1907(明治40)年 6歳 尋常小1年 明石へ転居



浪華尋常小学校入学
4月
★小学校は愛日校の前々身にも当るもので、浪華尋常校と言った。北久宝寺町すじから北へ二つ目、北久太郎町の南側にあった。(「難波の春」『全集12』p.376)
☆萩原氏の年譜では、タルホが大阪で入学した小学校は「浪華尋常小学校」。この小学校には最初の1学期だけ通った。
☆大阪市立愛日小学校は1990年に閉校し、その校舎も2005年に解体されたようである。

?月
★この校舎は間もなく、即ち明治四十年の前半期に焼けて、われわれは一時、川向うのお寺へ収容されて、本堂で積木や色紙を当てがわれた。(「難波の春」『全集12』p.376

★ある日曜の午前、物干から北向き真正面に学校の火事を見て、熱くて顔が向けられない程であった。屋根瓦が飛んでしまって骨組が紅蓮の焔に包まれているので、これは宛らダリ流の「燃える巨鯨」であった。(「難波の春」『全集12』p.378)

★数人の友達はあったが、小学生になって間もない日曜日の正午に、物干場から眺めた恐ろしい火焔が、校舎と共にそれら馴染の面差を掻き消してしまっていた。燃えている巨大な鯨であった。(「古典物語」『大全1』p.294)
☆これは大阪時代の小学校の話。すなわち浪華尋常小学校のことである。

★十九世紀前半の自転車の上に初めて用いられたと聞くところの「つなぎ鎖」は、明治三十年代には未だ子供らの「オブジェ」に属していた。船場界隈にも自転車はめずらしく、二、三の有志が夜更けてから、店々の板戸にぶっつかりながら稽古をしているくらいであった。(「新歳時記の物理学」『大全6』p.512)
☆同様の話が「難波の春」(『全集12』p.379)に。小学校に上がった年の文脈に、孤児院の子から自転車のチェーンのきれっぱしをもらったとある。

★この家から、今度は堺筋の一つ手前、南北の通りのまんなか頃西側にあった高塀の家へ引越した。(「難波の春」『全集12』p.378)
☆「この家」とは生まれた家。その家から一度引っ越しているのである。

★二度目の住い(現今、繊維製品問屋水口商事がある辺り)……(「難波の春」『全集12』p.379)
☆上記の家のこと。

明石へ転居
一学期の終わり
★僕は小学初年生の一学期の終わりに、誕生地の大阪から、祖父の住む明石へ引越した。……第二学期の新しい受持先生が、こちらに背を見せて、二枚続きの黒板の上に、左端上方から至極丁寧な筆致で描きならべて行った数十箇の菊の花であった。……したがってこの三色のチョークが、以来わたしにとって甚だ感銘的なものとして映じた。(「雪融け」『大全5』p.158)
☆大阪から明石に移ったのは、「一学期の終わり」「初秋」「夏」などとあって、いつかはっきりしない。萩原氏の年譜には8月とあり、転校して2学期から通うようになった明石の小学校は「明石第一尋常小学校」とある。
☆新宅ができるまでは、母と2人で祖父母宅に身を寄せていた

★私は大阪船場生れで、小学一年の一学期まで、両親と共に北久宝寺町二丁目に住んでいた。明治四十年の二学期から、追手前にあった明石第一尋常小学校に通うことになった。(「初っちゃんの話」『全集11』p.406)

初秋
(明治)四十年の初秋には私は誕生地を去って、祖父母がいる明石で、小学一年の第二学期を迎えたのであるから。(「芦の都シリーズ──オブジェ的年代記」『多留保集』5,p.226)

★兄(義兄)の土産である手風琴と紅い繻子のネクタイを持って、私は海辺の町へ引越しました。(「蘆」『星の都』p.219)

★それはたしか私が小学の初年級のときであったと思います。その頃私と母とは祖父の家に身を寄せていました。お父さんは別なところで彼の仕事にいそがしかったのです。或日学校から帰ってくると、出合頭に二階から、私と同じ年頃の……男の子がぶらぶらと下りて来たものです。(「或Kraft−Ebingな挿話」『星の都』p.109)

★旧松平氏城下のいやに曲り角の多い町中を通って、西方の漁師町近い所にある祖父の住いまで帰ってくると、再び扇子を持って出かける。(「父と子」『大全4』p.144)
☆学校から帰って、T先生宅へ仕舞を習いに行くところであるが、この文章からは、まだ祖父母と同居していた時分から、仕舞を習い始めたようである。また、「土蛛」の胡蝶役を演じたのも、このT先生時代である。タルホが次についたB先生の娘さんが、その会場にいた。この能会から間もない晩方の集まりのときも、「ちょうど普請中のことで、彼と両親は其頃まだ祖父の住いに居た」(同書p.149)とある。
☆このT先生は、稲垣志代著『夫稲垣足穂』の年譜によれば、観世流・津田三四郎。B先生は伴葛園、その娘さんが伴時子。
☆ちなみに、「ボクは子供の頃、月に一回、神戸から父のおおかわ(能楽器)の出稽古に迎えていた老先生(S先生)に向って、「乾板は絶対に日本では出来ない」と主張して、食ってかかったことがある」(「僕の蕪村手帳」『大全6』p.438、『全集11』p.49)とある。これは何年生の頃か? 「父と子」(『大全4』p.157)に「ぶんぶん虫には拍車が掛かっていた。毎月神戸から師匠を迎え……」とあるので、この話はもっと後のことだろう。

★私は初めは母と共に祖父母の住いに同居していたのだが、そのうちに駅前通りに新宅が成って、大阪から父を迎えて、親子三人がそこへ越したのである。(「轣轆」『鉛の銃弾』p.10)
☆新宅ができたのはいつか?
☆萩原氏の年譜にある住所、明石郡明石町大明石村西郭一二〇四―一は、この「新宅」の住所だということになる。明石に市制が敷かれるのは1919(大正8)年。
☆「夏至物語」(『全集8』p.48)に、この新居に移ってから、年上の少女から菫の花を教えられたとある。

★僕は小学初年生の夏に、母と共に西方の海峡の町へ移った。父は一足遅れて、すでに結婚を終えていた長女への用事を果してから、引き上げてきた。(「雪融け」『大全5』p.168)

★ここに述べている旅廻りの一座の話は、駅前通りに新築が運んでいた頃のことに属する。もう父は大阪から帰来していた……(「雪融け」『大全5』p.168)
☆「松旭斎天一」と思われる旅廻り一座。その出し物のマジックに出てきたお姉さんの衣装につけられた星々の燦めきに夢見心地となったのである。
☆同p.171には「贋天一師」とある。母親が、本当にきまってるいるやないか、と答えたにもかかわらず、やはり偽物だったのだろう。

★小学初年の二学期に明石へ移ると、大船小船にお馴染にならないわけに行かない。級友らは大抵、ナイフや切出しを手にして、木片や厚い松の皮を削って、おのおのの好む船体を作っていたからである。(「芦の都シリーズ──オブジェ的年代記」『多留保集』5,p.242)

★小学初年の第一学期の終りに大阪から明石へ移って、毎日おもちゃ船を作るのに余念がなかった……(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.70)

★私の右手の中指と人差指の先の指紋がくい違っているが、これは、小学生の時、玩具の巡航船づくりをやっていた時の記念なのである。松の厚皮で小さな船体を削り上げ、……研いだばかりの切出しを動かしていて、刃が辷って血がふき出した。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.584〜585)

★私は明石へ移って朝な夕な、マストの先を微かに左右動させながら波止崎を出入りする千島丸や絵島丸の、吃水線のヴァーミリオンに憧れた。(「芦の都シリーズ──オブジェ的年代記」『多留保集』5,p.258)
☆「父と子」(『大全4』p.140)に同様の記事。

★明石へ越してからは、波止崎に立って眺める大船・小船がいかほど私を魅了したことだろう。伏見通いの川蒸気や砂さらいの機械塔と入れ代って、こんどは、マストを微かに左右動させながら港口をはいってくる千鳥丸と絵島丸とが、改めて自分のテーマになった。ある日、私が色鉛筆で描いた千鳥丸のおしりの所へ、新規の友が8の字を書きそえた。その8のまんなかから短かい柄をつけて、いうのだった。「蒸気にはみんなスコロクというもんが付いとる。スコロクがないと船は走らへん。あとで浜へ行って、巡航船のおしりをよく見てみイ」(「明石」『全集8』p.428)
☆ただし同書p.447には、「白塗りの千鳥丸は、要するに小学校を卒える迄の題目にすぎなかった」とある。

★小学一年の初秋に明石へ移ると共に、島山の白い燈台の前を右へ左へ通りぬける赤い腹の大汽船と、つい近くの港口をひんぱんに出入りする淡路通いの石油発動機船が日常のものになった。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.315)

★いつかお初(母)は生田川畔の赤煉瓦屋敷へ、小学初年生の董生を伴ったことがある。「うちの親類だ」と途々聞かしたが、その日、母と子は女中部屋にしか居られなかったのである。(「地球」『大全4』p.165)

★通学するようになって、私は海辺の明石へ移ったが、此処へは日曜日毎に、神戸の西洋人が自動車に乗ってやってくる。それは大阪のバスなんかとは較べ物にならぬ高級車で、……何よりも好きな、きゃしゃな自動車の匂いを愉しむことが出来た。(「ラジエーター」『大全6』p.401)

★あべこべに進む機関車の他に、白銀色に塗られたライジングサン石油のタンク車が挙げられる。これは海辺の明石へ移ってからのことで、神戸明石間の鷹取駅附近でよく出合うものであった。(「蘆の都」『大全5』p.180〜181)

★小学生の頃、私は、荷車を牽く馬や牛を見て、こんなものは早く街頭から消え去ればよいと思ったものだが、その願いが実現するには三十年の歳月を必要とした。(「わたしのペトロールエンジン」『星の都』p.263)
☆「ラジエーター」(『大全6』p.402)にも、「荷馬車などなくなればよいと思ったのは、もう久しい以前である」とある。

★小学校の行きかえりに、床屋さんのガラス戸越しに、いつものぞき込む絵があった。……「お前がよく口に出すあの絵は」とボクの父は云った。「あの絵はウィスキの広告だそうだ。あそこの小父さんは元は船乗りであったというから、どこか外国の古道具屋で手に入れたものだろうよ。(「酒壜天国」『大全6』p.444、『全集11』p.85〜86)


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