ポ    ン    彗    星    幻    想    物    語



 ポン彗星探査顛末記において、タルホのポン彗星幻想物語の発端となったポンス=ウィンネッケ彗星の地球接近は、1921(大正10)年6月であったことを確認しました。これを前提として、いよいよこの幻想物語の世界に足を踏み入れてみたいと思います。
 「顛末記」でも触れたように、タルホはポン彗星、流星ともに実際には観ることができませんでした。ポン彗星が接近した1921年6月当時、タルホは明石にいたわけですが(この3ヶ月後の9月に上京して、佐藤春夫のもとに寄寓することになります)、たまたま関西あるいは日本の気象状況が、ポン彗星観測にふさわしくなかったのかもしれません。「弥勒」(第1部)にあるように、「上方に目をやったが、そこには、下町の灯火を反映して合歓の花色に染っている梅雨期の夜ぞらがあるにすぎなかった」のです。このことはやはり悔やまれることだったに違いありません。「美のはかなさ」1の中では、「そんな時、ポン彗星が地球に接近する夏至近い深夜の空が倖い曇っていなかったらならば、云い換えると、そこが下町の反映を受けて合歓の花色に染っているのでなかったら、そんな折こそ、僕らの頭上は申し分のない『六月の夜の都会の空』ではなかろうか?」と述べているからです。しかし、武石浩玻の飛行機を見に行けなかったケースに似て(TAKEISHI KOHAを知っていますか?注42参照)、実際にポン彗星を観られなかったからこそ、新聞記事によって脳裡に兆した幻想は、幻想のままで保持され、かつ自由に発展させられたのだとも言えます。


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C H A P T E R



PART 1 「彗星問答」の世界――摩訶不思議な作品の構成要素

PART 2 タルホ円錐宇宙創造説

PART 3 幻想物語の救済――弥勒が弥勒になるまで(II)
    (第1部と第2部の〈弥勒〉を物語の時空構造から考えてみる)




CONTENTS







































「彗星問答」の世界――摩訶不思議な作品の構成要素

ポン彗星幻想物語の嚆矢
「彗星問答」の執筆経緯
「彗星問答」の概要
学友Nから借用した円錐宇宙モデル
ジョルジュ・ソレルの「神話の信仰」
映画館の機械室の小窓から射している光束
パナマ太平洋万国大博覧会の夜景画の絵葉書
阿片常用者の夢
ポンの寂光土
骸骨
砲弾による花文字
交霊会
幻想物語の行方



UP
CONTENTS














































ポン彗星幻想物語の嚆矢
 ポン彗星の幻想物語が最初に結実した作品2は、1926(昭和元)年6月、「虚無思想」に発表された「彗星問答」です。この作品はのちに改訂されて『天体嗜好症』(春陽堂、1928年)に収録され、戦後になって「作家」(1955年8月)に「僕の『メロンタ・タウタ』」中の一編として発表されたとき、「彗星倶楽部」として改題・改訂されました。その後、『稲垣足穂大全T』(現代思潮社、1969年)に改訂して収録され、さらに1973年2月の雑誌「海」に、「生活に夢を持っていない人々のための童話」中の一編「奴豆腐と箒星ハレツとの関係」として、再び改題・改訂して発表され、これが最終稿となりました。
 「彗星倶楽部」としての最終稿である『大全』版は、『稲垣足穂全集』(筑摩書房)の第1巻に、「生活に夢を持っていない人々のための童話」は第10巻に収録されています。なお、初稿の「彗星問答」は、『多留保集6』(潮出版社、1975年)に収録されています(以下、「彗星問答」からの引用は同書から)。
 作品としての「彗星問答」の改題・改訂過程はこのような経過を辿ったわけですが、ポン彗星幻想物語の構成要素、あるいは物語そのものは別の作品へと変貌することになります。それは「近代物理学とパル教授の錯覚」や「似而非物語」で、そして最も代表的で重要な作品が「弥勒」です。
 PART1ではまず、ポン彗星幻想物語の嚆矢「彗星問答」に的を絞って、その作品世界を考察してみたいと思います。


「彗星問答」の執筆経緯
 「彗星問答」は前述のように、1926年6月に発表されました。物語のきっかけとなったのは、1921年6月の彗星接近ですから、その出来事から丸5年後に初めて作品化されたことになります。「私の宇宙文学」3に、この作品の執筆経緯が次のように述べられています。

 「私はその夏じゅう、ホフマン気取りに宵には飲酒し、夜半過ぎからペンを採って一気に難関を突破しようとしたが、推理小説的雰囲気と天文学とがどうしても結合しない。結局諦める他はなかった。それから三年目の夏、今度は嫌々ながら一字づつ刻み込むように綴って、やっと二十四枚を書き上げた。これは「自分」が、事件審査員から訊問される形式である」

 「彗星問答」が発表されたのは6月ですが、もしここで言う「三年目の夏」を、作品が発表された1926年のことだとすれば、完成しなかった「その夏じゅう」というのは、その3年前すなわち1923(大正12)年の夏ということになります。この年はタルホが西巣鴨新田の池内姉妹のもとに住みはじめた年になりますが、その夏は明石に帰省していました(西巣鴨新田時代注10参照)。したがって、「その夏じゅう」とは明石の実家でのことになります。
 冒頭でも触れましたが、これより先、ポン彗星接近の出来事があった3ヶ月後、1921(大正10)年9月に、タルホは上京します。そして佐藤春夫のもとで翌年6月まで寄寓生活を送ります。「弥勒」(第1部)には、次のような一節が見えます。

 「細い象牙の縁がついた鼻眼鏡を掛けたH・S氏は、彼を前に置いて、その日、銀座で購った紅い笠のついたスタンドに灯が点った時に、きわめて上機嫌に云った。『さあ、これからポン彗星の幻想に耽りましょう』
 ――これは大正十年の秋のことであったが、……」(『大全W』、p.284)

 このH・S氏とは佐藤春夫のことで、「大正十年の秋」ということですから、上京後間もない頃だったのでしょう。そして、この一節に続くのが、「顛末記」にも引用した次の部分です。

 「作の構想が泛んだのは、江美留がまだ父の家に居て、毎日のように港の都会へ通い青鳥(ブルーバード)映画と、細目のハヴァナ葉巻と、終電車の夜風に縺れて微酔の頬を打つネクタイに陶酔していた『六月の夜の都会の季節』で、新聞がポン彗星の接近を書き立てている折柄であった」

 すなわち、この記述は、上京するわずか3ヶ月前のことを指していることが判明したわけです。したがって、上京後もポン彗星接近事件はまだ記憶に新しく、タルホの頭の中ではポン彗星幻想物語が次第に醸成されつつある時期だったのでしょう。その一端を佐藤春夫の前で語って聞かせたことがあったものと思われます。
 その後、上記のように一度挫折を経て、物語がようやく形になったのは上京後5年経った1926年のことでした。


「彗星問答」の概要
 さて、「彗星問答」という作品はどのような内容だったでしょうか。改訂によって大幅に削除された部分もありますが、それについてはのちに触れることにして、話の骨子は次のようなものでした。

 7月3日夜遅く、ドーンという音と光とともに、山頂の天文台が吹き飛んで無くなってしまった。その晩、天文台には博士4天文研究会5の人たちが集まっていたが、彼らの姿は一人を残してすべて消え去っていた。大学の技師がやって来て、奇跡的に助かった人物にインタビューすることになった。
 彼の口からは驚くべきことが語られます。その夜、1週間ほど前に地球のそばを通ったポン彗星に関する実験が行われていたが、実験の最中に火薬に引火して爆発を起こしたのだと。
 そして、この実験に用いた円錐宇宙模型について説明が行われたあと、当夜の会合は、先のポン彗星によって会員の人たちに与えられた幻覚作用を説明するためのものだったということが判明します。じつは、彼はある会員の代理としてその夜出席したのだと。そして、依頼人から聞いたという、ポン彗星によって引き起こされた摩訶不思議な幻影がつぶさに述べられます。すなわち、ここに述べられる物語は「入れ子」の構造になっていることに注意する必要があります。
 その後も、真相を究明しようする技師は、執拗に相手を尋問して追及します。それに対して彼は、代理人に過ぎないにもかかわらず、なんとかこの椿事を自分なりに説明しようと、珍無類な答弁をして追及を切り抜けようとします。「彗星問答」というタイトルは、ポン彗星を巡る二人の議論に由来するわけで、「スコラ派の坊主でさえ針のさきにエンゼルが幾人坐られるかを方程式で出そうとしたじゃないか」というエピグラフも、その詭弁的な問答を象徴させたものでしょう。
 そして最後に、彼に代理を頼んだ会員とは「タルホ君」であった、ということが明かされて結びとなります。


学友Nから借用した円錐宇宙モデル
 ここからは、「彗星問答」を構成する主な要素をピックアップし、それらについて一つずつ考察を加えていくことにします。
 最初に述べられるのは、当夜博士が語ったという天文学講話についてです。博士の説によると、宇宙は円錐形をしているというのです。作品には図が示されていますが、それによると円軌道をとっているのが地球で、楕円軌道がポン彗星、そして円錐形の頂点にユートピアが示されています。
 「私の宇宙文学」には、この円錐宇宙モデルはもともと級友のNから聞いたものだと述べられています。このNというのはタルホ作品にしばしば登場する人物で、関西学院時代の級友・西田正秋6のことです。その西田君から聞いた円錐宇宙モデルでは、彗星は抛(放)物線軌道を描いているというものでした。しかし彗星は何回も帰来しなければならないということから、「彗星問答」の図ではポン彗星の軌道は楕円とされています。
 この考え方はいわゆる「円錐曲線」といわれるもので、すなわち「直円錐の面を、頂点を通らない平面で切ったときにできる切り口の曲線」のことを言ったものにほかなりません。しかし、数学的定義によれば、円錐は「一本の直線を軸に、それと交わるもう一本の直線を一周させたときにできる面」ですから、交点を境に必ず一対二つの円錐ができるわけです。したがって円錐曲線には、切る角度によって「円」「楕円」「抛物線」のほかに「双曲線」を加えた4種類7の曲線ができることになります。しかし、タルホは「彗星問答」執筆時には、円錐曲線としてこの「双曲線」ができることに、いまだ気づいていませんでした8
          


 ところで、円錐宇宙自体は、なにも「彗星問答」に初めて登場するわけではありません。「彗星問答」の前年に発表された「タルホと虚空」(G・G・P・G、1925年7月)には、オットーによって円錐宇宙が持ち出されています。さらに1年前の「星使ひの術」(改造、1924年8月)では、カルル・カイネ博士の「円錐状宇宙発生説」として登場しています。しかしながら、後者はただ名称だけですし、前者は先の西田式円錐宇宙モデルをそのまま提示したにとどまっています。これがタルホ式円錐宇宙モデルに展開していくのは、やはり「彗星問答」を待たなくてはなりません。

 ポン彗星と地球によって示されたこの円錐宇宙は当然、太陽系内の模型でなければならないはずで、それが銀河系にまで及ぼされているとは考えられません。「彗星問答」ではこのあと、博士によって円錐宇宙が形成されるまでの歴史が語られます。これは奇想天外とも言うべき宇宙創世記で、まことに興味深いものです。ただし、この部分はのちの改訂で削除されました。その理由は3つ考えられます。1つは、「私の宇宙文学」で述べられているように、原初宇宙として採用した「円」を、のちに「球」としたほうがよいと考えたこと、次に、「円錐宇宙」の代わりに「双曲線宇宙」を採用すべきだと考えるようになったこと。最後に、この宇宙論解説の部分が、作品構成の上からやはり冗長だと考えられたからではないかと思われます。改訂では枚数を縮めていくのがタルホの常ですが、この部分を削除して改題した「彗星倶楽部」のほうが、作品としてはたしかにすっきりした印象を受けます。
 しかし、削除されたこの部分は、当時のタルホの宇宙観を窺い知ることのできるきわめて重要な箇所となっています。この問題については、「PART2 円錐宇宙とユートピア」として改めて取り上げることにします。
 【「PART2」は、「タルホ円錐宇宙創造説」としてアップしました】


ジョルジュ・ソレルの「神話の信仰」
 博士が円錐宇宙を説明するに当たって用いた模型はガラス製らしきもので、その中でカリウム合金の玉(模型天体)が2つ円軌道を描いて回転していました。ところが、博士によってその一方にファンタシュームという物質が混入された途端、玉は急速に楕円軌道をとりはじめます。その寿命はほんの短いものだと考えられていたのですが、どういうわけか、その玉はなかなか燃え尽きずに、急激に角度を直立させてゆき、ついに円錐の頂点に達してしまいます。その瞬間、紫色の火花が飛んで、気がつくと岩の上まで吹き飛ばされていた。それが唯一の生存者である彼であった、と真相が明かされます。
 模型実験は思わぬアクシデントによって失敗に終わったわけですが、博士の説く円錐宇宙説というのは次のようなものだったといいます。

 「宇宙とはこんな円錐形をしたもので、その先端にすべてのものが進んで行くユートピアがある。あたりまえの星は円錐のふちにそうて螺旋形にのぼって行くが、ホーキ星はそれが面倒くさいと云ってまっすぐに上の方へとぶ。即ち、宇宙のヴォルシェヴキでありサンヂカリストである。……そんならこのホーキ星には何がなるかというと、普通の軌道をめぐっている星が、それにあいたとき、また何かの情熱にもえたとき、だしぬけに脱線してそうなるのだが、このためにはまた、この地上にもときたまあらわれる天才や革命家の行動についてソレルがのべたところと面白い一致を示して、どの星も一種の神話的条件を信じなければならぬ約束がある。ファンタシュームというのは即ちそのエレメントに他ならないのです」(「彗星問答」9同上、p.28)

 さて、ここで「ソレルの神話的条件」という言葉が目を引きます。フランスのサンジカリスト、ジョルジュ・ソレルの名前がここに現れるのは唐突な気がします。「私の宇宙文学」では、「……此処に、一般の星が彗星に変化する可能性が認められる。但しそれには条件がある、と私は頭の中で探し求めた。そして、聞き噛りのジョルジュ・ソレルの『神話の信仰』を導入することにした。革命促進の為には一種の夢を信じなければならぬと云うのであるが、ちょうどそのように、星々は退屈した時、何らかの刺戟を与えられた時、内省によって奮起した時に、正規の軌道から飛躍して抛物線軌道に飛び移る」(p.150)とこれを補足しています。
 ここで「聞き噛(かじ)り」と断っていますが、このソレルの革命思想10が、のちに別の作品の中で展開された形跡はありません。したがって、ここでは彗星とプロレタリアートを「ユートピア信仰」という一点で結びつけたタルホのアクロバティックなアイデアを楽しめばよいのでしょう。


映画館の機械室の小窓から射している光束
 古く人々は彗星接近時にその尻尾が地球に触れるとたいへんなことになるのではないかという恐怖心を抱きました。それに対してタルホは、「あんな工合に箒星の尻尾が当った所に一つの美しい都会の姿が映じるというのはどうであろうか?」(「私の宇宙文学」、p.149)と考えたのでした。ポン彗星接近の新聞記事を読んでまず、長く尾を引いて発光する彗星の尻尾に対して、映写機のレンズを通してスクリーン上に投光される、あの強烈な光を連想しました。「あんな工合に」というのは、映写機からの光束を指しています。活動写真は、大阪・船場時代、すなわち小学校に上がる前からおなじみのものでしたから、映画館の暗闇を射し貫く、あの一条の光束を思い浮かべたのは至極当然なことだったのでしょう。
 ポン彗星の核に含有された夢が地球上に投影され、それを限られた人たち、すなわち博士をはじめとする天文研究会の会員たちが見る、という設定です。会員たちが見たという幻影は、暗闇の中から浮き上がったような都市の光景であったというのですが、「多分、暗室中のスクリーン上か、大きな硝子壜の中に顕現したもののように思われる」(同上、p.154)と、それが映画的イメージであることを具体的に補足しています。


パナマ太平洋万国大博覧会の夜景画の絵葉書
 会員たちが見た幻影都市を描くに当たって、タルホには一つのモデルがありました。それはパナマ太平洋万国大博覧会の夜景を写した一枚の写真絵葉書でした。「顛末記」でも触れましたが、パナマ博は1915(大正4)年に開催されました。すなわち、タルホ14歳、関西学院の2年生のときの出来事になります。「パナマ」と冠されていますが、サンフランシスコで行われた万国博です。
 『改訂版 万国博覧会』(吉田光邦著、NHKブックス、1985年)によると、その会場はきわめて豪華なものだったことがわかります。

 「建築の全体はルネッサンス式に統一され、その間に華やかなスペイン風のゴシック建築が配された。全体の色調はオールド・アイボリーとし、これに八色を配合してカラフルな空気をつくりだしたのである。建物の壁面には彫刻やモザイクが用いられて色感をゆたかにし、さらに植物の植えこみを効果的に配置して、人工と自然を調和させることに苦心が払われた。正門の正面には高さ一四五メートルの宝石塔が建てられて、これがシンボルタワーとなり、そこから左右に八棟の建物がのびていた。宝石塔は夜に入ると二〇〇の照明灯で美しく輝いたのだった」(p.179〜180)

 この記述からは、光による演出にとくに力が入れられていたことを窺わせ、イルミネーション効果は絶大だったろうと想像されます。タルホの知っていた絵葉書は、「会場で呼物の宝玉塔から五彩のサーチライトが、夜空を蔽うて放射している原色版だった」(「私の宇宙文学」、p.149)とあります。
 ここに、同じく吉田光邦・編著による『図説万国博覧会史 1851−1942』(思文閣出版、1985年)という本があります。この中に、まさにタルホの言う光景そのままのサーチライトと宝玉塔(宝石塔)と思われるパナマ博の写真が掲載されています。ただし、こちらはモノクロームです。絵葉書と同じカットかどうかわかりませんが、タルホが見たという絵葉書を十分彷彿とさせる一枚です。

『図説万国博覧会史 1851−1942』(吉田光邦・編著、思文閣出版、1985年、p.139)より


 ゴシック様式かルネッサンス様式かはわかりませんが10-1、議事堂のようでもあり教会堂の鐘塔のようでもあり凱旋門のようでもある用途不明の建築物の雰囲気もさることながら、そこを焦点として後光のように放射するサーチライトの仰々しさ、この世のものとも思えないようなその異様な感じに打たれます。写真ではわかりにくいのですが、おそらく宝玉塔の手前は水面(池)になっていて、そこに建物の像が逆さまに映し出されているものと思われます。すなわち、この写真はそのまま、「エボナイト盤に似た真暗な海上の闇に浮上った都市の横顔……」(「私の宇宙文学」、p154)であり、また「半面から赤っちゃけた光をうけ、照明装置の夜間博覧会のように、片方にそれを組立てている面白い幾何的形体の影を投じて浮き上っている……」(彗星問答」、p.34)というイメージを物語っており、おそらくその原形となったものに違いありません。
 「この市街地のまんなかからは、蜘蛛の糸のような色とりどりのサーチライトが何百本となく放射し、矢車になってまわっていたが、そこにはどこか蜉蝣の羽根のようにはかないところがあり、そのきれいな化物めいたものが、シーンとしずまりかえったなかでいそがしくまわっていることには、滅入るとも何とも云えぬ快よいさびしさがそそられる」(同上、p.34〜35)。それにしても、万博のパヴィリオンという実用性とは無縁の建物と、夜間のせいか人の気配のまったく感じられないこの光景とは、あの寂寞とした人類最終都市のモデルになんとふさわしいではありませんか。


阿片常用者の夢
 幻影都市は、エボナイト盤のような真っ黒いテーブル上に浮かび出た積木細工のようなものでした。しかも平面全体は無底の暗黒に置かれています。そしてその都市はまことに奇妙な印象を与えるものでした。

 「ふしぎなのは大きさで、オモチャのようなのにまたよく見ると、阿片の夢をとくデクインシイの『肉眼で見るに適しない巨大な姿』でもあるようだ。というのは、その立体化したフイフイ教の尖塔の上にくっついているちいさな三角にしても、ピラミッドの何千倍あるかわからぬように考えられたからです」(「彗星問答」11同上、p.34)

 この幻影都市は、空間的に一定した大きさを占めているのではなく、あたかもズーム・レンズを通した像ように、見る側の焦点の合わせ方次第で伸縮自在になる存在のようです。この空間の膨張12は観測対象のみで、観測者自身はそのままなのでしょうから、相対的に観測者の収縮意識を招来することになります。彼我のこうした急激な変化は、観測者の意識にいわゆる「気の遠くなるような」状態を生ぜしめるはずです。ここにド・クインシー13阿片の夢14が引き合いに出されていますが、それはこの幻影都市の性格に強烈な彩りを付け加えています。
 黒い円卓上に現出した幻影都市は、なにもポン彗星からやって来たものではない。彗星の波動と倶楽部の性格とが一致したところに生じた化合物、あるいはむしろ倶楽部の夢を卓上に客観化したものではないか。したがって、会員たちの木曜日ごとの会合は、「デクインシイが『阿片耽溺者の告白』のなかにのべたように、一種のファントム抽出の練習15」(同上、p.40)だったのではないか、と述べています。

Thomas de Quincey (『阿片溺愛者の告白』三陽堂書店、1918年、より)



ポンの寂光土
 卓上の幻影都市は、パナマ万博の夜景画がそのイメージモデルとなりました。人影の見えない静まり返った街の中央からは、幾百条ものサーチライトが暗黒の夜空を貫いて、音もなく矢車のようにくるくると回っているだけです。
 この光景からもたらされる感情を、タルホは次のように述べています。

 「……滅入るとも何とも云えぬ快よいさびしさがそそられる。――それはあの東方の教典にある『極楽』を想わせたが、じっさい見ていると、東洋のメロディーをきいたり、その古いお寺のなかで香料をかいだように、なんだか生きているのがいやになってきた。そんなわずらわしさからのがれて、このままこんな都へはいってしまいたいというのぞみまでが切にねがわれてきた」(「彗星問答」16同上、p.34〜35)。

 そして、「これは世界が幾百世紀もすぎたときにくる『たそがれの感情』で」ある、としています。ここに述べられている感情は、一言でいえば、厭世的なそれといってもよいでしょう。のちの改訂では、「厭離の念」あるいは「倦怠感」という言葉を補って説明していますが、現世を疎ましく思う感情であることには違いありません。しかし言い換えれば、ここにはタルホの美意識すなわち唯美主義の一つの極致が示されているのだともいえます。
 とりわけ興味深いのは、ここでタルホが「極楽」という言葉を用いていることです。この幻影都市を形容するのに、使い古されてすでに仏教臭を離れているとはいえ、20代のタルホが「極楽」という仏教用語を持ち出していることは意外の感があります。
 じつはこの作品には、もう一つ仏教用語が使用されています。

 「即ち千八百年にポンケビス教授によって発見されたそのちいさいホーキ星は、全くそうした怪奇な頽廃の都市に対するあこがれから生れたもので、いつかはとおい宇宙のはてにある円錐のさきに達して久しい間の理想を実現すると云えよう。ポンの寂光土とはおそらくそこのことであり、それがたまたま同彗星が地球に近づいた夜、吾々のハルシネーションになってあらわれたまでである……」(「彗星問答」17同上、p.37〜38)

 ここに用いられている「ポンの寂光土」という言葉には傍点が振られています。そしてこの「寂光土」という言葉は、紛れもない仏教用語です。ポン彗星が抱いている夢(ユートピア)である幻影都市。この都市に対して、タルホは「極楽」と「寂光土」18という2つの仏教用語をもって形容しているわけです。概念に照らしてみれば物語世界とは異質なこれらの言葉は、もちろん詩的言語として用いられており、それがタルホの好みに叶ったからにほかなりません。そして、それらによって喚起されるイメージは、(その言葉が無かった場合を想定すると)この物語にさらなる奥行きを与えていると言えます。


骸骨
 何気なくまばたきをしたはずみに、この幻影都市は片肘をついて寝そべっている巨大な骸骨の姿に変じていました。そして、ぽっかりと見開かれた2つの眼窩がじっとこちらに注がれていました。短い間だったにもかかわらず、その間に何千年もの時が経過したように思われたといいます。
 「彗星問答」に限らず、タルホ作品には骸骨や髑髏19がよく登場します。一般的に、骸骨は死を象徴し、生と対立するもの、生を脅かすものとして解されます。しかしながら、この時代のタルホにとって、死は生の対立項20ではなく、死はあくまでも美学上の対象21だったのではないかと思われます。
 「彗星問答」と同じ年に前後して書かれた「月光騎手」(辻馬車、1926年5月、『稲垣足穂全集2』所収)では、一群の白装束の騎手たちはみな骸骨ですし、「戦争エピソート」(文芸時代、1926年8月)では、機上のフォッカー大尉の後部座席には「死」が乗っていました。これらに描かれた骸骨や死は、いわゆるダンス・マカブル(danse macabre)の系譜に属する者たちでしょうが、同じ骸骨でも月光騎手と巨大骸骨とは異質なもののように感じられます。一方は月下に颯爽と馬を駆って戦いを繰り広げる一群の骸骨。このMoon Riderたちは、タルホ世界に参画するために「遊離化せられた人間」、あるいは「新たに命を吹き込まれた人形22」としての性格を持っているものと思われます。他方、巨大骸骨は寝そべった姿でじっとこちらを凝視しています。「不吉なメスメリズムに陥っていたような……」とあるように、こちらの骸骨は何か不気味で禍々しいものを感じさせます。
 「彗星問答」の大詰めに出現するこの骸骨について、「私の宇宙文学」には「――都市が或る瞬間に、其処に寝そべっているそんな途徹もない巨大な骸骨に見えた、ということを書き加えようと思ったが、それは見せ物じみているので、止した」(同上、p.155)とあります。タルホが何を勘違いしたのかわかりませんが、これは間違いで、もちろん「彗星問答」には骸骨が登場しています。いずれにしても、ここに骸骨を登場させたことは、必ずしもタルホの本意ではありませんでした。すでに「弥勒」(第1部)にも、「――が、この巨大な骸骨は我ながら気に食わなかった」(『大全W』、p.288)とあるからです。その理由として、「見せ物じみている」と「私の宇宙文学」では言っているわけです。それはどういう意味なのでしょうか?
 ポン彗星幻想物語を締めくくり、物語全体を象徴させるものが骸骨というのでは、あまりにも通俗的すぎるという懸念があったのでしょうか。あるいは、骸骨のもつ禍々しさ、不吉さ23にやはり気懸かりなものがあったのかもしれません。結局、十数年後に「弥勒」の概念に出会うまで、この結末は取り換えるべき適当なもの24を見いだせないまま放置せざるを得なかったのでした。


砲弾による花文字
 さて、この目くるめくイリュージョンもいよいよハイライトを迎えます。黒い卓上と思われていたものが、じつは海面のようであった。渺茫と広がる水平線の彼方から、ゆくりなくも赤い軍艦25が立ち現れる気配がして、紛れもない砲撃の音が轟いてきた。

 「――と、都会の上空に、真紅色にやけた一箇の砲弾がとび出てきて、きゅうに宙ぶらりんに止ったと思うとパッとハレツをしたのです。
 ガラスのこわれるような音がして八方へちらばったカケラが、花が咲いたようにその空間へくっついてしまいました。が、爆発のなかからさらに別の赤い砲弾が生れ、クルクル魚のおよぐようにまわって、キュビズムの骸骨の片ひじをついた手首のところへ先端をくっつけたと思うと、ちょうどそこが平面であるかのように、それを起点にしてうつくしい赤い空中文字を(aは指でその運動をまねる)
  T――
  Th
  The
  The R
  The Re
  The Red
  The Red C
  The Red Co
  The Red Com
  The Red Come
  The Red Comet
  The Red Comet C
  The Red Comet Ci
  The Red Comet Cit
  The Red Comet City
――とかき終った……」(「彗星問答」26同上、p.36)

 この「砲弾による花文字」は、のちに「弥勒」(第1部)にも登場することで、あまりにも有名な場面です。それがタルホの観た映画『真鍮の砲弾』のタイトルシーンに出ていることは、「弥勒」をはじめいくつかの作品27に繰り返し述べられています。『真鍮の砲弾』はアメリカの連続活劇映画中の1本で、大正8(1919)年の春から夏28にかけて上映されたとあります。
 タルホの説明によると、「彗星問答」のこの場面は、映画のシーンをほとんどそのまま描写したものであることがわかります。実際の映画はもちろんモノクロームだったわけですが、「私の宇宙文学」の解説では、この場面を「彗星問答」以上に色鮮やかな総天然色にリメイクしています。

 「すると、中天を蔽うた孔雀の尾羽の間を縫って、こんな水槽中を游泳する熱帯魚のように、一個の赤熱した砲弾が、その形が判別出来るほどの緩やかな速度でもって弧線を曳いて何処からか舞い上ってきた。真紅色に灼けたタマは、サーチライトの放射点の真上で、操り糸に吊られたもののように停止した。赤、緑、紫、黄の破片が飛んで、炸裂した。その中から別な、一層活発な赤い砲弾が誕生して、足場を求めるような運動を示し始めた。右往左往した末に、視界の向って左側下端から反転して、その先端でもって、既に疎らに消え残ったサーチライト縞を背景に――其処が硝子絵の表面であるかのように――斜め上方にかけて紅く輝く空中文字を綴って行った。互いに縺れ絡んだ、或る種の蘭科植物の開花に似た花文字は The Red Comet City と読まれた」(「私の宇宙文学」同上、p.154)。

 ところで、砲弾の描く空中花文字の筆跡を1文字ずつ書き加えていった、“The Red Comet City”のタイポグラフィックな表現にも注目しておく必要があります。これは映画のアニメーションの動きを文字に置き換えたものでしょう。効果のほどは別にして、こうした視覚詩とも呼ぶべき手法は初期の他の作品にもいくつか見られます。同時代の前衛詩人たちほど過激なものではありませんが、タイポグラフィー29という方法論に、当時タルホも反応を示していたのだということを指摘しておきたいと思います。


交霊会
 作品からはわかりにくいのですが、「彗星問答」におけるスピリチュアリズム(心霊主義)の色合いも見過ごすことはできません。

 ポン彗星が地球に接近しつつある頃、毎週木曜日の夜に不思議な会合が秘密裡に催されているという噂があった。それは「黒頭巾のエコー氏30」という人物によって主催された結社で、ポン彗星の波動を誘導して、会員たちの五感とコレスポンデンスさせることを意図したものであった。この会合では日常の経験を超えた現象が頻発していた。そして6月26日31、ポン彗星が最接近し、その尻尾が地球に触れた夜、ある装置によって会員たちは不思議な幻影を見せられた。それから1週間後の7月3日、天文台において先夜の怪異現象の解説が行われている最中に、誤って爆発事故が起こった。すなわち「黒頭巾のエコー氏」とは、ほかならぬ博士(「彗星倶楽部」では、ド・ジッター博士)その人であった――

 「彗星問答」と「私の宇宙文学」の解説とをつなぎ合わせると、物語の順序はこういう次第になります。毎週催されていた会合がどのような性格のものであったか、「彗星問答」には、「赤いマスク32をつけた人々が真夜中にこころみる妖術教めいたこと」と簡単に述べられているに過ぎません。しかし、「私の宇宙文学」によれば、それが「交霊会」であったとはっきり述べられています。その会合は、「甲冑姿の騎士に案内されて、真黒に塗られた正六面体の部屋に導かれ、中央の円卓上に載っている誓約簿に署名する。……広間には、東洋の古代偶像群や中世の海賊旗や陶土製のアストラルハンド(予言の手首)などが、ピタゴラスの魔の方陣に配置され、此処では前衛的な現代魔術家の舞台や霊媒実験に見られるような現象が頻々と発生する」(同上、p.151)とあります。
 こうした舞台装置をタルホがどこから仕入れたのか明らかではありませんが、「彗星問答」にも「スピリチュアリストが亡友と対面するような……」といった言葉が出てきますので、当時タルホがスピリチュアリズムに対する関心と知識33をかなり持っていたことは確かです。


幻想物語の行方
 ポン彗星幻想物語が最初に結実した作品「彗星問答」。この奇想の物語を構成している主な要素を取り上げながら見てきたわけですが、この作品が錯綜した様相を呈しているように見えるのは、一つには、タルホの持っていたさまざまなイメージや考え方が、そこに一度に投入されているせいではないでしょうか。タルホ自身のちにそれに気づいて、その中から宇宙論解説の部分を削除しました。「彗星問答」の中核を成す円錐宇宙は、なにもこの物語を創作するためにでっち上げられたものではありません。童話仕立ての体裁のために看過されがちですが、円錐宇宙はじつはタルホの大真面目な宇宙観であることを認識すべきです。なぜなら、この円錐宇宙観に基づいた考え方が、当時の他の作品の随所に見られるからです。この円錐宇宙の問題については「PART2」に譲ることにします。
 1921年6月のポン彗星接近に端を発した幻想物語は、それから20年近くを経て1930年代の終わりに「弥勒」を発見したことによって、一大転換を迎えることになります。気懸かりだった骸骨に代わって、未来仏というまさにこの物語にふさわしいキャストを得ることができたからです。そしてポン彗星幻想物語は最終的に、作品「弥勒」の中に発展解消されていくことになります。では、弥勒を発見したことによって「彗星問答」という作品はその存在意義を失ったのかというと、注目すべきは、冒頭述べたように、弥勒発見後も「彗星問答」自体は改訂を加えられていったということです。すなわちポン彗星幻想物語は、一方では「弥勒」という別の作品に解消されて改訂を重ねられ、他方、それと並行して「彗星問答」は、骸骨をそのまま残した形で「彗星倶楽部」「生活に夢を……」へと営々と改題・改訂が繰り返されていったのです。タルホ作品はシリアルな形で進化していったのではなく、獲得された形質の新旧にかかわらず、各々の位相においてパラレルに進化し続けていたことになります。ここにはタルホの作品改訂問題の謎を解く一つの鍵が提示れているように思われます。



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n o t e s

1「美のはかなさ」
 『稲垣足穂大全X』(現代思潮社、1970年、p.304)。
 「顛末記」の【補遺】に挙げた「彗星一夕話」(文芸公論、1927年8月)にも、「通過に当つて流星群の雨下が観物であらうとやかましく噂され、僕は少からぬ期待をもつてゐたにかゝはらず六月の夜の都会の空はどんよりと曇つて、いたづらに晴間を待つてゐた僕に、ホーキ星からつたはつてくる一種の電気によつて或る人たちの頭脳に特異な幻覚を起させる……さういふお伽話のことを考へさせたにすぎなかつた」とあります。

2最初に結実した作品
 ポン彗星が最初に登場するのは「星使ひの術」(改造、1924年8月)です。その末尾には、あたかものちの「彗星問答」への伏線であるかのように、ポン彗星による幻影発生の一節が挿入されています。しかし、それはあくまでエピソードで、いまだ主題とはなっていません。したがって、ポン彗星幻想物語が作品として最初に結実したのは、やはり「彗星問答」だということになります。

3「私の宇宙文学」
 『大全T』 (p.151。以下、「私の宇宙文学」からの引用は同書から)。この作品の初出は『悪魔の魅力』(若草書房、1948年)収録ですが、「作家」(1957年2月)発表時に改訂されました。作品は、「1 ポン彗星の寂光土」「2 果たして月へ行けたか?」「3 タルホと虚空」「4 THE SPIRAL CITY」の4節からなり、タルホの「宇宙文学」系統作品の解説書となっています。以下、この第1章「ポン彗星の寂光土」を主に参考にしながら、「彗星問答」の世界を覗いてみることにします。

4博士
 「彗星倶楽部」に改題・改訂されて、「博士」は「ト゜・ジッター博士」と固有名詞に替えられました。

5 天文研究会
 同じく、天文研究会の名称は「スコルピョンソサイチイ」から、のちに「サジッテールクラブ」へと変更されました。これはタルホのある面白い発見に基づいています。「彗星倶楽部」によると、インタビューを受ける彼の胸には「おもだか」のメダルが付けられており、それはポン彗星が「射手座」をかすめたことの象徴とされています。タルホは、フランス語の “sagittaire” が星座の「射手座」と植物の「おもだか」の両方を指すことを発見して、それをシュルレアリスム仕立てに改変したのです。(「タルホ植物誌/オモダカ」参照)
 ちなみに、戦後の作品ですが、「赤き星座をめぐりて」(『多留保集6』 p.111、『稲垣足穂全集8』 p.98)では、「さそり座(Scorpion)」と「射手座」は自分にとって特別なものだったと述べています。

6西田正秋
 西田正秋は、タルホの作品中に、理数系の話題を提供してくれる級友Nとして、しばしば登場します。「空間の虹色のひづみ」(『タルホ座流星群』大和書房、1973年)には、彼が「真空の恐怖」「真空の時間」「マイナスの空間」「空間のひづみ」などの概念を持ち出したことが書かれています。「古典物語」(『稲垣足穂全集5』筑摩書房、2001年、所収)に出てくるNも、この西田君がモデルだと思われます。彼はタルホと同級生で、熊本中学から関西学院に転校してきたようです。理数的思考に独特のセンスがあって、また特異な観察眼をもっていたようです。「私の宇宙文学」にあるように、それまで「カルデア人の宇宙」のようなものしか知らなかったタルホに、「円錐宇宙」を教えてくれた級友でした。そういった方面ではタルホより進んでいて、彼に啓発されたところも大きかったものと思われます。
 アインシュタインの名も彼を通じて知ったようですが、一般相対性理論が発表されたのが1916年ですから、ちょうど彼らが中学3年生のときだったことになります。アインシュタインが来日したのは1922(大正11)年で、そのときには日本のマスコミにもアインシュタインのことが連日のように取り上げられました。しかし、一般相対性理論の重力理論である「空間のひづみ」のことを西田君から聞いたのは、それよりずっと前の話になります。西田君がどういうところから知識を仕入れたかは不明だとタルホは述べていますが、相当マセた少年だったことがわかります。
 「改訂増補ロバチェフスキー空間を旋りて」(『稲垣足穂全集5』同上、p.92)には、「私の数篇の半自伝的作品の所々に顔を見せる級友Nは、上野の芸大で、美術学校以来、解剖美学の教鞭を取ってきている西田正秋教授のことである」と記されています。また、「鉛の銃弾」(『鉛の銃弾』文藝春秋、1972年、p.166)には、西巣鴨新田時代のエピソードとして、「この頃大塚終点からバスに乗って、ちょうどそこに坐っていた美校教授の西田正秋から、『よう、これは親分衆でござんしたか』と云われたことがある」と書かれていることから、上京後のこの時代も互いの消息は途絶えていなかったようです。

7 4種類
 概説書では一般に、「円」は「楕円」の特殊なものとして考え、円錐曲線を「楕円」「放物線」「双曲線」の3種類としているものが多いようです。余談ですが、六角形の鉛筆を鉛筆削りで削ったときにできる円錐面には、6つの双曲線ができます。

8気づいていませんでした
 「双曲線宇宙」が初めて現れるのは、「彗星問答」から11年後、1937(昭和12)年4月(最後の上京をして横寺町に移る前、馬込の衣巻省三方に寄寓していた時代)に「文芸汎論」に発表した「似而非物語」です。「P博士の楕円的(貝殻状)宇宙」に対する、「Q教授の双曲線的宇宙」として登場します。「P博士の貝殻状宇宙に就いて」(科学画報、1930年9月)には、まだこの双曲線宇宙は登場していません。

9 「彗星問答」
 改訂作である「彗星倶楽部」(『稲垣足穂全集1』所収)と「生活に夢を持っていない人々のための童話」中の「U奴豆腐と箒星ハレツとの関係」(『おくれわらび』所収)との間には若干異同が見られます。以下、対比の参考には最終稿である後者から引用することにします。
 「a ……宇宙とはこのような円錐体として抽象さるべきものであり、その頂点にユートピアがある。普通の平凡な星々にはただ円錐面に沿うて、軸とは直角的に螺旋経路を保ちながら徐々としてユートピアめざして登攀して行くが、彗星では直接的に上方へ飛ぶのが特徴である。即ち彗星はボルシェヴィキであり、サンジカリストである。……ではこの彗星はいったい何者なのか? 普通の星が正規の進路に飽いた時、また何らかの情熱に燃え上ったさいに、だしぬけに脱線して彗星化するのであるが、これがためには、地球上にもしばしば出現する天才や革命児についてジョルジュ・ソレルが述べているところと興味ある一致を示して、どの星も、彗星になるためには、一種の神話的要素を必要とする。」
 「b 先のファンタシウムがつまりその神話的条件に相応するわけですね。」(p.158〜159)

10ソレルの革命思想
 「ソレルによれば、プロレタリアートは主体的に組織をも指導をも必要とせず、また客観的条件をも必要とせず、行動を即刻の勝利へ導くには革命の神話、革命への信念で十分である」(『アナーキズム的ユートピア論』ブルーノ・フライ著、真下真一・宮本十蔵訳、青木書店、1976年)。『マルクス主義の解体』『暴力論』『進歩の幻想』などの著作で知られるソレル(Georges Sorel, 1847-1922)ですが、その翻訳を含めて、大正期にどのような形でわが国に紹介されていたのか詳らかでなく、またソレルの革命思想をタルホが何から「聞きかじった」のかも不明です。「末梢神経又よし」(文芸時代、1925年4月)、「来らんとするもの」(新潮、1925年7月)などには、プロレタリア文学に対する意見も垣間見られますが、手がかりになるようなものではありません。ただ、大杉栄も1916(大正5)年に「ベルグソンとソレル」を著しているように、ソレルがかつてベルグソンの弟子で、思想的に大きな影響を受けている人物であったということは、タルホがそれを知っていたのかどうかは別にして、興味を覚えます。
 晩年になって、「私は無政府主義者やけど私はむしろ観衆の暴力が爆発するような革命のほうがよろしい。そう、法律とか権力はいかん。過激派の戦闘のほうがわかるね。根底的に時間の否定、歴史から逆流するところに私の宇宙感覚があるのです。マルクスも歴史否定を考えたんじゃないですか。私は釈尊の道をとります」(「男と女」『多留保集1』、p.52)と語っているところには、ソレル的な片鱗が覗いています。もちろん、タルホがアナーキストの立場で「政治的な発言」をしたことはなく、大杉栄についても、1923年の事件について直接触れることはなく、「昔の社会革命家はしかしハイカラーな世渡り坊主であり、旅館ホテルの常連であり、おかず食いでもあった。私の知る限り大杉栄がそうであった」(『男性における道徳』中央公論社、1974年、p.64)と述べるにとどまっています。
 なお、戦後の困窮時代、共産党員だった金親清のもとに居た頃のことを書いた「赤き星座をめぐりて」(『多留保集6』、p.99〜)は、タルホの共産主義に対する見方(キリスト教、実存主義を経た後の)が窺われる作品です。

【追記】 「鉛の銃弾」(『鉛の銃弾』文藝春秋、p.140)に、「……TYは昼間は、傍えに近所の洋食屋から取寄せたお銚子と盃をそなえて、吉行栄助が間をおいて出していた『虚無思想研究』に頼まれた、英訳“Reflection of Violence”をボツボツ訳し、晩にはステップを習うために、ホールに顔を出していた」とあります。これはタルホの池内舞踏場時代の出来事で、TYとは山ノ内恒身のことです。そしてこの英訳“Reflection of Violence”とは、ジョルジュ・ソレルの“RÉflexions sur la violence”、すなわち『暴力論』のことを指しているものと思われます。また同書p.136には、「TYとアナキスト達の繋りも亦、彼が東屋で大杉栄と知り合ったことをきっかけにしているのだろう」などとあることから、山ノ内恒身を通じてソレルを知ったということも考えられます。

10-1ゴシック様式かルネッサンス様式かはわかりませんが
【追記】 西洋建築史の本を見ていて、たまたま見つけました。このパナマ博のパヴィリオンを建設したのは、アメリカ人のバーナード・R・メイベックとウィリス・ポルクという建築家で、その様式は「新古典様式」ということが出ていました。

11 「彗星問答」
 「生活に夢を……」(『おくれわらび』、p.161)では、「不思議なのはその全体の大きさです。なぜなら、一同が集まっている広間の次にある、黒い幕で壁面を囲った小室のテーブル上に現われているので、ほんの模型か玩具のようなものでなければならない筈なのに、その奇抜なオブジェは、鴉片の夢を説くド・クィンシーのいわゆる『肉眼で見るに適しない巨大さ』に置かれていたからです。この途方もないキュビズムの喇嘛宮殿、それとも回教寺院に附属している最小の角錐にしても、ギゼーにあるピラミッドの幾百倍もの容積を持っているように見受けられた」。

12空間の膨張
 子供の頃に熱を出したときに感じた記憶を想起させます。朦朧とした意識の中で、任意のある物が突如、巨大なバルーンのように膨れ上がると、それに反比例して「自分」は吸い込まれるように一気に小さくなっていきます。ジェットコースターに乗ったときのようなこの気分は、追い払うこともできますが、呼び戻すこともできます。

13ド・クインシー
 トマス・ド・クインシー(Thomas de Quincey, 1785-1859)の『阿片常用者の告白』(Confessions of an English Opium-Eater)は、タルホにとって早くからの愛読書の一つでした。のちに、「私は、デ・クィンジイの『オピァムイーター』と、ウェーデキントの『春の目ざめ』を、世界文学の中で最も愛する」(「神・現代・救ひ」『多留保集8』、p.37)とまで言い切っているくらいですから、タルホとこの『阿片常用者の告白』との関係については、今後大いに研究の必要があるでしょう。
 「自分が十代の終りに手にした谷崎精二訳のポオは、観念的すぎて一向に面白くなかったが、その次に読んだ辻潤訳の『英国鴉片常用者の告白』には、一晩じゅう惹き付けられた」(『鉛の銃弾』文藝春秋、p.137)と語っています。辻潤訳のこの本が『阿片溺愛者の告白』として三陽堂書店から出版されたのは大正7(1918)年ですから、ド・クインシーのほうも10代の終わりに読んだようです。「唯美主義の思い出」(『大全Y』、p.419〜420)に、上京後に佐藤春夫と神楽坂を歩いているときに、辻潤と初めて出会ったときのことが記されています。初対面の辻潤に対して「貧乏エビス」の印象を抱いたタルホは、「これがあのデクィンシーの紹介者であるか」と驚いています。それは大正10(1921)〜11(1922)年頃のことになります。
 同じく「唯美主義の思い出」には、次のようにあります。「辻潤の名訳『オピアムイーター』は、私はとっくに一読した。ポオの諸作が未だ観念的にすぎて判らなかった頃だから、期待した阿片の夢の素晴らしさがいっこう覚えられなかったものだ。五、六年経って二十四歳の時に再び読み返して、今度は感心してしまった。閨秀逍遥派のアンを求めて、倫敦市中に探し廻る箇所なんか、涙で字が辿れなくなった程だ。十年経って又読み直した。そして、ウェーデキントの『春のめざめ』と並んで、これが世界文学の中で最も自分の気質に叶ったものになった」(同上、p.421〜422)。この年代を当てはめると、『オピアムイーター』を読んだのは、上京前、巣鴨新田時代、古着屋を営んでいた明石時代、の3つの時期に相当することになります。
 なお、タルホは『オピアムイーター』の英語版も持っていたようで(「新感覚派前後」『大全Y』、p.408、および「『ヰタ・マキニカリス』註解」『稲垣足穂全集2』、p.384参照。辻潤は「エブリマンズ・ライブラリー」と「マクミラン・ポケットクラシックス」を底本にしたと序文に書いています。タルホが口絵を写し取ろうとした叢書風の一冊というのは、前者のほうだと思われますが、未見です。ご存じの方がありましたら、ご教示ください)、しばしば英文の引用が見受けられるのはそのせいかもしれません。また、Murderconsidered as One of Fine Art などへの言及もあるので(「鉛の銃弾」同上、p.202、正しくはMurder Considered as One of theFine Arts)、ド・クインシーの他の著作もいくつか読んでいたようです。

「マクミラン・ポケットクラシックス」の扉

 ところで、タルホは阿片経験者なのか? この問題については、次のような記述から想像するしかありません。「P博士の貝殻状宇宙に就いて」(「似而非物語」)にはラウダナムが出てきますが、これについて、「シャーロック・ホームズ愛用のコカインに倣って、鴉片丁幾(チンキ)を持ち出したが、これは衣巻夫人を介して自分にも経験があったからである。彼女はラウダナムを常用するような病身であった。萩原朔太郎も私と同様な経路でこれに取り憑かれ、ラウダナムを飲んで新宿界隈(この頃、彼は世田ケ谷に引越していた)をふらふら歩くのはよい気持だと、いつか私に洩したことがあった」(「『ヰタ・マキニカリス』註解」『稲垣足穂全集2』、p.400)。すなわち、経験があったと述べています。しかし、それを常用したとは考えられません。
 むしろこの問題は、タルホにおいてはアルコールに置き換えてみるべきでしょう。ド・クインシーの阿片中毒を、タルホはみずからのアルコール中毒と重ね合わせていたはずで、ド・クインシーへの傾倒はその進行過程と正比例の関係にあったのではないかとも考えられます。その壮絶な歴史の一端は、最晩年の「狂気か死にまで行くべし――私の酒歴書」(『タルホ事典』潮出版社、p.40〜)参照。

14阿片の夢
 ド・クインシーは、とくに自分を苛んだ「阿片の夢」を4つ挙げていますが、その中の1つが空間の膨張と時間の延長です。「終には、空間及び時間の観念が両つながら、著しき影響を受けた。さまざまの建物や景色などが、肉眼では殆んど見るに適しない程、巨大な姿で現はれた。空間が膨張して、形容しがたき広漠無限の領域に拡大された。しかしこれは時間の莫大なる伸長程私を悩まさなかつた。私は時に一夜に七十年乃至百年を生きたやうに思はれた。否、時には、一千年の長さを感じたことさへあつた。勿論かくの如きは人間経験の範囲を遥かに絶した長さであつた」(辻潤訳『阿片溺愛者の告白』、三陽堂書店、1918年、p.204)。
 タルホは、この「阿片の夢」のうち、空間の膨張のほうをここで採用しているわけです。さらに、後で触れるように、都市が骸骨に変化したとき、「みじかいその間にも、何千年の時がながれたように思えた……」と、時間の延長についても援用しています。

15「ファントム抽出の練習」
 「生活に夢を……」(同上、p.167)では、「ド・クィンシーが鴉片談義に述べているような、それとも一般児童が寝室の闇中で自ら試みるような、ファントム抽出の練習」となっているので、これはド・クインシーが、「多くの子供等は、殆んどたいてい、暗黒に対して、あらゆる幻影(フハントム)を描く力を持つてゐる。或子供にあつては、それが単に眼球の機械的傾向である。しかし他の子供等はかれ等を集散離合せしむる任意、若しくは半ば任意の力を持つてゐる」(辻潤訳、同上、p.200〜201)と述べていることを指しているものと思われます。

16「彗星問答」
 「生活に夢を……」(同上、p.162)では、「滅入るとも消え入るとも、何とも云い様のない快い淋しさがそそり立てられる……それは東洋の教典にある『極楽』を想わせた。実際、じっと向い合って望見しているうちに、東方のメロディーを聴いたり古代寺院の内部で香料を嗅いだりした折のように、日常生活的の一切の煩わしさから逃れて、このままあの都へはいってしまいたいという厭離の念と、同時に現世に対する底知れぬ倦怠感が胸の中におし寄せてきた」。

17 「彗星問答」
 「生活に夢を……」(同上、p.164)では、「即ち千八百――年、ポン並びにウインネッケ両氏によって相前後して発見された小彗星は、そのような怪奇な頽廃都市にたいする憧れから醸成されたもので、いつかは彼の円錐体の頂点に達して理想を実現する運びになる。ポンの寂光土とはおそらく其処であり、この予想がたまたま同彗星の尾が地球をかすめた夜半に、吾々のハルシネーションとして具体化された迄である云々」。

18「極楽」と「寂光土」
 「極楽」とはご存じのとおり阿弥陀仏のいる世界。「寂光土」は「常寂光土」のことで、仏教辞典には次のような説明があります。
 「法身の住する浄土。理想と現実、静(寂)と動(光)の本来(常)一体な世界のことで、それは、こことあそこ、此岸と彼岸を超えて体得される真の絶対界であり、常住の浄土である。そこで見られる仏は、時間・空間にわたっての宇宙の総合統一体(法身)であり、真に永遠にして絶対的な存在である。円教の立場をとる人びとの理想的境地となるものである。天台宗で立てる四土の一つ」(中村元『佛教語大辞典』上巻、p.757、東京書籍、1975年)。
 すなわち、一方は浄土系の報身仏(阿弥陀仏)が主宰する世界、片方は天台系の法身仏(大日如来)の具現世界ということで、仏教の世界では両者はまったく性格を異にしたものであることがわかります。「彗星問答」で提出された円錐宇宙(原始宇宙である大円=無限大の円が変化したもの)においては、その頂点(ユートピア)では時間と空間の形式が消滅する、としています(PART2で詳述予定)。その意味では、ポン彗星が円錐宇宙の頂点に抱いているユートピア都市を「寂光土」に擬しても、それほど突飛な比喩ではないのかもしれません。
 しかし、ここでタルホがこんな語義的問題に拘泥しているわけではありません。「極楽」については、タルホには「香爐の煙」や「秋五話」など東洋趣味の作品もあることから、そういった側面と結びつけることもできるでしょう。また「寂光土」については、仏教本来の語義というよりむしろ、「寂光」という漢字のもつイメージが、あのかそけき幻影都市を形容するに、まさにふさわしいと考えたからではないでしょうか。
 もっとも、後年に至って、タルホは次のように自らの仏教的立場を明確に語っています。
 「われわれの現実は、本願成就の報身仏の場などいうことでは解釈されない。そのままにそれは、無始本来の法身仏の手足であることを要請している。大日如来への帰依、南無遍照金剛の道になってこそ、云い換えると、『浄土往生』を『即身成仏』に修正してこそ、われわれの方程式は満足する」(「聖道門への憧れ」『大全Y』p.504)。
 タルホが仏教世界への理解を急速に深めていったのは戦後、京都に移ってからですから、「彗星問答」を書いた20代の時点ではもちろん、仏教に対してここまで明確な理解があったわけではありません。しかしながら、自らの美意識を形容するのにこうした仏教用語を用いた、というところに仏教に対する当時のタルホの視点が窺われるのではないでしょうか。それらの言葉が自らの唯美世界を構成する一つのエレメントとして用いられたにすぎないとしても、それはタルホが仏教に対して決して不感症でなかったことを証明しています。30代の終わりに「弥勒」を発見したタルホですが、それが仏教世界との最初の遭遇だったという陥りがちな誤解を訂正するためにも、ここでその点を指摘しておきたいと思います。
 なお、「私の宇宙文学」において、「彗星問答」の系譜の物語を解説した章に「ポン彗星の寂光土」というタイトルを与えていることを見ても、タルホがこの言葉に特別の愛着をもっていたことがわかります。

19髑髏
 「大旨の子供がそうであるように僕も、クロッスボーンズの上に載った髑髏が大好きであった。中学生の頃、戦争画報のページにフランス空軍の『スパッド』を見たが、この胴部には、両肩に羽根を生やしたガイコツが、今しもそれを破って出てきた柩に腰かけている絵が描いてあった」(「扇の港」『多留保集2』、p.107)などとあるので、こうした意匠としての骸骨はタルホにとって親しいものだったようです。また、「中学生も上級になった頃、自分は空想した。『物柔らかな春の月がたくさんな十字架や土まんじゅうを照らしている所で、どくろと対座して人生観を語りたい』と。これは活動写真で観たハムレットの一場面と、野川臼川訳『春の目ざめ』の終幕とに由来しているのであるが、その根底にはやはり、古くから家に在って、明石までお伴してきている、あの褐色になった骨片があるとしなければならない」(「虚空を天狗と来ぬる国いくつ」『多留保集5』、p.140)として、家業の歯科医院に子供の頃からあった下顎骨について述べています。この骨については別のところで、「これが私のおもちゃの一つになっていた。……この古びた奇妙な陶器のかけらのようなものが、かつて動いていた人体の一部分であった時に、どのような想いを脳裡に去来させたことであろうか……と、私はしばしば考えてみた。こんな次第をのけて、別に人間の死を直接に結び付けるような題材は、自分の身辺になかった」(「二十五歳までに決定すべきこと」『多留保集8』、p.82)と語っています。

20生の対立項
 この問題はPART2で言及することになると思いますが、「彗星問答」の円錐宇宙モデルにおいては、「生命」は「物質」に対応するものとされています(「彗星倶楽部」以降、この箇所は削除)。しかもこの両者は螺旋軌道のピッチの違いでしかありません。

21美学上の対象
 「自らの身体に銃弾乃至刃物が侵入するという仮定の下に行われる遊戯は、当然、心理的な異物関与である」(「少年愛の美学」『稲垣足穂全集4』、p.122)と語っていますが、タルホは少年時代から「死ぬ真似」が上手だったようです。「まず少年時代に戦争フィルムで憶えたいろんな兵士の倒れかたがあって、これから発展した「戦死百態」、あとを受けて『春のめざめ』劇のモーリッツのピストル自殺、『若きウェルテル』の死、『死の勝利』の無理心中、『悪霊』の中のキリロフの終焉、遡ってはアラスカの酒場における破落戸(ごろつき)の最期。これは『ブルーバード』映画のロンチャニーの仕草で憶えたものである。サムライの切腹がそれに加わって、いったんウイスキの酔でも廻ったならば、私は何でも演じてみせる」(『東京遁走曲』昭森社、1968年、p.15)。少年時代のこのような死の擬似体験の中でも、そのインパクトが最も強烈だったのはもちろん、「十二、三才の頃からは飛行機で死ぬことが理想であった」と語っているように、武石浩玻をはじめとする飛行家たちの墜落死だったわけです(「TAKEISHI KOHAを知っていますか?」PART2「ネガティヴな一日」参照)。
 タルホのこうした一連の擬似体験を見ると、その背景にあるのは、漠然とした「死」への憧憬というより、むしろ「死に方」への憧憬だったと言ってもいいのではないでしょうか。すなわち、「絶え間のない飛行家の死ほどに美しいものがあろうか」とマリネッティの言葉を借りて述べているように、この時代のタルホにとって、死とはあくまで美学上の対象だったのではないか。中学時代に、死すらも突破するベルグソンの「ピュアデュレイション」を理解したと信じたタルホにすれば(「古典物語」参照)、「死に方」はあっても「死」はなかったのかもしれません。言い方を換えれば、それだけ「死」から遠い地点にいたのだとも言えます。
 身辺に死が迫り、否が応でもそれと向き合わなければならなくなったのは、やはり身内(とくに父)の死がきっかけだったように思われます。そして落魄の我が身と重ね合わせ、死そのものを形而上学的対象として深めていく作品が見られるようになったのは、最後の上京をした1936(昭和11)年以後のことになります。

22人形
 「彗星問答」と同じ頃に発表された「来たらんとするもの」(新潮、1925年7月)、「われらの神仙主義」(新潮、1926年4月)、「芸術派の意義」(新小説、1926年4月)等には、若き時代のタルホの考え方が具体的に示されているという点で貴重です。「われらの神仙主義」には次のような一節が見えます。「われらは一さいの人間、木、家、花、動物から気に入らない生命をぬきとり、更に電気をふきこんで新たに生かさうとするのだ。云はずとしれたかやうな改造をもつて、やがて地球をとりまく規模広大なトーイスランドにあづからしめようとする。……即ちわれらは人間である人形であらうとするのである」。この作品は一種のマニフェストとも言えるものですが、こういった宣言がそのまま、人生派、生活派といった当時の自然主義的立場への批判となっていることは言うまでもありません。

23不吉さ
 ただし、「彗星問答」より3年余り後に書かれた「おうろら・ぼりありす」には、「……今後のすべてにおけるエフェクトは、何かそれが不吉に近いところに狙われねばならぬ。そしてこれは私のつけ足しによると、死の香りをふりまくものと云うより、真空管のなかの或る放射線のひびきと光に近いものであらねばならぬのでした」(新潮、1929年11月、『多留保集7』所収、改訂作「北極光」『稲垣足穂全集2』所収)という一節もあります。

24適当なもの
 先にも述べたように、この幻影都市によってもたらされる感情について、「世界が幾百世紀もすぎたときにくる『たそがれの感情』」(「彗星問答」同上、p.35)だとしています。すなわちレッドコメットシティには、20世紀とか21世紀といった単位をはるかに超えた、遼遠なる時間的属性が付与されています。もちろん骸骨にはこのような属性、時空的拡がりがありませんから、その意味では、この幻影都市および物語宇宙全体を象徴するものとして必ずしも適切なものとは言えません。タルホの心の引っかかりは、そういったところにあったのではないかとも想像されます。

25赤い軍艦
 この軍艦は、いわゆる「コリントン卿の幻覚」に現れるもので、タルホがすでに中学時代から持っていたイメージ(「『ヰタ・マキニカリス』註解」『稲垣足穂全集2』、p.399)。渋谷道玄坂時代に、友人を青山の病院に見舞った折、そこで目にしたホワイトロシアの中将をモデルに「コリントン卿の幻覚」の物語が完成した、とあります(「鉛の銃弾」同上、p.98)。「弥勒」(第1部)のほか、「KINEORAMA」(『稲垣足穂全集1』、p.345)およびこの改訂作でもある「コリントン卿登場」(『パテェの赤い雄鶏を求めて』新潮社、p.141)参照。

26 「彗星問答」
 「生活に夢を……」(同上、p.163)では、「……都会の上空に、眼も醒めるような真紅色に灼けた一箇の砲弾が、その当体が認められるくらいの緩速度で、弧を曳いて舞い上って来たとみると、急に宙ぶらりんに停止した、と思う間もなく炸裂した! 人けのない広大なスタジオの内部で、硝子壜がひとりでに木葉微塵になったような音ともろともに、周囲へ飛散した破片が、そこにそんな花が咲いたかのように空間に貼り付けられてしまったが、爆発の中から別のやはり真赤に灼けたシェルが誕生して、くるくると活発な魚が泳ぐように、何かを探すようにその辺を巡ってから、キュービズムの骸骨の片肘をついた手首の所へ自身(砲弾)の尖端をくっつけたと見ると、遠景全体が画面であるかのように、そこを起点として珍奇な蘭の開花を思わせる書記体を綴った。(aは指先で砲弾ペンの筆蹟を真似る)The Red Comet City.」。

27 いくつかの作品
 「ポン彗星の都は、ジャック・マルホール並にワニタ・ハンセン主演の連続活劇映画の毎回の初めに現われたタイトルに拠るところが多い。それは都市の夜景の上天に一箇の弾丸が飛出して、The Brass Bullet と字を書き付けるのだった」(「私の宇宙文学」同上、p.170)。
 「第一次大戦が漸く終り、アメリカ政府が大量に払下げたカーティス・ジェニー≠使用して、復員のオーマー・ロックレア中尉が世界最初の翼上歩行と空中乗換をやってのけた頃のこと、ユニヴァーサル会社の連続冒険活劇に、ワニタ・ハンセン、ジャック・マルホール共演の真鍮の砲弾≠ニいうのがあった。大正八年の春から夏の終りにかけてである。このシリーズの毎回の初めに、ボール紙細工の都会の夜景が現われ、その上空に飛来した一箇の砲弾(実は巨大な拳銃弾)が炸裂すると、内部から新しいタマが生れて、これがクイックマーチサラゴーサ≠フ旋律につれて踊りながら、その尖端でもって夜空に The Brass Bulletと書き付けるのだった。あのアートタイトルの上に覚えられた、ある未来的な、運動学的な効果に僕は魅せられて、あの感じを何と云い表わすべきか、それが永いあいだの懸案になっていた」(『タルホ=コスモロジー』(文藝春秋、p.153〜154)。
 「浅草の帝国館では、ユニヴァーサル会社の連続活劇、ワニタ・ハンセン、ジャック・マルホール主演の『真鍮の砲弾』が進行していた。これは、ジゴマ、ファントマ、プロテア等のフランス映画に刺激されて、アメリカで相継いで製作された、名金、拳骨、獅子の爪、ポーリンの冒険、獣魂、ライオンマン、運命の指環、灰色の幽霊、レッドサークル、ミラの秘密、七真珠、呪の家、赤手袋、的の黒星、消ゆる短刀、怪力エルモ、電光闖入者、月光騎手等々の一連に属するものである。『真鍮の砲弾』の毎回の初めには、灯火に飾られた海岸都市の横顔が現われ、この夜ぞらに一箇の砲弾が飛来して、尖端を鉛筆代りにして、The Brass Bulletとタイトルを書き付けるのだった。この意匠を借りて、私は砲弾を光の尾を曳いたヒコーキと取換え、自動車学校の事務所から出していた月刊『スピード』に載せた自分の文章のカットに使った。『芸術的に観たる飛行機』という題であった。神戸では洋画専門の朝日館が、少し遅れて『真鍮の砲弾』を上映していた。二巻目毎に、灯入りボール紙細工の都市の上空で、霞形とまばらな星影のある舞台で、ブラスブレットの孤独な舞踏が訴え続けていた謎が、ついに釈けた。沖合いの魔の小島はいまはパラダイスに一変し、子供たちがブランコやシーソーに打ち興じている大団円を、N君といっしょに観て、新開地通りの色電気の下へ出たのは、Nが明日にも帰京しようとしていた、九月下旬のことである」(「カフェの開く途端に月が昇った」『稲垣足穂全集5』、p.206〜207)。
 そのほかにも、「額縁だけの話」(『大全Y』、p.590)、「真鍮の砲弾」(『パテェの赤い雄鶏を求めて』新潮社、p.193)などで言及。

28大正8(1919)年の春から夏
 この映画のタイトルシーンを実際に観てみたいものですが、写真でさえ知り得ないのは残念です。ご存じの方がありましたら、ご教示ください。
 大正8年といえば、3月に関西学院を卒業して、すぐに自動車免許取得のために初めて上京した年になります。したがって、上記注27の「カフェの開く途端に月が昇った」の記述中に、「浅草の帝国館では……」とあるのは、その上京中のことになります。『月刊スピード』に文章を載せたというのも、その折のことです。免許取得後、タルホは6月に明石へ帰りました。同じく注27に、「神戸では洋画専門の朝日館が……」とあることから、タルホは帝国館と朝日館で少なくとも2度『真鍮の砲弾』を観たことになります。なお、ここに出てくるNというのは、飛行機好きではタルホの先輩にあたる那須徳三郎のことだと思われます。

29タイポグラフィー
 この種のタイポグラフィーを用いたものとして、「バンダライの酒場」(G.G.P.G.、1925年5月)の半円形の“BANDALY'S MERRYGO ROUND”(改訂では“PANTARHEI'S MERRY-GO-ROUND”)、「天体嗜好症」(女性、1926年4月)の同じく半円形の“TRAVELING TO THE MOON”があります。
 また、文字を罫囲みして文中に挿入したものに、「星を造る人」(婦人公論、1922年10月)の名刺、「月光密輸入」(虚無思想、1926年4月)のビラ、「ラリイの夢」(文芸道、1926年4月)の新聞記事、などがあります。
 なお、こうした手法とは区別すべきでしょうが、タルホは文中に補足図を付ける傾向があるようです。その例として、「私とその家」(新潮、1923年9月)の三角辻地図、「タルホと虚空」(G.G.P.G.、1925年7月)の円錐宇宙模型と月旅行図、この「彗星問答」における円錐宇宙模型、「奇妙な区劃についての奇妙な話」(文学、1930年3月)の地図、「P博士の貝殻状宇宙に就いて」(科学画報、1930年9月)の貝殻状宇宙模型、などを挙げることができます(「緑色の円筒」〈世紀、1924年12月〉の暗号もこれに加えるべきでしょうか)。これらは、絵心があって『第三半球物語』や『天体嗜好症』などに自らイラストを描いているくらいのタルホですから、そうした筆の余滴なのかもしれません。
 タルホのこのタイポグラフィックな表現に着目した人に茂田真理子氏がいます。その著書『タルホ/未来派』(河出書房新社、1997年)において、「足穂の『自由語』」という一節を設け、マリネッティ、平戸廉吉、萩原恭次郎らのタイポグラフィーを使用した作品を参考に挙げた上で、「バンダライの酒場」を引用して次のように述べています。「自由語という形式を成立させる主要な用件としてあげられるのは、タイポグラフィーの使用とオノマトペの多用の二点である。この時点で、散文作家としての足穂には既にある程度の限定が課されることになってしまう。オノマトペはともかく、タイポグラフィーの多用は散文という形式の中では受け入れがたい。しかし、それでも足穂は散文の統一性を破壊しない範囲でタイポグラフィーの試みを行っている」。ここで茂田氏は、「自由語」という視点からタルホのタイポグラフィーとオノマトペの両方に注目しています。
 平戸廉吉(1893-1922)については、タルホは次のように述べています。「早稲田鶴巻町の街上で、未来派ばりの詩を印刷したちらしを配布している人を、数回見たようだ。平戸簾(廉の誤植)吉であって、彼は間もなく亡くなったが、危篤の床上でなお紙片を求めて夢中に手をうごかせていたなどということが伝えられた。然し私は、先のロシア未来派もそうだが、どうも赤いパンタロンを穿いて街頭運動をするようなことは、大きらいであった」(「新感覚派前後」『大全Y』、p.407。「カフェの開く途端に月が昇った」同上、p.218にも同様の記述)。平戸廉吉はマリネッティの影響を受けて、「大正10(1921)年12月、『日本未来派宣言運動 東京=平戸廉吉 MOUVEMENT FUTURISTE JAPONAIS Par R-HYRATO』というリーフレットを日比谷街頭で配布」(『日本現代詩辞典』桜風社、1986年)とあるので、タルホの記述は、その折のことを指しているものと思われます。
 タルホはまた、「未来派の詩、音楽劇と称せられるものは、いずれもちゃらぽこな月足らずの思い付きであって、取上げるだけの価値すらもない」とし、「未来派は、絵画にとどめを刺す」と断言しています(「カフェの開く途端に月が昇った」同上、p.202)。しかし、もちろんこれらは後年の言で、新興芸術の潮流のただ中に身を置いていた20代のタルホが、表現方法の上で同時代の詩人たちから大きな影響を被っていたことは否めません。たとえば、茂田氏も指摘するように(上掲書、p.86)、平戸廉吉が自作の「函の中の音楽」で用いた擬音“voru-ruru-ruuunuuu”と、タルホの「白いニグロからの手紙」(文芸時代、1926年8月)における“Vron-vron-vron-rrrrrrr”という表現の相似は、「まったくの偶然とは考えにくい」からです。
 小関和宏氏は「アヴァンギャルドの実験」において、神原泰や平戸廉吉の詩を例に挙げて、わが国における未来派受容の流れを紹介したあと、「前衛芸術をめぐる動きは東京など大都市だけでなく、一九二三年五月には岩手県でも立体派や未来派を紹介する展覧会が開かれ、注目を集めていた。その背景には、各地に広がった機械文明の浪に衝撃を受けて、新たな想像の世界に飛び出した青年層があった。明石に育ち、飛行機に熱狂し、未来派の動向に耳目をそばだてながら中学の友人たちと同人誌『ダダ』刊行を企画した稲垣足穂もその一人であったと言えよう」(和田博文編『近現代詩を学ぶ人のために』第9章、世界思想社、1998年)と、アヴァンギャルド芸術の文脈の中でタルホの名前を取り上げています。
 明石時代から石野重道、猪原太郎らと親交があり、上京後は野川孟・隆兄弟の創刊したダダ的前衛詩誌「G.G.P.G.」(GE.GJMGJGAM. PRRR. GJMGEM)に加わったり、橋本健吉(北園克衛)、田中啓介、上田敏雄らと先駆的シュルレアリスム誌「薔薇・魔術・学説」に関わったタルホは、詩人たちとは一定のスタンスを取っていたとはいえ、そうした運動の一翼を担っていたことになります。最近になってようやく、このような詩誌を総括的に収集・整備していく研究が進んできているようです。『現代詩誌総覧』(内堀宏・他編、全7巻、日外アソシエーツ、1996年-1998年)には、未見のタルホ作品も散見されます。タルホの関わった詩誌について触れたものに『稲垣足穂の世界』(中野嘉一著、宝文館出版、1984年)がありますが、最近の詩誌研究の進展と並行して、今後こうした方面からの系統的なタルホ研究が必要でしょう。
 ところで、初期作品に現れたタイポグラフィックな表現は、のちの改訂によってことごとく影を潜めてしまいました。組版上の制約からというのでなく、それを「若気の至り」と見なすタルホ自身の「成熟」がその理由ではないでしょうか。

30黒頭巾のエコー氏
 この人物は、「彗星問答」の2年前に発表された「星使ひの術」にすでに登場しています。そして「私の宇宙文学」(同上、p.151)で明かされているこの秘密の会合については、「星使ひの術」の末尾の記述(「神戸クロニクル」の記事)がそっくり用いられています。

316月26日
 作中でポン彗星が最接近したとされるこの日付は、「彗星問答」では6月26日、「彗星倶楽部」(「生活に夢を……」)では6月27日、また「私の宇宙文学」では6月24日となっています。ちなみに、初出の「星使ひの術」では7月3日だったのが、改訂された「『星遣いの術』について」(『稲垣足穂全集2』所収)では、6月24日に変更されています。

32赤いマスク
 「生活に夢を……」(同上、p.166)では、「白頭巾の連中が毎木曜日の夜中に古代の妖術教めく儀式をやっていた」。

33関心と知識
 「彗星問答」には登場しませんが、神秘思想家・E.スウェーデンボルグ(1688-1772)をはじめとして、W.クルックス(1832-1919)、N.C.フラマリオン(1842-1925)、A.C.ドイル(1859-1930)など、後年になってスピリチュアリズムに傾倒した科学者や作家たちをタルホは取り上げています。中でも英国の物理学者・サー・オリヴァ・ロッヂ(Sir Oliver Joseph Lodge, 1851−1940)に対しては、特別の愛着を持っていたように見受けられます。ロッヂは無線電信の開拓者として、また、いわゆるエーテルが存在しないことを証明して相対論を正当化した人物ですが、第一次大戦で息子を失ったのを契機に、後半生を心霊研究に捧げたことは有名です。
 ロッヂ卿の名前は、すでにタルホ最初期の作品「星を造る人」(1922年)に登場しています。ほかにもロッヂの名前の見える作品を拾ってみると、「星使ひの術」(1924)、「来るべき東京の余興」(1925年)、「P博士の貝殻状宇宙に就いて」(1930年)、「弥勒(第1部)」(1940年)、「宇宙論入門」(1947年)、「白昼見」(1948年)、「洋服について」(1964年)、「廻るものの滑稽」(1970年)、などがあります。これらを見ると、作家として初期・中期・後期の全般にわたっており、関心が決して一過性のものでなかったことがわかります。初期には彼らの名前を登場させるだけで終わっていたものが、中期以降ではスピリチュアリズムに対するタルホの態度が窺われて、興味深いものになっています。みずからの境遇の大きな変化にもかかわらず、折に触れて呼び覚まされてくる何物かがそこにあったことは確かです。
 スピリチュアリズムへの接近といっても、タルホの場合は文献上に限られていたと思われます。しかしそれが、いつ頃どんなきっかけによるものであったかは定かではありません。ロッヂ卿の『心霊生活』(Survival of Man)は、1917(大正6)年にわが国で翻訳出版されていますし、後年、タルホは「宇宙論入門」で、戦死した息子レイモンドのエピソードなどに言及していますので(『稲垣足穂全集5』、p.387)、そうした翻訳書や紹介書のいくつかを、かなり早い時期に読んでいたことは間違いありません。なお、タルホお気に入りのベルグソンの名前が、SPR(Society for Psychical Research)の歴代会長の中に見えることも、あるいはスピリチュアリズム接近と何らかの関係があるのかもしれません。
 ちなみに近年、ロッヂ卿の『レイモンド』(野尻抱影訳、初版1924年、人間と歴史社、1991年)が再刊されており、高橋康雄氏による詳しい解説が付せられています。序文によると、野尻抱影は1921(大正10)年、水野葉舟、石田勝三郎と3人でJ.S.P.R(日本心霊現象研究会)を発足させています。また同書は、1922年に東京新光社より「心霊問題叢書」第一篇として刊行したものの改訂版だとあるので、出版界においても当時、こうした分野の本がシリーズ化される状況にあったことが窺えます。
 野尻抱影らがJ.S.P.Rを発足させた同じ1921年、大本教の第一次弾圧が行われて世間の耳目をひき、また浅野和三郎らの活動は、いわゆるインテリ層の関心を集めていたという社会的状況もあります。このように大正時代は、わが国でスピリチュアリズムがブームを迎えた時期ですから、タルホの関心も当時のそうした時代背景と切り離しては考えられないだろうと思います。いずれにせよ、タルホとスピリチュアリズムとの問題は、さらに研究の必要があります。