1908(明治41)年 7歳 尋常小2年




★ディアボロ・ブームは明治四十年にフランスで起り、ヨーロッパ諸国に拡がって、アメリカをへて翌四十一年夏から、東京を中心に全国を風靡した。(「芦の都シリーズ──オブジェ的年代記」『多留保集』5,p235)
☆「タルホ=コスモロジー」(『タルホ=コスモロジー』p.194)に同じ記事あり。

★自分の周囲でこのような経過をたどったとみられるものに、少年吹奏楽団がある。これは明治四十一年、東京三越の少年ブラスバンドにはじまり、京都二中のそれになり、……(「わたしのペトロールエンジン」『星の都』p.263)

★私は小学二年生の時、「風船に乗ってお月様へ行った話」を、それに因む唱歌といっしょに、学芸会の壇上でやったが、空中の描写は別になかった。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.595)
☆最初の日の「空中感」について。


★明治四十一年秋、神戸沖の観艦式が済んでから、お召艦をつとめた「浅間」が舞子の磯ぎわにやってきて、投錨した。……どっしりした鋼鉄構造物がお馴染の渚を見も知らぬ海岸に一変させてしまったことをよく憶えている。(「新歳時記の物理学」『大全6』p.517)
☆タルホのリーマン/ロバチェフスキー空間認識の原点となった事件。
☆「父と子」(『大全4』p.154)に同様の記事。ここでは「海辺の小学校へ移って、その翌年の秋」となっているので、同じく明治41年秋ということになる。

★われわれは四辺がまだ暗いうちから、背中にお弁当を縫いどめにした風呂敷包みを斜にかけ、国道筋の白い埃を立てて、「年は明治の四十一、茅渟のうらわの秋たかく……」と高唱しながら舞子の出鼻まで大観艦式見物に出かけたのだった。数日目にお召艦“浅間”がわれわれの曲汀の東端にやってきて碇をおろした。それは石炭積込みのためにであったが、軍艦が泊っているあいだは何処か余所の海岸のような気がし、軍艦が去ってしまうとそこには大きな穴がポッカリあいたようだった。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.315〜316)

10月
★しかし次の年も、いっこうにその気色はなくて、秋になった。その十月のひと日、例のカゼの神を前にして祖父と母と自分との三人で、神戸湊川新開地通りの相生座の、階段をいくつも登って行く処にあった楽屋に坐っていた時、……自分の横に半紙の包みが置かれた。振り向くとそれがお姉さんだった。(「雪融け」『大全5』p.170)
☆明石の八雲座で見かけたお姉さんとの再会の場面。明石に越して、その翌年のことであろう。

★しかし、両側に崖を迎えて陸橋がやってくる箇所は、「住吉」が南と北との2ヶ所にあることを知った七、八歳の頃と少しも変わっていない。(「蘆の都」『大全5』p.190)
☆昭和38年の6月頃(梁雅子の祝賀会のひと月後)、京都から神戸に行った折、大阪を過ぎたあたりの景色を見て。

★私の祖父利吉は明治四十年を過ぎた頃に富士山へ登った。彼は白装束のまま金剛杖を片手に汽車から降りて、目抜きの本町すじを選んで、馬駈場の自宅に俥を引き込ませたのである。(「明石」『全集8』p.440)
☆何年のことか?
☆利吉が天保生まれ(1844年)とすると、60代半ばのこととなる。


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