させます。それより何より、この「弥勒」巻頭に置かれたコエベル(ケーベル)博士のエピグラフ≠ノおける〈終局〉や〈目的〉といった考え方こそ、まさにキリスト教的世界観を表しているのではありませんか。このことについては、後でもう一度詳しく触れたいと思います。
 一方、こういう考え方もあるかもしれません。つまり、タルホは最終稿で〈未来仏の預言〉と言い換えたけれども、〈あの預言者〉という言葉を使っていたときも、実は〈未来仏の預言〉のことを想定していたのだ…と。しかしこれにはやはり無理があります。なぜなら、その場合は〈あの預言者〉でなく、〈あの預言〉となるべきはずだからです。

 余談になりますが、タルホにとって、〈セイント〉も〈弥勒〉もここで初めて出逢ったわけでなく、〈再認識〉の対象だったことを確認しておきましょう。
 前者については、

【作家】
「然し言葉としては随分昔馴染のSaintが、そもそも何事を意味してゐるのか?」(「弥勒」第2部)

と〈Saint〉のことを〈昔馴染の〉と言っています。ミッション系の関西学院時代のことを指しているのでしょうか。その場合、〈セイント〉というより〈イエス・キリスト〉だと思いますが…。ただし、この言い方は、初稿の【新潮】および【小山書店】【作家】までで、最終稿の【大全/タルホスコープ】では省かれています。
 そして後者については、

「自分の幼少期からしばしば耳にしてきたもので、祖母たちの話や巷の小噺にも引用される題目であったが……」(「弥勒」第1部)

と、〈弥勒〉についてはこのように述べています。どちらもその意義を大人になって改めて認識した対象だったのです。


「あれが地球です。」


 本文に戻ると、その後、頭上に広がる銀河の光景について、次のように述べています。

「丸天井を貫く仄白い光の帯は、二人が希臘の町を歩いていた頃からすでに数ケ所に裂け目を見せていたが、今やそれらは歴然として、恰もそこから分離しそうな著しい拡張を示していた。」

 読者はここで、地上から見上げた銀河の帯にできた裂け目が、〈2500年前に見たとき〉と比べると、今ではより一層広がっている、という様を想像します。
 江美留は夫人に、その銀河の裂け目の奥にある、一つの〈黄ばんだ星〉を指し示します。そして、その星は〈光がじっとして動かない〉と言います。このあたりで読者は、その〈黄ばんだ星〉が何か曰くのある星だなと感づくことになります。しかも、それが他の星のように瞬かない星だということから、〈恒星〉でなく〈惑星〉かもしれない、と鋭い推理を働かせる人もいるでしょう。

「──双眼鏡を持ってくればよかった。そうしたら、月が毀れて、土星の環のようにあの星を取巻いているさまがよく判る筈です。ついでに、亜米利加や亜細亜州がどのように移動しているかも見せてあげることができる」

 ここで一気に、その〈黄ばんだ星〉がやっぱり〈地球〉ではないか、という確信のようなものに変わります。

「なんだか淋しそうなお星様ね」

と呟く夫人に対して、ついに江美留は決定的な言葉を口にします。

「あれが地球です。曾てわれわれがお話を交していた……」

 この瞬間、夫人だけでなく、読者も足元から重力の底が抜け落ちるような気分に襲われるはずです。どんでん返しが起こったからです。これまでずっと、〈前世において〉二人が、2500年前の古代ギリシャの街を星を眺めながら歩いていたのは、〈この地球上〉の話だと思っていたのに、実は〈あの地球上〉の出来事だった、と突然言われたのですから…。
 向こうに見える〈黄ばんだ星〉が〈地球〉だというのは一体どういうこと? ──では、いま二人がいるのはどこ?


〈生まれ変わった場所〉は〈この地球上〉とは限らない


 奇妙な展開になってきたこの話を、またタルホの〈妄想世界〉に閉じ込めないで、できるだけ〈理解〉への道筋を探ってみることにしましょう。
 先ほど〈前世〉とか〈生まれ変わり〉などという言葉を持ち出しましたが、そこで前提となるのは、〈前世の場所〉も〈生まれ変わった場所〉も、やはり〈この地球上〉だということです。〈前世〉で二人が歩いていた古代ギリシャのアテネは、時間的には2500年前ですが、空間的にはやはり〈この地球上〉のアテネなのです。
 ところが江美留は、

「あれが地球です。曾てわれわれがお話を交していた……」

 2500年前の〈一夜の語らい〉は、〈この地球上〉ではなく、〈あの地球上〉の出来事だった、というのです。
 それでは地球が2つになってしまうではないか、というもっともな疑問がここに生じます。しかしながら、ここで〈マルチバース〉や〈パラレルワールド〉を持ち出さなくとも、この疑問を解消する方法があります。

 〈生まれ変わった場所〉は〈この地球上〉とは限らない。
 〈前世の場所〉は〈この地球上〉とは限らない。

 2500年前の〈一夜の語らい〉は〈あの地球上〉のアテネでしたが、二人は〈この地球上〉に生まれ変わっていて、いまあのときと同じように〈一夜の語らい〉をしているのです。
 そうかもしれませんが、一方で、〈あの地球〉と〈この地球〉とを相対化すれば、視点を反対にすることも可能になります。その場合、二人は〈あの地球〉から〈この地球〉を見ていることになります。

 さて、江美留は〈あの地球〉を指し示しながら、〈双眼鏡を持ってくればよかった〉と言います。すでに〈あの地球〉の光景を知っているような口ぶりから、彼はこれまでにも双眼鏡で確かめたことがあるのでしょう。しかし双眼鏡を持ってこなくても、肉眼で見付けることができるのですから、〈あの地球〉はそれほど遠方の星ではありません。しかもそれが〈恒星〉でなく〈惑星〉だということになると、その星が位置している場所はおのずから限定されてきます。もしも太陽系外の惑星なら、肉眼や双眼鏡程度で見えるわけがありませんから、それは太陽系内の星(惑星)だということになります。木星や土星は肉眼でも見付けられますから、〈あの地球〉はせいぜいそれぐらいの距離にある、遠くても地球から肉眼で見えるぎりぎりの惑星──天王星(最近、皆既月蝕と同時に起こった天王星蝕が話題になりました)ぐらいの距離に位置していると考えられるわけです。
 しかし上のテーゼを一般化すれば、〈あの地球〉は別に太陽系内の惑星でなくてもよく、どこか別の恒星系の惑星間の話だとしても構わないわけです。しかしどちらにしても、肉眼や双眼鏡で見えるということから、両者の距離が近いという話になるわけで、むしろ同じ恒星系に〈地球〉が2つあるよりも、太陽系の惑星と他の恒星系の惑星との関係だと考えたほうが、より〈本当らしく〉なるはずです。〈あの地球〉は別に肉眼や双眼鏡で見えなくてもいいからです。
 〈あの地球〉は、鷲座の主星アルタイル近傍にある名もない恒星を巡る惑星の一つであってもよいし、あるいはデネブとともに白鳥座を形作る二重星アルビレオの惑星であっても構いません(二重星というと、惑星ソラリス≠連想しますが)。あるいはいっそのこと我が銀河系を飛び出して、250万光年彼方の系外星雲アンドロメダ銀河(M31)の中の星だとしても一向に差し支えないわけです。
 「美しき穉き婦人に始まる」でも、すでに次のように述べているからです。

「それとも此処にこうしていることが既に二十世紀社会を飛びこえた遥かな未来でないのか、そして実は地球ではなく、何処か星の世界の夜を歩いているのではないか知ら……と考えたりした。」


〈黄ばんだ星〉は〈遠い未来の地球〉


 さて、先ほどの〈双眼鏡を持ってくればよかった…云々〉の江美留の言葉には、実は非常に重要な問題が含まれています。
 〈そうしたら、月が毀れて、土星の環のようにあの星を取巻いているさまがよく判る筈です〉とは一体何を言わんとしているのか。この〈月〉が、地球の衛星である月を指していることは間違いないでしょう。その〈月〉がどうして毀れたのか。理由は説明されていませんが、あるいは巨大な隕石が衝突して破壊されたのでしょうか。粉々になったその破片が、長い年月を経て月の軌道を巡るようになり、それが土星みたいに、地球の周りを取り巻く輪のようになった──そういう状況を説明しようとしているようです。
 それにしても、天体の様子が一変しているからには、数千年どころではなく、数億年単位の時間がそこに介在しているはずです。常識的には遠方の星は、光速度有限によってその〈過去の姿〉を見せていますが、〈あの地球〉は数億光年も遠方にある星ではありません。同じ太陽系内の惑星間程度の距離では、タイムラグはせいぜい数時間です。したがって〈あの地球〉の様子は、そんなこととは全く違う理由によることを示しています。まず、その奇妙さに気付く必要があります。
 〈過去〉でも〈現在〉でもないとすると、〈あの地球〉は、これから迎えることになる〈遠い未来の地球〉の姿を物語っている、と考えるほかありません。

「ついでに、亜米利加や亜細亜州がどのように移動しているかも見せてあげることができる」

 続けて江美留が口にしたこの言葉は、大陸移動説のことを言っているのでしょうが、これとて億単位の年月を想定すべきでしょう。そうするとこれも、〈長い年月をかけてどのように今のような大陸になったか〉という意味でなく、〈現在の大陸が遠い将来においてどのように移動したのかを見せてあげよう〉と言っていることになります。

 ところで、〈月が毀れて、土星の環のように地球の周りを取り巻いている〉というような記述になったのは、【小山書店】版以降のことです。
 初稿では、この箇所は次のようになっていました。

【コリントン卿の幻想】
「メガネを持つて来ればよかつた。さうしたらあれがハツキリした円板である事が判りますよ。」

 この意味は、〈双眼鏡で拡大して見たら、あれが地球であることがはっきり分かりますよ〉ということでしょう。しかし、これだけの記述であったら、その地球が〈遠い未来の地球〉であるかどうか分かりません。むしろ読者は常識的に、それは〈現在の姿〉だと想像するでしょうし、続く〈大陸移動説〉の話も当然、〈現在の姿〉として理解するはずです。記述からはそのように読める文章になっているからです。
 ただしその後の改訂で、〈あの地球〉は、はっきりと〈未来の地球の姿〉を表す記述に改められたのです。


〈過去〉〈現在〉〈未来〉


 では、〈あの地球〉が〈未来の姿〉であるとは、一体どういうことか。それは視点を〈現在〉に置いているからです。この奇妙な問題を回避するには、視点を〈未来〉に置くしかありません。そうすれば〈未来の姿〉は〈現在の姿〉になります。
 すなわち、時間軸のスケールを数億年〈未来〉にずらせば、いま見ているような、月を失って土星のようになった地球の光景は、まさに〈現在の姿〉になります。

 では、今までの話は全部〈未来〉の出来事だったというのか、という根源的な疑問が生じます。ここでも重力の底が抜け落ちるような感覚に陥りますが、注意深い読者なら、すでにそのようなニュアンスが、あたかも伏線のように何度か仄めかされていたことに思い至るはずです。
 たとえば第1部の初めのほうに、次のような一節が出てきます。

「こんな晩方には、下町の飾窓の前を行き交う群衆の中には──その直ぐ前の交叉点を焔のように輝きながら曲って行くボギー電車の中にも、向うへ縮まって行くリムジーンの潤んだ紅いテールライトの中にも──曾て自分がよく知っている或る物があって、そうして今夜こんなふうに自分が歩いているのは、実は杳かに遠い未来の夜であり、しかもそこは星の世界の都会ではなかろうかという気がするものだ。」

 あるいは冒頭近くでも、

「そこにはサンフランシスコめく夜景と重なり合って、おそらくこの文明が幾十世紀もあとになって到達するであろう〈最終の都市〉が感じられるのだった。」

 〈幾十世紀〉といえば、せいぜい数千年の単位ですから、月や地球がその形を変えるようなスケールの時間ではありませんが、〈現在〉と〈未来〉とが、これほど自在に重ね合わされるのならば、この話自体、〈未来〉が〈現在〉の時制になっているのだとしても、驚くに当たらないではありませんか。

 再び〈黄ばんだ星〉の話に戻ります。
 さて、時間軸のスケールは数億年〈未来〉にずらされました。その〈現在〉においてあの〈黄ばんだ星〉を見ると、まさに月が毀れて土星の環のようにあの星を取り巻いています。
 江美留はそれを指し示して言います。

「あれが地球です。曾てわれわれがお話を交していた……」

 では、〈お話を交していた〉のは、いつのことなのか?
 それは〈現在〉から数億年〈過去〉に遡った時代──もちろんまだ月が毀れる以前の〈あの地球〉でなければなりません。
 すなわち、江美留が夫人に言ったのは、こういう意味だったことになります。

〈今ではご覧のように月は毀れ、地球はあんな土星のような姿になっていますが、今から数億年前、月がまだ満ち欠けを繰り返していた時代、星を眺めながらアゼンスの街をお話を交わしながら散歩していたのは、まさにあの地球だったのですよ。〉

 ちなみにタルホは、〈未来〉のある時を視点にしたとき、〈現在〉はどのように見えるだろうか、という思考実験をよく行っています。

「こんな月夜の景色を自分は今後何回くり返して見得るだろうか? そんな或る時に、今夜のことがどんな風に解釈されるであろう。」(【夢野】『全集7』p.127)

「董生は、中庭に向けていた眼を、自身が倚りかかっていた円柱の表に転じて、其処にある干割目にそうて、爪形を三つならべて捺してみた。いま一時間経って再び此処に来た時、この爪形がどんな感想を自分にもたらせるであろうと考えたからだが、こんなことは直に忘れてしまった。」(【父と子】『全集7』p.160)

 これと同じようなことを述べている箇所を、他にいくつも指摘することができますが、いずれも、〈未来〉が〈現在〉になったとき、〈現在〉はどのような〈過去〉として映じるだろうか、と思考しています。かの有名な〈地上とは思い出ならずや〉もつまり、〈現在〉とは、〈未来〉に視点を置けば、〈過去〉ではないか、と言っているわけです。

 さて、ここまでの話は先ほども述べたように、夫人に見立てた〈幻想の同伴者〉と交わした江美留自身の〈脳内独り語り〉だったことを再確認しておきましょう。


江美留は何を〈嘘〉だったと言ったのか


 翌日になって、江美留は決定的なものに出会います。夫妻の家で偶然発見した弥勒菩薩像の写真です。それがどういうものかを辞典で調べたとき、〈幻想の同伴者〉に対して昨晩話した内容が誤りだったことに気付きます。

「自分はあの時何を云えばよかったかに気が付いた。〈ゆうべ話したのは嘘でした〉と、ここに口外すべきであった。」

 ここで言う〈嘘〉は、〈間違い〉あるいは〈誤り〉の意味でしょうか。しかし〈ここに口外すべきであった〉と後悔しても、昨晩話した相手は〈幻想の同伴者〉だったわけですから、翌日になった〈今日〉、彼女はもう居ないわけです。言い換えれば、〈幻想の同伴者〉ですから、いつでも自分の許に呼び出せるわけですが…。
 そこで江美留は、あたかも目の前に相手が居るかのように言い訳を始めます。

「曾てわれわれがアゼンスの街で星を仰いで語り合ってから、そうれ、ここにちゃんと出ている。五十六億七千万年の時が経っているのです。」

 筆者はここである重要な点を指摘しなければなりません。それは、江美留は〈曾てわれわれがアゼンスの街で星を仰いで語り合ってから〉と述べていますが、実はこれまで、彼は〈幻想の同伴者〉に対して、〈アゼンス云々〉などと一言も口に出して言ってはいないのです!
 二人の会話を振り返ってみましょう。

「ねえ、いつかもこうして貴女と一緒に歩いていたようです」

 これに対して、〈幻想の同伴者〉は、

「そう、わたしもさっきから頻りにそう思っていました。──あれからいったいどれくらいの時が流れたか知ら」
「それは大変なものでしょう」と彼は、もう一ぺん頭上を振り仰ぐ。

 これだけです。〈幻想の同伴者〉の頭の中に、〈アゼンス〉など思い浮かんでいるわけがありません。そもそもここでは、場所がどこだったかは話題にさえなっていないのです。
 そしてもう一つは、何度も持ち出しているところの、

「あれが地球です。曾てわれわれがお話を交していた……」

 これに対して〈幻想の同伴者〉は、驚きの仕草をしただけで、言葉は発していません。先の会話では、〈幻想の同伴者〉は〈どれくらい前だったか〉という時間経過だけを気にしていました。それなのに、ここで突然、その場所が〈あの地球〉だったと言われても、読者以上に、頭の中が混乱するだけだったに違いありません。

 こうして振り返ってみると、〈ゆうべ話したのは嘘でした〉と言われても、〈幻想の同伴者〉にとっては、そもそも〈曾てわれわれがアゼンスの街で星を仰いで語り合った〉というのは初耳で、しかもそれがいつだったかなど、江美留の口からは一切聞いていないのです。それにもかかわらず、

「曾てわれわれがアゼンスの街で星を仰いで語り合ってから、そうれ、ここにちゃんと出ている。五十六億七千万年の時が経っているのです。」

などと言われても、チンプンカンプンのはずです。
 江美留にとっても、〈アゼンス云々〉は口に出していないのですから、〈嘘でした〉と後悔する必要はないはずです。五十六億七千万年の時が経って、〈地球なんか勿論とっくの昔に消えてしまった〉ことが分かったので、〈あれが地球です〉と言ったことが唯一の間違いだったのです。

 では、口に出さなかった江美留自身の〈脳内独り語り〉についても、〈弥勒〉に気が付いたことで、どういった訂正の必要が生じたのでしょうか。
 一つは、(数億年前に)〈われわれがアゼンスの街で星を仰いで語り合った〉のは〈あの地球〉、すなわち〈月が毀れて土星の環のように取り巻いている地球〉だと思っていたけれども、そうではなかった。本当は〈五十六億七千万年前にあった地球〉で、〈その地球〉は〈とっくの昔に消えてしまった〉ということが分かったので、訂正の必要が生じた。
 もう一つは、〈あの小っぽけな遊星〉が〈あの地球〉ではなかったのと同時に、〈五十六億七千万年の時が経っている〉ことが分かって、〈救済〉の意味も変わってしまった。〈嘘でした〉という根拠の一つは、やはり〈キリスト教の救済〉から〈弥勒による救済〉へ認識の転換が生じたことにあるのではないか。ただし〈あの預言者〉が〈未来仏の預言〉に訂正されてしまったことで、〈後悔〉の意味が曖昧になってしまいました。前の晩すでに〈弥勒〉の概念を知っていたのなら、翌日〈後悔〉する必要はないからです。

 本文は次のように続きます。

「弥陀の声が筬のように行き交うている虚空の只中で、この銀河系は何十回も廻転しました。」

 この一文は、初稿の【コリントン卿の幻想】にはなく、【小山書店】版以降に追加されたものです。
 〈弥陀の声が筬のように行き交うている〉という表現は、「弥勒」発表以前に一度「浄土とは何処?」という作品に出てきます。この作品は『浄土』(法然上人鑽仰会発行)という雑誌に、1937(昭和12)年10月に発表されたものです。

「物乾場に立つて、月光に満ちあふれた虚空を仰いでゐると、思ひは何時か壮絶な東洋の経典の上に落ちて、稀らな星がきらめいてゐるずつと向うの方で、弥陀の声が筬の様に呼び返されてゐるやうに思はれるのでした。」

 「浄土とは何処?」は後に改訂され、「あべこべになつた世界に就て」と題して、1939(昭和14)年2月に雑誌『カルトブランシュ』に発表されましたが、このとき上記の部分は削除されました。
 〈弥陀〉は〈阿弥陀〉で、〈筬(おさ)〉は機織り機の道具の一つです。〈弥陀〉が出てくるのは、やはり掲載誌が浄土系の発行だからでしょうか。筆者には分かりませんが、この両者が結び付いた表現が、浄土宗の経典あるいは教典にでもあるのでしょうか。
 タルホはこの表現が気に入っているらしく、他にも〈閃々と筬のように飛び交す電光に飾られ〉(「底なしの寝床」)とか、〈オサの如く飛び交う敵の探照灯を縫うて〉(「ミシンと蝙蝠傘」)といった用例もあります。

 さて、銀河の公転周期は2億5000万年とも言われていますので、それで56億7000万年を割ると、22.68となり、銀河系はこの間、22回以上回転したことになり、江美留の言葉をほぼ裏付ける結果となっています(最終稿以前は、銀河系の回転は〈何十回〉でなく〈幾回〉)。

「地球なんか勿論とっくの昔に消えてしまった。」

 ここで言う〈地球〉は、〈56億7000万年前にあった地球〉=〈その地球〉のことを指しています。いま二人が語り合っている〈この地球〉は、約46億年前にできたと言われていますので、〈その地球〉は〈この地球〉ができる前にあった〈地球〉ということになります。〈その地球〉はとっくの昔に消えてしまった、と言っています。つまり〈アゼンスの街で星を仰いで語り合った地球〉はすでに消滅しているのです。

「若しあの黄色の星が地球なら、それは何代目かの子孫──いや全く別な、新しいきょうだいなのだ、と云うべきです」

 昨晩は、あの〈黄ばんだ星〉を〈アゼンスの街で星を仰いで語り合った地球〉だと思っていたけれども、それは間違いだった。もし仮に〈黄ばんだ星〉が〈地球〉だとしても、それは〈アゼンスの街で星を仰いで語り合った地球〉すなわち〈56億7000万年前にあった地球〉から数えて何代目(最終稿以前は〈幾十代目〉〈数十代目〉〈何十代目〉)かの子孫、いや全く別な、新しいきょうだいなのだ、と言っています(〈きょうだい〉が出てきたのは【小山書店】版以降)。
 天体に対して〈子孫〉とか〈きょうだい〉とかいう比喩はあまり聞きませんが、たとえば原始太陽のような元の天体からできた惑星とか、衝突によって同時にいくつもできた衛星といったような想像をしますが…。しかし〈いや全く別な、新しいきょうだいなのだ〉と言っていますので、あの〈黄ばんだ星〉──すなわち〈月が毀れて、土星の環のように地球の周りを取り巻いている〉星は、消滅した〈アゼンスの街で星を仰いで語り合った地球〉の後にできた、新しい〈おとうと〉か〈いもうと〉のような惑星だというのでしょう。


もしも江美留の〈脳内独り語り〉が無かったとしたら


 〈幻想の同伴者〉とのこれまでの話は、翌日の〈言い訳〉も含めてすべて、江美留の〈脳内独り語り〉だったことを重ねて確認しておきましょう。
 ではもしも、この〈脳内独り語り〉の部分を取り去ったとしたら、物語はどのような姿になるでしょうか。
 すると、翌日、夫妻宅で〈弥勒菩薩像〉の写真と遭遇したこと、そして前の晩、夫人と星座について〈一夜の語らい〉をしたこと、この2つの事柄だけが残ることになります。
 ここで〈翌日〉⇒〈前の晩〉というふうに時間的順序を逆にしたのは、〈脳内独り語り〉において〈後悔〉と〈言い訳〉をする展開にしたかったからでしょう。それがなければ、〈前の晩〉⇒〈翌日〉の順序だったとしても構わないわけです。
 どちらにしても、この2点だけは物語から外すわけにいきません。なぜなら「弥勒」第2部に、次のようにあるからです。

「或る朝、部屋の戸の隙間から差込まれていた『コギト』という同人雑誌の表紙に、見覚えのある仏像を見た。それは、あの海峡の町で星座を人に教えた翌日、百科辞典のページに見付けたのと同じものであった。」

 ここで、〈あの海峡の町で星座を人に教えた〉、そして〈翌日、百科辞典のページに見付けた〉と2つの事柄を示し、見覚えのある仏像(菩薩像)を『コギト』の表紙に見た、と言っています。まさにこのことによって、「弥勒」の第1部と第2部とが物語として連続性をもっていることが証明されるからです(正確に言うと、第1部の記述によれば、〈百科辞典のページに見付けた〉のではなく、単に〈写真で見た〉のです。冒頭で述べたように、最終稿で〈百科辞典…云々〉を削除したにもかかわらず、ここではそれと対応すべき記述に変更されていません)。
 だからと言って、江美留の〈脳内独り語り〉の部分が無かったとしたら、「弥勒」は物語として全く精彩のないものになります。というよりも、翌日たまたま写真に遭遇したという創作も、〈幻想の同伴者〉との〈脳内独り語り〉があったればこそ意味を持つもので、その部分が無ければ「弥勒」そのものが成立しないことになります。
 しかも、〈脳内独り語り〉があるからこそ、実は「弥勒」の第1部と第2部とは、驚くべき時空構造によって結ばれることになった、ということを筆者は最後に指摘したいと思います。


五十六億七千万年を隔てて、第1部と第2部がループ


「曾てわれわれがアゼンスの街で星を仰いで語り合ってから、そうれ、ここにちゃんと出ている。五十六億七千万年の時が経っているのです。」

 江美留のこの言葉、つまり〈脳内独り語り〉に、もう一度注目してみましょう。あれから〈五十六億七千万年の時が経っている〉と言っています。〈五十六億七千万年〉というのは、言うまでもなく釈迦牟尼仏に次いで弥勒菩薩が世に現れるまでの時間ですから、〈すでにそれだけの時間が経っている〉と言っているわけです。すなわち、すでに〈弥勒〉は〈この地球〉に現れ、〈弥勒の世〉が到来している、あるいは〈その時期〉が来ている、ということを暗黙の裡に語っていることになります。
 一方、第2部でも〈弥勒〉への言及が出てきますので、この点についてどのような記述になっているか確かめてみましょう。末尾の一文はこのようになっています。

「ここにおいて江美留は悟った。婆羅門の子、その名は阿逸多、今から五十六億七千万年の後、竜華樹下において成道して、先の釈迦牟尼仏の説法に漏れた衆生を済度すべき使命を托された者は、まさにこの自分でなければならないと。
 そんな夢を確かに明方に見た。」

 ここには〈今から五十六億七千万年の後〉とあります。すなわち、この第2部の江美留からすると、第1部の江美留はまさに〈五十六億七千万年の後〉の江美留、〈竜華樹下において成道して、先の釈迦牟尼仏の説法に漏れた衆生を済度すべき使命を托された者〉となるわけです。
 つまり第1部と第2部は、〈五十六億七千万年〉を隔てて時間的順序が逆になっているのです。では、第1部と第2部とを逆に置いたほうがむしろすっきりするのではないか──筆者もそう考えたことがありますが、そうすると物語の展開上、どうしても矛盾が生じてしまいます。なぜなら物語の時間的経過は、先ほども述べたように、2つの事柄から、第1部 ⇒ 第2部という方向で接続しているからです。第1部末尾のモデルとなった、夫人と〈一夜の語らい〉のあった舞台は1935(昭和10年)頃の明石、第2部は1939(昭和14)年頃の横寺町で、物語も事実に沿った時間的・空間的展開となっているのです。
 しかし心配には及びません。第1部は〈幻想〉、第2部は〈夢〉の世界の出来事、という仕掛けになっており、その〈矛盾〉は免罪されるようになっているからです。結果、第1部の江美留自身の〈与太〉とも言える荒唐無稽な〈幻想〉と、第2部掉尾の江美留の見た〈夢〉とが、〈五十六億七千万年〉の時を隔てて呼応する、という奇想天外な関係を持つことになったのです。

 ところで、1939年7月号の雑誌『コギト』の表紙で偶然、弥勒菩薩像の写真を見たことで、永年の懸案だった〈赤色彗星倶楽部〉の物語の結末が、そこで一気に解決に向かうことになった、というのが「弥勒」成立の発端でした。
 では、〈骸骨〉に置き換わるべきものが、〈阿弥陀〉や〈観音〉や〈普賢〉でなく、なぜ〈弥勒〉だったのか。

「自分の幼少期からしばしば耳にしてきたもので、祖母たちの話や巷の小噺にも引用される題目であったが、それでいて、現代文明の最新データをも飛び越えている未来感を、そのつどにそそり立てていた当体であったことが判った。」

とあるように、それは〈五十六億七千万年〉という宇宙的スケールの時間属性と未来的高揚感とを兼ね備えている〈弥勒〉だったからです。だからこそ、〈この瞬間にも無限単位の時間が経過している〉あるいは〈わずか数分間に覚えられたのが、実は数千年、数万年だったのかも知れない〉というような時間感覚が支配する〈赤色彗星倶楽部〉の幻影物語に、まさにふさわしいものだったのです。
 その出会いが「弥勒」第1部成立の直接の要因となったのは間違いありませんが、同時に「弥勒」は〈物語の救済〉のみならず、第2部において江美留の自己観照の到達点における〈自身の覚醒/救済〉の物語ともなりました。
 それらが、第1部の〈幻想〉と第2部の〈夢〉、いずれもその結末の部分に、〈五十六億七千万年〉という〈弥勒常数m〉を挿入することによって、両方の物語が奇跡的に一つの時空構造の中に統一されることになったのです。
 先ほども述べたように、「弥勒」の物語上の時間ベクトルは、明らかに第1部 ⇒ 第2部という方向性と連続性とを持っています。しかし、その末尾に〈幻想〉と〈夢〉とを置いたことによって、「弥勒」は第1部 ⇒ 第2部という方向性だけでなく、同時に第2部 ⇒第1部という回路も成立することになった、すなわち〈ループ〉していく物語となったのではないか、というのが筆者の考えです。


エピグラフ≠ノついて、もう一度考えてみる


 ここで、「弥勒」冒頭に置かれたエピグラフ≠ノついて、もう一度考えてみる必要があります。

「この未来の宇宙的出来事が間違いなく起るという事は、哲学に取っても将又自然科学に取っても疑問の余地がない。何故なら、如何なる進化も、進化としてはその概念の性質上、一つの終局を有たなければならない。即ち、その目標に、その目的に到達しなければならないからだ。(コエベル博士)」(ルビおよび傍点省略:筆者)

 〈──或る男の抜書帳から──〉としてあるこの一文は、ラファエル・ケーベル博士の『小品集』(深田康算・久保勉共訳、岩波書店、1919年)の第2章第1節「神及び世界」の中から採られた文章です。
 これはケーベルが、タルホがよく引用するところの、以下のベルシェの『大都の背後に於て』(の中の『世界瞥見』)にある文章と関連させて述べている箇所です。すなわち、

「我等人間が(現に)存在する所以のものは、蓋し唯、実験する所の進化の途上のあらゆる天国とあらゆる地獄とが既に我等の背後に没し去り…各々の世界の背後には…あらゆる可能世界─即ち我等の住むこの世界が現出して或る期間存続せんがためには消滅せねばならなかつた所のあらゆる可能性─の眼眩むばかり深き淵が在るからである。」(傍点省略:筆者)
※Wilhelm  Bolsche(1861−1939),“Hinter der Weltstadt”(1901)−‘Weltblick’

 これを引き継いでケーベルは、

「然しながらこの(我等の現に住める)世界とその後に来るべき総ての新世界も亦、同じく滅び往くべき運命を有つて居る、さうしてこの過程は遂に、『もう海といふものが無くなつて』、『新しきエルサレム』が、永劫滅びざるものとして、『新しき天』から『新しき地』に降り来るまで続くのである。」(傍点省略:筆者)

と述べた後に、エピグラフ≠フ部分に続けているのです。
 そして、エピグラフ≠フ直後に続く文章は、以下のようになっています。

「進化の概念から到底削除し得ざるこの目的性を解して内在的とするか或は又超絶的とするか、それは各人の随意であるが、─終局なき進化(目的なき目的性)に至つては竟に一箇の奇怪なる譫語(ノンセンス)たるを免れない!─宇宙の進化過程の終局、即ちその最後の結果は、正に絶対に完全なる世界であり、『新しきエルサレム』であり、神の国である。」(傍点省略:筆者)

 以上、くどくどと前後の文章を引用したのは、「弥勒」の物語全体を象徴する言葉として巻頭に置かれたエピグラフ≠フ内容は、実は極めてキリスト教的な文脈で書かれたものだった、ということを示したかったからです。
 「弥勒」というタイトルの物語である限り、タルホはそこに〈新しきエルサレム〉や〈神の国〉という言葉まで含めることはできなかったわけですが、エピグラフ≠ノある〈目標〉や〈目的〉とは、〈新しきエルサレム〉であり〈神の国〉であったことが分かります。

 では、「弥勒」における〈新しきエルサレム〉や〈神の国〉とは何なのか。当然、それは〈弥勒の世〉であるはずです。しかしながら「弥勒」には、タイトル以外〈弥勒の世〉どころか〈弥勒〉という言葉さえ直接的には出てきません。第1部では〈異様な姿態をした菩薩像〉の写真と偶然に出逢ったこと、および〈五十六億七千万年経った〉という時間、そして第2部では〈見覚えのある仏像〉にもう一度出逢ったこと、および〈五十六億七千万年の後〉という時間、それに〈阿逸多〉(〈弥勒〉の異称)とは自分でなければならない、という夢を見たこと──〈弥勒〉を暗示する事柄は、第1部・第2部を通してこれだけなのです。
 第1部については、〈この巨大な骸骨は我ながら気に食わなかった〉という赤色彗星倶楽部の物語の結末の構想は、〈頭の中でひねくられ〉〈十五年の歳月が流れた〉けれども、〈骸骨〉に取り換えるべく最適なもの──〈弥勒〉に〈偶然〉巡り合った、というのがその概要です。
 では、その概要をエピグラフ≠ノ当て嵌めてみると、どのようになるでしょうか。

「この未来の宇宙的出来事(赤色彗星倶楽部の物語の結末)が間違いなく起るという事は、哲学に取っても将又自然科学に取っても疑問の余地がない。何故なら、如何なる進化(頭の中でひねくられ、十五年の歳月が流れた/〈幻想〉の中では〈五十六億七千万年経った〉)も、進化としてはその概念の性質上、一つの終局を有たなければならない。即ち、その目標(弥勒)に、その目的(弥勒)に(たとえそれが〈偶然〉であったとしても)到達しなければならないからだ。

 いささか強引ですが、第1部における〈弥勒〉とエピグラフ≠ニを結び付けると、このようなことになるのではないでしょうか。
 しかしこれは、〈個人の創作の過程〉を〈宇宙の進化の過程〉に置き換えていることになります。言い換えれば、〈ミクロコスモス〉の問題を〈マクロコスモス〉の世界になぞらえようとしているのです。ここでも以前「タルホ円錐宇宙創造説」のページで触れた、この両者の問題に遭遇します。

 一方、第2部においてはどうでしょうか。
 第2部では、雑誌の表紙で〈見覚えのある仏像〉に〈偶然〉もう一度出逢ったこと、それがきっかけとなって、〈婆羅門の子、その名は阿逸多、今から五十六億七千万年の後、竜華樹下において成道して、先の釈迦牟尼仏の説法に漏れた衆生を済度すべき使命を托された者は、まさにこの自分でなければならない〉と悟った──という夢を見たこと、これが〈弥勒〉を暗示する出来事の全てです。

「この未来の宇宙的出来事(〈阿逸多〉とは自分でなければならない)が間違いなく起るという事は、哲学に取っても将又自然科学に取っても疑問の余地がない。何故なら、如何なる進化(横寺町転居以来の自己観照の精進/〈夢〉の中では〈五十六億七千万年の後〉)も、進化としてはその概念の性質上、一つの終局を有たなければならない。即ち、その目標(弥勒)に、その目的(弥勒)に(たとえそれが〈夢〉の中であったとしても)到達しなければならないからだ。

 これまた牽強付会を承知の上でエピグラフ≠ノ組み込んでみると、ここでもまた〈個人の精進の過程〉を〈宇宙の進化の過程〉に置き換えていることになります。すなわち、〈目標〉や〈目的〉はあくまでも〈個人の覚醒〉あるいは〈個人の救済〉の問題であり、〈神の国〉や〈弥勒の世〉を指しているのではないことになります。
 しかも、〈自己観照の果て〉に〈弥勒信仰〉に到達したということではなく、〈見覚えのある仏像〉にもう一度出逢ったことを機縁として、自らを〈阿逸多〉になぞらえた、というだけではないでしょうか。そこに〈なければならない〉という必然性は希薄なような気がします。そもそも江美留のその間における〈自己観照の精進〉は、決して〈仏教世界的〉なものとは言えず、ヒルティー、ショーペンハウエル、ケーベルら〈キリスト教世界〉の思想家を通した自己陶冶の過程を示しています。したがって、この場合の〈目標〉や〈目的〉は、〈弥勒〉でなく、やはり〈セイント〉だったはずです。
 言うまでもなく、〈弥勒〉は決して信仰の対象としての菩薩ではなく、第1部の〈弥勒〉がそうであったように、あくまでも物語「弥勒」というプログラムを実行するための〈アイコン〉としての機能を担っているのみです。
 タルホ自身、これ以降、教会に通って〈公教要理〉を学ぶなど、一層キリスト教(カソリック)への理解を深めようとしていくのと対照的に、〈弥勒〉への言及が鳴りを潜めていくのを見ても、それが〈信仰〉の対象でなかったことは明白だからです(言及が見られるようになるのは、主に戦後になってから)。

 なお第2部については、改訂による重要な問題などもありますので、またページを改めて考察したいと思っています。


〈進化過程における予感〉あるいは〈彼岸意識〉


 さて、ここからは【附録】のようなページになります。
 ケーベル博士のこうしたキリスト教的宇宙観は、その後もタルホにそのまま共有され、〈進化過程における予感〉あるいは〈彼岸意識〉という言葉に置き換えられて、「悪魔の魅力」「実存哲学の余白」「男性における道徳」「物質の将来」などの作品において繰り返し言及され、タルホ終生のテーマとなっていきます。

 こうした考え方は、〈タルホ宇宙論〉の背景にもなっていることが分かります。たとえば「僕のユリーカ=vには、次のようにあります。

「凡そ宇宙論者は、ユニフォーミリタンとカタストロフィストとに大別出来ますが、ボンディやホイルは前者であり、ルメートルやガモフは後者に属します。僕自身もそうです。何故ならこちらは、宇宙がともかく一つのイヴェントに向っているということを信ずる者であるからです。星雲らが爆発的に誕生したにせよ、常に創造されつつあるものにせよ、それが進化の途である限りはその目標がなければなりません。ホイルばりの「定常宇宙」に拠ると宇宙起源の難問が避けられます。かつ滅亡から宇宙を救い出すことも可能です。しかしそれは永劫輪廻の悪夢の中に宇宙を見棄てることになるのではありませんか?」(『全集5』p.82)

 ここには明らかにケーベル博士の宇宙進化観と共通するものが見られます。〈ユニフォーミリタン〉は不明ですが、特にタルホはここで、ケーベル博士言うところの〈終局なき進化(目的なき目的性)〉を、〈定常宇宙〉に対比させているように見えます。

 また別のところで、次のようにも語っています。

「けど、そういうことを言うと、永劫流転になってくるでしょう。そんなことはないですね。やはりぼくは一方的時間変化というものがあると思いますね。それを考えてるんですけどね。何でも循環ですよ。循環やけど、前とは違う、二回目は。三回目はまた違う。その循環してるものが、輪がつながったようになって円周をつくっている。そういうものがほんとらしいね。(中略)一ぺん回ってきたって、真剣に考えても、前と同じじゃないかというけど、同じじゃないでしょう。同じじゃないから回ったということが言える。でないと、回ったということもわからない。」(『タルホ事典』p.174、「わが思索のあと」小潟昭夫との対談)

 ここでタルホは〈一方的時間変化〉という言葉を使っています。それは直線的変化ではなく〈循環〉だと言っていますが、それが〈螺旋〉を指していることは明らかです。この〈螺旋〉の考え方は、タルホ初期からの宇宙モデルになっているもので、それについてはすでに、「タルホ円錐宇宙創造説」のページでも紹介しました。
 ケーベル博士の宇宙進化観が〈直線的〉なものかどうか分かりませんが、同じように〈一方的時間変化〉を前提としていたとしても、〈螺旋〉をモデルにしている点において、ケーベル博士とタルホとは違いがあるように思われます。

 最後に、もう一度「弥勒」第1部と第2部の構造の問題に立ち返ってみると、先ほど筆者は、両者は時空構造的には〈ループ〉する関係にあると述べました。そのことはタルホが意図したことかどうか分かりませんが、タルホ的にはそれは〈循環〉でなく〈螺旋〉でなくてはなりません。ただしどちらにしても、宇宙年齢が130億年と言われているのですから、それを56億7000万年で割ると約2.3、すなわち2回余りしか〈ループ〉していないことになります。


[補遺]


*ケーベル博士の「神及び世界」の節には、タルホがよく引用するゲーテの言葉も紹介されています。

「精神文化が今や如何に益々進歩しようとも、如何に自然科学が常に愈々その拡がりと深さとを増さうとも、さうして人間精神は如何にその欲するがままに拡大しようとも、然も四福音書の中に輝き照つてゐる所の基督教の崇高と道義的文化との上に出ることはないであらう!」(ルビ省略:筆者)

*晩年のタルホに「神への漸近線上」というタイトルのエッセーがありますが、この「神及び世界」の中に、ライプニッツに「神の漸近線」という言葉があることが述べられていることから、その典拠はここだろうと推測されます。

*ケーベル博士の主な日本語文献には、『小品集』の他に、『続小品集』『続々小品集』『随筆集』などがありますが、「神及び世界」は『小品集』以外には収録されていません。国会図書館のデジタルコレクションで公開されているのは、『続小品集』だけなのが残念です。




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