1910(明治43)年 9歳 尋常小4年



1月
★自分にはしかし、明治四十三年一月号の「少年」に出た、岩野泡鳴の詩の方が好きであった。(「わが明治時代」『全集12』p.383)


★これ(旅順海戦館)は明治四十三年頃、浜寺海水浴場で興行されたキネオラマである。(「芦の都シリーズ尋常小4年──オブジェ的年代記」『多留保集』5,p.236)
☆そのほかに『タルホ=コスモロジー』(p.69)。

★旅順海戦館とは、僕が小学生の頃(明治四三)大阪の浜寺海水浴場でひと夏を通じて興行されていた見世物である。……僕は、砲弾落下の水坊主に囲まれた軍艦の絵を添えた新聞広告はたびたび見たが、ついに本物に接する機会がなかった。そのため、旅順海戦館はあとあとまで尾を曳いたのである。(「卓上キネオラマ」『大全6』p.622、「クリスマスケーキ」の中の<卓上キネオラマ>『全集11』p.192〜193)
☆このキネオラマの旅順海戦館も実際に見ることができなかったので、気がかりなものの一つだったのである。
☆「地球」(『大全4』p.254)にも旅順海戦館のことが。
☆『全集11』には、「サーチライトの筏」(p.193)→「筬」、「人口衛星」(p.194)→「人工」の2か所の誤植がある。

★旅順海戦もそんな一つだが、正確に云えば、明治四十三、四年頃に突如出現した「旅順海戦館」に影響されて、各映画劇場にキネオラマが勃興したのである。「旅順海戦館」はひと夏、大阪の浜寺海水浴場で興行されたので、少年江戸川乱歩もこれを名古屋の博覧会場かどこかで見物して、心を打たれたものに相違ない。(「旅順海戦館と江戸川乱歩」『全集11』p.248)

★小学初年生の夏に明石へ移り、数年を経てからの題目は『旅順海戦館』の真似であった。これは浜寺の海水浴場で興行された動くジオラマである。(「新歳時記の物理学」『大全6』p.522)

★私はほとんど三年間にわたって『旅順海戦館』と取組んでいたが、卓上キネオラマ館は時に大形になり、また縮小されながらもついに成功しなかった。(「神戸三重奏」『全集11』p.290)
★これは小学生時代のことであろう。

8月
★彼(マリネッティ)はまた翌一九一〇年八月に発表した論説『吾等の麗しき火薬庫なるトリエスト』の中に……(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.315)

11月
★それは天長節(文化の日)の月だったから、たぶん明治四十二年か、四十三年の十一月号であった。『フレンド』という縦折りの子供雑誌の表紙に、私は初めて「模型飛行機」を見た。(「ライト兄弟に始まる」(『大全1』p.554)
☆これ以後、おそらく明治45年に初めてアトウォーターの水上飛行機を見るまでが、いわゆる「フライングモデル」製作の時期ではないか。それ以降、とくに大正2年の天王寺公園発明品博覧会を見たあとはスケールモデル(「実物模型」というのもこのことか)に移行したようである。

12月15日
★日本おける初飛行の栄誉は一般に徳川大尉の上に帰せられているが、これは間違っている。明治四十三年十二月十九日の朝、代々木練兵場でファルマン複葉が、高度七十メートルで代々木練兵場を二周したのに先立って、十五日の午後、日野大尉が槓杵を握って走り廻っていたグラデー単葉がフワリと浮き上り、二メートルの高さで約百メートルを飛んだ。(「わたしのペトロールエンジン」『星の都』p.272)
☆徳川好敏大尉に先立つ日野熊蔵大尉の初飛行への言及は、「オブジェの魅力」(『大全6』p.495、『全集11』p.128)にも。
☆「飛行機の哲理」(『大全1』p.404〜)に、徳川、日野両氏のことが。
☆徳川・日野両氏のことは「ライト兄弟に始まる」(第2章「雲雀くらいの高さで」)に詳しい。
☆同書p.539に、「いったい日野と徳川が並び称されるようになったのは極く最近のことで、少くとも代々木飛行五十周年(一九六〇)までは、日野は完全に無視されていた。私はこの次第を朝日宛に注意したが……その記事は取上げられなかったのである」とある。


UP
→ 1911
← 1909
年度別もくじへ