★私は北久宝寺町二丁目北側、いま旭光製糸と永久ビルがある辺りで生れた。(「芦の都シリーズ──オブジェ的年代記」『多留保集』5,p.255)
☆萩原幸子氏の「年譜」(『全集13』)には、父忠蔵、母ハツとある。
★私は、二十世紀になったばかりの年のクリスマスの翌朝に、北久宝寺町二丁目北側で生れた。……いま「旭光製糸KK」がある辺りで、西隣りの貸室四階建が「永久ビル」だから、どうもこの方であらせたかった。(「難波の春」『全集12』p.376)
☆二十世紀は1901年からなので、正確には「十九世紀最後の年」である。
★北久宝寺町二丁目の我家に一番近い四辻は、堺筋から西へ一つ目の通りで、この東南のかどに島津製作所の店があった。(「武石記念館」『全集12』p.385)
★……私の生まれた年が、ツェッペリン第一号船が初めて浮揚した当年だった……(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.20)
★飛行船の胴部に落ちている雲の影をおもしろいと見たこともあるが、一つに私の生れた一九〇〇年の十月には、ツェッペリン第一号飛行船がコンスタンツ湖面に影を落としたといういわれがある。(「タルホ・ファンタジー自註」『全集11』p.329)
☆タルホ・ピクチュア「バワリアの早春」について。
★マックス・プランクが、「近世」を絶縁する量子常数「h」を発表した同じ年の、同じ十二月の終りに、私は大阪市船場に生れた。(「随筆ヰタ・マキニカリス」『東京遁走曲』p.149)
★この都会のまんなかの、櫛、笄、かもじ、きせる、帯紐などを扱っている店が多い区域で私は生れました。……プランクが常数hに就いて発表した年の同じ月に私は生れました。あと五日経ったら二十世紀のお正月だという日でした。(「蘆」『星の都』p.212〜213)
★私の誕生は廿世紀の初頭である。それはライト兄弟が彼らの最初のシャヌート式滑翔機をキティホークの砂原へ運び出し、またツェッペリン伯の第一号飛行船がはじめてコンスタンツ湖面に細長い円筒形の影を落した年でもある。更に年末になって、自分が生れ出る二週間前には、原子力時代の扉をひらいたマックス・プランクの量子常数hが発表されている。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.312)
★著者(サンテグジュペリ)は自分と同じ一九〇〇年生れ、また飛行機愛の点でも彼と私は共通している。(「オールドゥーヴル」『全集11』p.323)
★英国の退役海軍中尉で南極探検家のシャックルトン卿が、私の生まれた一九〇〇年に次のような新聞広告を出している。……(「タルホ=コスモロジー」『全集11』p.520)
★大正天皇が未だ皇太子様だった頃、在米同胞が電気自動車を一台献上した。この同じ年の十二月末に、私は大阪市船場に生れた。(「ラジエーター」『大全6』p.400)
★董生は、自分が生れたのは蘆花の不如帰が上演された年であったが、又、マックス=プランクが「h」を発表したのと同年同月でもあったということを知った……(「父と子」『大全4』p.137)
★姉と私との間にはもう一人ずつの姉と兄とがありましたが、これらはまだ赤ん坊の頃に死にました。(「蘆」『星の都』p.213)
★自分とは十年以上も年上の姉が……その間には赤ん坊のまま亡くなった一人の兄があった。それでわたしは次男になっている。(「雪融け」『大全5』p.159)
★董生は、彼の姉が小学校を卒える頃に生れたので、十以上の年齢の差があった。(「地球」『大全4』p.252)
★僕の父は或る時、彼の次男に聞かせたものだ。「お前の足という字は、初めは垂であった。実るほどかしらを垂れる稲穂哉に出ているが、そうは云っても、年じゅう頭を下げているばかりではぐあいが悪い、と傍から注意してくれた人がある。それで、未だ届けを出さんうちに足と取替えた。うちの先祖はフジワラといって、天皇様のお伴をして淡路へ渡った人である。その前の先祖は……それ、大極殿の庭で蹴鞠があった時、皇太子さんの沓が飛んだ。これをさっそく拾い上げて、中大兄皇子の前に捧げた……あのお方から一字、足の字を貰うことにしたんや」(「宇治桃山はわたしの里」『大全5』p.114)
★この種の赤は、十二月二十六日生れの自分の誕生石ガーネット(ざくろ石)にも通じているので、それで余計に先の句が気に入るのかも知れない。(「冬のうた」『全集12』p.396)
☆蕪村の赤蕪の句やパテェ・フィルムの赤い雄鳥に触れながら。
★この前の庚子は千九百年だった
その年にはツェッペリン伯の飛行船が
初めてコンスタンツ湖上に浮んだ
又、ライト兄弟が最初のグライダーに手をつけた
おし詰って十二月九日頃には
マックス・プランクが量子常数「h」を発表した
三週日が経ってもう
四、五日でお正月だという間際に僕は大阪の船場に生れた(「庚子所感」『全集11』p.125)