1905(明治38)年 4歳



★物心がつく頃、街上に時として黒だかりをみとめたが、この中心がいわゆる自動車だった。明治38年に、大阪でフォードの車を真似した三気筒(別字)車が製作されて、三井の大番頭の中上川次郎吉氏が乗廻したとあるから、これに当るのであろう。(「ラジエーター」『大全6』p.400)

★未だ幼稚園に上らない頃、或る朝早く海峡の町から電報が届いて、董生と父は梅田駅まで俥を飛ばせたことがある。……嘉兵衛は薄っぺらな床上に半身を起したまま只唸っていた。しかし、顔じゅうに流れ落ちる汗を手拭でぬぐいながら、老人を背後から抱きかかえて励ましていた人の方が、いっそう苦しげであった。(「地球」『大全4』p.255)
☆このとき亡くなった父方の祖父と伯父のこと。「海峡の町」とあるのは、明石に住んでいたのだろう。同書p.256では、祖父はこのとき83歳とあるが、とすれば1822年頃、文政の生まれということになる。タルホの父が1870年生まれだとすると、祖父40代後半の子ということになる。

★こちら(父方)祖父はよい声の持主で、特にうたいが自慢だということがわたしにも聞こえていた。しかし、それはついに耳にしたことがない。彼は近在廻りとかで大抵留守だったし、それに自分が幼稚園へ上らない先に八十三歳で亡くなったのであるから。(「雪融け」『大全5』p.160〜161)

★いよいよ待ちかまえていた旅順港陥落である。その号外の鈴音は、父と共に千日前の観工場の二階で聴いたのだった。父子は何のためか大いそぎで帰宅したが、自分はその日、活動写真で観る巴里のお巡りさんのような、肩先までの短いマントーをひっかけていた。(「蘆の都」『大全5』p.176)
☆旅順港陥落は1905(明治38年)1月

★船舶用内燃機関専門の木下鉄工所は、明治三十八年に創設された。この数年目に私は近所へ引越したので、表の日なたに出してある青写真をよく見に行った。(「明石」『全集8』p.429)
☆木下鉄工所は明石にある。タルホが明石に引っ越したのは1907(明治40)年であるから、創設から2年後。

★北久宝寺町二丁目の我家に一番近い四辻は、堺筋から西へ一つ目の通りで、この東南のかどに島津製作所の店があった。軒下いっぱいの窓の内部に、理化学器械と剥製標本とが出ていた。この筋を南へ行った東側に床屋があって、そこは私がはじめて一人前として、椅子にかけて散髪してもらった店である。(「武石記念館」『全集12』p.385)

★散髪をいやがっている私の前で、床屋の子僧さんが「ハイハイ、それお化、お化が出ましたよ」と云って、太い筆先みたいな刷毛をうごかせていた。……私は、何だ詰らない、こんなものがお化かと思い乍ら、いつかそれに惹き付けられて、それが本当のお化であったか知ら、いや少くともお化であっても決して差支えないもののように考え出していた。(「MAGIC BOX」『全集12』p.246)

★私はこの句(月今宵めくら突き当り笑ひけり 蕪村)を見た時に、大阪時代に父のポケットにしばしば見受けた『パック』を思い合わした。それは明治三十年代から四十年代にかけて駅売りされていた、たてに二つ折にした大型漫画雑誌のことである。空中戦も、月旅行も、自分はこのページにあったポンチ絵によって初めて概念を与えられたのである。(「新歳時記の物理学」『大全6』p.518)
☆大阪時代とあるから、明石に越す前のことであろう。「芦の都シリーズ」(『多留保集5』p.257)、「浪花シリーズ」(『大全6』p.586)、「目鼻が付いた天体たち」(『全集12』p.426)に同様の記事。
☆『東京パック』は明治38年、『大阪パック』は明治39年に発行された漫画雑誌。

★私はやっと物心がついた頃、たまたま姉の勉強机のうえにあったエナメル塗りのブリキ函の中に並んでいる各種の色彩の片隅に、「白」を見付けて、これは何用に使う絵具だろうかと、不思議を覚えたことがある。その頃、自分はまだ幼稚園に行っていなかった。姉とは十一も年が違うので、先方は清水谷の女学校へ通っていたのである。(「「黒」の哲学」『全集11』p.431)


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