私 の タ ル ホ 的 年 代 記 ── I.  妄 想 篇

〜20代の頃、私はこんなことを考えていた



タルホ前史


妄想論@──A感覚曲線


「盥」の真相


「ハイゼンベルク変奏曲」


妄想論A──宇宙論


妄想論B──映画論


妄想論C──エロティシズム論


妄想論D──索引づくり


妄想の行く末


タルホ前史 


 私が最初に買ったタルホの本は、『タルホ=コスモロジー』(1971年4月、文藝春秋)です。当時、新聞広告を見て、そのタイトルに惹かれたのでしょう。その頃、映画の他に宇宙論のようなものにも興味があったので、コスモロジー≠ニいう言葉が目に入ったのだと思います。しかし稲垣足穂≠ニいう名前は全然知らなかったので、タルホ≠ェ人名だとは、すぐには分からなかったのではないかという気がします。ただタルホ={コスモロジー≠ニいう、その組み合わせの字づらが、何となくいいな、ちょっと読んでみようか、と思ったのでしょう。それからしばらくして、たまたま大阪に行く機会があったときに、梅田の紀伊國屋書店で、その本を手に入れたのを覚えています。
 書店で本を手に取ったとき──黒と銀の洒落たブックケースに入っていたので、きっと中身を取り出してページをパラパラめくっただろうと思います。そのとき、本の内容が、自分の予想したコスモロジー≠ナないのは、すぐに分かったはずです。『タルホ=コスモロジー』は宇宙論の本なんかではなく、タルホの自作自註の本だったからです。内容を見ても、おそらくチンプンカンプンだったろうと思います。もしそれが「宇宙論入門」や「僕のユリーカ=vのような内容だったら、すぐに買ったかもしれません。不思議なのは、そういう種類の内容ではなかったにもかかわらず、それを買ったことです。理由は今でも分かりません。しかし買ってはみたものの、やはりそれは読まれることなく、そのまま放置されることになります(ずっと後の1978年になって、この本の中に登場する作品のindexまで自分で作成するようになるとは、そのときは夢にも思いませんでした)。


 その次に買った本が何だったのかよく思い出せません。自分のノートにタルホのことが初めて出てくるのは、『タルホ=コスモロジー』を購入してから2年後の1973年のことです。
 ノートには次のような言葉をメモしています。調べてみると『少年愛の美学』のはしがき≠ノ出てくる一文だということが分かりました。

サド侯爵の夥しい著作は、そのすべてが「それ自ら読まるるを好まぬ本」に属していた。即ち危険文書として永久に闇に葬られようがための情熱によって書かれたということを、銘記すべきである。

 ノートには、この言葉は、映画『デカメロン』の中で、監督のP. パゾリーニ自身が扮する画家・ジオットが、最後につぶやく言葉──芸術なんて造らないで夢見ているほうがいい──を想起させたとメモしています。
 角川文庫版の『少年愛の美学』が刊行されたのは1973年5月ですから、この年に文庫を買ったのかもしれません。私の持っている角川文庫は再版ではなく、奥付には確かに、昭和四十八年五月三十日 初版発行≠ニのみ記されています。ただしよく見ると、奥付裏の最終ページの余白に120≠ニ薄く鉛筆書きしてあるのが曲者で、ひょっとしたら、これは後から古本屋で120円≠ナ買ったものかもしれない、という疑念を抱かせます(当時の定価は240円)。
 いずれにしても、1973年時点で『少年愛の美学』が手元にあったのは確かなようです(私は、徳間書店版の『少年愛の美学』は初版も改訂版も持っていません)。
 ただし、読みもしなかった『タルホ=コスモロジー』からたった2年で、『少年愛の美学』を読むまでの読者になったのかどうか、我ながら疑問です。

 1973年のノートには、もう一つタルホからの引用と思われる[※]メモが出てきます。

ベータ崩壊が或る種の原子核では起こっているのに、すべての核で起こらぬ理由は一体何だろうか。もし全ての核でベータ崩壊が起こるならば、そのような問を発する我々自身が存在しないことになるだろう。

 ここには12月8日と日付まで記しています。この一文は、タルホに送った3度目の手紙の中でも取り上げているので、インパクトを受けたものだったことが分かります。
[※]思われる≠ニしたのは、出典が不明だからです。コバルト60の原子核のベータ線崩壊を用いたパリティー保存≠フ問題は、「男性における道徳」や「物質の将来」に出てきます。どちらも単行本『男性における道徳』(1974年6月、中央公論社)に収録されていますが、メモはそれより早い1973年12月8日の日付です。こんな発言はタルホ以外にないと思いますが、後で記すように、自作のタルホ語彙索引を以てしても、恥ずかしながら、この一文の出典がヒットしません。

 ちなみに、『タルホ=コスモロジー』以降、上のメモを記した1973年までに刊行された主な単行本を年代順に並べてみると、次のようになります。

 @『タルホ=コスモロジー』(1971.4)
 A『パテェの赤い雄鶏を求めて』(1972.3)
 B『鉛の銃弾』(1972.3)
 C『菫色のANUS』(1972.6)
 D『青い箱と紅い骸骨』(1972.10)
 E『ミシンと蝙蝠傘』(1972.12)
 F『少年愛の美学』(角川文庫、1973.5)
 G『タルホ座流星群』(1973.6)
 H『天族ただいま話し中』(対談本、1973.10)

 これを見ると、1972年以降では1年半の間に8冊も新刊が出ていて、タルホ・ブームだったことが分かります。
 とはいえ私は、当時、こうした新刊を片っ端から買っていたわけではありません。CとHは、いま手元にないので確認できませんが、E以外は裏見返しに古本屋のシールが貼ってある(あるいは剥がした跡がある)のです。つまり、後になって古本屋で買い求めたことになります。そうすると、やはり文庫の『少年愛の美学』も古本屋で手に入れた可能性が高くなります。当時、新刊が出るたびに買えるような境遇でなかったとも言えますが、1972〜73年頃は、まだ本を買い集めるほどタルホに入れ込んでいるわけではなかったような気がします。後で述べるように、これらの本は、さらに4〜5年後、タルホの語彙索引≠作り始めた頃に買い集めたのだろうと思います。

妄想論@──A感覚曲線


 ところが翌1974年になると、私のノートは俄然、タルホ関連のメモで溢れるようになります。タルホ関連というより、A感覚論の方程式化≠ニいう自らの妄想に取り憑かれ、それをまとめようと夢中になったからです。おそらく『少年愛の美学』を読んだ結果でしょう。
 『少年愛の美学』によって語られるA感覚オブジェの数々を、自らの乏しい経験に当て嵌めたとき、それら各オブジェは一定の関連性をもっているようだ、ということに気づいたからです。それらを繋ぎ合わせて一つの曲線と見なし、仮にA感覚曲線≠ニ称すると、その曲線はある性質を持っているはずである。それはどんな曲線か? A感覚に対比されるV感覚(その裏返しであるP感覚を含め)が有限の閉じた楕円≠ナ象徴されるのに対し、A感覚曲線は無限に開いた双曲線≠ナ表されるはずである。そして、そのAV両曲線は同一座標上に表すことができる──。
 もちろん、この頃はまだ「『稚児之草子』私解」に出てくるように[※]、AV両感覚と円錐曲線との明快な対比に出会っていたわけではありませんが、直観的にそういう理解をしたのだろうと思います。
[※]「──楕円は、(昆虫学者ファーブルに依ると)「遊星の軌道で、その親族関係のある二つの焦点が、動径の不変な和をゆずり合うもの」である。これは安定した愛人ら即ち結婚生活を指しているわけだ。抛物線、「その失われた第二の焦点を無限に空しく探し求める。一日吾人の太陽を訪れてきて再び幽玄の彼方へ去って帰ってこない彗星の軌道である」そうならば、永遠の女性を目標にしたドン=ジュアン的遍歴、つまり一般ローマンスの原理に相当しよう。次に双曲線、これこそ少年愛的境地である。即ち、「それは相容れぬ焦点を持った絶望的な曲線であって、次第に漸近線となるけれど、決して直線になることなく、無限の触手のように空間の彼方につき入っている」」(「『稚児之草子』私解」)
 ともあれ、こうした妄想の上に立って、タルホへの第1回の手紙が書かれることになります。

 当時の私は、若い頃のタルホがそうだったように、円錐曲線としての楕円、抛物線、双曲線をきちんと理解してはいませんでした。したがって、後にタルホと会ったとき、あの双曲線は失敗だった≠ニ言われることになります。
 x軸とy軸とによって双曲線と楕円を表そうとしたのはいいとして、AV両感覚曲線は、座標の第一象限と第四象限にしか描かれていませんでした。しかも、x軸に時間(t)を取ったのなら、y軸は何を示しているのか? いまノートを見返すと、それが提示されていません。y軸が表すものを示さなければ、A感覚曲線≠ヘ一体何を表しているのか。これでは双曲線もへったくれもありません。今ならy軸はA感覚的抽象性≠ニでも言うべきものだと思いますが、当時はそんなことにさえ思い至らない、杜撰極まりないものだったわけです。
 それにもかかわらず、非常に拘っていた点があります。A感覚曲線は時間的には有限で、実線≠ナ描かれた曲線は、死(d)≠境に点線≠ニなります。これは分かりますが、では一方のA感覚曲線の始点≠ヘどこに置くべきか? A感覚曲線が死≠ナ終わるのなら、始点≠ヘ誕生したとき(b)≠ナはないか、と普通は考えますが、私はそれを物心がついたとき(m)≠ノすべきだと考えたのです。すなわちA感覚曲線は、時間軸(t)上では物心がついたとき(m)≠ゥら死(d)≠ワでに限定されるのです。したがって、(m)から(d)までの間が実線≠ナ表されることになります。これはV感覚楕円曲線においても同様です。つまり、互いに正負逆の曲率を持つA感覚曲線(双曲線)とV感覚曲線(楕円)は、(m)点で接することになります。
 この始点≠フ問題は、後にさらに厳密に規定されることになります。誕生(b)までには10か月の受胎期間があるので、時間軸(t)の原点(o)は、この受胎日(c)とすべきだというのです。
 なぜこんな細かいことに拘るのか? それは欲望論≠ニ宇宙論≠ニを分けて考えようとしていたからです。
 その頃のノートは、『タルホフラグメント』(1974年7月、大和書房)からの引用が顕著です。最初の『タルホ=コスモロジー』の次に買った新刊は、あるいはこの本かもしれません。その他では、対談本の『天族ただいま話し中』(1973年10月、角川書店)と『男性における道徳』(1974年6月、中央公論社)を新刊(ただし、手に入れたのは1974年8月の再版本)で買ったようです。
 この『タルホフラグメント』に収録された「「ニセモノ」としての美女」の末尾に、

……それからは? それからは欲望論を離れて、われわれは「宇宙論」に移らねばならない。

という一文があります。これを読んだからかもしれませんが、私は、A感覚論(V感覚も含めて)はあくまで欲望論≠フ一つであって、欲望函数≠ニしてのAV両感覚曲線は=A先に述べたように、物心がついたとき(m)≠ゥら死(d)≠ワでの範囲(実線部分)においてこそ意味を持つものだと考えたのです。
 では、実線部分以外の点線部分、すなわち受胎日(c)以前/死(d)以後は、何によって論じられるのか、これこそ欲望論≠離れて宇宙論≠フ問題だと理解したわけです。当然、この宇宙論≠ヘ近代科学的宇宙論ではありません。
 ノートには、同じく『タルホフラグメント』から、次のような言葉の引用があります。

「いかなる理性をもっても、意志力によっても判らぬものが二つある。それは自分の生れた場所と時とである」このシュペングラーの言葉の解が、そこにおいて与えられるのでなかろうか。=i「私はいつも宇宙の各点へ電話をかけている」)
究極的には人間は中性子的存在となり、ブラックホールとして消失するものに相違ない。=i「同上」)
わたし(アインシュタイン)が、なぜ自分が物理学者になったかについては何事も知らない。=i「わたしの神変自在なソロバン」)

 ここでタルホが取り上げている、こうした問題や考え方は、近代科学のテーマではありません。タルホが要請しているもの、あるいはイメージしているものが、近代物理学的宇宙論でないことは明らかです。なぜなら、近代科学は自分≠解放するものではないからです。仮に物理学的統一場理論が完成したとしても、では、そのように考えている〈私〉はどこにいるのか≠ニいう問いから逃れることはできないからです。
 ──そこで思考を逆転してみます。ここからは私の妄想になります。

心の内なる…≠ニいうのは、実は外側≠ナあって、外界としての宇宙≠ニは、内側なる世界≠ナある。

 すなわち、外に閉じ、内に開いた世界≠想定することです。このうち外に閉じた世界≠扱うのが近代物理学的宇宙論で、内に開いた世界≠アそ仏教的宇宙論≠ェ担う世界です。そこで扱われる精神の階層構造≠フような問題に対しては、近代科学の物理学的・生物学的アプローチでは全く無力だからです。ここで持ち出した仏教的宇宙論≠ヘ、おそらく『男性における道徳』で展開される須弥山世界をはじめとする仏教談義からの影響でしょう。
 しかしながら外に閉じ、内に開いた世界≠フアイデアは、この時点ではまだ気がついていませんでしたが、人体をAO円筒≠ノまで抽象化するタルホであってみれば、こんな逆転はメビウスやクラインを持ち出すまでもなく、むしろ当たり前の話だったのです。すでにこのように言っていたからです。

そんな宇宙とは、何かそとにあるものでなく──いやそんなそととはじつは吾々のからだであったかのようにさえ感じられてきました。=i「P博士の貝殻状宇宙に就いて」『多留保集6』p.89)

 あるいは、

G・ガモフ博士は好著『一二三……無限』の中で、──二箇の虫喰い林檎を互におしつけて一箇分の容積に圧縮し、これを元にドーナツ型を捻出する奇術を見せているが、続いて、われわれの体外が、恰も無花果のようにあべこべに体内にくるみ込まれ、このような内部空間に諸天体が彷徨しているというトポロジー的変換によって、「骨はむしろ肉体の外部にあるべきだ」とするダリ画伯を跣にさせるようなアブストラクトを示している。=i「Prostata〜Rectum機械学」『全集4』p.378)

 さて、このトポロジー的変換をA感覚曲線に当て嵌めると、実線の部分=i物心がついたとき(m)から死(d)まで)──これが外に閉じた世界(近代物理学的宇宙論)≠ノ相当し、一方の実線以外の点線の部分=i受胎日(c)以前/死(d)以後)──これが内に開いた世界(仏教的宇宙論)≠ノ対応することになります。そして当然、この両者はA感覚曲線上で調和させられるべきものとなります。

「盥」の真相


 おおよそ以上のような内容(妄想)を、1・2回に分けてタルホに書き送ったことになります。おそらくタルホも、突然そんな手紙をもらって当惑したに違いありません。
 この2度の手紙に対してタルホから返事はありませんでしたが、3回目に出した手紙(「盥」の手紙)の後もらったハガキには、@とAはあまり貴君の着想が奇抜すぎて、人をして唐突な感に導くきらいがありますが、Bは穏当で、この手紙が一等よく出来ているようです。≠ニ書かれていました。
 3回目の手紙については、すでに本サイトの別のところでも触れていますので[※]繰り返しませんが、その手紙が『タルホ事典』のリーフレットになったとき、なぜ「盥」というタイトルが付けられたのか、という理由をここに記しておきます。もちろんタルホが付けたのでしょうが、それは手紙に次のようなことを書いていたからです。
[※]本サイト「タルホと私」の中の「盥」、および「春風にエアロの動く二三間」の「特別付録──仮想対談withタルホ先生」参照。

 ──作家の吉行淳之介が、三島由紀夫の有名な小説の中で、産湯を使ったときの盥の内側の光景を覚えているというような話について、盥≠ニいう言葉を遣っているのは怪しいのではないか、盥≠ニいう具体的な観念がその頃にあるはずがないのだから作為的ではないか、というような意味のことを書いていましたが、それを自分流に解釈すると次のようになります。
 つまり、三島氏には盥≠ニいうものが、オブジェとして認識されていないのです。だから、彼がそのような光景を時間ベクトルの彼方に置いたとしても、彼にとって盥≠ェオブジェになっていない以上、その光景と盥≠ニを結び付けているのは、何ら根拠のあるものではありません。それはただ産湯≠ニ盥≠ニいう非常に通俗的なイメージの文章上の操作に過ぎません。もしその話が本当ならば、彼は盥≠ニいうオブジェの上に、何かしら軽い焦慮≠ネりやるせない感情≠懐いているのでなければなりません。
 A感覚オブジェは必ず時間ベクトルを持っていますが、必ずしもその逆が言えるとは限らないからです。仮に、三島氏にも彼自身のA感覚曲線を描くことができたとしたら、盥≠ニいうオブジェは、おそらくその曲線上には無いはずです。

 このようなことを手紙に書いたのですが、いま考えると、先ほど述べたA感覚曲線の話で、時間軸上の物心がついたとき(m)≠ニいう設定に拘った理由の一つには、この盥≠フこともあったかもしれません。A感覚曲線上のオブジェ群は、記憶≠ニいう時間の逆行作用(言い換えると、無時間性の知覚作用)によって再確認されたものです。したがって物心がついたとき(m)∴ネ前にはA感覚オブジェは存在しません。つまり物心がついたとき(m)∴ネ前のオブジェである産湯の盥≠ヘ、A感覚オブジェではありません。もしも、産湯を使ったときが三島氏の物心がついたとき(m)≠ナ、盥≠ノ対して何かしら懐かしさ≠感じ、その後の彼のA感覚オブジェ群(があるとすれば)と一定の関連性を持っているのならば、すなわち盥≠ェ彼のA感覚曲線上にあるオブジェの最初の一つであるなら、彼の主張は正当性を持つかもしれませんが、おそらくそうではないはずです。

「ハイゼンベルク変奏曲」


 以上のような内容を含んだ3回目の手紙を書き送った後、初めてタルホから返事のハガキをもらったことはすでに述べました。
 実は、そのハガキには次のようなことも書いてありました。

…私はいま「ハイゼンベルク変奏曲」を書く計画がありますが、貴下のA感覚論の一部を借用したいと思っています。A感覚の方程式化は、なるほど世界にもめづらしい考えです。どうぞやり遂げてください。…

 これを見て、私は有頂天になったわけです。タルホに会いに行かなければならない!≠ニ思ったのも無理はありません。すると居ても立ってもいられなくなり、ハガキをもらって1か月半後、1975年の正月明けの1月5日、ついに京都のタルホを訪ねたのです。
 このタルホ会見記≠ノついては別のページに譲ることにして、ここで「ハイゼンベルク変奏曲」について触れておかなければなりません。
 タルホ読者の中にはご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、私へのハガキに記されていた「ハイゼンベルク変奏曲」は結局、刊行に至りませんでした。そのあたりの事情は、松岡正剛氏のウェブサイトをご覧になってください。私は、ハイゼンベルクの自伝の訳書である『部分と全体』(1974年7月、みすず書房)に、タルホがいろいろ書き込んだものが遺されているのだと想像していましたが、そうではなく、ちゃんと原稿用紙に書かれたもののようです。
 刊行されなかったことは残念至極ですが、それによって結局、その内容を見ることができなくなった私にとって、先のハガキで示唆された件は、以来、いわば永遠のVorlust(前快)状態≠ノ置かれることになったわけです。
 「ハイゼンベルク変奏曲」は、量子力学を確立した物理学者の一人、ウェルナー・ハイゼンベルクを主旋律とし、それをもとにタルホが自在に変奏を連ねていった、まさに変奏曲(バリエーション)なのだろうと想像しています。かつて以来五十年、私が折りにふれてつづってきたのは、すべてこの『一千一秒物語』の解説に他ならない≠ニ語ったタルホですが、ここで言う解説≠ヘ変奏≠ニ言い換えることもできます。だとすると、以後のタルホ作品はすべて変奏曲≠セと言っても差し支えありません。あの夥しい数の改訂・改作、さらにこの話はあそこにも出ていた、ここにも出ている≠ニいう作品の重層性、変幻自在性は、まさしく変奏曲≠サのものでしょう。そう考えると、遺作となった未刊の作品のタイトルに、変奏曲≠ニいう名前を被せたのは、二重の意味で、タルホらしいなと思わずにいられません。
 それにしても、オリジナルの「ハイゼンベルク変奏曲」の原稿は、遺族の元へ返されたのでしょうか。刊行が不可能ならば、たとえば文学館などの公共的施設へ寄贈することによって、誰もが見られるような形にする、という道も残されているのでは…、と思うのですが。

妄想論A──宇宙論


 話を元へ戻すと、タルホを訪問した後も引き続き、というよりもそれまで以上に、私のノートは手紙の下書きのような断片で埋め尽くされていきます。そこでは宇宙論や映画論、エロティシズム論などを展開しようとしていたことが窺われます。ただ、それらを実際にタルホに書き送ったのかどうか、今となっては定かではありません。ここで、それらを全部取り上げても煩わしくなりますので割愛しますが、そのうちの2、3の断片を取り上げることにします。

 私が「宇宙論入門」や「僕のユリーカ=vを読むのはもっと後のことになりますが、この頃、私なりにタルホ以外の宇宙論関係の本を読んで疑問に思ったことについて、著名な宇宙物理学者のS先生へ質問の手紙を書き送ったことがあります。それは先生が一般向けに書かれた本を読んだことがきっかけで、その感想がてら質問を送ったのでした。
 質問内容のメモが手元に残っていないのが残念ですが、光のドップラー効果であるスペクトル線のずれ(赤方偏移)≠ゥら、なぜ膨張≠ニいう概念のみが導き出せるのか、どうしてそれ以外のモデルは考えられないのか、といったようなことが、おそらく質問の主な内容だったように思います。
 さぞ先生も素人読者からの質問に困惑されたことでしょう。それに対して、先生からご親切にもいただいた回答の概要は、おおよそ次のようなものでした。

確かに遠方のものは過去の姿ですから、その時代には違ったスペクトルを出す物理学が支配していたのではないかと考えられます。しかし、銀河が見えているぐらいの範囲で物理法則が、時間的・空間的に変化しているとすると、ただちにあらゆる矛盾が出てきます。

 これがどういういう質問に対する回答だったのか、残念ながら思い出せません。光の速度が、なぜ現在も100億年前も一定で同じだと言えるのか? 光速度が変化するとすれば、違ったモデルになるのではないか? というような質問だったのかもしれません。

膨張宇宙論はスペクトルのずれだけで支えられているのではありません。1905年に発見された宇宙黒体輻射はスペクトル線のずれとは無関係な事実で膨張を証拠づけています。ただし、銀河などが見えている領域よりも大きな(すなわち古い)部分では、物理法則も変わっている可能性は否定できません。

 また、膨張≠ニいうと中心≠ェあるようにイメージしてしまうが、という質問に対しては、ハッブルの法則(V=Hr: V=後退速度、r=距離、H=ハッブル定数)は、その対象が2点間だけでなく、3点になっても同じだということを、図解までして説明されました。

速度Vは相対的なものです。仮にA、B、Cの3点における膨張(後退)速度は、どの点を中心にしても、V=Hrが成立します。逆に、そんな都合のよい膨張則はV=Hrしかありません。たとえばV=Hr2としたら、そういう法則は成立しません。

青方偏移≠キなわち接近している銀河は一つもないのですか、という疑問に対しては、

不思議なことに発見されていません。ただ最近、同じ場所と考えられるのに、スペクトルのずれが違うものがあるのを発見した、という主張が一部にあり、一つの大問題になっています。

というような回答でした。

 そもそも、そんな質問を先生にしたのは、その頃、私の宇宙論は次のような妄想に基づいていたからです。

 ──宇宙の天体は、回転を基本としている。月は地球の周りを回転し、地球は太陽の周りを回転している。その太陽は銀河系の渦の中を回転している。これらの回転を公転≠ニいうが、地球が太陽の周りを1年かけて一巡する公転速度は秒速30km、太陽が銀河系を2億年以上かけて周回する公転速度は秒速230kmとされている。
 同じように考えると、我々の属する銀河系も他のさまざまな星雲とともに、ある系(超銀河系=jの周りを公転している、と考えることは別に突飛なことではないはずである。事実、その公転速度は秒速600km[※]と言われているようだ。
[※]最近では宇宙マイクロ波背景放射≠ノ対する銀河系の速度を秒速600km≠ニしている。
 ここで重要なことは、我々の銀河系が超銀河系≠秒速600kmで公転としているということは、我々の地球/太陽も超銀河系≠秒速600kmで巡っているということである。つまり我々は何も感知していないが、超銀河系°間に対して、すでに秒速600kmで動いているのである。
 このような妄想を繰り返していくとき、超銀河系≠ヘ超々銀河系≠フ周りを、超々銀河系≠ヘ…と階層は増えていき、このn銀河系を巡る我々の銀河系(地球/太陽)の速度は、nが増えるほど大きくなり、ある階層に対しては光速度(秒速30万km)を超えるものであっても不思議ではないだろう…。というよりこの場合、光速度が、地上における水平線のような働きをし、我々はその先を窺い知ることができない──このような考え方はできないだろうか…。

 ハッブルが観測・調査したのは、我々の銀河系以外の星雲、すなわち超銀河系≠ノ属する星雲であって、そこから膨張宇宙≠フ概念が発生したわけですが、上のように回転≠前提にした宇宙は、別に膨張≠オていなくても成立するので、その場合超銀河系≠るいは超々銀河系≠ヘどのようなスペクトルを示すのか、見掛け上、接近しているような星雲もあるのではないか、一つとして近づいていることを示す星雲は検出されなかったのか…。
 ──先生への質問の背景には、実は以上のような妄想があったわけです。

 私の妄想的回転宇宙論≠ゥらすれば、100億光年の彼方にある銀河が発見されたのなら、その銀河は100億年前に100億光年の彼方にあった≠ニいうことではないのか? 宇宙は100億年前にすでに100億光年の広がりを持っていた≠ニいうことではないのか? というふうな話になっていきます。
 ところが起源≠フある膨張宇宙論≠ナは、宇宙はビッグバンから100億年以上かけて膨張して現在の広がりを持ったわけですから、原初の星々を観測するためには100億光年の彼方にある星を探すしかありません。しかも100億年前の宇宙は非常に小さかったはずですから、そんな原初の宇宙[※]は、はたしてどのような姿として観測され得るのか。
[※]ハッブル望遠鏡で観測された、129億年前に輝いていた星「エアレンデル
 先の先生の指摘にもあるように、膨張≠ヘ相対的なものですから、逆に原初の星から見れば、我々が住んでいる銀河系は100億光年の彼方に位置しており、しかもいま≠ナはなく100億年前の姿です。もちろん46億年前にできた太陽や地球は、まだ存在していません。反対に、50億年前までは存在していたけれども、その後、消滅して塵になった星々もあるでしょう。そんな星は、かつて存在したことさえ人間には認知できません。

 ──タルホの本を読む一方で、当時、このような妄想的宇宙論≠弄んでいたのですが、その宇宙物理学の先生とのやり取りについて、タルホに報告したかどうか、はっきりしません。
 それにしても、こんな妄想を巡らせていると、タルホ読者としては、やはり『弥勒』第1部の末尾のシーンを思い出さざるを得ません。

曾てわれわれがアゼンスの街で星を仰いで語り合ってから、そうれ、ここにちゃんと出ている。五十六億七千万年の時が経っているのです。弥陀の声が筬のように行き交うている虚空の只中で、この銀河系は何十回も廻転しました。地球なんか勿論とっくの昔に消えてしまった。若しもあの黄色の星が地球なら、それは何代目かの子孫──いや全く別な、新しいきょうだいなのだ、と云うべきです

 ここで語り合っている二人は、どこから黄色の星を眺めているのか?

 最後に、上の妄想的回転宇宙論≠ノさらに輪を掛けた妄想を紹介して、この節を閉じることにします。
 ──地球との相対速度が光速を超えるn銀河系には、それまでの空間+時間という四次元的法則が適用できません。したがって、すでにn銀河系は遠方にある≠ニ言うことはできません。反対に近くにある≠ニいう言い方もできません。光学的な遠近が成立しないからです。すなわち、目には見えないけれども、時間的・空間的属性を帯びない存在形式≠ニしてある、ということになります。
 それを反宇宙≠ニ呼んでもいいけれども、それは単にプラス・マイナスの符号が逆になるような関係ではありません。反宇宙≠ニは、時間や空間が意味を成さない¢カ在形式です。意味を成さない≠ニは、卑近な例で言えば、たとえば2次元的な影≠ノ対しては触る≠ニいう3次元的な行為が意味を成さない≠ニいうような関係です。我々の宇宙≠ゥらすると、反宇宙≠ニは、見るということや触るということが意味を成さないけれども、いつでも、どこにもある≠ニいう存在形式です。
 頭上の彼方の何もないと思われている空間は、実はそのような反空間≠ェ層(レイヤー)を成している──と考えられないだろうか。もっと言えば、春風が頬を撫でるこの心地よい空間こそ、実は反空間≠フ影≠フような存在形式なのではないだろうか。

妄想論B──映画論


 さて、このあたりでもう一度、地上の引力圏に話を戻しましょう。
 この時期、タルホの本の中で、ある決定的な文章に出会います。それは「形式及び内容としての活動写真」(1974年10月、多留保集2『プロペラを廻すまで』収録)の中に出てくる一節です。このことについては、すでに「スプロケットの回転」と題して雑誌に発表しましたし、本サイトにも掲載しています。

…活動写真が時空の形式をとり入れたものであったら、その時間とは云うまでもなく歯車の廻転というようなところにまで抽象されているものである。それならば、それにふさわしいつれ合いであるべき空間も、即ちフィルムの内容をなしているものも、やはりそれだけの様式化された或物でなければならぬ。

 この一文にノックアウトされたのです。私は学生時代から映画に興味があって、雑誌『季刊フィルム』の懸賞論文に応募したり、『映画評論』に投稿したりしていました。その後、渋谷にあった映画学校に通うようになるほど、映画に入れ込んでいたのです。しかし、別にドラマを作りたいわけではない、というのは自分で分かっていました。なぜなら映画よりも、光の波長やセンシトメトリー、E. ランドのRetinex理論について調べたりするほうが好きだったからです。あるいは、時代の違うボクサーのカシアス・クレイとロッキー・マルシアノとのコンピュータ・タイトルマッチ[※]≠ノ夢中になったり(今ならCGを使ってそんなことは朝飯前でしょう)、同一画面で人が無限に分身(オーバーラップ)していく映像とか、フィルムにはちゃんと撮影してあるのに、プロジェクターにかけて映そうとすると決して映らない映画とか、そんなことばかり考えているような性分だったからです。
[※]今ではDVDで購入できるようです。
 その後、C.W.ツェーラムの『映画の考古学』(1977年8月、フィルムアート社)という本に出会ったとき、自分は映画におけるこういう世界が好きだったのだということが分かったのです。写真家のE. マイブリッジが作ったカメラを何十台も連ねた連続写真撮影装置、それを革命的な発想によって1台のライフル銃型撮影機にまで転換した生理学者E. J. マレイ、またエジソンよりも早くパーフォレーション付きフィルムを使って撮影したルイ・エーメ・オーギュスタン・ル=プランスなど、エジソンのキネトスコープ、リュミエールのシネマトグラフ以前にも、こういった先駆者がたくさんいたのを知ることができたからです。この本は、光と影を2次元上に投影し、それを動きのあるものにする機械(連続写真撮影/再生装置=jを創り出すために、人間はいかに苦心惨憺してきたのかという歴史を、豊富な図版や写真によって紹介した本で、一般の映画史の本なら映画前史≠ニされるところで終わっています。
 いわゆる映画≠ェ、この連続写真撮影/再生装置≠ノよって動いて見える動画≠ノよって描かれるドラマのことなら、自分が映画に求めているのがそんなことでないのは分かっていました。そうではなく、連続写真撮影/再生装置≠ノよって映されたものが、なぜ人の網膜を通して動画≠ニ認識されるのか、なぜ残像現象≠ェ生じるのか、というような問題のほうが、自分にとっては、はるかに重要だったからです。
 映画における私の脳内構造が、そのような仕様になっていたときに、タルホの上の言葉が音を立てるように、私の脳内にパチンと嵌まったのです。そう!連続写真撮影/再生装置≠ニは模型時空生成装置≠ネのだと! 映画とは何か?≠ネどと青臭い議論が繰り返されていた時代にあって、すでに半世紀も前に、活動写真が時空の形式をとり入れたものである≠ニ見抜いていた人間がいた! 言い換えると、連続写真撮影/再生装置とは模型時空生成装置である≠ニ喝破していた人間がいた! ということに仰天してしまったのです。もちろん、同時代にそんなことを言っている人は誰一人いませんでした。きっといつの時代にあってもそうでしょう。自分は、この一言に出会うために、これまで映画についてあれこれ考えていたのだ、と思ったとき、もう映画どころではなくなっていました。
 (その後の仏教的刹那生滅≠笳ハ子力学的連続/不連続≠ノ関する妄想については、本サイトの「スプロケットの回転」をご参照ください。)

妄想論C──エロティシズム論


 タルホを訪問した折、会話の中でも当然「ハイゼンベルク変奏曲」のことが話題になりました。タルホが、ハイゼンベルクの『部分と全体』の原題のことを、何とか言っていたのですが、私には聞き取れませんでした。そのときはまだ、その本を読んでいなかったので、"der teil und das ganze"というドイツ語が分からなかったのです。
 そのときタルホは面白いことを口にしました。東洋人では、宇宙を抽象化していくと円になるけれども、彼ら(ハイゼンベルクら欧米人)にとっては正三角形になる≠ニ。そこでタルホのアイデアは、正三角形を4つ組み合わせると正四面体になる。つまり正四面体が、最小の数の面によって組み立てられる最も簡単な立体である。この正四面体の面を順次増していく。それを正n面体とするとき、このnを無限大にすれば、その多面体は球になる。≠ニいうものでした[※]。そうすれば、東洋と西洋の思想を繋ぐことができるではないか、ということなのでしょうか。「ハイゼンベルク変奏曲」は、そのような抽象化によって、『部分と全体』を変奏曲風に解釈・発展させる、というものらしいことが分かりました。
[※]宝石のカットでは180面体≠ニいうのがあるようです。正多面体ではありませんが、高度な技術を要するのでしょう。
 たしかにその後、ハイゼンベルクの別の本で見た写真は印象的なものでした。彼の書斎を写した一枚で、きちんと整理された机の右上方に、白い石膏のようなもので作った小さな正四面体や立方体などの像が、サイコロのようにいくつか無造作に積んであったのです。ハイゼンベルクは高校生のとき、プラトンの『ティマイオス』の中の、三角形を論じた部分を読んだことが、後に物理学を志すきっかけになったと述べていました。
 ただ、タルホの話を聞いてからも、では、nを無限大にしていくというのは、具体的にはどのようなことなのか≠ニいうことをずっと考えていたことが、自分のメモから分かります。
 また、そのとき疑問が生じたのは、無限n角形≠ェ円≠ノなるのは分かったけれども、円≠ェ三角形≠ノなる回路はないのか、ということです。そこで思案した結果、

円≠ェ無限大であれば、その円弧は直線≠ノなる。直線は1次元であるが、直線外の1点を設けると2次元となり、そこに三角形≠描くことができる。

 これはただそれだけのことですが、そこに円環を見出せたと思ったことが嬉しかったのを覚えています。

 ところで、そのときは気がつかなかったのですが、タルホの言うアイデアと似通った話が、たしか作品の中にもあったことを思い出しました。調べて見ると、それは『一千一秒物語』の中の「友だちがお月様に変った話」でした。

 ──事件の現場検証をしたカイネ博士は、お月様がアスファルト上に点々と残していった尖った跡を追いながら、お月様は三角形だと言わなければならぬ、と主張し、その三角がたいへん速く廻っていたから 円く見えたまでの話である≠ニ説明を加えた。

というような話でした。
 いま改めて読み返してみると、先のタルホのアイデアが、三角形を無限多角形にしていけば、それは円になるではないか≠ニいうのに対し、カイネ博士の見解は、三角形が急速に回転したら、それは円に見えるではないか≠ニいう違いがあることが分かりました。静的≠ニ動的≠フ違いです。さらに、カイネ博士のある物を運動させることによって、それが別の物に見えるようになる≠ニいう指摘は、先に述べた連続写真撮影/再生装置≠フように、非常にキネマティック(モーション・ピクチュア=活動写真的)な見方だということに気がついたのです。

 さて、ここからが本論です。冒頭に述べたA感覚曲線≠フ座標軸であるx軸とy軸のうち、y軸の示すA感覚的抽象性≠ヘ、異物化∞対象化∞オブジェ化≠ネどを指向しています。仮に、その抽象化作業全般を象徴するものとして、ダ・ヴィンチ的万能性(諸可能性)≠置いてみます。
 なぜなら、タルホは次のように言っているからです。

…フィレンツェの美少年、レオナルドの一夜の夢に、いずこからともなく一羽の禿鷹が飛んできた。鷹は何事かを促すかのように、眠れる少年の脣をその嘴で以て頻りに突ッついた。もしもこの夢が、(フロイトが云うように)レオナルドの後年における飛行機発明欲と関連があると云うのであれば、禿鷹が突ッついたのは脣ではない。それはAでなければならない。であって初めて、『モナリザ・ジョコンダ』の筆者の精神性が立証されるのであるまいか?=i「少年愛の美学」『全集4』p.106)

 ここでは、Aオナニズム≠ニダ・ヴィンチの精神性とが関連づけられています。そうであるなら私は、このAオナニズム≠軸にして、ダ・ヴィンチ的万能性≠反転させた、もう一つの精神性≠提示したいと思ったのです。
 それは、東洋における瞑想≠ニいう方向性です。インドのヨガ行者の瞑想や仏教の座禅、あの静座スタイル≠象徴させるのはどうか。それは独り神/無と向かい合っている一個の人間≠ナあり、もう一方のAオナニズム≠フ極北を示しているのではないか。
 こんなAオナニズム変換≠フ妄想を懐いたのは、タルホの何もしないのがいちばんエロティック[※]という言葉がきっかけになっています。タルホは、それによって究極の色の道≠説いていたのですが、私はそれをあえて曲解して、自分に対する言い訳にしていたふしがあります。なぜなら当時、何でもできるが何もしない≠ニいう自分の決意を補強してくれるものとして、非常に都合がよかったからです。しかし実際は何でもできるが何もできない≠ニいう当時の不如意の境遇を言い換えただけだったのかもしれませんが…。
[※]対談集『天族ただいま話し中』(1973年10月、角川書店)の中の「中村宏──地を匍う飛行機と飛行する機関車」p.170)。この本は手元にないので、図書館から借り出して確認したところ、正確には次のような言葉です。
…エロティックなことは何もしないということやな、これがわかれば釈尊ですね。これほどエロティックなこと、助平なことはないね。キリストなどは女なんか相手にしていると不自由になる、というわけですよ、精神的自由がなくなってしまう。何も相手にしないこと、これが本当の色の道や。
 中村との対談では他のところでも、一番いいのはセイント! 東洋の聖者の道ですね。一番エロチックじゃありませんか。≠ニあります(p.156)。また同じことを、「男と女」(『多留保集1』p.53)でも、東洋の聖者の道が一番エロチックです。≠ニ言っています。
 その頃私には、'60年代のロック・ミュージシャンたちのいわゆるインド志向≠ノ比べると、だいぶ遅れて来たインド志向≠ンたいなのがあって、外語大のヒンディー語講座に通ったり、その講師だったインド人にヨガ(といってもプリ・ヨガのレベル)を習ったりしていました。そんな中で、インドのヨガ行者パラマンサ・ヨガナンダの『ヨガ行者の一生』という本に出会ったことや(ビートルズの『サージェント・ペパーズ…』のレコード・ジャケットの群像中に、この本に登場する人物が何人か顔を覗かせています)、タルホによって道元禅師の『正法眼蔵』を知ったことも、そんな妄想に拍車をかけたのかもしれません。
 ところが、必ずしも自分の妄想ばかりとは言えないことが、今になって判明しました。なぜなら、すでにタルホが次のように言っていたことが分かったからです。

私はここにきて、古代印度の生理学を思い出した。なんでも人間の脊髄の最下端ムンドラに、蛇に喩えられる普遍力クンダリーニが宿り、マハムンドラの行によってそのものが覚醒せしめられるに及んで、求心性と遠心性の二種の神経流が全身に通う、と読んだことである。……(中略)「我が神はこのムンドラ・プラナ・シャクチに宿り給う」のであるならば、菩薩達もまた等しくエイナスヨガの状態にあるわけである。法隆寺の百済観音や中宮寺の思惟菩薩は、「限界状況の単孔類(モノトレエム)」である。=i「Prostata Rectum 機械学」『全集4』p.353〜354)

 すでにお気づきの方もいらっしゃるでしょうが、このAオナニズム変換≠ノおけるダ・ヴィンチ≠ニ瞑想≠フ関係は、先に述べた三角形≠ニ円≠ニの関係にオーバーラップします。すなわち、ダ・ヴィンチ≠ニ三角形=Aそして瞑想≠ニ円≠ェそれぞれ対応しています。
 A感覚的抽象性≠ヘ、一方では異物化∞対象化∞オブジェ化≠指向して、自己の外に存在[※]を抽象化(三角形)しますが、もう一方は、自己と同心円上に存在≠抽象化(円)する、というふうに対比することができるかもしれません。
[※]存在≠ニいう言葉を唐突に用いて申し訳ありませんが、タルホ的語意における存在≠ヘ、本サイトに掲げた「タルホ辞典」→「タルホ形而上学」→「形而上学キーワード」→「存在者と存在」を参照してください。
 もっとも、後者における自己≠ニ存在≠ニの関係については、そんな単純な図式化が的を射ているとは思いません。なぜなら、たとえば道元禅師の次のような言葉から、かろうじて類推するしかないような消息だからです。

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

 先ほど、三角形≠ニ円≠円環に結んだと自賛しましたが、同じようにダ・ヴィンチ的万能性≠ニ瞑想≠ニを円環で結ぶとするなら、どのようになるか。
 それには、先に挙げたカイネ博士の指摘を援用するしかありません。すなわち、

A≠回転軸にして、ダ・ヴィンチ≠高速回転させると道元≠ノ見え、回転を止めるとダ・ヴィンチ≠ノなる。

 ──このオチをもって、妄想的エロティシズム論≠閉じることにします。

 いま、こうして振り返ってみて驚くのは、当時、自分が考えていたようなことを、タルホはとっくの昔に何らかの形で考えていた、ということに改めて気づかされることです。自分は、お釈迦様の掌の上で弄ばされている孫悟空みたいなものだったと。しかし、だからこそタルホに激しく共振したのだとも言えます。
 それにしても、若かったとはいえ、タルホの著作のうち、わずかに『男性における道徳』『タルホフラグメント』、それに対談集の『天族ただいま話し中』ぐらいしか読んでいなかったにもかかわらず(『少年愛の美学』はどの程度深く理解していたのか分かりませんが)、そこから発した妄想を書き連ねて一方的に送り付け、しかも図々しく、よくも自宅にまで押し掛けたものだと思わざるを得ません。
 つまり私は、「一千一秒物語」や「ヰタ・マキニカリス」、あるいは「弥勒」などの読者としてタルホにアプローチしたのではなく、今の自分の妄想に付き合ってくれそうな相手はタルホしかいない、自分のことを分かってくれるのは同時代にはタルホしかいない、というような思いで接していたわけです。上記のエッセイ集には、当時のそういった自分を否応なく引き付けて已まない、タルホ世界の圧倒的に強力な磁場のようなものが形成されていたのです。
 最後に、いかにもその頃の気分を象徴するような、自分が見た夢を記しておきます。

 ──タルホがヘリコプターに乗ってやってきた。しばらく空中で旋回していたが、次第に降下してきた。みんなはラセン階段を駆け上って、我先にタルホに近づこうとしていた。そのときタルホは微笑みながら、チリ紙に包んだものを二つ投げてよこした。自分は幸運にもそれを二つとも拾うことができた。タルホはヘリコプターから身を乗り出して握手を求めてきたが、その手は途方もなく大きかったので、とても握り締めることなんてできなかった。包みを開いてみると、ボールペンとキーホルダーだった。

妄想論D──索引づくり


 以上、タルホを訪ねて以降、本格的になった数々の妄想の中から、宇宙論∞映画論∞エロティシズム論≠ニして3つを抽出し、当時のノートの断片を今の視点から再構成してみました。
 さて、話を事実関係に戻すと、おそらくタルホが最後の「ハイゼンベルク変奏曲」の原稿を書いていた頃、私はある狂気じみた作業に取り掛かることになります。
 なぜそこまで、その作業に没頭するようになったのか、いま思い出そうとしても、その理由がはっきりしません。タルホの本を読んでいると、あれ? この話は前にもどこかに出ていたぞ∞この言葉はよく出てくるけれど、どこだっけかな≠ニいうようなことがよくあります。それをメモしておこう、と思ったのが最初の動機だったのかもしれません。何度も出てくる言葉を、キーワードとしてノートに書き出しておき、次にまた出てきたときに、そこに書き足していこう──そんなことを考えたのが、事の発端だったのではないかと思います。

 時は1977年3月、その作業は始まりました。しかし最初からそれほど意気込んで始めたのかどうか分かりません。せっかくタルホの本を読むのなら、ノートを取りながら読もうか、ぐらいのものだったかもしれません。
 そのつもりでタルホの本を任意に選び、初めから読み進めました。B5のルーズリーフ用のノートを用意し、その1枚にキーワードと思われる言葉を1語、見出し語として書き出します。その下に、その語が出てくる前後の文章を、用例≠ニして書き加え、出典≠煖Lします。
 次のキーワードは、また別の1枚のノートに書き出し、その下に用例≠ニ出典≠記します。
 この作業を続けていきながら、前に作ったキーワードと同じものが出てきたら、前のノートの下に、同様に用例≠追加していくのですが、後で参照しやすいように、用例≠イとに(1)(2)(3)…とナンバーを振っておきます。同じく出典≠熾t記します。
 これを繰り返していくと当然、ノートの枚数がどんどん増えていきます。ノートの枚数が増えていくと、前にキーワードを書いたかどうか、また書いたキーワードを探すのが大変になってきます。そのため新しくノートを1枚作るたびに、それを五十音順に並べておく必要があります。

 ところで、このキーワード作成作業を始めてすぐに、あることに気がつきました。それは、せっかくキーワード・ノートを作りながら読むのなら、ついでにキーワード以外の細かい語彙索引も同時に作ったらどうか≠ニいう考えです。欲が出てきたわけです。
 これによって、作業が輪をかけて大掛かりになっていったのは当然です。キーワードのノート作りと並行して、別の用紙に索引用の語彙を書き出す作業が加わったからです。何しろワープロもパソコンも無い時代。B5の用紙に、1語1行ずつ手書きで書き抜いていくのです。語と同時に、作品名とページも記さなければなりません。作品名を一々書くのは大変なので、予め作品に五十音順にナンバーを振っておき、その数字によって代用することにしました。
 書き抜いた語は、最終的には1語ずつカッターナイフで切り離し、五十音順に並べ替えることになります。

 このキーワード・ノート作りと語彙索引づくりは、毎日8時間、8か月続けられました。
 結果、キーワード・ノートは、項目数が約1,060、ページ数はノート裏表で約2,660ページ、厚さ4cmのバインダーに5冊以上になりました(@)。このキーワードの項目1,060語が、本サイトの「タルホ辞典」に登場する語群です。本サイトでは、それをあのような形に分類したわけです(参考に、いちばん用例の多い項目「存在者と存在」の内容をサイト上に載せています)。

 一方の語彙索引のほうはどうなったか。もちろん最後に1語ずつカッターナイフで切り離しました。それを五十音順に並べ替え、1語ずつ台紙に貼り付けたのです。この台紙がやはりB5の裏表で約960ページになりました。1ページに約20語貼り付けてあるとすると、総件数(同じ語が複数あるので)は約19,000件になります。これが7cmの分厚いバインダーに3冊分になりました(A)。つまり19,000回カッターナイフを使ったことになります。こんな並べ替え作業は、今ならExcelで一瞬です。

 ところで、バインダー5冊(2,660ページ)に書き抜いたキーワードの用例の中からも、さらに語彙索引を作る必要があります。それをノートから拾い出して五十音順に並べたものが、B5のルーズリーフに2段組で214ページ、約12,400件ありました(B)。

 AとBの語彙索引は、主な単行本と『稲垣足穂大全』(全6巻)から拾い出したものです。古本屋で単行本を買い集めるようになったのは、この頃のことでしょう。その他にも目を通さねばならない本がありました。『多留保集』(全8巻+タルホ事典)です。これを同様に索引化した結果、B5のルーズリーフに2段組で182ページ、約10,500件になりました(C)。

 以上、@のキーワード・ノート5冊の他に、Aの分厚いバインダー3冊、それにBとCのルーズリーフ各1冊、全部で10冊のノートが出来上がりました。
 語彙索引の総件数は、A(19,000)+B(12,400)+C(10,500)=41,900件ということになります。
 こんな作業を毎日、8か月かけてやったわけです。
 キーワード・ノートには、1000項目以上のキーワードとその用例のほか、この言葉はあの言葉と関連している≠ニいうクロス・レファレンスまで書き込んでいったので、そのまま『タルホ用語辞典』のようなものが出来上がりました。

妄想の行く末


 1977年の3月から8か月、暦はすでに秋、10月になっていました。この月の下旬、たまたま見た新聞で、そのニュースを知ることになります。タルホが10月25日に亡くなったことを…。
 私は別に、タルホの葬儀に駆け付けようとは思いませんでした。ただその瞬間、8か月間張り詰めていたものが、一気にほどけていくような気持ちになったのを覚えています。自分自身に課していたものから解放されたような気分になったのかもしれません。ああ終わったな…≠ニ。

 これまで記した私の索引づくりは、作品を書誌的に整理した上で取り掛かったものではありません。言ってみれば、手当たり次第に本をかき集めながら作ったようなものです。作品数にして420点ばかりの作品から語彙を抽出しただけです。何しろまだ『全集』なんか無かった時代です。タルホにいったいどれだけの作品があるのかも分かっていませんでした。
 それを知りたくて、私はある人にハガキを書きました。萩原幸子さんです。雑誌に萩原幸子・編≠ニして作品目録や年譜などを載せておられたので、そういうことにいちばん詳しいだろうと思ったからです。当たりをつけた出版社に住所を教えてもらって、すぐにハガキを出しました。それがいつのことだったか、はっきり覚えていませんが、もちろんタルホが亡くなってからのことだと思います。

稲垣先生の作品は、改訂や改作が多くて、まだ本になっていない作品がたくさんあります。

 萩原さんからの返事を見たとき、私は一瞬、発狂しそうになりました。一心不乱に山道を登ってきて、かなり頂上に近づいてきただろうと思いながら、ふと上を見上げたら、はるか上方は霞んでいて頂上さえ見えなかった、というような絶望感に襲われたからでしょうか。
 結局、これをきっかけにして、索引づくりの作業は終了することになります。以後は、本サイトの「タルホと私」中の「『見出された作品』解題」でも少し触れたように、萩原さんと一緒に、埋もれた作品探し≠竍作品目録作り≠ノ、私のタルホ追跡は方向転換することになります。
 考えてみれば、あるいはこの索引づくりは妄想≠フ総仕上げだったのかもしれません。この8か月間は、我が人生の中で狂気じみた期間ではあったけれども、一方で、一つのことにこれほど没頭できたことは他になく、その意味で、至福の時間だったとも言えます。
 作業自体はそれで終了し、このキーワード・ノート+索引一式≠ヘ長い間埃をかぶっていたのですが、本サイトをアップするようになってからは頻繁に参照するようになり、この妄想の産物も、ようやく意味あるツールとしてその出番を獲得することとなりました。
 しかしながら『全集』ができた今となっては、対象作品の不備(先述したように約420作品)は否めず、不完全さは明らかです[※]。また、これが一番の問題なのですが、『全集』の無い時代に作ったので仕方がないとしても、語を示すページが、自分の集めた本に収録された作品のページであるため、自分以外の人が使えるような汎用性がない、といった難点を持っています。
[※]『全集13』の巻末にある「収録作品索引」の項目からすると、『全集』には約570作品が収録されていることが分かります。最終稿収録の『全集』と、初出の多い『多留保集』を加えた私のケースを、作品数の上からだけで一概に比較できませんが、それでも当時、私の取り上げた420作品というのは、その後、数多くの作品が新たに発掘されたことを考えれば(自分自身もその発掘作業に携わりましたが)、なかなかの数だったと言えなくもありません。
 もともと自分のために作った索引ですから、それはやむを得ませんが、できればその索引を『全集』に連動させて公表したい、という思いが以前からあります。しかしながら、4万件ある一語一語のページを『全集』のページに置き換える作業を想像するだけで、絶望的な気分になります。
 考えられる方法の一つとしては、4万件の索引語・ページ・作品名(番号化したもの)をExcelに入力し、それを一度作品名・ページ順に並べ替え、その上で、作品ごとに、索引化に使用した本のページに対応する『全集』のページを1件ずつ探しながら記入していく、という気の遠くなる作業です。
 しかしそれよりも、『全集』のデジタル・データを持っている筑摩書房が、新たに索引づくりをするほうが、むしろ簡単でより完全なものができるに違いありません

 以上をもって、とりあえず「私のタルホ的年代記──I. 妄想篇」を閉じることにし、萩原幸子さんとのことについては、また別のページで記すことにします。




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