気    配    の    物    理    学

──ポッカリ空いた大きな穴についての考察──



[Part 11]
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まとめとして

 終わりにあたって、[Part 1]で引用した軍艦浅間♀ヨ連の文章と、ガモフ博士の著書との関係を整理するために、それらをもう一度、年代順に並べてみます。

@ 1946(昭和21)年12月頃 ガモフ 『不思議の国のトムキンス』(1942(昭和17)年5月初版刊行)に出会う
A 1947(昭和22)年11月  『宇宙論入門』刊行
B 1951(昭和26)年7月        ガモフ 『1, 2, 3, ・・・無限大』初版刊、以後1953年、1954年、1956年…と再版
C 1956(昭和31)年2月  「遠方では時計が遅れる」(「モダン・コスモロジー序説」)(「作家」発表)
D 1956(昭和31)年9月  「父と子」(「作家」)発表

 四十年経つてやつと、「船が去れば其処には元通りのリーマン的世界に復帰する」といふ解釈に彼は到達した。サーカスが懸つてゐた空地の円形砂場や一般焼跡でも似たやうなことが生じる。より多く向うにある大建築、山岳、天体、そしておそらく偉人に対した場合にも、経験されるもので、宇宙構造に関する現代天文学者の見解に思ひを馳せてゐた折に、董生には気付かれたのである。つまり、先方に相当量の質料がある場合、空間は自ら双曲線的にひらかれるといふのだ。

E 1957(昭和32)年4月    ガモフ 『星から宇宙へ』(白揚社)
F 1958(昭和33)年10月   「ある宇宙模型をめぐって」(机)発表
G 1959(昭和34)年1・2月  「モダン・コスモロジー序説」(「僕のユリーカ=v)(「作家」)発表

 空間が双曲線状になっているとは、先方ほどに物質が詰っているということです。

H 1959(昭和34)年7月    ガモフ 『宇宙の創造』(白揚社)
I 1960(昭和35)年5月   「セファイド変光星」(「作家」発表)
J 1962(昭和37)年10月   「新歳時記の物理学」(「作家」発表)
K 1964(昭和39)年5月   「『ロバチェフスキー空間』を旋りて」(「作家」)発表

 ガモフ博士は他の本で、この鞍状空間を次のように説明している。「若し当方に物質がみちみちているならば、そこにはリーマン曲率が形成される。物質が向うの方に多量に存する場合には、空間はロバチェフスキー的とならざるを得ないと」。

L 1964(昭和39)年8月   「未来派へのアプローチ」(「カフェの開く途端に月が昇った」)(「作家」発表)

 上の年譜は初出をもとに配列したもので、引用も初出誌からです。これを見ると、改訂後の文章とほとんど違いはありません。ただし一か所、重要な変更点があります。Dの「父と子」の引用文中、宇宙構造に関する現代天文学者の見解に思ひを馳せてゐた折に≠ニある箇所は、のちに削除された部分ですが、この現代天文学者≠ニいうのは、おそらくガモフのことだろうというのが判明したことです。
 そうすると、「父と子」発表以前に読んだ可能性のあるガモフの著書は、@の『不思議の国のトムキンス』のほかには、Bの『1,2, 3, ・・・無限大』だけですから、これら2つの著書から、タルホはDのような解釈を得た、ということになります。
 しかしながら、すでに述べたように、このような記述はガモフの著書には見当たりません。上のKの一文で、タルホがカギかっこで括った部分が、引用でなくリライトだとしても、鞍状空間の説明として、このような内容のことを述べた箇所は、EやHなどガモフの他の著書からも見出せないのです。
 ともかく、「父と子」を発表する1956年までの間に読んだ、ガモフの鞍状空間についての言説は、タルホ・マジカル・ワールド≠フ一構成要素として、天上≠ゥら地上≠フ議論へと降格され、さらにあちらとこちらの質量≠フ議論へと変換されることによって、ようやく軍艦浅間≠フ問題とリンクさせることが可能となり、ここに積年の懸案が40年ぶりに解決されることになった、という順序になるのでしょう。

※ ちなみに、タルホが「宇宙論入門」執筆に際して参考にしたと思われる本についても考察が必要でしょう。今回、この「気配の物理学」のページの中でも取り上げた『非ゆうくりっど幾何学』(梶島二郎、内田老鶴圃1922年)や『物理学夜話』(竹内時男、大鐙閣、1927年)、あるいは「タルホ円錐宇宙創造説」のページで紹介した『二十世紀の物理学』(P・ヨルダン、八元社、1940年)などの他にも、以下のような参考書が考えられます。
 『膨張する宇宙』(エッディントン、恒星社、1936年)、『星雲の宇宙』(E・ハッブル、恒星社、1937年)、『神秘な宇宙』(J・ジーンズ卿、岩波新書、1938年)、『大宇宙の旅』(同、恒星社、1940年)などを挙げることができますが、今後さらに詳しい検討が必要です。

終わりにあたって

 筆者がこの「気配の物理学」のページを始めようと考えたのは、昔から気になっていた(興味を引いた)軍艦浅間≠フ話を、タルホがどのようにしてリーマン的≠ニロバチェフスキー的≠ニいう言葉を遣って解釈するようになったのか、ということを明らかにしたいと思ったからでした。
 取りかかった当初は、どんな結論になるのか全く見当がついていませんでした。そのためもあって、リーマン/ロバチェフスキーを辿っていく過程は、とてもエキサイティングなものでした。その顛末はこれまでに記したとおりですが、結果はある意味、満足のいくものでした。もちろん、今回の作業によってタルホ宇宙論の一端を筆者なりに解きほぐすことができたと思ったからで、何より、タルホがリーマン/ロバチェフスキー空間を地上的≠ノ考えたことや、空間あっての物質≠ナなく物質あっての空間≠ニいう考え方を強く支持していること、すなわち空間の本質によって天体の問題も考え得るというのは、存在的な見方であって、存在学的には、逆に空間の本質として天体を持ってくる=i現存の規定である空間性から身体性が考え得られるのでなくて、身体があるから空間が考えられる)──こういったことが明らかになったのが、今回の作業の中で得られた大きな収穫でした。
 このページを作成するに当たって、「宇宙論入門」を改めて繙くことになりました。主に参照したのは、ロバチェフスキーやリーマンに関連した箇所ですが、それは「宇宙論入門」全体からすると、ほんの一部にすぎません。
 「宇宙論入門」の後記≠ノ、この種の記述がいかにむずかしいか、それを訴えぬわけにいかないのである≠ニタルホが書いているように、専門家でない人間が宇宙論を書くという大それたことが、よく可能だったなと思わずにはいられません。今なら、ネットで検索すれば、相当専門的な情報にもアクセスが可能です。筆者も今回、ネットからの情報によってある程度理解を深めることができました。しかし、タルホばかりでなく我々にとっても、ついこの間までは、何かを調べるには図書館を利用するしかなかったわけです。タルホが最初負の曲率≠ノ躓いたのはやむを得ません。限られた情報の中から物事を正確に理解するのは非常に難しいことだからです。「宇宙論入門」のはしがき≠ノは、あくまでも未来の大数学者のイマジネーションに資するきっかけになれば、というような本書の意義を述べて、すでにこんな試みである以上、部分的な誤謬など意に介するに当るまい≠ニ、先手を打っています。
 もちろん筆者とて似たような立場で、興味の赴くまま意気込みだけで取り組んだようなところがありますから、タルホに倣って部分的な誤謬など意に介するに当るまい≠ニ、予めこの後記≠ナ自己弁護しておきます。

*

 タルホは、戦時中の1944(昭和19)年10月より鶴見にあったいすゞ自動車工場に徴用され、横寺町から通勤することになります。「宇宙論入門」にはその少し前から取りかかっていたようで、九段にあった大橋図書館(現在、芝公園にある三康図書館の前身)に通いながら資料作りをしていました。
 配属された部署は生産管理課というところですが、仕事は、鉄材を手押し車に乗せて工場のあちこちに運ぶことでした。当時の様子を「宇宙論入門」の後記≠ノ次のように書いています。

 事務所の諸兄は、なお私の企てが戦争よりも必要なことをみとめ、テーブルをあてがい、自由に仕事をつづけるようにとはげましてくれた。いろいろな困難に遭遇した。たとえば爆風によってテーブルがゆがみ、天井を貫いた機関砲弾が草稿の上に落下した。火炎の中からもこの研究資料は救い出されたのであった。私はただ、各学者に提出された宇宙方程式をしらべるに余念がなかったのである。

 ここには少し気取りが見られますが、上司はタルホが作家だということを知っていたようです。しかしその彼でさえ、タルホが次の作品のためにリーマンやロバチェフスキーの幾何学について、かくも一生懸命勉強していたとは夢にも思わなかったでしょう。同僚たちに至っては言わずもがな、同僚といっても、タルホのことを相手にするような人はほとんどいなかったのではないかと思われます。
 翌1945(昭和20)年4月の東京大空襲で横寺町一帯も火の海となり、住まいにしていた東京高等数学塾も灰燼に帰してしまいます。「宇宙論入門」の草稿や資料をまとめた風呂敷包みは、たまたま横寺町にいたことで、奇跡的に救い出すことができたのでした。
 いま改めて「宇宙論入門」を読み返しながら、戦争という非常時のさなか、リーマンやロバチェフスキー、あるいはアインシュタインやド・ジッターが頭の中をぐるぐる巡っていたであろう、全く浮世離れしたタルホの孤独を想うとき、やはり胸が詰まります。
 「宇宙論入門」はカソリック傾倒の時代に書かれた作品で、執筆時にはキリスト教と宇宙論とが2つの焦点を成して大きな渦を巻いていたはずです。信仰に対する頑なさもあってか、京都に移ってから書かれた宇宙論と比較するとき(宇宙論ばかりではありませんが)、作品全体に余裕がなく、何か切羽詰まったような印象さえ受けます。しかしながら、そのように心身共に困難な時代に書かれた作品だからこそ、「宇宙論入門」は、タルホ宇宙論の中でも特異な位置を占めているのだと言えます。


補遺
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 『別冊新評 稲垣足穂の世界』(昭和52年4月、新評社)という冊子があります。この中に成松久夫という人が、「軍需工場でのタルホさん」という一文を寄せています。成松氏は、昭和19年にタルホが徴用されて勤めるようになった(氏はそれを昭和20年2月末と記していますが)、今の〈いすゞ自動車〉で勤労課労務係の係長だった人物です。
  『東京遁走曲』には、〈東大出の若い課長補佐が帳面に私の名を見付けて、早速オフィスへ廻してテーブルと廻転椅子を与えてくれた。〉、そして〈係長は取りあえず青写真用図面の複製を私に命じたが、〉という2つの記述があるので、〈課長補佐〉と〈係長〉は別の人物だったようで、成松氏はこの〈係長〉だったのかもしれません。成松氏の文章には、職場でのタルホに対する尊敬と温かい視線が感じられ、〈課長補佐〉だけでなく成松氏も作家としてのタルホの存在をあらかじめ知っていた様子が窺えます。
 興味深いのは、以下の記述です。

工場内は終戦を半年後に控え緊張した空気に包まれて居りましたが、タルホさんのお人柄と関西弁で緊張もほぐされ事務所の者一同からも姓を呼ばれずタルホさんタルホさんと親しまれて居りました。

 これを見ると、筆者が誤解していたように、職場で〈タルホのことを相手にするような人はほとんどいなかったのではないか〉というような様子ではなく、むしろ周囲から〈親しまれて〉いたようで、ある存在感を醸していたようです。
 さらに次のエピソードは筆者のイメージを一新させるに十分でした。

机に向かってザラ紙を出して何かせっせと書いて居ることもあれば、女子挺身隊員と何やら真面目な顔で話しこんで居る姿が見受けられることもありました。
 女子挺身隊員への相談役とは当時会社の職制上の職ではなく自然発生的にタルホさんを囲んで出来上がったものです。何しろ盛岡市から汽車に乗り換え又何時間かかゝる遠い海辺の町からはるばるやって来た未だ十六、七歳の当時の女子高等女学校生徒はどんなに淋しく、又どんなに暖かい心で相談にのってくれる人を求めていたかは、想像にかたくありません。
 戦後昭和二十六年頃タルホさんを宇治恵心院にお訪ねし、京の町まで飲みに行った時、酔う程にタルホさんはその相談役の仕事を意義あったものと語って居られました。
 いまだに当時の女高生の何人かから通信のあるように伺っています。

 ここに成松氏の寄稿文の一部を補うことで、筆者の誤解を訂正しておきたいと思います。



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