1968(昭和43)年 67歳



1月 ★クリスマスケーキ<作家>[11-189]
     「ヘンな蛍」
     「散歩しながら」
     「卓上キネオラマ」
     「前菜」
     「アーラビカ夜叉と世尊との対話」

2月 ★『性の探求』(全集・現代文学の発見・第9巻)《学芸書林》
収録作品(1編)「A感覚とV感覚」

3月 ★「キネマの月巷に昇る春なれば」<若い人、2・3月合併号>[12-407]

3月 ★「もやしの道」(作家賞選評)<作家>[13-442]

3月 ★「ヴァニラとマニラ」<南北>[3-3]

3月 ★「『タイル』方丈記」<話の特集>[12-409]
☆この中の「知人M・T」とは、高橋睦郎か?

4月 ★「Prostata〜Rectum機械学」<南北>[4-323]

4月 ★『日本短篇文学全集33』《筑摩書房》
収録作品(5編)「天体嗜好症」「白鳩の記」「水晶物語」「青い箱と紅い骸骨」「或る小路の話」
☆この中の「白鳩の記」の傍題「大阪をかすみに没す別れかな」のルビの間違いについて、「飛行機の句と硝子の靴」(雷鳥、8月)に。

5月 ★「ライト兄弟に始まる(I)」<南北>[6-3]
★まず平木さんが私の「ライト兄弟に始まる」を南北誌で読んで、手紙をくれたのだった。(「慎重にやれ≠フ意を含み」『全集11』p.345)
☆平木国夫の「タルホと「ヒコーキ野郎たち」」(『別冊新評・稲垣足穂の世界』、昭和52年)によると、最初に平木氏がタルホに手紙を出し、その返事として、「最初の手紙は、昭和四十三年五月十日付で、私が雑誌「南北」にのった「ライト兄弟に始まる」を読み、その感想と、更にご執筆の動機は徳川好敏著「日本航空事始」をお読みになった上でのことでしょうか、といった質問状を出したところ、折り返し次のような手紙がき、それが六年間も継続することになったのである」。

5月 ★『少年愛の美学』《徳間書店》[4-3]

5月 ★『現代文学大系65・現代名作集(3)』《筑摩書房》
収録作品(1編)「黄漠奇聞」

6月 ★「ライト兄弟に始まる(II)」<南北>[6-3]

6月 ★「視る!」<作家>[11-199]

6月 ★「すばりと文殊」<話の特集>[3-384]

6月 ★『僕のユリーカ』《南北社》[5-3]
附録「ロバチェフスキー空間を旋りて」[→「改訂増補ロバチェフスキー空間を旋りて」5-88]

7月 ★「ライト兄弟に始まる(III)」<南北>[6-3]

7月 ★『日本の小説4・少年文学』《正進社文庫》
収録作品(1編)「黄漠奇聞」

7月 ★「私は世界の果てからネクタイを買いに来た」<朝日新聞、7月10日>[11-201]

8月 ★「星の都」<京都新聞、8月7日>[12-414]

8月 ★「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」<南北>[3-103]

8月 ★「世界のはて」<ANDROGYNY DANCE、笠井叡舞踏会事務所>[11-205]


◇台風がおさまった秋晴れに、高橋久子さんが来られた。舞踊家・笠井叡夫人である。舞踊会の印刷物の原稿依頼であった。……稲垣が久子夫人に渡した原稿は『忘れ河』であった。(p.198〜199)
☆この『忘れ河』は、昭和43年8月「アンドロギニーダンス」発表の「世界のはて」の一部であろう。とすると、この年のことか?

8月 ★『東京遁走曲』《昭森社》
収録作品(3編)「東京遁走曲」「わが庵は都のたつみ」「随筆ヰタ・マキニカリス」

8月 ★「出版を祝う」(折目博子著『ロトの妻』序文)<昭森社>[13-427]

8月 ★「飛行機の句と硝子の靴」<雷鳥>[12-413]

9月 ★「ライト兄弟に始まる(IV)」<南北>[6-3]

9月 ★「紫ふんどし」<話の特集>[全集不掲載]
☆『足穂拾遺物語』(高橋信行編、青土社、2008年)に収録。

9月 ★「触背美学」<雷鳥>[12-415]
☆この中に、「私は最近、飯島耕一訳、アド・キルー著「映画とシュルレアリスム」という本の批評を頼まれた」とある。

10月 ★「ライト兄弟に始まる(完)」<南北>[6-3]
      附録「懐しのアート・スミス」[→「墜落」6-300]

10月 ★(名著発掘:)「『死後の生活』」<文芸>[11-210]

10月 ★『日本現代文学全集67・新感覚派文学集』《講談社》
収録作品(6編)「黄漠奇聞」「星を売る店」「一千一秒物語」「散歩しながら」「天文台」「末梢神経又よし」


◇秋深い雨降りの午後、昭森社の森谷均氏が親戚の人に送られて突然訪ねてみえた。郷里岡山からの帰途だった。森谷さんは宇治へも二回、栄太楼飴を手土産にもって、こられたことがある。三年前に、一万円送ってくださったことがあった。昭森社の「本の手帖」に稲垣はたびたび作品を載せていたが、原稿料は出ていなかった。……昨年森谷さんが直腸癌の手術をしたと聞いたときから、稲垣は当時、「南北」の編集長だった常住さんに、“そのとき”には花環を届けてくれるようにと、依頼してあった。……半年後に、森谷さんの他界の報を受け取った。(p.194〜195)
☆森谷均が亡くなったのは、1969(昭和44)年3月29日。
☆「半年後に、森谷さんの他界の報を受け取った」とあるので、森谷均が訪れたのは、前年(1968年)の秋のことだろう。
☆「本の手帖」に頻繁に書くようになったのは、1965(昭和40)年8月の「東京遁走曲」から。また、「南北」には1966(昭和41)年8月の「臀見鬼人」が最初だが、頻繁に書き始めたのは1967(昭和42)年後半から。
☆「山風蠱の頃」が掲載された1970(昭和45)年5月の「本の手帖」が、「森谷均追悼号」になっている。

11月 ★「アフロディテ=ウラニア」<血と薔薇>[11-212]

11月 ★「映画論〈私の触背美学〉アド・キルー《映画とシュルレアリスム》を読んで」<SD(スペースデザイン)>[→「アド・キルー「映画とシュルレアリスム」を読んで」11-222]
☆『足穂拾遺物語』(高橋信行編)の解題(p.97)によれば、初出タイトルはこのように記されている。『大全』収録時に「映画論〈私の触背美学〉」を削除。

11月 ★「ココア山の話」<SPACE MODULATOR>[2-315]
☆タイトル「ココア」or「ココァ」? 改訂かどうか不祥。

12月 ★「フウテン族の曲率」<婦人公論>[10-95]

12月 ★「一穴の魅力」<話の特集>[3-388]

12月16日
(バロン・シゲノの)ジャンヌ未亡人は、私がこの稿を進めている時に、即ち昭和四十三年十二月十六日に、新宿区中落合の聖母病院で亡くなった。(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.34)

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◇東京から常住郷太郎氏がみえた。常住氏は一昨年「南北」誌に原稿依頼にみえてから、数度来訪されている。稲垣の作品が「南北」に、隔月またはつづいて六、七回掲載されたころから、他社からの依頼もつづき、『少年愛の美学』が徳間書店から刊行された。今回は山本美智代さんといっしょである。……今度彼女が刊行する『銀鍍』についての短文依頼であった。(p.209)
☆「南北」誌上には、昭和41年8月の「臀見鬼人」が最初である。それが「一昨年」ということから、この記事はこの年のことか。また『少年愛の美学』(徳間書店)の刊行後のことらしい。ただ、「僕のオードーブル」を載せた山本美智代の『銀鍍』(前衛社)が刊行されたのは昭和45年4月で、ずっと後のことである。


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