──ポッカリ空いた大きな穴についての考察──
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[Part 7]
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■ヘルムホルツ──目に映る事物の配置について
さて、[Part 3]で物理学者のヘルムホルツの名前を出しましたが、後回しになっていました。その理由は、それまで純粋な数学(幾何学)の話をしていたのに、突然、宇宙空間はどう見えるのか、という話題に切り替わるのは、直観的に話をつないでいくタルホ自身はそれでいいとしても、話の筋道を追いながら理解していこうという読者にとっては、頭が混乱するばかりだと思ったからです。
ということで、ここで改めてヘルムホルツについて取り上げることにします。「宇宙論入門」は、ヘルムホルツについて次のように述べています。
ヘルムホルツはリーマンと同時代の物理学者である。かれは、われわれの目にうつる事物の配置について生理学的の研究をやった。そして楕円世界が有限であるにかかわらず、なぜ眼に無限に見えるか? また、双曲線的空間は無限であるのに、どうして眼には有限として感じられるか? などということについてかれの意見を述べている。(「宇宙論入門」、全集5、p.375〜376)
ヘルムホルツはドイツの物理学者で、生理学者でもあります。ヘルムホルツについては、梶島二郎の『非ゆうくりっど幾何学』でも、わずかに触れられています。
リーマンの論文が発表されたのと殆ど同時代に、ヘルムホルツ(Hermann von Helmholtz, 1821-1894)は空間の直観の立場からして、リーマンの研究に類似した論文を発表して居る。ヘルムホルツの元来の思想は、眼界の視野に於ける事物の配置に関する生理学的研究に基づくものであった。
ヘルムホルツは合同の観念から出発し、若も剛体の自由可動性、従て幾何学的図形の自由可動性を仮定するならば、リーマンの示した線要素dsの公式は一定の曲率の空間に於ては、唯一つ其公式のみが真であることを示して居る。
併し、上の思想には種々批判すべき点がある。(中略)
故に、ヘルムホルツの研究は、幾何学上重要なる価値を占むると云う点に於て勿論異存はないのであるが、経験的世界に根拠を置いていたため、学説として聊か薄弱の憾みがある。(『非ゆうくりっど幾何学』、p.199〜200)
このように梶島二郎は、ヘルムホルツは空間の直観の立場からして、リーマンの研究に類似した論文を発表して居る≠ェ、経験的世界に根拠を置いていたため、学説として聊か薄弱の憾みがある。≠ニ批判的な立場を示しています。
また、[Part 5]でも触れましたが、タルホも参考書の一つに挙げている、竹内時男の『物理学夜話』にも、一か所、ヘルムホルツの名前が出てきます。
リーマンは三次元空間は有限なりとし、同時に四次元空間の存在を肯定しました。又ヘルムホルツは眼の視野に於ける事物の配置に関する生理学的研究をやり、リーマンと同時代に空間問題に就いて卓絶した意見を持ちました。(『物理学夜話』、p.44)
タルホがヘルムホルツについて、われわれの目にうつる事物の配置について生理学的の研究をやった≠ニ述べている箇所は、梶島本にも竹内本にも同様の記述があるので、どちらかを、もしくは両者を参考にしたのは明らかです。語句の類似性、本の発行年順からすると、竹内本も梶島本を参考にしているように思われます。
なお、上に引用したタルホの文章の中で、そして楕円世界が有限であるにかかわらず、なぜ眼に無限に見えるか? また、双曲線的空間は無限であるのに、どうして眼には有限として感じられるか? などということについてかれの意見を述べている。≠ニあるのは、竹内本の次の一節に対応しています。
何故に三次元楕円的空間は眼に無窮に見え、三次元双曲線的空間は眼には有限に見えるかは次に説明致します。(同上、p.45)
竹内本はこのように述べているのですが、次に説明≠キるのが、ヘルムホルツなのか竹内本人なのかがはっきりしない記述です。普通なら、主語を入れてヘルムホルツは次のように説明しています≠ニ言うはずですから、これでは、竹内本人の説明と思われても仕方ありません。
ともあれ、竹内の記述は次のように続きます。
私達は物体の遠近をば両眼に挟む視角に依って判断します。視角が零ならば物体は無窮遠に在りと見ます。
楕円的空間では同一の物体が遠方に行くに従って視角は小と成り、直線の全長の四分の一の距離に在る時は視角は零と成り、物体は無窮遠に在るように見えます。然し歩いて行けば有限距離で其処へ達せられる訳です。
双曲線的空間では無限の物体に対しても尚視角は存します。其故いくら歩み寄っても近くは見えないのです。(同上、p.45)
竹内本はこのように述べているのですが、重要な箇所ですので、ここで竹内本とタルホの記述を比較するために、段落ごとに区切って見ていくことにします。タルホがヘルムホルツについて、竹内本以外にどんな本を参考にしたかはっきりしませんが(※)、おそらく以下に挙げるタルホの記述は、上の竹内本の当該箇所をタルホ流にリライトしたものであることは確かなようです。
※ 「僕のユリーカ=vに、ヘルムホルツがいろいろと生理学的実験をやって、肉眼で識別される星の位置は、角度にして三十秒の限界に置かれていることを注意しました。=i全集5、p.6)とあり、これは『物理学夜話』には出てこない内容なので、他の本も参考にしていたようです。
■非ユークリッド空間はどのように見えるか
さて、竹内本をもとにしたと思われる記述は、「宇宙論入門」「僕のユリーカ=v「改訂増補 ロバチェフスキー空間を旋りて」の3つの作品に出てきますので、以下の順序で対比してみます。
★ 竹内本
@ 「宇宙論入門」
A 「僕のユリーカ=v
B 「改訂増補 ロバチェフスキー空間を旋りて」
★ 私達は物体の遠近をば両眼に挟む視角に依って判断します。
@ いったいわれわれは、両眼で相手を見て、つまり二つの視線で先方をはさんだときに生じる角度の大小によって、その遠近を判断する。
A われわれは、両眼の距りを底辺とした三角視差にもとづいて、先方までの距離を識別します。
★ 視角が零ならば物体は無窮遠に在りと見ます。
@ この両眼の視線がのびて、相手をはさんでもそこにある角度がよく判断されぬくらいになれば、もう相手の距離は知られず、それはただより大きいかより小さいかにすぎなくなってしまう。云いかえると、距離が見失われてしまうから、相手は無限の向うにあるように見える。
A この二等辺三角形の頂角がもはや感じ取られないくらいの微角になると、距離感は失われ、目指す相手は無限の彼方に移されたように見えます。そこでは只幕のように平べったい風景中に、人影も自動車も縮まっているか、膨れあがっているだけになります。
竹内本のここまでの説明は、日常的なユークリッド空間における視角と距離との関係を述べているのだと思われます。タルホもそれに基づいた解釈で、竹内本に比べより具体的な例を挙げながら説明しています。しかしながら、タルホはここで両眼の距りを底辺とした三角視差≠ニいう言い方をしていますが、むしろ逆で、眼を頂点とし、対象物の両端を底辺とした三角形≠ナはないでしょうか。だからこそ、対象物が近づいて来れば視角は大きくなって、対象物は大きく見えるようになる、同じ位置にあっても対象物自体が大きくなれば、やはり視角は大きくなり、対象物は大きく見えるようになる、という原理ではないでしょうか。
★ 楕円的空間では同一の物体が遠方に行くに従って視角は小と成り、直線の全長の四分の一の距離に在る時は視角は零と成り、物体は無窮遠に在るように見えます。然し歩いて行けば有限距離で其処へ達せられる訳です。
@ しかしかまわず進むならば、そこに到達される、なおまっすぐに前進して世界一周して帰ってくることができる。これがリーマンの楕円的世界である。
A そんなことに頓着せずにどんどん歩を進めたならば目標に到着出来ますし、なお先を続けて世界を一周して帰ってくることも可能です。われわれが現に住んでいる場所は、引力が働いているリーマン楕円世界に他ならないからです。此処では各物体は眼前二十メートルそこいらで奥行のない画面に化します。鉄道及びこれに類する平行線が地平線上で合してしまうことを、われわれはよく知っています。このような界域では、たとい両眼同士がどんなに離れ合っていようと、その世界の全長四分の一≠フ処で「極」になりますから、その先は無限領土にはいってしまいます。
B 地球面は「リーマン空間」のユークリッド的モデルだと云うべきであるから、両眼間のへだたりを底辺にした三角測量によって、この奥行を知ろうとする時には、この世界の全長、すなわち円周の四分の一の所に達すると、視差はゼロとなり、あとは無限として眼に映じる。日常的に云えば、前方わずか二〇メートルくらいで、風景は一様に平らべったい画面になってしまう。しかしそのことに構うことなく真直に歩を進めたならば、いつしか元の出発点へ立ち帰ってくる。即ち、この世界はふち≠持っていないが、ある一点から離れるには限度があることを、われわれは知らされるのである。
ここから竹内本は、リーマンの楕円的空間=Aすなわち非ユークリッド幾何学の話に切り替わります。ここで述べている内容は視角≠ノついてですが、そもそもこの喩えは平行線≠ノついてのものではなかったでしょうか。[Part 3]で、リーマンの楕円的幾何学では平行線は1本も存在しない=Aそれを理解するには地球の表面を考えてみるとよい、なぜならば地球儀上に縦に引かれた経度を表す直線(平行線)は、すべて両極(北極・南極)で交わってしまうからだ、という問題を扱ったからです。
平行線≠ヘあくまでも幾何学上の問題ですが、視角≠ヘ見え方についての生理学的対象です。観念上の空間である楕円的空間≠ニ認識上の視覚的空間≠ニの共通性は、アナロジーとして理解できなくはありませんが、もう少し丁寧な説明が欲しいところです。
ただし、タルホが言うような、此処では各物体は眼前二十メートルそこいらで奥行のない画面に化します。鉄道及びこれに類する平行線が地平線上で合してしまう≠ニいったことは、そこに楕円的空間≠持ち出すような事柄ではなく、日常的なユークリッド空間≠ノおける視覚的現象です。ユークリッド空間しか知らなかった西洋の画家たちが、すでに数百年も前に透視図法≠見出しているのではありませんか。
★ 双曲線的空間では無限の物体に対しても尚視角は存します。其故いくら歩み寄っても近くは見えないのです。
@ ロバチェフスキーの世界になると、両眼の視線を伸すにつれて角度が増大してくる。したがって遠方にある物体ほど近くに見える。世界の果はすぐそこに見えているにかかわらず、いくら進んでも到達することはできない。
A ロバチェフスキー的世界は遠心力が働いている場所で、ここでは当方の視線の延長につれて視角の増大が招かれます。従って遠方にある物体ほど近くに見えるわけです。世界の涯はすぐそこに見えているのに、いくら進んでも進んでも行きつくすことが出来ません。未来永劫に亘って進んでも到達は不可能です。
B 「ロバチェフスキー空間」はこれと逆に、視角は先方へ行くほど拡大する。世界の果はすぐそこに見えているに拘らず、いくら進んでも限界に到達することが出来ない。
次に竹内本は、楕円的空間≠ノ対する双曲線的空間≠ノおける見え方について述べます。すでに[Part 6]で整理したように、正の曲率≠持った楕円的空間(リーマン空間)≠ヘ閉じて≠「ますが、負の曲率≠持った双曲線的空間(ロバチェフスキー空間)≠ヘ無限≠フ広がりを持っています。したがって、タルホの言うように、楕円的空間≠ナは一周して戻ってくることが可能ですが、双曲線的空間≠ナは、空間の果てに到達することはありません。
このことは、物理学的に光≠フ進路を考えれば、イメージするのはそれほど困難ではありません。しかしながら、見える∞歩み寄る≠ニいうように、人体を基準にして非ユークリッド幾何学をイメージしようとすると、かえって分かりにくくなってしまうような気がします。
竹内本の双曲線的空間では無限の物体に対しても尚視角は存します≠ニいうのは、どうことでしょうか。双曲線的空間≠ナは楕円的空間≠フように視角がゼロになる(平行線が交わる)ことがありません。したがって、どんなに遠い所にある(無限遠の)物体でも視角がある、つまり距離が判断できる、ということではないでしょうか。
其故いくら歩み寄っても近くは見えないのです≠ニいうのはどうでしょう。物体は無限遠にあっても、距離を判断できるので無限遠に見えません。それなのに、近づこうといくら歩み寄っても、物体は無限の彼方にあるので少しも近づいたようには見えません……筆者の理解では、このような解釈になるのですが、どうでしょう。
ところで、このように視角≠もとにして楕円的空間≠竍双曲線的空間≠語る場合、人間の視力≠ェ無限であることが前提にされています。タルホが言うように、人間が対象までの距離を判断できるのは20メートルまで、というのはあまり当てにできませんが、専門家の間でも、せいぜい数百メートル≠ニされているようです。(https://yumenavi.info/lecture_sp.aspx?%241&GNKCD=g006909)
したがって、人間の視力の及ぶ空間(距離を判断できる空間)は、どんなに大きく見積もったとしても、やはり日常的なユークリッド空間≠ナす。たとえ我々の宇宙が、究極的に楕円的空間≠るいは双曲線的空間≠セったとしても、視力の及ぶ空間は、極めて局所的な空間なのですから、それをユークリッド空間≠ニしても差し支えないはずです(もちろん、その人間の視力を望遠鏡が補っているわけですが)。
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さて問題は、タルホがここで視角は先方へ行くほど拡大する≠るいは遠方にある物体ほど近くに見える≠ニ述べていることです。これは竹内本の無限の物体に対しても尚視角は存します≠ニいう言葉に対応して言っているものと思われます。しかし、無限の物体に対しても尚視角は存します≠ェ、なぜ視角は先方へ行くほど拡大する≠るいは遠方にある物体ほど近くに見える≠ニいうことになるのか?
先に述べたように、筆者の解釈では、双曲線的空間では無限の物体に対しても尚視角は存します≠ニいうのは、双曲線的空間では無限遠の物体でも距離が判断できる≠ニいう意味であって、それ以上でもそれ以下でもありません。それなのに、なぜタルホは双曲線的空間では物の遠近が逆になる≠ニいうふう解釈しているのでしょうか。
@ 視角は先方へ行くほど拡大する
これについては、タルホは双曲線的≠ニいう言葉から、先方に行くにしたがって広がっていくような空間をイメージしているのではないか。しかもそれが視角≠ニいう生理学的用語と連動して、視角は先方へ行くほど拡大する≠ニいう表現になっているのではないか、と考えられます。
視角が拡大するということは、物が大きく見えることです。日常的なユークリッド空間においては、一つの物体が、観察者から遠ざかるにつれて物自体が大きくなる≠ニいうようなことはありません。仮に我々の空間が双曲線的空間≠セったとしても、目に見える範囲の局所的空間では、その距離に対する大きさの変化は、おそらく計測不可能なほど微小な数値でしょう。
アインシュタインは、太陽近傍では空間が歪むことを理論的に予測し、エディントンが観測によってそれを確認しましたが、たとえば太陽系の惑星が、近日点と遠日点とで大きさが異なることを計測することができるでしょうか。もしそれができれば、我々の宇宙が、タルホが言うような双曲線的空間──遠方にある物体ほど近くに見える≠ゥどうかを証明することができるのではないでしょうか。しかしながら、そんな話は聞いたことがありません。
[Part 6]で触れたガモフ/ハッブルによる曲率≠フ話は、遠方の星雲の数を勘定して、我々の宇宙が正の曲率≠持っているか負の曲率≠持っているかを判断する、というものでした。これは、星雲が宇宙空間に一様に分布している≠ニ仮定して、観測者から遠方にあるほど、星雲の数がより増えるか、より少なくなるかを観測する、というやり方でした。もしここで、遠方にあるほど星雲の数がより増える≠フではなく、星雲がより大きくなる≠フであれば、ガモフの言う方法とは根本的に相容れないものとなります。なぜなら、空間の拡大に伴って星雲自体が大きくなるのであれば、星雲の数の増減によって宇宙空間が有限か無限かを判断する、という方法論は成り立たなくなるからです。
しかも、ガモフによれば、星雲の光度≠ノよって、星雲までの距離を判断するということですから、もし遠方にある星雲ほど大きくなるのであれば、光度≠ニ距離との関係は逆転することになり、遠い星ほど明るく、近い星ほど暗い、ということになります。これも天体物理学の通説を覆すことになります。
A 遠方にある物体ほど近くに見える
物が大きく見えるためには、物自体が大きくなる≠アとと、もう一つは物が近づいてくる≠アとです。しかしながら、観察者から遠ざかるにつれて、物が近づいてくる≠ニいうのは論理矛盾です。
タルホはここで、ある例を提示します。それは萩原朔太郎が見せてくれたという立体カメラの話です。
……二枚続きの小写真を左右あべこべにして、スライドの枠に嵌めた。山を背にした神社を真正面から撮ったものだったが、そのように入れかえて覗いてみると、うしろの山並が廂のようにせり出し、その向うに社殿があり、もっと遠方に鳥居があり、つい眼前の参詣道の石だたみが、一番奥へひっ込んでしまうのであった。配置はそのままで、只奥行だけが裏返しになっている。前々からあるpseudoscopeを知らないのだとすれば、これは確かに朔太郎の新発見である。私もめずらしく思って、即席のロバチェフスキー空間の実験のような気がしたのである。(「改訂増補 ロバチェフスキー空間を旋りて」、全集5、p.102)
これは立体カメラ≠ニいうより、2枚の写真を立体視するステレオグラムのことでしょう。2枚の写真の左右を入れ替えると、立体像の奥行(前後)が逆転すると言っているのです。普通に見ると、手前から、石だたみ→鳥居→社殿→山並という順序で配置されていた像が、写真を入れ替えると、山並→社殿→鳥居→石だたみというふうに逆転するわけです。
タルホはこれを見て、即席のロバチェフスキー空間の実験のような気がした≠ニ言っています。しかしこの現象は、タルホが言っている視角は先方へ行くほど拡大する≠ニいうことと一致しないのです。なぜなら、視角は先方へ行くほど拡大する≠ニは、対象物が遠ざかるほど大きく見える、ということを意味しています。立体カメラ≠フ例でいうと、普通に見たときの、石だたみ→鳥居→社殿→山並という配列は、この順にだんだん小さく′ゥえているはずです。これをタルホの言うロバチェフスキー空間に置き換えると、視角は先方へ行くほど拡大する≠けですから、石だたみ→鳥居→社殿→山並の順に、だんだん大きく≠ネるのです。立体カメラ≠フように、前後の配置が逆転するのではありません。
タルホは遠方にある物体ほど近くに見える≠ニ言っていますが、これは近くに見える≠ナはなく、遠方にある物体ほど大きく見える≠ニ言うべきなのです。タルホは、この立体カメラ≠フ逆転現象の記憶が頭にあり、それをロバチェフスキー空間の比喩として当て嵌めてしまったことからくる、勇み足的なレトリックだと筆者は考えています。
タルホの言う遠方にある物体ほど近くに見える≠ヘ論理矛盾ですが、この矛盾を解消する方法があります。それは視角≠ノよる通常の遠近の認識を、人間の脳が逆転して判断することです。すなわち視角が大きいほど遠い∞視角が小さいほど近い≠ニいうように脳が判断することです。それによって、近いほど遠い∞遠いほど近い≠ニいう矛盾が解消されることになります。その装置がpseudoscope(疑似スコープ)です。
※ ドイツの作家ミヒャエル・エンデに、「ボロメオ・コルミの通廊──ホルヘ・ルイス・ボルヘスへのオマージュ」という不思議で興味深い内容の小品があります。ここに登場する柱廊は、視覚的には透視図法のように遠方ほど小さく見えます。しかし実際には30mぐらいの長さのはずなのに、100m近い奥行きがあるように見えます。この柱廊を数十歩進んで立ち止まって後ろを振り返ると、入口に待たせていた自分の妻が、何と周りの柱とともに巨大な姿になっていたのです。それはいかなる理由によるのか?
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