気    配    の    物    理    学

──ポッカリ空いた大きな穴についての考察──



[Part 8]
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空間あっての物質≠ナなく物質あっての空間

 タルホは「宇宙論入門」の第2章「円周なき円」を終えるに当たって、次のように述べています。

 本章で憶えておかなければならぬのは、空間という空ッポな容器の中に物がはいっているのでない、物質が空間を定めている。物体の存在によって周囲の空間にさまざまな変化が起り、空間は創造されつつあるものである。物質そのものが曲率の特にいちじるしい部分であり、電磁力というのもまた空間の幾何学的性質の変化として解釈されるということである。(全集5、p.390)

 ここで述べている内容は、その前に第2章で、「そもそもアインシュタインによれば、曲率のとりわけていちじるしい部分が、物質として感じられるのである。」(同上、p.375)とか、「ロバチェフスキーやボリアイやリーマンらは、空間という絶対不変な容器の中に物がはいっているのでなく、却って物の在りかたが空間そのものの性質をきめているのでないか? と疑ったのかも知れない。」(同上、379)などと述べていたことを、最後にもう一度強調するためにまとめたものでしょう。
 この空間あっての物質≠ナなく物質あっての空間≠ニいう考え方は、「宇宙論入門」以外でも繰り返されています。

 さて、リーマンやボリアイやロバチェフスキーらは、別に、空間とはその内部に物質を収容している空虚な枠組ではなくて、却って物質の存在が空間という額縁の形を条件づけているのであるまいか? など考えなかった筈です。(「僕のユリーカ=v、全集5、p.46)

 更に、N君のマイナスの空間云々には、「物の存在が空間というケイスの形を条件付けている」という考えがほのめいている。(「改訂増補 ロバチェフスキー空間を旋りて」、全集5、p.96)

 …私は空間というのは内部に物質を収容している空虚な枠組じゃなくて、かえって物質の存在が空間という枠組の形を条件づけていると思う。(「男と女」、多留保集1、p.51 〈全集不掲載〉)

 それにしても、「本章で憶えておかなければならぬのは」などと強調して述べている自信は、いったいどこから来ているのでしょうか? 
 第2章において、この物質と空間≠フ問題について唯一関係がありそうなのは、アインシュタインに関して述べている次の箇所です。

 「地球は太陽という大質量の恒星にひっぱられて、そのぐるりを廻っている」こう説くのがニュートンである。
 「太陽という大質量は、その周囲の空間に曲率という性質を与えている。云いかえると、空間は太陽の近ぺんでまがっている。このゆがんだ空間中を最短距離に進行する地球が、おのずから楕円軌道をえがくことになる」このように云い直したのが、わがアインシュタインである。われわれは眼の前に、もぐらもちの丘や、本物の丘や、堤や、山々を見る。けれどもこんな大小無数の凹凸も、つまりは地球面という一つのとじた大曲面の上に均されてしまう。それと同様に、空間の各部分にそなわっている多種多様の曲率も、広大な範囲に及ぼすならば、次第に平均した大彎曲にとけこんでしまうであろう。そしてつまるところ、非常な遠方から、空間それ自身はぐるッと巻きこまれているに相違ない、とアインシュタインは考えた。こうだとすれば、空間には別にさかい目はない。ここがふち≠セという部分はないけれども、空間は有限であって、その容積は一定だと云うことになる。(「宇宙論入門」、全集5、p.369〜370、「僕のユリーカ=v、同、p.46にも同様の記述)

 しかしながら、アインシュタインについて述べているこの箇所のポイントは、太陽のような大質量の近辺の空間は歪んでおり、宇宙にはそうした歪みが無数にあるけれども、それらはあくまで局所的であって、宇宙全体としては正の曲率をもっており、有限であるが境目のない空間である≠ニいうことです。したがって、これがそのまま物質あっての空間≠ニいう先の結論に結び付く内容でないのは明らかです。
 そうすると、「宇宙論入門」第2章「円周なき円」の中には、タルホが言うような物質あっての空間≠ニいう言説の根拠が、どこにも示されていないことになります。つまり、タルホはいったい誰の言説を根拠に、空間あっての物質≠ナなく物質あっての空間≠セと自信をもって述べているのか、という疑問が生じるのです。
 筆者によれば、それは竹内時男の以下の文章が根拠になっているとしか思えません。すなわち、

 アインシュタインに依りますと、宇宙は其の包蔵する物質の量が増すと拡りが大と成り、物質が無く成ると一点に縮むと申します。即ち物質あっての宇宙だと申します。宇宙が先ず存して然る後物質が在るのでなく物質の方が第一次的なのです。内容あっての容器だと申します。(『物理学夜話』、p.82)

 ここで竹内本は確かに、アインシュタインは物質あっての宇宙≠セと言っている、と述べていて、あまりにもタルホの記述と一致しているからです。竹内本は一般読者に向けた通俗科学書なので、いちいち根拠となるアインシュタインの言説を提示しているわけではありません。タルホの文章も、引用でなくあくまでもリライトで、自身も、竹内本でこう言っているなどと、いちいち断らない流儀です。
 もちろんタルホも、これによって物質の方が第一次的≠ニいう竹内本(アインシュタイン)の考えに与しているわけです。
 ところが、先の第2章の結論のすぐ前で、タルホは次のようにも述べています。

 或る大きさの宇宙は、それを支えるに足るだけの材料を要求する。反対に、或る量の物質はそれらが保持されるための宇宙を請求する。(全集5、p.390、「僕のユリーカ=v、同、p.49にも同様の記述)

 これは誰の説を根拠にしているのか判明していませんが、その意味するところは、宇宙の大きさは物質の量を決める、物質の量は宇宙の大きさを決める≠ニいうことです。あるいは宇宙の大きさによって物質の量が決まる、物質の量によって宇宙の大きさが決まる≠ニいう意味です。もちろん、これでは宇宙と物質との関係は、鶏が先か、卵が先か≠ニいう循環論に陥ってしまいます。しかしながら、なぜこれがすぐに空間あっての物質≠ナなく物質あっての空間≠ニいう結論になるのか、その過程が示されていないのです。論理の過程が示されないまま、おそらく竹内本を根拠にした結論だけが提示されている形になっているわけです。

 いずれにせよ、この宇宙と物質との関係≠ヘ、タルホにとっては重要な問題で、九州大学の吉岡修一郎氏に手紙を出したというエピソードの中で今一度持ち出されています。それは吉岡氏が訳したベルグソンの『道徳と宗教の二源泉について』が刊行されたときということですから、昭和14年頃のことで、「宇宙論入門」を書く数年前のことになります。手紙の内容は、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学に関するものだったようですが、自分はむしろユークリッド空間を支持する≠ニいう吉岡氏の返事に対して、タルホは次のように述べています。

 吉岡氏はあるいは、「空間の本質として天体を持ってくるのは、存在的な見方であって、存在学的には、逆に空間の本質によって天体の問題も考え得る」(身体があるから空間が考えられるのでなくて、現存の規定である空間性から身体性が考え得られる)立場かも知れない。(「改訂増補 ロバチェフスキー空間を旋りて」、全集5、p.99)

 この記述から、タルホは吉岡氏の考えとは反対の立場にあることを暗に表明していることが分かります。言い換えると、タルホの立場は、「空間の本質によって天体の問題も考え得るというのは、存在的な見方であって、存在学的には、逆に空間の本質として天体を持ってくる」(現存の規定である空間性から身体性が考え得られるのでなくて、身体があるから空間が考えられる)ということになります。
 そしてこれは、まさしく先の空間あっての物質≠ナなく物質あっての空間≠ニいう考え方に符合していることが分かります。

あちら≠ニこちら≠ナどっちのほうが物質が多いかで空間の性質が決まる?

 さて、[Part 6]で、空間の曲率≠ノついて、ガモフ博士の著書『1, 2, 3, ・・・無限大』から、次のような表を引用しました。

空間の種類
遠距離での状態
三角形の内角の和
空間の体積の増加率
正に彎曲(球類似)
閉じる
>180°
半径の立方より遅く増加
平ら(平面類似)
無限にひろがる
=180°
半径の立方に比例
負に彎曲(鞍類似)
無限にひろがる
<180°
半径の立方より速く増加

 この表は、3次元空間においては、体積が半径の3乗に比例して増えていけば、その空間は平ら=i曲率ゼロ)であるが、それより増え方が遅ければ、その空間は正の曲率≠持ち、それより増え方が速ければ、負の曲率≠持っている、ということを示しています。
 すなわち、宇宙の曲率がゼロであればユークリッド空間、正の曲率を持っていればリーマン空間、負の曲率を持っていればロバチェフスキー空間であるということで、それを知るためには、遠方の星雲までの距離と星雲の数の増え方との関係を調べればよい、というのでした。
 そして、ハッブル博士が実際に観測によって星雲までの距離と数との関係を調べたところ、距離の3乗より増え方が遅かった、つまり宇宙は正の曲率≠持ち閉じているリーマン空間である、ということを主張した、しかしこの結論にはさまざまな問題もある、ということをガモフ博士が指摘していました。

 以上のことは、物理学の常識として、タルホもその基本的な考え方については、「宇宙論入門」を書いた時点から了解していました。すなわち、[Part 6]でも引用したように、

 もしここを(ロバチェフスキー)空間に見立てるならば、或る距離を半径にした球の体積は、その距離の三乗より以上の率で増大しているはずである。こんな次第がコップの中に見られたら、その中へはビール一本分が納ってしまう。(中略)その代り、或るコップがきわめて大きなリーマン式曲率を持っていたとすれば、さじ一杯の水であふれてしまうことになる。(「宇宙論入門」、全集5、p.378)

 このようにタルホは、ガモフ博士の『不思議の国のトムキンス』を下敷きにした比喩を用いて、負の曲率を持ったロバチェフスキー空間と、正の曲率を持ったリーマン空間の、体積の増加率の違いについて語っていたのです。

 ところが、それにもかかわらず、タルホは後年になって突然、次のようなことを言い始めるのです。

 ガモフ博士は他の著書で、鞍状空間を次のように説明している。「もし当方が物質でみちみちていたならば、そこにはリーマン的曲率が形成される。物質が向うの方に多量に存する場合には、空間はロバチェフスキー的にならざるを得ない」と。(「改訂増補 ロバチェフスキー空間を旋りて」、全集5、p.105)

 ここでいう他の著書≠ニは、文脈上から、おそらく『1, 2, 3, ・・・無限大』のことでしょう。しかし、筆者が調べた限り、ガモフ博士は、鞍上空間の説明として、当該著書の中で、上のようなことは一度も言っていないのです(そもそも、ガモフの著書の中にはリーマン≠ニいう名前もロバチェフスキー≠ニいう名前も登場しません)。それだけでなく、この内容は、これまで縷々述べてきたリーマン空間/ロバチェフスキー空間の定義、考え方を逸脱しており、物理学的常識とは全く相容れないものです。上に再掲したように、ガモフ博士の述べるところは、宇宙空間において、遠方の星雲が距離の3乗に比例して増えていけば、宇宙は曲率ゼロ=iユークリッド空間)であり、増え方がそれより遅ければ正の曲率=iリーマン空間)、増え方がそれより速ければ負の曲率=iロバチェフスキー空間)を持っている、というものだったからです。
 遠方における星雲の増え方の問題が、ここでは向こう≠ニこちら≠ナどちらが物質(星雲)の量が多いか、という問題に置き換わっているのです。
 同様のことが、「僕のユリーカ=vにも出てきます。

 さて、空間が双曲線状になっているとは、物理的に云うと、先方へ行くほど物質が詰っている≠ニいうことです。(「僕のユリーカ=v(※)、全集5、p.49)

 ここで双曲線状≠ロバチェフスキー空間≠ノ置き換えると、上の記述と同じ内容であることが分かります。

※ 「僕のユリーカ=vの初稿である「遠方では時計が遅れる」(「作家」、1956年2月)には、この一文は出てきません。それが最初に出てくるのは、「遠方では…」の改訂作である「モダン・コスモロジー序説」(「作家、1959年1月、2月」)においてです。すなわち、

 空間が双曲線状になっているとは、先方ほどに物質が詰っているということです。

と出てきます。

 さらに驚くのは、同じことがタルホ最晩年の作である「物質の将来」(初出「海」、1974年6月)においても繰り返されていることです。

 ガモフ博士は、「当方(こちら側)に物質が多量に存在する場合には、空間は自ら楕円形に成らざるを得ないし、先方に物質が多い場合には、空間は双曲線状になる」と云っている。(「物質の将来」、全集10、p.84)

 「セファイド変光星」(「作家」、1960年5月)という作品に至っては、理解不能なことが述べられています。

 「曲率が相反している」このことが私には永いあいだ見当付けられなかったものだ。それを、ガモフ博士が一挙に噛み砕いて教えてくれた。「両側に山をひかえた峠のてっぺんである。此処では凹と凸とが組合わされている。中心部に物質が多いのでおのずからリーマン曲率が形成され、外側に物質が多量ならばロバチェフスキー曲率が織り出される」と。(「セファイド変光星」、全集5、p.267)

 鞍状空間≠ノおいて、中心部に物質が多いのでおのずからリーマン曲率が形成され、外側に物質が多量ならばロバチェフスキー曲率が織り出される≠ニいうのは、ほとんど錯乱しているとしか思えません。

*

 さて、[Part 6]で引用したガモフの『不思議の国のトムキンス』の内容を、ここでもう一度確認しておきます。

 「しかし、これをどんな風にして彎曲した三次元空間に適用するのですか?」
 「全く同じようにするのだよ。空間に一様に分布したものを考えて見給へ、一様に分布しているとは相隣る二物体間の距離が常に等しいことを意味するのだが、そこで君から種々の距離の中にある物体の数を勘定するのだな。もしこの数が距離の三乗で増すとすれば空間は平らであるが、もしも増し方が少ないか多いかすれば、その空間は正又は負の曲率をもっているのだ。」(『不思議の国のトムキンス』、創元社、p.104〜105)

 ここで博士は、負の曲率≠持った鞍状面に、均等な間隔で植えられた松の木の例を、三次元空間に置き換えた場合について述べています。
 これは宇宙空間における星雲≠フことを述べているわけですが、この中で大事な点は、空間に一様に分布したものを考えて見給へ、一様に分布しているとは相隣る二物体間の距離が常に等しいことを意味する≠ニいう部分です。
 これはガモフの別の著書『1, 2, 3, ・・・無限大』(p.367)で、われわれの宇宙ではこの「均一に散らばつた物体」の役割は個々の銀河がつとめている≠ニ述べている部分に相当します。つまり、宇宙空間の星雲は均等な密度で分布している≠ニ仮定した上で、星雲の数と距離との関係を調べよう、という議論なわけです。
 したがって、宇宙空間が負の曲率≠持っている(ロバチェフスキー空間の)場合、遠方の星雲の数の増え方が、距離の3乗以上に大きい、というのは、タルホが言うように先方へ行くほど物質が詰っている=Aすなわち遠方ほど星雲の密度が大きくなる、という意味ではなく、密度は一定で変わらないが、遠くに行くほど空間自体が拡大している結果、その分、星雲の数が増える──このように筆者は理解しています。

 いつの頃からか、タルホの頭の中では、ガモフの星雲の数の増え方と距離との関係によって空間の性質が決まる≠ニいう説明が、あちらとこちらの質量の多少によって空間の性質が決まる≠ニいうふうに変換され、定着していったのだと思われます。

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