かつて、「いつか君といっしょにプロダクションを興したい、というのが僕の夢想だった」とまでタルホに言わしめた1喜劇役者、ラリー・シーモン。映画俳優の中で唯一人タルホのお気に入りだったラリー・シーモン。しかし現在、わが国でこの役者のことを文献上から知ろうとしても容易ではありません。同じサイレント時代の喜劇役者、チャップリン、キートン、ロイドらに比べて、その資料が圧倒的に少ないからです。もちろん専門家ではありませんから、情報収集能力には限界がありますが、わが国において、ラリーについて書かれた文献の少ないことは確かです。その意味では、タルホがラリーについて書いたいくつかの作品は、わが国の映画史の一資料としても貴重なものだと言えるかもしれません。
このような状況にあるとはいえ、タルホとラリー・シーモンの映画との関係を考えるためには、まずラリーその人、および彼の映画がどのようなものであったかということを、できる限り明らかしておく必要があります。きわめて限られた情報ですが、これまでに知り得た事柄をまとめてみました。
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I. はじめに
II. 三大喜劇王
III. 3年契約で360万ドル
IV. なぜラリーは忘れ去られたのか
I. はじめに
現在、わが国でラリー・シーモンのプロフィールを知ることのできる数少ない資料として、近年出版された『外国映画人名事典(男優篇)』(キネマ旬報社編、監修・北島明弘、1997年)があります。そこに取り上げられたラリーの記事(筈見有弘氏執筆)によると、彼の略歴は次のようになります。
「ラリー・シーモン Larry Semon、1889年7月16日、アメリカ、ミシシッピー州、[略歴]ジョージア州サヴァナで育つ。父は魔術師のゼラ・ザ・グレート。美術学校に学ぶ。ニューヨーク・サン新聞社の漫画かきからスタートし、1916年ヴァイタグラフ社に入り、翌17年から喜劇の脚本、監督をつとめたが、やがて自ら主演をするようになった。小柄で、白塗り、パッチリした眼が可愛らしく、やさしい善良ぶり。やたら動きまわり、20年代スラプスティック・コメディの人気者の一人となった。もっとも20年代後半になると自分の奇妙な外見に頼りすぎたため、人気が下降していった。『偉大なる喜劇』の著者デイヴィッド・ロビンソンはラリーを"すぐれたギャグマンであり、一種シュールリアリズムに達していた"とたたえている。28年10月8日、50万ドルの借金を残し、肺炎のために死去」(p.977)
タルホの作品「ラリー・シーモンの回想」2は、この喜劇役者に対するタルホの切ないまでのオマージュとなっていますが、この中にもラリーのプロフィールに触れた部分があります。
「君の舞台出らしいことは、僕には最初から判っていたが、君のお父さんは旅廻りの魔法師で、そしてサーカスの雰囲気に成育した君は、十一歳で歌手として金牌を貰ったのだそうだね。また、ニューヨークヘラルドに在籍したことが、君をしてあんなにたくみに漫画を描かせているんだってね。他の連中が持ち合わさないそれらの経歴と才分、そしてその君の上に生起したであろういろいろなことが、君を二十世紀ピェローに仕立てた」
また、「ラリー・シーモンの芸風」3には、さらに詳しく次のように記されています。
「ラリーシーモン(Laurence Semon)はミシシツピイのウエストポイントに生れた。お父さんは旅まわりの魔術師であつて、ラリーはそんな曲芸団のアトマスフエアのうちに育つて、十二のとき歌手としてサンフランシスコで金牌をもらつたことがあつた。又多方面な才分はのちに彼を漫画家として有名にした。そしてニユーヨークヘラルド、テレグラフ、テレグラムなどにペンをふるつた。千九百十七(?)年の七月、ヴイタグラフ社の社長アルバートイースミス氏に認められて俳優及監督として入社して、ラリーコメデイの主演監督にあたつた。千九百廿四年頃から長編をこしらへたが、近頃は失意であつた。最近八万弗の資金でプロダクシヨンを経営してゐたが成績は芳しからず、二千弗の金にも困つて破産の云ひわたしを受けたほどである。そして映画界多事なこの千九百廿八年の中秋十月八日、三十九才を一期として世を去つた」
ラリーの経歴について、これら以上に詳しく記したわが国の文献を、管見にして知ることができません。
さて、ラリーのプロフィールについて、サイト上にそれを求めるとなると、やはり海外のものに依らざるを得ません。その中でも“The Silents Majority”というサイト(The Silent Artists Index > Larry Semon)にある、“Don't Forget Larry Semon” (byGeorge A. Katchmer4)、あるいは"Classic Images" というサイト中の“Larry Semon, The Cartoonist as Comic”(by RichardM. Roberts) などが、比較的詳しい内容になっています。前者は、Introductionおよび時代を追ってPart1-Part4で構成し、当時のインタヴュー記事や新聞評などを交えながら作品を紹介しており、ラリーの簡便な伝記ともなっています。後者は(Part 1のみですが)、個々の作品の内容や共演者たちについて詳しく取り上げています。ラリーについてさらに詳しく知りたい方は、そちらをご覧ください。また、ラリー・シーモンのフォトについては、"Silent Ladies & Gents"などのサイトをご参照ください。
【ここに挙げたG. A. Katchmerの“Don't Forget Larry Semon”や、R. M. Robertsの“Larry Semon, The Cartoonist as Comic”などは、残念ながら、現在いずれもリンク切れになっています。】
II . 三大喜劇王
ラリー・シーモンは1889年7月16日、アメリカ・ミシシッピー州に生まれました。そしてそのちょうど3ヶ月前の4月16日にロンドンでチャールズ・チャップリンが生まれています。ちなみにバスター・キートンは1895年生まれ、ハロルド・ロイドは1893年。ラリーの映画にも出演し、のちにコンビを組んだスタン・ローレルは1890年、オリバー・ハーディーは1892年生まれです。
喜劇映画史に大きな足跡を印すこれらコメディアンたちが、19世紀末に数年違いで生まれているのは興味深いことです。それは裏返せば、ラリー・シーモンと同時代(1910〜20年代)に彼らが喜劇映画の世界において互いにしのぎを削っていた、ということに他なりません。もちろんその背後には、彼らが所属する各映画会社間の熾烈な競争があったことは言うまでもありません。ラリー・シーモンについて考えようとするとき、そういった時代背景を一応頭に入れておくことが必要でしょう。
Richard M. Roberts は、その“Larry Semon, the Cartoonist as Comic” の中で次のように述べています。
「映画史の変遷の中で、ジェイムズ・エイジーの書いた『喜劇の黄金時代』5とウォルター・ケールの『サイレント・クラウン』という2つの著作によって、サイレント映画のコメディアンのヒエラルキーが確立された。チャップリンがこの神聖なるピラミッドの頂点に位置し、キートンとロイドが三角形の他の2点に位置した。その後、ハリー・ラングドンとおそらくレイモンド・グリフィスが、上記3人の「コメディーの王様たち」の周囲に(おそらく下に)渋々書き加えられた。ローレルとハーディー、W. C. フィールズといったコメディアンは、彼らの成功がトーキー時代に属し、その映画が今でもテレビでポピュラーな存在であるという理由から、このサイレント・コメディアンのリストに加えられることはない。彼らの後には、たいした才能を持たない「マイナー」とか「第二階級」のコメディアンとして分類されるその他大勢の大きな階層が来る。……
1920年代の観客はそれとは少し違った見方をしていた。彼らにとっては、チャップリンは他とは別格の神であった。ロイドとキートンはポピュラーではあった(キートンは幾分劣っていた)が、それでも「低い」コメディアンと見なされていた。……
ところが1920年代初期において、ラリー・シーモンはその稼ぎの上ではロイドやキートンを完全に凌いでいた。1920年に彼がヴァイタグラフ社との間で交わした3年契約で360万ドルという金額は、かのチャップリンに勝るとも劣らないものであった」
サイレント時代の喜劇役者に対するこうした評価は、わが国においてもおおむね似たようなものではなかったかと思われます。別掲の1920年代半ばの『キネマ旬報』の評者たちの記事の中でも、「芸術家チャップリンは扨置くとして、ギャッグの支配で頤を解くロイド喜劇キートン喜劇等は……」(木村千疋男)、あるいは「キートンやロイドやに劣らじ負けじとラリー・シモンが……」(清水千代太)といった表現から、当時すでにわが国でも、「チャップリン・キートン・ロイドの三角形」が出来上がっていたものと思われます。
III.3年契約で360万ドル
このような「三大喜劇王」と同時代に、ラリー・シーモンは、R. M. Robertsの言葉によると「その他大勢の大きな階層」に属して、自らの喜劇映画を製作していたことになります。しかしながら、1920年にヴァイタグラフ社と交わした360万ドルという契約料は、その時期にラリー・シーモンがきわめて期待された(売れる)コメディアンであったことを物語っています。同様の記事がG. A.Katchmerの“Don't Forget Larry Semon” にも見えます。
「1919年11月21日の『トレド・ブレード』紙は、「ヴァイタグラフ、チャップリンと同額の給料でコメディアンと契約」の見出しで次のように伝えている。「……有名な映画コメディアンのラリー・シーモン氏は、ヴァイタグラフ社長アルバート・E・スミス氏と、彼のコメディーに対して会社が向こう3年間に360万ドルを支払うという条件で契約書を交わした。……その水準の給料を取っているのは、世界のコメディアンでほかにはチャーリー・チャップリンだけである」(Roberts が契約年を1920年としているのが、ここでは1919年となっている)
R. E. Braffのフィルモグラフィによると、ラリーはヴァイタグラフで1916年から映画をつくりはじめ、1919年までのわずか4年間に、じつに84本の映画を監督(および主演)しています。ようやくラリーの映画に人気が出てきたのをみて、ヴァイタグラフ社は「向こう3年間いける!」とにらんだものと思われます。しかし、その破格の金額からは、単に「期待」というだけでなく、ラリーの映画が19年当時、すでに相当な人気を得ていたことを窺わせます。
制作費も潤沢だったであろう以後数年間が、ラリーの絶頂期であったろうことは想像に難くありません。しかし、その期間は長くは続かず、1924年にはヴァイタグラフをクビになり、チャドウィック社に移ることになります。その後は、いくつかの映画会社で十数本の作品をつくっただけで、「28年10月8日、50万ドルの借金を残して、肺炎で死去」します。享年39歳でした。
IV. なぜラリーは忘れ去られたのか
Katchmerは先の文章の末尾を次のような言葉で結んでいます。
「今日のファンは、チャップリン、キートン、アーバックル、ラングドン、ロイドたちのことは、彼らのフィルムの多くが大学やフィルム・フェスティヴァルで上映されるので覚えている。今日残っているシーモンのフィルムは、おそらく15本から20本くらいだろう(あるいはもっとあるかもしれないが)。私は個人的に15本のフィルムとテープを持っている。
喜劇王、ラリー・シーモンは、遠い昔にサイレント映画を観たわずかな年配の人々以外には、ほとんど忘れ去られている。だからファンの方々よ、ラリー・シーモンを忘れるな!」
また、Robertsは、
「長い間、入手することができるシーモンのフィルムは、彼の落ち目の時期に当たる1924年−28年のエデュケーショナル社のコメディーからのものであった……
ところが、アメリカのフィルム収集家たちが失われてしまったと思っていたラリー・シーモンのフィルムは、ヨーロッパのテレビでは、70年代、80年代になってもなお放映されていた」
と述べています。
Robertsの文章は1999年に書かれたものですが、Katchmerのは1989年ですから(彼は1997年に死去)、ネットを通じてラリーのヴィデオをある程度入手できるようになった現在では、状況はだいぶ変わってきていると言えます。しかし彼らの記述から、本国アメリカでさえ長い間ラリーのフィルムは満足に観ることができなかったということがわかります。
そうであれば、わが国の状況は推して知るべしということになります。別掲の『キネマ旬報』における評価を見れば、ラリー・シーモンがわが国の評者によって特筆される可能性はきわめて少なかったであろうことは推測できます。
そうした中で、時代は下るものの、児玉数夫著『無声喜劇映画史』(東京書房社、昭和47年)は、資料を主体としたものですが、わが国でラリー・シーモンを取り上げている数少ない文献資料6の一つです。サイレント時代のコメディアン60人を取り上げていますが、内外の映画史的な評価を踏襲して、ここでもチャップリン・キートン・ロイドの3人だけは「三大喜劇王」として別格扱いになっています。著者は映画会社の宣伝畑を歩んだ人物で、上掲書は昭和初期までに実見した映画日誌をもとにしたもので遺漏が多いものの、ラリー・シーモンの映画十数本について、年代および原題・邦題を併記して掲げている点で貴重です。
こうした状況から見ると、現在、わが国においてはやはり、ラリー・シーモンは「回顧」の対象にすらなり得ない存在のようです。そうすると、冒頭述べたように、タルホ作品が「資料性」の面からも重要だということは、あながち誇張とも言えないことになります。
n o t e s
1★タルホに言わしめた
「ラリー・シーモンの回想」(『稲垣足穂全集1』筑摩書房、p.128)
2★「ラリー・シーモンの回想」
上掲書、p.127。
3★「ラリー・シーモンの芸風」
「映画時代」(文藝春秋社、1928年12月、『稲垣足穂全集12』所収、p.203)。上記、筈見氏の記事で「ニューヨーク・サン新聞社」とあるのが、タルホでは「ニューヨークヘラルド」「テレグラフ」となっています(「テレグラム」は間違いでしょう)。ラリーは「ニューヨーク・サン」「ニューヨーク・ヘラルド」「ニューヨーク・イブニング・テレグラフ」などの各社で仕事をしていたようです。 サイト上の、"Classic Images"中のRichard M. RobertsのLarry Semon; The Cartoonist as Comic 、G. A. KatctmerのDon't Forget LarrySemon、またClaudia Sassenのページ"Larry Semon isn't as bad as some people would think..."などを参照。
【上記サイトはいずれも現在リンク切れです】
4★George A. Katchmer(1916-1997)
著者の経歴については、“Don't Forget Larry Semon” のページからリンクされていますので、そちらをご覧ください。
【“Don't Forget Larry Semon”はリンク切れになっています】
5★『喜劇の黄金時代』(Comedy's Great Era)
児玉数夫著『無声喜劇映画史』(東京書房社、昭和47年、p.95)には、「近年、欧米では、三大喜劇王といわず、ハリー(・ラングドン)を加えて、四大喜劇王といっている。『ライフ』誌(49年9月26日号)で、Comedy's Greatest Era(筆者James Agea)が、ハリーを高く評価して以来のことである」とあり、この文章が戦後「ライフ」に掲載されたと記しています(著者名のAgeaはAgeeの誤り)。ジェイムズ・エイジー(1909-55)はアメリカの脚本家・評論家。
6★数少ない文献資料
たとえば、中原弓彦こと小林信彦氏は、『世界の喜劇人』(晶文社、1973年)の中で、チャップリンをスラップスティック史の上では「アウトサイダー」だという独自の視点を提示しています。そしてマルクス兄弟を軸にサイレント・コメディアンたちを取り上げながらも、やはりそこにラリー・シーモンの名前を見いだすことはできません。