1月 ★「Principia Paedophilia(I)」<作家>[→「少年愛の美学」4-3]
1月中旬
★翌三十六年一月中旬に彼(伊達得夫)は世を去った……(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.57)
1月15日
★(桃山婦人寮に移って)初めて迎えたお正月十五日に、前年七月から入院していた伊達得夫の訃がもたらされた。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.104)
1月17日
◇稲垣が桃山へ引っ越してきて、初めて迎えたお正月十七日(昭和三十六年)に、伊達さんの訃がもたらされた。雪降りの朝だった。朝刊を拡げていた彼は、「伊達さんが死んだ!」といった。……「このハガキ、先月の九日にきたばかりなのに」……「小生は十一月に退院しましたが、まだ当分安静治療していなくてはならぬ由。自宅で寝ています。……」(p.150)
★この(伊達得夫の死)ために、伊達が的場書房の北川幸比古と共に昭和三十二年末に計画して続けてきた『稲垣足穂集』全十六巻は途中で挫折することになった。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.104〜105)
☆同様の記述が志代の著p.151に。
2月 ★「Principia Paedophilia(II)」<作家>[→「少年愛の美学」4-3]
2月 ★(作家賞選後評)<作家>[13-434]
2月 ★「蘆の都」<新潮>[9-200]
2月 ★「オブジェの魅惑」<東京新聞、2月11日夕刊>[11-127]
☆この中に、「先日、昔々の「少年」誌のひと揃いが手に入った」(「オブジェの魅力」『全集11』p.127)とある。
3月 ★「Principia Paedophilia(III)」<作家>[→「少年愛の美学」4-3]
4月 ★「菜の花の飛行機の翼に及ぼす影響」<作家>[6-3]
4月 ★「梅日和」<新潮>[11-131]
☆志代著p.153に、『武将の町』としてタルホの引用がある。それはこの「梅日和」とほぼ同内容であるが、違いもある。この年11月に再度同タイトルで「作家」に発表されているが、『武将の町』と題された作品は見当たらない。
☆同書p.155に、「『武将の町』から始まった、この土地の戸籍調べは、『伏見物語』になり、『宇治、桃山はわたしの里』に発展した」とある。それぞれ「伏見山物語」(昭和39年1月、作家)、「宇治桃山はわたしの里」(昭和45年1月、文学界)であろう。
6月 ★「Principia Paedophilia(IV)」<作家>[→「少年愛の美学」4-3]
7月 ★「Principia Paedophilia(V)」<作家>[→「少年愛の美学」4-3]
8月 ★「Principia Paedophilia(VI)」<作家>[→「少年愛の美学」4-3]
8月 ★「『沈黙の塔』への憧れ」<新潮>[12-373]
8月? ★「男性には道徳」<朝日新聞>[全集不掲載]
☆未見。昭和37年8月27日か? 朝・夕刊?
9月 ★「ディアボロ」<作家>[→「ミシンと蝙蝠傘」3-212]
10月 ★「ディアボロ(承前)」<作家>[→「ミシンと蝙蝠傘」3-212]
11月4日
☆松村実の「稲垣先生との十五年」(『稲垣足穂の世界』新評社、昭和56年、p.60)には、彼がタルホに最初に会ったのは、1961年11月4日とある。
11月 ★桃南雑記<作家>
☆「こんどの引越し先は桃山御陵の森の南端なので、つまり桃山の南の意である」(「タルホ=コスモロジー」『全集11』p.510)
「肉体とその自由」[11-139]
☆「「肉体とその自由」は、私の小屋に隣合った府立桃山婦人寮の本棚に、三島由紀夫の『不道徳読本』を見付けて披いてみたことが縁になっている」(同上)
「須弥山」[→「須弥山さわぎ」11-57]
「オブジェの魅惑」[→「オブジェの魅力」11-127]
☆松村実との出会いは、この作品の発表と同じ11月なので、末尾に付されている武石浩玻遺品のスクラップブックからの記事は、『大全』(昭和45年)の改訂時であろう。
☆彼が水戸の武石家に調査に行ったのはいつか?
「梅日和」[11-131]
11月 ★「『一千一秒物語』の倫理」<本の手帖>[11-136]
11月 ★(ロールシャッハテスト)<解釈と鑑賞>[全集不掲載]
☆10枚のカードに対して、それぞれにタルホのコメントがあり、それについて高木隆郎氏の分析と作家論がある。
12月 ★「リビアの月」<作家>[→「リビアの月夜」2-252]
(附:クリスマス用シガー及びシガレット)[→「第三半球物語」1-44]
「月光譫妄症」
「禁笑館」
「順々に消えた話」
「星を射つ」
「三階の窓から突き落された話」
「ロビーにて」
「加速剤」
「緑色のソフトハット」)