★この日、西横堀対岸に出ている出店の中に、小さなボートが売られていた。……以上は、明治三十九年から四十年へかけての瀬戸物市のエピソードである。(「芦の都シリーズ──オブジェ的年代記」『多留保集』5,p.224〜226)
★私は五歳から十三歳くらいにかけて、絵本や少年雑誌よりもむしろシネマトグラフによって啓発され、少なからぬ恩恵を蒙ってきたが、この大好きな活動写真の表象が即ちパテェの赤いオンドリなのだ。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.13)
★私はずっと以前、白い幕に向って坐っていた事を覚えている。……私には何だか、こうしている事がずっと以前からの事であったように思われて来た。……活動写真というのはあれでよかったのだ、あれが活動写真であったのだという風に、未だ活動写真についてハッキリした観念のなかった私は考え出していたようである。(「MAGIC BOX」『全集12』p.245〜246)
★やがてアメリカ製の擬似日露戦争のフィルムが作られ、白幕の前に立った弁士が、「お次に紹介いたしまするのは、米国シカゴ、スープア会社直輸入の旅順口背面の激戦の実況、まさに血湧き肉躍る光景であります」と口上がなされると、満場ドッと歓声が上って、そのために建物は戌亥か辰巳の方向にゆらめきかしぐ程であった。ずっと後日になって、その活動写真に再会すると、なんだ、兵隊と言っても彼我合わして二十名にも足りない人数である。火焔と黒煙を吐き出して沈没する軍艦は、ボール紙細工のおもちゃであった。でもやっぱり面白かった。そこには「滑稽紳士」「瑞西汽車の旅」などとはまた別な真実が感じ取られた。(「「ニセモノ」としての美女」『全集11』p.409〜410)
★絵ではなく幼稚園が、それの附属していた小学校と一緒に本当に焼けて了ったのでした。……この幼稚園に通い出して二三日目に、私は弁当を取りちがえました。……幼稚園は本町通りのお寺の本堂へ移りました。(「蘆」『星の都』p.217〜218)
☆タルホは幼稚園に通っていた。何歳のことか?
★船場幼稚園で、自分の小さなアルミの弁当箱を、アヤメ色のハンカチで包んだうるし塗りの、お汁が少しこぼれている円筒と取りちがえて、その場で顔を合わした女の子の上にも、私はやはりトウちゃんを感じたが、その相手はまだ小さすぎた。(「ノアトン氏の月世界」『星の都』p.308、『全集12』p.451)
☆同様の記述が「蘆の都」(『大全5』p.184)に。
★大阪にいた頃自分は、たたみ込まれるようになった一組の小さなボール紙の家を、畳の上にならべて街区を作るならいだった。片頬を畳のおもてにおし付けて、こんなお伽の町の家々の窓を覗くと、家具だの飾りつけだのが印刷されている内部を通して、いま一つの窓から、自分が現にいる場所が奇妙な外界として映じるのであった。(「新歳時記の物理学」『大全6』p.520)
★私は誘われて、一夕道修町辺まで評判の立版古を見に行った記憶があるが、我手でそれを作るには自分はまだ余りに稚すぎた。(「新歳時記の物理学」『大全6』p.522)
★こどもの頃、私は道頓堀の芝居小屋で、このきらびやかな白髪人(「意休」)が異様に覚えられて、頻りに「あれ何」「あれ何や」とくり返していたことをよく憶えている。(「佐藤春夫を送る辞」『大全6』p.548)
★彼女(姉)は十年も年上で、すでに本町の向うの清水谷女学校へ通っていた。(「芦の都シリーズ」『多留集5』p.255〜256)
☆「白昼見」(『大全4』p.180)には、姉は17、8歳の折に養子を迎えたとあるが、それはタルホが明石へ移る前のことであろう。同頁に、姉の最初の子供2人は早世したとある。「白昼見」(『大全4』p.182)に、祖父母が亡くなったとき(昭和6年)、この姉には、東京の大学に行っている二人の息子のほか、中学生と女学生の子供たちがいたとある。
★未だ大阪住いの頃、近所の堺筋のお医者で貰ったがんじ(丸薬)の容れものがあった。……やがて空っぽになった時に我が有に帰したが、あけるたびにスッポン!(「額縁だけの話」『大全6』p.592、『全集11』p.173)
★汽船は、天保山下の汐干狩の日に見かけるもの以外に、天満橋の上から眼にとめる伏見通いの外輪船、船場を桝形に取りかこんだ川すじを電車代りに行き交うていた乗合巡航船、また橋上に釘づけされていつ迄も見ていたかった機械塔付き浚渫船などがお馴染であった。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.315)
★自分には七・八年にわたる大阪生活中で何が一等頭の中に残っているかといえば、それは食べものでない。第五回内国勧業博覧会のサーチライトでもなければ、香炉園の池のウォーターシュートでもない。それは実は、大川で見た両側に水掻き車がついた小蒸気なのだ。川すじにはいっている機械塔をつけた浚渫船である。又、天保山下の桟橋で眼の前にした大汽船ロゼッタ丸である。(「明石」『』全集8)p.428)
★この船(ロゼッタ丸)は、日露戦争が終った翌年、四百名のお客様を載せて満韓視察旅行に従事したというから、その折のことであったろう。(「芦の都シリーズ──オブジェ的年代記」『多留保集』5,p.241)
☆「父と子」(『大全4』p.133)に同様の記述。ただし、こちらでは「日露戦争の終った年の夏」、つまり明治38年となっている。「地球」(『大全4』p.254)にもロゼッタ丸のことが。
☆「蘆の都」(『大全5』p.175)に同様の記述。
★「カッケンブス」という大つぶの玉を用いる発条銃の革ケイスを肩にかけて、父とつれ立って我が家を出た……(「蘆の都」『大全5』p.177)
☆学校へ上がる前だと思われるが、いつのことか不明。同p.182に、この日二人が乗ったのは、開通早々の阪神電車だった筈、とある。
☆西宮方面へ出かけたようだが、「Sの字のキレをかけた馬」や「鳴尾(?)競馬場」、「蜜蜂の巣箱」などを見た、重要な一日であった。
☆同書p.185にも。
★自分を有頂天にさせたのは、むしろ、うしろ向きに進んでいる機関車の方であった。これは、四條畷への途中の乗換駅で、退屈な時間に初めて見付けたのだった。自分の乗る汽車がやってきてからも、その方に気を取られていたので、すんでのことで指先を客車のドアに挟まれるところであった。(「蘆の都」『大全5』p.180)
☆大阪時代のことらしいが、何歳のときのことか不明。
★……、まだ大阪にいた頃父に伴われて出掛けた東郊だった。小さなステーションの構内でうしろ向きになったロコモーティヴに見とれていたことが思い出されるから、……(夏至物語」『全集8』p.53)
★幼稚園の机の上に紫や黄や橙色の片々を置いたとき、自分はまず赤い大円と赤い小円を取上げて、汽車のおしりにあるシグナルを作ろうとした。(「夏至物語」『全集8』p.43〜44)
★私は大阪育ちだから、幼年時代には両三度、宇治をおとずれた。(「模型極楽」『全集12』p.392)
★父は大阪・船場の家から幼い私を、朝飯前の散歩に大阪城のあ馬場方面へ連れ出すのが例であった。その途中で、二、三ヵ所にウロコ瓦の西洋館があったが、その屋根のてっぺんに、銅色に光っている避雷針が見られた。鬼の手のようだなと、私は思った。(「雄鶏と三日月」『全集12』p.456)
★私が子供の頃に出入りしていたローラースケイト場に、ある時、兵庫の神戸から、金壺まなこの周りがいやに黒い、小柄なオッさんが迎えられた。彼がいったん、ガニ股の脚にニッケルメッキのスケイト靴をつけると、俄然鴎の水に浮んだ如きものがあった。恰も奴凧かスルメが時を得て、油で黒光りのしたアスファルトの床上を奔放自在に辷り出したように見えた。(「三島ぼし隕つ」『全集11』p.301)
☆「三島由紀夫はどこか、このステテコをはいて素肌にじんべ(甚兵衛)をひっかけたオッサンに似ていた」と続く。
☆大阪時代か?