〈 人 間 人 形 〉 は 〈 人 形 人 間 〉 で は な い

 ──アンドロイドとしてのラリー・シーモン




 〈人形〉についてタルホが言及している箇所は、A感覚関連のものが多いような気がします。それも一つのテーマになり得ますが、ここでは初期作品に登場する〈人間人形〉について考えてみることにします。筆者は10年ぐらい前から、この〈人間人形〉と近年進化しつつあるAIロボットとを関連付けられないかと考えていました。ときどきそのことを思い出すたびにその手の本を読んだりしていましたが、まとまらないまま年月だけが経っていました。それに関して特筆すべき事柄を思い付いたわけではありませんが、雑駁なままひとまず以下に簡単なレポートを記す次第です。


〈人間人形〉の用例

〈人間人形〉とラリー・シーモン

〈人間人形〉は〈アンドロイド〉

〈物質〉と〈生命〉は螺旋運動のピッチの差

〈スライダー〉装置で譬えてみる













〈人間人形〉の用例


 最初に、〈人間人形〉という言葉が使われている用例を年代順に列挙しておきます。

@永遠と健全のごきげんうかがいをしなければ何一つとして楽しむことのできなかった吾々が、人間人形に、フェアリーに、さらに進んで神々にさえなろうとしているこの地球上の今日の大勢にまだお目ざめでないか?(1925年6月「フェアリー時代」『全集1』p.421)

A星をたべてアスファルト街の裏側を歩く人間人形が、又一つの現実であるごとく、切って血の出る所謂自然主義の主人公も、遂に一個の物質意識かもしれないのだ。
(中略)
 ラリイシモンの喜劇がゴチャゴチャさわぎであったものから、一つの遊離とオートマチックの意義とを開こうとしているごとく。(1925年7月「来らんとするもの」『全集1』p.426, 427)

B合同作品のムーンシャインコメディはすべてセットとトリックと花火応用である。その空間時間のない、些か臭素加里の匂いがする国の街と野と山に運動する人間人形によって展開される荒唐無稽が「タルホと虚空」「彗星捕獲」「二十世紀須弥山」着色のみじかいハバナタバコのファントムのようなものをこしらえ、世界映画界改新の一歩をふみ出したい──と、そんなことまで僕は、その晩ムービィ街の色電気の下をあるきながら考えていた。(1925年8月「オートマチックラリイ」『全集1』p.285)

Cこのヒョイとつき出される一千一秒物語の人間人形は、まさしくマゾヒズムのかたむきがある。いやそんな一つ言葉であらわされぬさまざまな心持を、とんでもない方へ超えようとする近代人形の逆説をふくめているのでないか。(1925年12月「ラリイシーモン小論」『全集12』p.56)

Dわれらの文学手法の一様式もここに興味ある類似をもつ。即ちこんな美学を用いて、われらは一さいの人間、木、家、花、動物から気に入らない生命をぬきとり、更に電気をふきこんで新たに生かそうとするのだ。云わずとしれたかような改造をもって、やがて地球をとりまく規模広大なトーイスランドにあずからしめようとする。われらのみならずすべてわれらの同志なるキュビズム以後の芸術に見られるかの超性的傾向も意義なしとせられようか。超えようとするわれらには、人間さえもマジックによって生滅自在となる日を確信する。ゆえにサンガー夫人すら無用なのだ。いわゆるオートマチックエスセチシズム、ネオシンボリズム、新モデル主義、新遊離主義、セルロイドセンチメンタリズムとはこれなのだ。即ち、われらは人間である人形であろうとする。月であるキネオラマの月を創造しようとする。星である人造の星を造ろうとする。しかも人間である人形は、あのショーウィンドーにある人形より幾千倍精緻であり、……
(中略)
荒唐無稽、人間人形、さらにそれらによってもたらされる光栄無比な未来の神仙国バンザイ!(1926年4月「われらの神仙道」『全集1』p. 435, 437)

Eあらゆる生物から生命をうばい、殺して生きる人形に化している。一切のものをオモチャに造り更えねば気がすまぬのだ。かと云って、その人形はショーウィンドーの広告のたぐいではない。それより何百倍も精緻な生動する人形だ。人間である人形、月であるキネオラマの月、星である人造の星、つまり科学が人間をこしらえるというより、人間を科学化するのだから、ロボットなどとは全くちがった人間そのままの個性をもった人形なのだ。ところで、そのように生命だけをぬきとられた月や星や人や鳥や木や草は、地球とそのまわりの空間に規模広大なトーイスランドを現出する。生命的なものはどこにも見出されないのにそれらはハツラツとうごいている。精神のかわりを務めているのがゼンマイだろうか、じゃそれを巻くものは? ──電気なのだ。電気仕掛であいつの地球はまわり月は昇り木は立ち、人は考え怒り笑い泣く。あいつのファンタジーが吾々の理智にも感情にも訴えないという理由がここにある。即ち、それは我々の精神作用のうちの最も電気的なもの──感覚に訴えているというキーノートをのぞいては、あいつの作品に対するどんな評価も全く見当はずれだ。(1926年12月「タルホ入門」『全集1』p.445)

F君は大いなるチャーリー・チャップリン、可憐なるハリー・ランドンよりも良い条件におかれている。何故なら、あとの二人は、人間の悲哀をユーモアとセンチメントに紛らわせているが、君は一歩躍進して、オートマチックな世界まで飛び出しているからだ。君は人間人形だ
(中略)
人々は、悲しみこそ常に賢明であり、人間人形が時計の振子になり、振子は涅槃を素通りしながら揺れているということに、正当な理解を示さなければならぬ。(1928年10月「ラリー・シーモンの回想」『全集1』p.126, 127)

G運転席にシガーくわえた紳士、そのかたえに倚りそう赤き絹のレディ、これ人間に非ずして、人間人形! 姦淫を行なう資料のかたまり、音楽を解するところの物体そのものに他ならぬ。(1948年10月「実存哲学の余白」『全集8』p.300)

Hヨーロッパの令嬢たちは資本主義社会の玩弄物だと云う気がする。ソビエットの姐ちゃんは機械的労働者で、アメリカンガールは人間人形(1948年12月「美少女論」『多留保集1』p.18)

I自らの人間人形化を企てるのが運動選手及び道化師であり、我身を類型化しようとするのがそのつどそのつどにおける俳優である。彼らが一種のA感覚的伝統を背景にしていることは云う迄もない。(1970年4月「少年愛の美学」『全集4』p.192)


〈人間人形〉とラリー・シーモン


 上の用例を見ると、〈人間人形〉という言葉が使われているのは、1925年〜1928年のわずか3年間に集中していることが分かります。また、その言葉はラリー・シーモンに関して使われることが多く、ラリーが亡くなった1928年を境にパッタリ使われなくなったことも分かります。タルホがラリーの映画を最初に観たのは1923年のようですが、この〈人間人形〉なる言葉は、ラリーに触発されて出てきたものではないかと思われます。
 ラリー・シーモンの名前が初めて作品に登場するのは、「わたしの耽美主義」(1924年6月)です。その中の〈大統領チックタック氏公開状〉の第5に、

悲劇よりも可笑しな童話劇、ハープトマンやショーの社会劇よりもダンセーニ卿の神秘劇、人形の有り得べからざる滑稽なキネマ、少年が月夜の原っぱで失くした小さなアートペーパの三角帽子、風船玉探偵ラリイ=シーモンの早業……(『全集1』p.67)

と出てきます。ここには〈人形〉という言葉も見られますが、〈人間人形〉という言葉は出てきません。1年後の「フェアリー時代」(1925年6月)には、用例@に見るように、〈人間人形〉は出てくるもののラリー・シーモンの名前は出てきません。次に、〈人間人形〉とラリーが直接関連付けられてはいませんが、同時に出てくるのは、用例Aに見るように、「来らんとするもの」(1925年7月)です。そして〈人間人形=ラリー〉として出てくるのは、「オートマチックラリイ」(1925年8月)が最初です。用例Bの引用中にはラリーの名前は出てきませんが、そこでは空想上の映画〈ムーンシャインコメディ〉の中で、〈人間人形〉ことラリー・シーモンがスクリーン上を飛び跳ねる姿を夢想しています。また「ラリイシーモン小論」(1925年12月)には、用例Cの〈このヒョイとつき出される一千一秒物語の人間人形〉という表現があり、ラリーを『一千一秒物語』の登場人物に擬しているフシも窺えます。こうしたことから、この時代のタルホが〈人間人形〉という言葉を使うときは、ラリー・シーモンが念頭にあったということが言えます。


〈人間人形〉は〈アンドロイド〉


 用例DやEでは、〈人間人形〉のことを〈人間である人形〉としています。これは非常に重要です。〈である〉という断定の助動詞を補って、その意味するところを明確にしているからです。〈人間である人形〉とは、〈人間のような人形〉すなわち〈人間≒人形〉ではありません。〈人間=人形〉なのです。
 しかもこの〈人間人形〉は、決して〈人形人間〉ではないことに注目しなければなりません。〈人間〉+〈人形〉であって、〈人形〉+〈人間〉ではないのです。この順序もまた非常に重要です。〈人間である人形〉の主体があくまでも〈人形〉であるのに対し、〈人形である人間〉の主体は〈人間〉だからです。
 用例Eに見るように、〈人間である人形〉とは〈精緻な生動する人形〉であり、〈生命だけをぬきとられた人形〉のことで、〈ロボットなどとは全くちがった人間そのままの個性をもった人形〉なのです。
 では〈生命〉の代わりに、その〈人形〉を動かすものは? それは〈電気〉、すなわち〈電気仕掛〉の〈人形〉なのです。ここに至って〈人間人形〉の意味がはっきりします。今風に言えば、それは〈アンドロイド〉です。

 映画の中のラリー・シーモンは、ちょこまか動き回ったり、ジャンプしたり、ぶん殴られたりといった、スピーディーな動き、タルホの言う〈オートマチック〉な運動が大きな特徴です。白塗りの顔で年齢不詳のいでたちを見ると、誰でも〈人形みたいな人間〉と思うはずです。トリックやスタントが使われているとはいえ、地面に叩き付けられたり、自動車やオートバイに飛び乗ったりする人間離れした業を見ても、あくまでもそれはラリーという〈人間〉が演じているということには疑いを持ちません。
 そのことは上に述べた対比でいうと、ラリーは〈人間である人形〉というより、むしろ〈人形である人間〉ではないのか。なのにタルホは、なぜ〈人形人間〉でなく〈人間人形〉と言うのか。

 ここで見落としてはならないことがあります。上の用例Eでタルホは、〈そのように生命だけをぬきとられた月や星や人や鳥や木や草は、地球とそのまわりの空間に規模広大なトーイスランドを現出する〉と言っています。仏教には、〈草木国土〉など心を持たないもの(=非情)も、人間のように心を持ったもの(=有情)と同じく〈仏性〉を持っており、ことごとく皆成仏するとして、〈草木国土悉皆成仏〉という言葉があります。ここではタルホも〈草木国土悉皆生命〉を前提としていることに注目すべきでしょう。つまりそれらの〈生命〉をぬきとって〈草木国土悉皆人形〉にしようという企てなのです。事は〈人間〉(=ラリー・シーモン)に限らないわけです。しかも〈月であるキネオラマの月を創造しようとする。星である人造の星を造ろうとする〉と言うごとく、その対象は地上の〈草木国土〉だけでなく〈天体〉をも含めて、〈地球とそのまわりの空間に規模広大なトーイスランドを現出〉させようという壮大なる試みなのです(筆者注:〈トーイスランド〉は〈Toy's Land〉か)。したがって、このもう一つの世界──アナザー・ワールド(異空間)はすべて〈人形〉で成り立っていなければならず、そこに登場する資格を持ったラリー・シーモンも、当然〈アンドロイド〉すなわち〈人間人形〉でなければならないのです。そうした美学の上に成り立っているのが『一千一秒物語』を初めとするタルホ文学なのだ、ということでしょう。『一千一秒物語』の世界は、〈月〉や〈星〉も含めすべてが〈生命〉をぬきとられ、〈電気仕掛け〉によって再生された〈もう一つの世界〉だということになります。
 そして用例Bで見たように、その空想を更に映画の上にも広げているわけです。そうであるなら、映画〈ムーンシャインコメディ〉でも、ラリーを初めとする役者はすべて〈アンドロイド〉が演技すべきはもちろんですが、鳥や草木はどうするのでしょうか。CGで済ますのでしょうか。ここに映画ではありませんが、文学上にはすでにその先例があります。リラダンの『未来のイヴ』です。その第3巻第2章「魔法の国」には、

そこには東洋の薔薇や西インド諸島の花々、何千もの蔓草が、空想の風にそよぐかのように、電気仕掛けで揺れていた。というのもこの草花は本当のものではなく、ほのかに光る美しいめしべも、馨しい露を置いた花びらも、緑の葉も、柔らかい生地などでつくられた人工的なものだったからだ。(中略)
 さて、すり鉢状の花壇では、たくさんの鳥たちが木々の枝にとまって、人工の嘴を羽毛につっこんで、毛づくろいをしていたが、それはあまりに精巧にできていたので、〈生命〉というものを嘲弄しているようにも見えた。(『未来のイヴ』光文社、古典新訳文庫、p.325、328)

 ここでは、あたかも〈空想の風〉に吹かれるように〈電気仕掛け〉でそよぐ草花は、〈柔らかい生地などでつくられた人工的なもの〉だとされています。それは見て触って分かるもののようです。しかしタルホの言うように、〈人間≒人形〉でなく〈人間=人形〉であるなら、〈草木国土悉皆〉についても〈草木国土悉皆≒人形〉でなく、〈草木国土悉皆=人形〉でなくてはならないはずです。
 もしも映画の中で、〈生命〉だけをぬきとられた〈人間〉が、〈電気仕掛け〉で精妙無比に動いているならば、それは〈生命〉をぬきとられた〈人形〉なのか、〈生命〉を持った〈人間〉なのか、少なくとも〈外見的〉には区別がつかないはずです──『未来のイヴ』の〈ハダリー〉や映画『ブレードランナー』の〈レイチェル〉といった〈アンドロイド〉のように。
 ただし、タルホが〈人間人形〉に〈愛〉や〈感情〉や〈魂〉の問題を持ち込まないのは、もともとそういった問題の対極にある概念として持ち出したものだったからです。〈人形〉が〈生命〉を持つのかというのが〈アンドロイド〉なら、〈人間〉から〈生命〉をぬきとるのがタルホの〈人間人形〉だからです。
 〈人間人形〉には、用例Aに見るように、当時の文壇事情も背景にあるようです。タルホの言うように、〈魂〉〈涙ぐましい〉〈一歩一歩をきずきあげる〉〈友よ、手を取って〉〈切れば血の出る人生〉〈涙ぐんで〉〈雄雄しくも〉──周囲のこうした〈自然主義的〉な紋切り型の〈野暮くさいセンチメンタリズム〉に対する嫌悪や反発があったのも確かでしょう。


〈物質〉と〈生命〉は螺旋運動のピッチの差


 そもそもタルホがこのような〈異世界〉を持ち出すのは、その背景にタルホ独自の〈物質〉観、〈生命〉観があるからです。

 そもそも天地のまじわる蒼茫のガス体のなかから出て来た人間というのは、自分とそれをとりまくもののなかに、ながれるもの、滞るもの、この二つのかたむきがあることを知って進路をその後者に求めた。1に1を加えると2であるというのは即ちこれ、三角形のうちらの角を合わしたら二直角になるという古い幾何学の規則もそれだ。すすんでその理屈を混沌のなかに応用して物質性を抽象した。さらにそれを利用して機械をこしらえ、……(「われらの神仙道」『全集1』p.433)

 ここでタルホは、〈機械〉(=物質性)というものが、どのような経緯から発生したのかという理由を、人間の起源から説明しようとしています。〈ながれるもの〉とは〈生命〉を指し、〈滞るもの〉とは〈機械〉を指していることが分かります。このように〈ながれるもの〉と〈滞るもの〉を対比させて人間の原初的な姿から物事を説明しようとする手法は、本サイトで取り上げた『彗星問答』における〈円錐宇宙〉の成り立ちを彷彿とさせます。〈円錐宇宙〉においては、〈生命〉と〈物質〉とを対比させて、〈生命〉とは〈できるだけ急角度のピッチをもった螺旋によってのぼろうとする傾向〉だとし、一方の〈物質〉は〈そのピッチがほとんどゼロで、永久に同じ場所を廻転しているように観測されるもの〉としています(本サイトの「タルホ円錐宇宙創造説」参照)。
 ここで人間の起源から説き起こしてタルホが説明しようとしているわけは、現代の〈人間〉が、〈今では方便にこしらえた機械の重みを却ってわが身に受けることになり、その下でいびつにゆがんでハミ出そうとして〉おり、また〈今日のように生命を重んじてしかも機械も受け入れねばならぬといたずらに思いわずらって〉、〈生命〉と〈機械〉との矛盾に苦しんでいるからです。それに対し、ここでタルホ独自の〈生命〉〈物質〉観を提示しようとしているのです。
 その提案とは、〈機械の下におしつぶされようとする生命をすすんで機械のなかにぶちこんではどうだろう〉、〈生命をもって機械運動の中になかへほうりこんでしまったら〉というものです。つまり、ここで言う〈ぶちこん〉だり〈ほうりこん〉だりすることが、上の〈生命〉だけをぬきとることと同義だということが分かるのです。
 〈機械とは生命であるものの原理を最も抽象した真似であると云うなら、生命とは、機械であるものがそれみずから超越するまでに理想的発展をとげたものだと考えられる〉というタルホの穿った見解には、〈機械〉と〈生命〉とは質的相違でなく、グラデーションの濃淡の違いに過ぎない、というようなニュアンスが窺えます。〈機械〉を〈物質〉に置き換えれば、〈円錐宇宙〉においては、上に述べたように、〈物質〉と〈生命〉は〈螺旋運動のピッチ〉の違いでしかありません。そうは言っても〈月〉や〈星〉に〈生命〉はあるのか? ここに至ってまだそんな疑問を呈するのは、〈物質〉と〈生命〉を別個のものと考えているからです。
 では、〈生命〉を〈機械〉の中に〈ぶちこん〉だり〈ほうりこん〉だり、あるいは〈生命〉をぬきとったりすることについて、タルホは一体どんなイメージを持っていたのだろうか。それを知ることはできませんが、筆者はいま、こんなことを思い付きました。


〈スライダー〉装置で譬えてみる


 PCの画面上に音量や明るさなどを調節するため、真ん中にある〈つまみ〉を左右にスライドさせる〈スライダー〉という装置があります。仮に、この〈スライダー〉の目盛りの左端に〈生命〉を置き、右端に〈物質〉を置くとします。〈つまみ〉を真ん中に置くと、〈生命〉と〈物質〉のバランスは50%と50%になります。〈つまみ〉を左右にスライドさせると、それにともなって両者のバランスも変わっていきますが、それはグラデーション的変化です。そして〈つまみ〉を右端いっぱいにスライドさせたとき、〈物質〉は100%になり、〈生命〉は0%になります。すなわち、〈生命を機械のなかにぶちこんだり〉〈生命をぬきとられた〉状態とはこれを指します。〈草木国土悉皆=人形〉の世界です。それに対して〈いびつにゆがんでハミ出そう〉としたり、〈いたずらに思いわずらって〉苦しんでいる〈人間〉とは、この〈スライダー〉上で言えば、目盛りの中間あたりで右往左往している人たちのことになります。それならいっそのこと〈物質〉を100%にして、〈生命〉を0%にしてしまえ、というのがタルホの主張です。そして〈生命〉の代わりに〈電気仕掛け〉にしてしまえ、というわけです。
 では反対に、〈つまみ〉を左端いっぱいにスライドさせたらどうなるか。つまり〈生命〉を100%に、〈物質〉を0%にしたらどうなるのか。この世界から〈物質だけをぬきとってしまう〉と、どんな世界になるのか。タルホ自身はこのケースについては取り上げていませんが、これはこれで非常に面白い問いではないかと思うのです。先に〈生命〉の代わりに〈電気〉を用いたように、その場合、〈物質〉の代わりに何を用いるのでしょうか。これは本題から外れますので、これ以上は述べないことにしますが、皆さんはどう思われますか。




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