ポ      ン      彗      星      概      論




 ポン彗星とはタルホの創作によるものではなく、フランスの天文学者ポン(Jean-Louis Pons, 1761-1831)が1819年に発見した彗星のことです。その後、1858年にドイツのウィンネッケ(Friedrich August Theodor Winnecke, 1835-97)が発見した彗星が、ポンの発見した彗星と同じものだったことが分かり、以後、正式には両者の名前をとってポン・ウィンネッケ彗星と呼ばれています。ポン彗星は「木星族」の周期彗星で、その周期は6.36年です。

 タルホが最初にポン彗星のことを知ったのは、1921(大正10)年に地球に回帰したときで、新聞は再三ポン彗星接近のニュースを報じていました。最接近する6月下旬の夏至の頃にはその姿が観測されるはずで、流星群の雨下が見ものであろうと言われ、足穂もその日を心待ちにしていました。ところが、あいにく梅雨の季節でもあり、曇り空に遮られて、それを見ることができなかったのです。期待に反してポン彗星を見られなかったことは、かの武石浩玻最期の都市聯絡飛行を見られなかったケースと同様に、かえって足穂生来の空想癖に拍車をかけることになりました。

 1921年の半ばといえば、関西学院中学部を卒業して2年余り、神戸の仲間たちと拠ん所ない日々を送っていた頃で、のちに『一千一秒物語』としてまとめられることになった小話の数々が生まれていた時期です。それらの話を佐藤春夫のもとに送り、認められて上京するのは、その年の秋のことでした。

 『一千一秒物語』の系列の話とは別に、タルホの頭には、すでに中学時代からいくつかのヴィジョンが芽生えていました。円錐宇宙∞赤色彗星倶楽部∞コリントン卿の幻覚∞パナマ太平洋万国博覧会%凵Xです。その後これらにド・クインシーの阿片常用者の夢≠竕f画「真鍮の砲弾」のタイトル・イメージが加わり、とどめとしてここにポン彗星≠ェ現れたのです。ポン彗星幻想物語≠フ誕生です。

 ポン彗星の尻尾が地球に触れた夜半、ある倶楽部のメンバーたちの前に幻影が現出します。そしてこの目眩くファンタスマゴリアは、大都会の摩天楼の夜景だと思われたものが、実は二つの暗い眼窩をこちらに向けて横臥している巨大な骸骨であった──ということでフィナーレを迎えます。

 この物語は作品「彗星問答」(1926年)として結実し、その後「彗星倶楽部」(「僕の『メロンタ・タウタ』」、1955年)、「奴豆腐と箒星ハレツとの関係」(「生活に夢を持っていない人々のための童話」、1973年)と改題・改訂されていきました。

 しかしながら一方で、骸骨のこの結末はタルホにとって必ずしも本意ではありませんでした。気懸かりを残して放置されたまま18年経った1939(昭和14)年、雑誌『コギト』の表紙絵によって、これに差し替えられるべき弥勒≠ノついに出会うのです。禍々しい骸骨でなく出現を約束された未来仏=Aしかも56億7000万年≠ニいう宇宙的タイムスケールをもった弥勒という概念を得たからこそ、未完成であった「ポン彗星幻想物語」はついに救済されたのです(「弥勒」第一部)。

 ところで、この1939年とはいったいどんな年だったのでしょうか? ポン彗星幻想物語の発端となった1921年に回帰したポン彗星は、その後も6年余の周期をもって、1927年(「彗星一夕話」参照)、1933年、そしてまさしく1939年にも地球に回帰していたのです!(「ポン彗星探査顛末記」参照) それはもはやニュースにはなりませんでした。しかしながらタルホはその接近を知っていました(「弥勒」第二部)。だからこそ「我がデーモンの箒星ポンよ、我をして形ある一切を捨離するに懈怠なからしめよ。どうか、見えざるものの痕跡にしか過ぎないおんみの軌道の彼方に横たわれるものを、覚り得る眼を開かしめ給え!」と必死で祈ったのです。

 「或る朝、部屋の戸の隙間から差込まれていた『コギト』という同人雑誌の表紙に、見覚えのある仏像を見た」とある『コギト』は、1939年7月号です。そしてポン彗星が地球に最接近していたのも、ちょうど夏至の頃ではなかったでしょうか? すなわち、その僥倖がポン彗星の仕業でなかったと誰が言えるでしょう? おそらくタルホはそれを知っていたのです!

 永劫回帰のポン彗星は、もちろんその後も楕円軌道を少しずつ変えながらも地球を訪れています。そして新しい世紀に変わって久しぶりに流星の雨を降らせているということです。


(『稲垣足穂の世界―タルホスコープ』〈平凡社 コロナ・ブックス 2007.3.23〉発表)



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