┌ 3.長男─┬ 6.女
1.祖父 │ └ 7.男
├──┼ 4.次男── 8.男
2.祖母 │
└ 5.父(三男)
│ 12.義兄 ┌ 16.男
│ ├───-┼ 17.男
│ ┌ 13.姉 ├ 18.×
├-─┼ 14.× ├ 19.×
│ ├ 15.× ├ 20.男
│ └足穂 ├ 21.女
9.祖父 │ └ 22.男?女?
├── 11.母
10.祖母
1. 父方の祖父は、「地球」では、鳶をつかみそこねた老人、嘉兵衛として登場する。淡路島から出て来たので「嶋屋」と呼ばれていた。祖父は、足穂がまだ幼稚園に上がらない頃というから、1905(明治38)年頃に亡くなった。享年83歳だったというから、1822(文政5)年頃の生まれということになる。
「明石」では、「養子である父方の祖父は、対岸から出てきたので、「嶋」姓を名乗っていた。淡路島では水呑百姓だった筈である。でも、ずっと以前はミカドの伴人だったとかで、だから「藤原」が正式なのだそうである――これらの人々は、今は月照寺の山蔭に、樽屋町うらの竜谷寺の土塀ぎわに休息している」(『全集8』p.404)とある。
2. 父方の祖母は、稲垣家の新宅に招かれた正月に、紅い切り羊羮を土産に持って来たとある。それは1908(明治41)年の正月であろうから、その頃は存命していた。「孫息子の謹爾といっしょに、同じ長屋で其後の五、六年間を送ったが、後半期は、その下の畳が腐ってきたくらい永く床に就かねばならなかった」とある。「其後の五、六年間」が祖父の死後という意味なら、1911(明治44)年頃亡くなったことになる。
3. 一番上の伯父、すなわち祖父の長男は船大工であった。足穂の父に云わせると、「酒ばかり飲んで、本職には一向に精を出さぬ代りに、人から頼まれた、三文の御礼があるわけでもない家具作りに月日を送って」あげくの果が夏の午後の脚気衝心だった。
4. 二番目の伯父は、「地球」では、祖父の臨終の日、背後から抱きかかえて励ましていた人として登場する。鉤鼻で額の真ん中に大きなホクロがあり、山伏か天狗を思わせるところがあった。宗匠帽に十徳姿で大阪の足穂の家にもちょくちょく顔を見せ、「袋に付いている黄色のすじはすっかり取る必要はない。柑橘類は薬ぞ」と足穂に教えてくれたり、手提げ袋の中から取り出した短冊や色紙に何かをしたためては、お酒を飲んで行くような人だった。この伯父も他家の養子であった。工業高校の建築講師や典獄の経歴があるが、ともに酒の上で失敗、足穂一家が明石に家を新築しようと計画していた頃は、彩管と彫刻道具をたねに友人知己を飲み歩く日々を送っていた。足穂の家の設計を申し出るが、それは好意からではなく報酬目当てだったことがわかる。咳の発作が3日間続いて亡くなった。
5. 父は、「地球」では三男とある。萩原氏の年譜によると名は忠蔵。「父と子」には1870(明治3)年生まれとある。小学校を出て、表具師のもとに住み込んでいたが、京都(?)の造り酒屋に小僧に出た。その後郷里の明石に戻り、町役場の給仕となった。子供らのたまり場になっていた母方の祖父の家に出入りするうちに、見込まれて18歳のときに婿養子となった。母より1歳年下であった。とすれば、結婚は1888(明治21)年ということになる。祖父の意向で大阪に歯科修業に出たのは結婚前か後か? 数年後に免状を得、大阪で所帯を持つ。足穂が生まれたとき父は30歳。1907(明治40)年に大阪から故郷の明石に戻り、新築した自宅で歯科医を続ける。下顎にできた腫れ物が原因で、1934(昭和9)年5月1日に死亡。
「雪融け」(『大全5』p.168)には、「僕の父は、僕の母より年下であったが、利吉は彼を鼓笛隊の中から引きぬいて、すでに大阪市の中心部で開業していた同僚の歯科医の許に、修業に出したわけである。やがてはたちそこそこの田舎者夫婦が船場のまんなかに小さな店を出し、以来約十数年間に獲たところを、そっくり長女に譲って帰郷した順序になる」とある。
「蘆の都」(『大全5』p.182)に、「私の父は贋物ながら、ともかく一八七〇年生まれの進歩的明治紳士であった」とある。「一体われわれ家族の大阪船場住いというのも、実はそこが私の父の歯科医術修業地であったことに出ているのである。つまり彼の養父が、その一人娘のために見立てた婿を、すでに大阪市の中心部で開業していた仲間に托したという迄である」(同、p.187)。「私の父は経師屋の小僧だったとかで、その折の経験をしばしば私の卓上「不思議館」の上に役立ててくれたものだ」(同、p.189)。
「この養子である私の父の免状はさすがに上等の鳥子紙で、発行者は内閣総理大臣桂太郎となっている」(「歯欠け男」『全集12』p.397)
6. 足穂の従姉妹の一人。西班牙風邪で死亡。
7. 一番上の伯父の長男、すなわち足穂の従兄弟に当たる彼は、「地球」では謹爾と呼ばれている。川崎造船所の職工だったが、その後足穂の父の許で歯科技工を手伝っていた。しかし、気まぐれな篆刻に凝ったり、故事来歴の考証に耽ったり、人のためにミシン掛けしたりする時間のほうが多かった。祖母の死をきっかけに出入りを差し止められたが、足穂の父の名義を使って、近在相手の義歯モグリを始めた。彼は、たった一人の姉が西班牙風邪に仆れた折、葬式の手伝いに行って、納棺のさいに、死人の口から吹き出した瓦斯を顔の正面に受け、それから3日後に亡くなった。
8. 二番目の伯父の息子。彼は「地球」では鎮衛と呼ばれている。一人息子とある。ドック勤めをしていた。酒煙草を嗜まぬ、白皙の温和な青年だったが、結核に侵されて亡くなった。妻子がいたが、行方は判らない。「鎮衛という船渠通いの一人息子が残っていた」とあり、彼が亡くなって、足穂の父の口から「僕の生家は、たあれも、何にも、無くなってしもうた!」と洩れたとある。すなわち、この鎮衛を最後に父の生前(昭和9年以前)に父方の一族は皆亡くなってしまった。
9. 母方の祖父は、萩原氏の年譜によると名は利光。「地球」では羊助と呼ばれている。「白昼見」には天保(1830〜44)生まれとある。三男に生まれ、二十歳前に故郷の丹波から、明石へ出てきた。最初の住まいは町の西方の、低い土塀と屋根付き門を持った小さな平屋建であった。近所からは「近江屋」と呼ばれていた。夫婦で旅回りの猿回し、露店商のようなことをしていたらしい。その後、藩士の馬術練習場だった馬駈場に引っ越した。そこは長屋の真ん中で、2軒分を住まいに使っていた。近所からは「猿屋」と呼ばれていたが、その頃から「いれば」すなわち義歯の製作を商売にし始める。亡くなったのは1931(昭和6)年1月か?
「雪融け」(『大全5』)では、近江屋利吉と呼ばれている。タルホが明石へ移った1907年頃には、旅回りをやめて30年以上経っていたとある。
「祖父は旅廻りの見世物師だったそうであるが、明治になると共にいち早く新興の歯科医に転向したのだった」(『「蘆の都」『大全5』p.187)。「祖父はまた見世物師で、覗きカラクリの制作が得手であったと、私は明石の古老から教えられたことがあった」(同、p.189)
「明石」では、「戎町は馬駈場ともいう。……浄行寺前に住む近江屋利吉というのが、私の祖父である。彼は明治十年頃から、岩屋神社の出店の取締をやっていた。生れは播州も冬には猪が出る多可郡である」(『全集8』p.404)とある。
「私の祖父は日本歯科医術の草分けで、彼の免許証は焼判を捺した木の札であった」(「歯欠け男」『全集12』p.397)
10. 母方の祖母は、「地球」では小槌、あるいは、おえいと呼ばれている。鬼瓦のあだ名があった。「白昼見」には弘化(1844〜48)生まれとある。髪結いをしていたが、祖父の押しかけ女房となった。1931(昭和6)年の祖父の死から1カ月後に亡くなった。ただ、「地球」には、父の死(昭和9年)の前々年の1月に亡くなったとあり、そうすると1932(昭和7)年1月ということになる。
「雪融け」では、兵隊の人形を買ってくれた懐かしさを語っている。
「明石」では、「祖母は明石の人で、元は赤松家の家来であった」(『全集8』p.404)とある。
11. 母は、「地球」ではお初と呼ばれている。父より1歳年上とすると1869(明治2)年生まれとなる。幼女の頃、祖父母の露店のサクラをやっていた。その後、大阪へ奉公に出る。「二十数年後に全世界に名を轟かしたアドミラル=トーゴー」とあるから、その奉公時代は1880年代の初めの頃であろう。結婚は19歳のときということになる。足穂を生んだのは31歳のとき。1938(昭和13)年9月下旬、身を寄せていた大阪の娘(足穂の姉)の家で、癌のため死亡。
「雪融け」では、タルホが明石へ移った1907年頃、36、7歳とある。すると生まれは1870〜71年ということになる。
12. 姉の夫。義兄。婿養子。足穂の父が大阪で始めた歯科医の仕事を受け継ぐ。足穂は小学1年のとき明石へ越すときに、この義兄から手風琴と赤い繻子のネクタイをもらった。「タルホ=コスモロジー」によると、「義兄(姉の婿)は徳島の蜂須賀の典医の家に生れ、セミプロ書家をもって自任していた。彼の身辺には李白や杜甫や白氏や陸放翁が見られたが、特に荘子に傾倒、私をつかまえては内篇外篇のエピソードを説く癖があった。私の十二、三歳からはたちにかけでである」とある。
「雪融け」(『大全5』p.169)に、「滝川素水著『難船崎の怪』は、大阪へ出向いた時に、姉の婿つまり兄さんに、心斎橋筋の本屋で買ってもらったが、この中で、僕は本文の怪奇冒険譚よりも付録の可哀想な短編の方に、いっそう心を惹かれていた」とある。小学生の頃か?
「自分とは十年以上も年上の姉が、清水谷女学校を出るなり迎えた婿が、この吹田のビール会社に彼の「デンタルオフィス」を持っていた」(「蘆の都」『大全5』p.187)
13. 姉は、足穂より10歳以上年齢差があったと各所にあるが、はっきり幾つ違うか不明。「地球」には、「董生は、彼の姉が小学校を卒える頃に生まれた」とある。父母が1888(明治21)年に結婚し、翌年姉が生まれたとすれば1889(明治22)年生まれで、1900(明治33)年生まれの足穂とは11歳違いということになり、ほぼ記述に当てはまる。「白昼見」によれば、祖父の差金によって未だ17、8歳の折に養子を迎えたとある。上の計算でいくと、結婚は1906(明治39)年か1907(明治40)年頃となる。いずれにしても、大阪の父の商売を譲ったのだから、父が明石へ戻る前であろう。なお、稲垣志代著『夫稲垣足穂』(p.131)に、「あなたからの手紙をみてびっくり。私の姉は稲垣千代ですから、志代が千代にみえたわけ」とある。
「雪融け」(『大全5』p.168)には、「わたしの姉は、利吉にとって一人娘に生まれた最初の孫であったし、次男が十以上も年下だということもあって、彼女は女学校を卒えるなり養子を迎えたのだった」とある。
14. 15. 姉と足穂の間には「もう一人ずつの姉と兄とがありましたが、これらはまだ赤ん坊の頃に死にました」(「蘆」)とある。
16. 姉の長男で、足穂の甥。母方の祖父母が亡くなったとき(昭和6年)、東京の大学に行っているとあるから(「白昼見」)、その頃20歳前後であろう。そうすると明治末年頃の生まれとなる。数学が得意らしい。足穂の母が亡くなったとき(昭和13年)には、すでに次弟とともに正規の医者となっていた。2人のうち1人は歯科医とあるが、どちらかははっきりしない。
17. 姉の次男。母方の祖父母が亡くなったとき、同じく東京の大学生だったとあるから、長男とは2、3歳違いなのだろう。こちらは父方の伯父の息子鎮衛に似ていて、ちょっと小哲人風であった。
18. 19. 「父方の祖父母がわたしの幼少の頃に亡くなり、暫く間を置いて姉に出来た幼児がふたり早世した」(「白昼見」)とある。ただ、それぞれ何番目の子かは不明。姉が1906〜07(明治39〜40)年頃結婚し、祖母が1911(明治44)年に亡くなったとすると、それから暫く間を置いてとあるので、早い時期の子ではないだろう。母方の祖父母が亡くなったとき(昭和6年)、姉には「東京の大学に行っている二人の息子のほか、中学生と女学生があって」(「白昼見」)とあり、この大学生と中学生の間の子だったのかもしれない。
20. 母方の祖父母が亡くなったとき、中学生とある。
21. 母方の祖父母が亡くなったとき、女学生とある。
22. 母方の祖父母が亡くなったときには書かれていなく、足穂の母が亡くなったとき(昭和13年)には、姉の家には「五人の子女があり」とある。ただ、その間に生まれたとすると、姉は50歳を過ぎた頃になるので、もっと前に生まれているのであろう。男女は不明。