ポ    ン    彗    星    探    査    顛    末    記



*このページは

【補遺】からお読みください。

 タルホ読者なら知らぬ人とてない「ポン彗星」。このなんとも愛嬌のある名前の彗星はしかし、タルホの創作上の彗星でないことはご承知のとおりです。「ポン彗星とは、ポンス=ウィンネッケ彗星のことである。周期六年余の木星族小彗星である……」とタルホ自ら述べている1ように、実在する彗星の一つです。このポン彗星が、タルホのいわゆる「宇宙文学」に果たしている役割には、たいへん重要なものがあります。しかしポン彗星幻想物語の世界に踏み込む前に、ここではまずポン彗星そのものの正体を解明してみましょう。

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ポン彗星接近はいつ?

手がかりを求めて

出現年がわかった

どちらの年か?

矛盾の壁

コメット・ハンターからのメール

【補遺】



CONTENTS





































ポン彗星接近はいつ?
 「弥勒」をはじめ、「美のはかなさ」「彗星倶楽部」「私の宇宙文学」など、さまざまな作品に登場する「ポン彗星」。タルホ・キーワードの一つとも言える、あまりにも有名な彗星ですが、タルホ読者の方々は、このポン彗星がいつ頃地球に接近したのかということについて、興味あるいは疑問を抱かれたことはないでしょうか?
 タルホ「若かりし頃」に間違いはないのですが、はたしてそれがいつだったのかということが、私の長い間の疑問となっていました。
 たとえば、「私の宇宙文学」2には次のように出てきます。

 「こんな対象も時にはジャーナリズムが取上げるものだ。ポン彗星が地球に接近して来る六月二十四、五日頃には流星群の雨下が見られるだろう、という新聞記事を読んだ……」

 また、「弥勒」3(第1部)には、

 「江美留がまだ父の家に居て、毎日のように港の都会へ通い青鳥(ブルーバード)映画と、細目のハヴァナ葉巻と、終電車の夜風に縺れて微酔の頬を打つネクタイに陶酔していた『六月の夜の都会の季節』で、新聞がポン彗星の接近を書き立てている折柄……」

とあります。ある程度、時代的なヒントを与えてくれるのは、この2箇所です。しかし、この記述からは、それが何年のことだったのか特定することができません。すなわち、タルホはポン彗星が地球に接近したのがいつだったのかということについて、一度も明確に記していないのです。


手がかりを求めて
 冒頭に引用したように、タルホはポン彗星の周期を「六年余」と記しています。最近では、まったく耳目に触れることのない彗星ですが、いまでもその周期で地球に回帰しているのでしょうか? 近年、ポン彗星は影を潜めているのか、あるいはハレー彗星やヘール・ボップ彗星など派手な彗星の陰に隠れて目立たないだけなのでしょうか?
 私は、ポン彗星に関する手がかりを求めて、図書館などに何度か足を運んでみましたが、この彗星について触れている文献は乏しく、専門外の者がそれを見つけるのは容易ではありませんでした。一般向けの彗星関係の本には、ポン彗星について書いているものはほとんど皆無ですし、天文学辞典の類には発見者や発見年の記述はありますが、年次的なデータは載せられていません。ちなみに、ポン彗星はフランスの天文学者ポンス(Jean-Louis Pons, 1761〜1831年)が最初に発見したことからその名があります。

 タルホの語っているポン彗星の地球接近は、おそらく大正年間であることには間違いありませんから、大正時代に発行された天文学関係の文献にもいくつか当たってみました。その中で、『天文学汎論』(日下部四郎太・菊田善三共著、内田老鶴圃、1922年)という本の中に、次のように出てきました。

 「ポンス・ウインネツケ彗星。是は千八百十九年ポンスに依つて発見されたもので、之れ亦木星族の彗星で、週期は約5.6年であつた。其後数回太陽に近づき、千八百五十八年ウインネツケに依つて観測され、其後屡々出現した。此彗星は木星に近づく毎に其軌道を変じてゐる。千九百十六年の五六七の三ヶ月に亘り、牧夫座に著しい流星群が現はれたとき、これの軌道を計算して見た所が、該流星の軌道はポンス・ウインネツケ彗星と極めて吻合するものである。故に流星も彗星も同一軌道上に運行するものなる事を知る。依つて又彗星と流星との間には何等かの関係がある様に想像される」(p.165)

 「千九百十六年六月廿八日の流星群。之れの輻射点は大熊座にあり、飛行の径路は甚だ短かく運行が緩かであつた。其中の大多数は青白色を呈して突然輝き、雲層を通して之れを見る事が出来た。デニングの研究に依れば、此流星群の出現は、地球が或る彗星の軌道を通過した為であるとの事である。此流星群の軌道は千八百十九年に出現した、ポンス・ウインネツケ彗星の軌道に似てゐるから、それと関係あるものと思はれるけれども、今の所果して同軌道であるか否やは確定してゐない」(p.171)

 ここに記述されている内容はしかし、「流星群」についてのもので、「千九百十六年六月廿八日」の流星群出現が、必ずしもポン彗星最接近の日付ではないかもしれませんし、ポン彗星との関連性も仮説にとどめられています(ここでは週期〈周期〉は「約5.6年」となっています)。


出現年がわかった
 その後、幸運にもポン彗星の「出現年」を載せた本にようやく出会うことができました。といってもかなり以前に出版されたもので、『彗星カタログブック』(長谷川一郎著、河出書房新社、1982年)というハンドブックです。その「第3章・短周期彗星・表6」によると、ポン(ス)=ウィンネッケ彗星の周期は「6.36年」で、その出現年は、「1819、1858、1869、1875、1886、1892、1898、1909、1915、1921、1927、1933、1939、1945、1951、1964、1976」とあります。まさに周期は「六年余」で、出現年もほぼ6年ごとに並んでいます。
 この周期表との出会いは大収穫でした。この中で問題となる年は、おそらく「1915年」か「1921年」だからです。なぜなら、1909年では明治の出来事になってしまい早すぎますし、1926年にはすでに「彗星問答」(「彗星倶楽部」の初出)でポン彗星のことを書いているので、1927年もその対象から外れるからです。したがって、タルホの言うポン彗星接近は、このどちらかの年に絞られるはずです。
 では、いったいどちらの年だったのか?


どちらの年か?
 最初に考えたついたのは年表です。ビジュアルで日付まで詳しく入った分厚い20世紀の年表が、世紀の替わり目に何種類か出版されています。その手のものにポン彗星接近のことが記載されているのではないかと思ったのです。新聞が書き立てていた、とタルホが語っているからです。さっそく1915年と1921年の6月前後の記事を一つずつ辿ってみました。1915年といえば時あたかも第一次世界大戦のさなかで戦時色一色の時代、そして1921年にも残念ながらポン彗星のことはまったく記載されていませんでした。
 また、『大正ニュース事典』(全7巻+総索引、毎日コミュニケーションズ、1986−89年)という新聞記事集成がありますが、この浩瀚な事典の索引にもポン彗星の名前は登場していませんでした。
 こうした資料に出てこないのはなぜだろうかと歯がゆい思いをしているときに、ふと気がつきました。「弥勒」(第1部)の中でタルホは次のように4記しています。

 「しかし肝腎の箒星が最も地球に近付いた夜、碇泊船のケビンから洩れる灯を見ながら山の手の坂道を下っていた江美留は、ふと気付いて上方に眼をやったが、そこには、下町の灯火を反映して合歓の花色に染っている梅雨期の夜ぞらがあるにすぎなかった」

 つまり、最接近の夜は、期待に反してポン彗星も流星の雨下も観られなかったわけです。マスコミが書き立て、タルホ自身もおそらく期待をもって待っていたであろうポン彗星の姿は、実際には見ることができなかったのです(この間の事情は、武石浩玻のケースと相似形です)。すなわち年表とは「起こった出来事」を記すもので、「起こらなかった出来事」は記されないのだと、だからこうした一般の年表の類には載っていないのだ、と気がついたのです。


矛盾の壁
 それならば、もう一度作品に戻って、どこか決定的な証拠となる箇所をつかもう、と考えました。
 最初に挙げた「私の宇宙文学」の記述に続いて、タルホは次のように書いています。

 「……という新聞記事を読んだ時、私は映画館の機械室の小窓から射している光束を連想した。あんな工合に箒星の尻尾が当った所に一つの美しい都会の姿が映じるというのはどうであろうか? これより前に、パナマ太平洋万国大博覧会の夜景画の絵葉書を知っていた。それは会場で呼物の宝玉塔から五彩のサーチライトが、夜空を蔽うて放射している原色版だった。これを『ポン彗星の都』の見本にしようと考えた」

 ここに「パナマ太平洋万国大博覧会」というのが出てきます。『改訂版 万国博覧会』(吉田光邦著、NHKブックス、1985年)という本によると、「パナマ太平洋万国博は、一九一五(大正五:これは巻末の一覧表によると「大正四」の誤記らしい)年、アメリカのサンフランシスコで開かれた」(p.179)とあります。奇しくもポン彗星出現年である1915年と同じ年だったわけです。しかし先のタルホの記述には、「これより前に……」とありますから、ポン彗星接近の新聞記事を読んだのは、1915年のパナマ太平洋万国博より「あと」だということになります。とすると、その文脈から常識的に判断すれば、タルホの言っているポン彗星は「1921年」のほうだと考えるのが妥当のようです。
 また、先の「弥勒」(第1部)の引用箇所の中で、「毎日のように港の都会へ通い青鳥(ブルーバード)映画と、細目のハヴァナ葉巻と、終電車の夜風に縺れて微酔の頬をネクタイに陶酔していた……」という記述からはやはり、「1915年」というより「1921年」、すなわちタルホ20歳頃の出来事だと考えざるを得ません。
 ところが、「私の宇宙文学」の中には、次のようなくだり5が出てくるのです。

 「サーチライトの綾を織り出す抽象派の帆立貝の中に寝ているアフロディトは実は弥勒菩薩であった。このように訂正して、私はこれを自伝的作品『弥勒』の中へ……取入れた。これで、二十五年間も憑かれてきた『ポンから来た夢』からやっと解放された」

 これはポン彗星の幻想物語が弥勒によって完成したいきさつを述べた箇所です。「弥勒」(第2部)が最初に発表されたのは1940年11月の「新潮」。また、ポン彗星幻想物語の発端は、彗星接近を知らせる新聞記事を読んだときですから、上の記述の数値を当てはめると、次のように計算できます。
  1940−25=1915(年)
 この結果は、先の1921年ではないかという推理を否定し、あまりにも先のデータの出現年と一致します。
 この矛盾をいったいどう解決したらよいのか。


コメット・ハンターからのメール
 こうして、この問題は決定的な解決を見ないまま、放置せざるを得なくなりました。
 しかしながら、ついにこの疑問が解決する時がやって来ました。それはこの「イナガキ・タルホ・アーカイブ」を始めたことがきっかけでした。サイト上で「彗星」を検索しているうち、わが国の代表的なコメット・ハンター、関勉氏のHP6を発見したからです。関氏ならこの問題を解決してもらえるのではないかと思い、さっそくメールを送りました。
 そして、あっけなくその疑問が解けたのです。関氏からのご回答によると、

 「 この彗星は1916年6月にこれに関連する多くの流星が観測されましたが、彗星そのものは余り明るくは見られませんでした。しかしその次の回帰の1921年4月にはアメリカの有名なバーナードによって発見され、6月中旬に地球に甚だしく接近し、6等星となって世間の注目するところとなりました。従って『流星が見えるかもしれない』と思われたのはこの年で稲垣氏が言われたのは明らかに1921年です」

 1921年だったのです! 専門家からお墨付きをもらって、まさに溜飲の下がる思いです。ちなみに、

 「その後流星は出現せず1999年6月になって突如大出現がありました。1916年以来実に83年振りのことでした。なお、1921年には流星は余り見られませんでした。しかし山本一清博士が奉天に出張して1個の大流星を撮影されたことは有名です」

ということも付け加えていただきました。
 1916年6月に流星が観測されたというのは、先の『天文学汎論』の記述のとおりです。ただ、『彗星カタログブック』にある出現年、1915年とどういう関係にあるのか、それは私にはわかりません。
 さて、タルホ言うところのポン彗星接近ニュースが1921年だということになると、「私の宇宙文学」中の「二十五年間」は、正確には「十九年間」とすべきだということになります。そしてタルホのこうした記述は鵜呑みにできないという教訓にすべきでしょう。

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 ポン彗星探査顛末報告は以上にとどめ、この結果を踏まえて、次はポン彗星幻想物語の世界について考察してみたいと思います。



ポン彗星幻想物語
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【補遺】
 この「ポン彗星探査顛末記」は当初、タルホ言うところのポン彗星が地球に接近した年はいつだったのか? という問題を考察しようとしたものでした。そして、それはタルホがこの件について「一度も明確に記していない」ということが前提となっていました。しかしながら、この「顛末記」を記した後、タルホがポン彗星接近年について記している作品を発見しました。
 それは「彗星一夕話」(文芸公論、1927年8月)という作品です。この「彗星一夕話」の中に、「ウインネツケ彗星は僕の記憶にして過りがないならば、ポンス・ウインネツケといふがほんとうである。今回のやうに略してはポンス彗星でもいゝわけである。わがポンス君がこのまへに現はれたのはたしか大正十年であつた」と記されています。
 「大正十年」すなわち「1921年」ということが、そこに「明確に記されて」いました。わが迂闊さをお詫びしなければなりません。ただ、この「顛末記」の結論が間違っていなかったことには安堵を覚えました。そして、この間の事情もまた「顛末」には違いありませんから、「補遺」としてこの一文を付け加え、上記の「顛末記」はあえてそのまま残しておくことにしました。
 以前に「顛末記」を読まれた方には、どうでもよい「詮索」にお付き合いさせたことをお詫びし、この「補遺」によって誤った認識を訂正していただきたいと思います。また、初めてこれを読まれる方は、以上のような顛末があったということを知っていただければ十分で、わざわざこの「顛末記」を読まれるに及びません。

 ついでに、「彗星一夕話」という作品について若干触れておきます。この作品は初出以降一度も単行本・選集等に再録されたことがありません。400字詰め5枚ほどの短い作品です。たぶん、現在刊行中の『稲垣足穂全集』(筑摩書房)のいずれかの巻に収録されることになるものと思います。なお「文芸公論」には、ほかに「星を喰ふ村」「僕の五分間劇場」(『全集・第1巻』所収)などを発表しています。
 「彗星一夕話」の内容は、1921年のポン彗星接近から6年後、すなわち1927年の6月28日の夜に、タルホがたまたまポン彗星ではないかと思われる未確認物体を発見したことから、ホーキ星だ、いやあれはサーチライトだ、と騒ぎになります。さて、その真相は?
                                                 



※「彗星一夕話」は『稲垣足穗全集』<筑摩書房>の第12巻に収録されました。


ポン彗星幻想物語
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n o t e s


1★ 述べている
 「私の宇宙文学」(『稲垣足穂全集9』筑摩書房、2001年、p.292)

2★ 「私の宇宙文学」
 『同上』(p.292)

3★ 「弥勒」
 『全集7』(同上、2001年、p.254)

4★次のように
 『同上』(p.254)

5★ 次のようなくだり
 「私の宇宙文学」(同上、p.298〜299)

6★ 関勉氏のHP
 わが国彗星探査のパイオニア的存在である関氏は、「コメット・ハンター関勉のホームページ」を開設しておられます。見事な彗星の写真や天体にまつわる物語まで、内容盛りだくさんです。ぜひ一度訪問してみられることをお勧めします。ご教示いただいた関勉氏に改めてお礼申し上げます。