1960(昭和35)年 59歳 伏見桃山婦人寮へ



1月 ★「南方熊楠児談義」<作家>[3-276]

2月 ★「雲雀の世界」<机>[11-101]

2月 ★「少年愛の形而上学」<作家>[→「少年愛の美学」4-3]

2月 ★(第四回作家賞授賞の通知に対する編集部への返信)<作家>[13-434]

2月
◇私の入院中、名古屋の「作家」から稲垣へ「長年の創作活動の努力に対して」という名目で「作家賞」が贈られ、金一万円が添えられた。(p.144)
☆同書年譜には、昭和35年の項に「第四回作家賞を受賞」とある。
☆萩原氏の年譜では、受賞は「2月」。

?月
◇経過良好で、私は二ヵ月で退院した。久しぶりにみる、机のまえに端座していた稲垣は、病人の私より憔悴していた。(p.146)
☆上記の経過からすると、退院は2〜3月頃だったのであろう。

3月 ★「少年愛の形而上学(II)」<作家>[→「少年愛の美学」4-3]

3月 ★「ダンセーニ卿の『酒壜天国』」<『二日酔いよこんにちは』収録、荒地出版社>[→「酒壜天国」11-85]

4月 ★「少年愛の形而上学(III)」<作家>[少年愛の美学]4-3

4月 ★「菜の花の飛行機の翼に及す影響」<実存主義>[→「ライト兄弟に始まる」6-3]
☆タイトルとなったこの言葉は、最初に「格子縞」(「作品」、昭和12年5月)に出てくる。

今春
★今春(1960)亡くなった江森盛弥……(「随筆ヰタ・マキニカリス」『東京遁走曲』p.164)

5月 ★菟東雑記(VII)<作家>
     「セファイド変光星」[5-260]
     「卍の町」[全集不掲載]
     「オブジェ・モビール」[11-89]

5月 ★「紅薔薇の小径」<群像>[11-105]
☆後半は、前年12月に「作家」に発表した「神の夢」の後半の書き直し。おそらくこの年の3月2日に撮影されたというUFOとオカルト・サイエンスについて。

5月 ★(アンケート:私の印象にのこった書物)<机>[13-464]

5月3日
★喜多川歌麿の日(五月三日)に、大阪の本町橋づめの国際ホテル七階で、梁雅子さんの女流文学賞受賞祝賀会が催された。ボクは、二十五年ぶりに大阪のアスファルトを踏んだ。(「二人の女弟子」『全集11』p.116)

★梁雅子さんの第十一回女流文学者賞受賞祝賀会があった晩方、私は宇治の山家から大阪まで足を伸ばした。二十五年ぶりのことである。……国際ホテル七階の南向きトイレの窓から見渡すと、自分の生まれた北久宝寺町は殆ど直下である。しかし、憲法記念日のせいか……(「蘆の都」『大全5』p.174)

★梁雅子は昭和三十五年度女流文学賞受賞者である。(「二人の女弟子」『全集11』p.121)
☆『新文芸読本・稲垣足穂』(河出書房新社、平成5年の)p.20に、このときの写真があり、「昭和38年5月」とキャプションにあるが、これは「昭和35年5月」の間違いではなかろうか? 三一書房発行の『悲田院』は昭和34年3月6日刊であり、また、ここに記されている「宇治の山家」とは、伏見桃山でなく宇治恵心院のことだろうからである。
☆祝賀会には司馬遼太郎や藤沢桓夫が同席していた。

★梁さんの祝賀会があった晩、プログラムが進んで、傍えのステージで余興の文楽の幕が揚ろうとしていた時……(「蘆の都」『大全5』、p.186)

◇梁雅子さんは『悲田院』で、第十一回女流文学賞を受賞された。その祝賀会に出席することを、稲垣は承知した。……この日は憲法記念日で、……稲垣の『蘆の都』(八十枚)は、この祝賀会のときから書き出されている、少年時代のなつかしい記録であった。(p.177)
☆「蘆の都」は、翌昭和36年2月「新潮」発表。
☆タルホにとっては25年ぶり(昭和11年の最後の上京以来ということなら、正確には24年ぶり)の大阪行きで、会場の国際ホテルの7階のトイレの窓から、生誕地の北久宝寺町が眼下に見られた。それが「蘆の都」執筆のきっかけとなった、と志代はいうのであろう。

6月?
★ 梁さんの祝賀会からひと月ほど経って、私は神戸まで出向いた。これも二十五年ぶりである。(「蘆の都」『大全5』p.186)
☆祝賀会からひと月経ってというから、6月になってからであろうか。

★実は、淡路富島まで帰る若い女性を、伏見桃山の府立婦人寮から神戸まで見送って、ついでに、同市生田区中山手通二丁目の婦人相談所へ連絡するという用向きを持った人が、「神戸は初めてだ」と口を出した。それで私は、案内にこの両人について行った迄のことである。(「蘆の都」『大全5』p.193)
☆おそらく上記の「神戸まで出向いた」件と同じであろう。

6月 ★「おくれわらび」<作家>[9-165]

7月 ★「一つぶの悪」<机>[→「永劫流転」11-112]

7月 ★菟東雑記(VIII)<作家>
      「雲雀の世界」[11-101]
      「ボクの剪定法」[11-108]
☆「ボクは十年来の山家暮しで追々気が付いてきたが、それは、庭づくりの面白味は「刈込み」だということである」とある。そんなこともしていたのだろうか。
        「永劫流転」[11-112]
☆同月「机」発表の「一つぶの悪」の解題・改訂。
☆引用されている歌は「どうせ拾った恋だもの」(コロンビア・ローズ歌、野村俊夫作詞、船村徹作曲、昭和31年))
       「丸山清君の非フランス的二小品を台にして」[全集不掲載]

8月 ★「二人の女弟子」<文学界>[11-116]

8月 ★「フェアリランドの窓辺にて」<作家>[6-400]

伏見桃山婦人寮へ
10月
☆萩原氏の年譜では、「昭和35年10月、夫人の勤務先、京都市伏見区桃山伊賀67の京都府立桃山婦人寮職員宿舎に転居」。

10月 ★『稲垣足穂全集2』《書肆ユリイカ》
収録作品(9編)「黄漠奇聞」「星を造る人」「チョコレット」「星を売る店」「『星遣ひの術』について」「七話集」「或る小路の話」「セピア色の村」「緑色の円筒」

10月 ★菟東雑記(IX)<作家>
      「東京遯走曲」[→「わが庵は都のたつみ──」9-74]
★ここに入れた「東京遁走曲」を、「新潮」の斎藤十一が読んでいた時に、佐藤春夫が文化勲章を貰った。その件について感想を書いてくれと、斎藤が依頼してきた。……「……掲載を見合わした。了解してくれ」というわけだ。……たまたま佐藤先生の急死があって、保管されていたゲラ刷が持ち出され、これを元にして書いてくれと頼んできた。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.180〜181、『全集11』p.508)
☆佐藤春夫の文化勲章受章は昭和35年。授章式は11月3日だったろうから、この頃の話であろう。
☆没になった最初の原稿は何というタイトルだったのだろうか?
☆佐藤春夫の死は昭和39年5月6日。「佐藤春夫を送る辞」が<新潮>に発表されたのは昭和39年7月。
       「庚子所感」[11-125]
☆萩原氏の全集解題には、この作品の初出として、「新年の「京都新聞」に載せた、と「タルホ=コスモロジー」にあるが未詳」とある。
        「わらべ唄」[12-373]

11月 ★菟東雑記(X)<作家>
       「ヰタ・マキニカリス」[→「随筆ヰタ・マキニカリス」8-104]

11月末
★澁澤龍彦夫妻を送って、この道へ出たのは、十一月末の真暗な晩で、……(「梅日和」『多留保集5』p.114)
☆「梅日和」が昭和36年4月発表なので、この年のことか? ただし、志代によると「武将の町」という異稿がある。
☆内容は明らかに伏見桃山に転居してからのことである。ただ、志代夫人の文章には、タルホ自身は昭和35年の「12月中旬」に桃山婦人寮に移ってきたとあるが。
☆『新文芸読本・稲垣足穂』(河出書房新社、平成5年)p.25に澁澤龍彦との写真があり、「昭和35年か36年初め、桃山婦人寮で」のコメントがある。この折のことか?

12月 ★菟東雑記(XI)<作家>
       「飛行機の墓場」[→「飛行機の墓地」8-72]
       「工場の星」[8-83]
       「純粋人と不純粋人」[→「誰にも似ないように」8-199]
       「フェヒナーの地球意識」[8-194]

12月中旬
◇この一文を置土産に十二月中旬(昭和三十五年)、稲垣は宇治での十年間の生活を打ち切り、伏見の府立桃山婦人寮別棟の、私の住居へ移転してきた。(p.147)
☆上記、萩原氏年譜の「10月」との関係は? タルホは2か月間、恵心院に居残っていた?
☆「この一文」とは、『おかずのない文学』と題された一文であるが、これは「東京遁走曲」の中の一部。昭和35年10月「作家」発表の「菟東雑記9」中の「東京遯走曲」のことか?

★『佐藤春夫を送る辞』の原文を最後にして、私は都のたつみをやや右へ逸れた、都の南々東の伏見桃山の丘陵上に引越した。……家内のつとめている府立桃山婦人寮の別棟である。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.104)
☆この『佐藤春夫を送る辞』は<新潮>に掲載されなかったほうの原稿のことであろう。


★実は去年の暮、乃木神社にお祭があった。詩吟、少年剣舞云々の前触れがあったものの、いざふたをあけると、数十人のモーニングの老紳士の集合を出なかった。(「梅日和」『全集11』p.133)
☆「梅日和」は昭和36年4月「新潮」発表なので、この年のことか。

★前の古典ファルマン機は、去年、日米修好百年の機会に返却してくれたそうだが、もう一つの、日野熊蔵大尉が搭乗した二十四馬力装備のグラデー単葉は今どこにあるのだろうか?(「オブジェの魅力」『全集11』p.128)
☆日米修好百年は1960(昭和35)年。
☆「前の古典ファルマン機」とは、徳川好敏大尉が代々木練兵場で初飛行したアンリ・ファルマン複葉機。アメリカ側が戦利品として取り上げたというのは、いつの話か?


UP
→ 1961
← 1959
年度別もくじへ