1912(明治45・大正元)年 11歳 尋常小6年



★董生の十三詣りの日、京都の大きなお寺の……或る一室に、三つ揃いの懸軸中に奇妙な絵があった。「阿波鳴門ノ図」とあったが……(「父と子」『大全4』p.136)
☆「十三詣り」が数え年ならこの年になる。4月13日に虚空蔵に参るとある。

★その他に、十三詣りの当日に清水で買った清水焼の小さなどくろがあった。(「蘆の都」『大全5』p.186)
◇京都にはずいぶん縁があつたが、それも十三詣りの時を限りとしてゐるから、……(「春は曙の記」『夫稲垣足穂』p.59、「春は曙の記」『全集11』p.4)

★この広い土地が明治最後の年に、天王寺公園になった。その西隣りに新世界が誕生して、鉄骨の通天閣がそびえ立った。新世界の中心がルナパークで、ここでは、ローラースケート場とサークリングウェイヴと、索道飛行船とがお目見えしたが、その片隅にあった埃及館および不思議館を、私は逸することができない。(「ノアトン氏の月世界」『星の都』p.307、『全集12』p.451)
☆同様の記述が「蘆の都」(『大全5』p.184)に。「第五回内国勧業博覧会を皮切りにして、同じ場所では年々小博覧会が開催されて、観覧車だのメリーゴーラウンドだのが紹介され、その広い敷地が明治最後の年に「天王寺公園」になった」。

★幕あきを待っていたあいだ、うしろの席に、自分より二つ三つ年上の女の子が、女中に付添われてつつましく坐っていたのを忘れることが出来ない。場違いのせいであろうか、自分は此の時ほどに「船場のトウちゃん」を感じたことはなかった。(「蘆の都」『大全5』p.184)
☆「ノアトン氏の月世界」(『全集12』p.451)も同様の記事。
☆新世界・ルナパークの「埃及館」での出来事だが、この年かどうか不明。天王寺公園の西隣に「新世界」が出来たのはいつか?

★津の国の難波の春は夢なれや芦の枯葉に風渡るなり
この古歌が何故か僕に、天王寺の「新世界」にルナパークが出来た頃、その片隅にあった「不思議館」のことを呼び起させる。この「不思議館」及び「埃及館」のような興行物は、一時、千日前にもあったようだ。(「神の夢」『全集11』p.99)


★明治のおしまいの年、一九一二年春に、アトウォーター夫妻が来日したのは、このカーチス水上機を日本海軍へ売り付けるのが目的であった。用事を終えてから、アトウォーターは香櫨園浜や名古屋海岸で公開飛行を見せた。この時に私は、須磨の天神浜で、初めて飛行機を見たのである。「シトロン」という清涼飲料が売り出された頃で……(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.523)
☆萩原氏の年譜では、「6月」。

6月下旬
★それは明治最終年の六月下旬に、近くの須磨天神浜で米人アットウォーターの水上飛行機が飛んだ折であった。私は当時明石の小学生だった。(「桃山だより」『全集12』p.445)

夏至の頃
★明治の寿命もあと一週間余に迫っていた頃、即ち明治四十五年の夏至の頃、オリエンタルホテルの前から、白塗のランチ明石丸が朝波を蹴立てて動き出した。それに乗っていた主賓は、アメリカのカーチス会社派遣のアットウォーターとその夫人である。……西方の須磨天神浜で、二日間にわたって、神戸新聞社主催の飛行大会が行われた時の話である。この大会二日目に、私は初めてヒコーキという文明の利器を、親しく眼の前にすることができた。(「空間の虹色のひずみ」『全集11』p.319)

★機首を沖合に向けて、波打際で左右に揺れているアトウオーター氏のカーティス水上機が眼前に喚び起される。それは須磨浦で初めて見た飛行機だった。(「新歳時記の物理学」『大全6』p.523)
☆「父と子」(『大全4』p.156)参照。
☆「飛行機物語」(『大全1』p.411)に同様の記事。
☆「ファルマン」(『大全1』p.437)に同様の記事。
☆同書p.438に、「ローラスケイト場の隣りにがらんとした余興場がありました。この壁の高い所にいろんな飛行機や飛行船の油絵が並べられていました。私はスケート場の床をぐるぐる廻って疲れた時、きっと汗ばんだかおを余興場の壁の上方へ向けるのでした」とある。いつ頃、どこのことか?
☆「ライト兄弟に始まる」(『大全1』p.575)にも飛行機の油絵のことがあるが、上記と同じものか? その「用箪笥のようなもの」(放熱器のこと)は、マースの雲雀号にも、その翌年夏に須磨海岸で見たアットウォーターの鴎号にも付いていた、とある。しかしこの時点では、それが放熱器というものであることはわかっていなかった。

★シャンペンサイダーの次に売り出されたのが、<シトロン>である。これはもう明石の小学生だった頃の話で、須磨天神浜へアトウォータ氏の水上飛行機を観に行った日に、海に面してずらりと並んだ天幕やヨシズ張りの茶店の内部に、それを見つけたのだった。……私は明治最後の年の夏に、須磨浦の臨時茶店に見かけた<シトロン>を思い合わした。(「芦の都シリーズ──オブジェ的年代記」『多留保集』5,p.239)

★それは明治の最終の年に、董生が、裏側に赤繻子を張ったサックから取出して、米人アットウォーターの水上飛行機に向けたのと同じ虫じるしの眼鏡だった。(「父と子」『大全4』p.169)
☆「ファルマン」(『大全1』p.443)では、「蜂じるしの双眼鏡」。

★翌年明治最後の夏には、カーティス会社のアトウォーターが、日本海軍へ水上飛行機を売りつけにやって来たついでに、香炉園浜と須磨の浦とで飛行を公開した。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.314)
☆この記述の後に、「この年にトリポリ戦争が勃発」とあるが、トリポリ戦争勃発は1911年9月である。

★そもそも私は、飛行機とあるからには一つの「機械」に相違ないので、そこに少くとも自転車のフレーム程度の骨組を期待していた。ところが明治最後の年の夏に、須磨の天神浜で初めて眼にしたW.B.Atwater氏の「鴎号」は、木片と絹布と針金との組合せで、これにエンジンと胡桃色のプロペラが付いていた。……そんな気分が捉えてみたかった。つまり「模型に拠る実物への接近」であり、彼らのテーマとは根本的に異なっていた──。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.565)
☆同様の記事が同p.523に。
☆これは中学生になってからの経験であろうが、同書p.566に、水上飛行機と滑走車付き飛行機との違いについて、「岸辺に繋がれた飛行艇は、漣を受けて両翼をゆさぶり、頭部を優しげに頷かせることであろうが、なおクローバーの上に置き放しになった飛行機が、春風を受けてひとりでに数メートル移動するのに及ばないのである」とある。なんという感覚! 数行前に「鴎は粋な鳥であるが、秋の朝、露だらけの草原に落ちている古鞄の中から、その鞄を何気なく蹴ったとたんに内部から飛び出して、落ちそうになりながら丘の向うへ姿を隠した雁のような魅力はない」という比喩がある。この程度ならちょっとした詩人なら言いそうである。しかし、上記の感覚世界になるとタルホの独壇場であろう。「飛行機物語」(『大全1』p.411〜412)に出てくる「露にぬれた真白いクローバーの上にひき出されてくる軽やかな機体が、土地の凸凹につれて動揺したり……」などという表現も同様。
☆「ライト兄弟に始まる」(『大全1』p.567)では、プラットフォームを素通りする汽車の窓からの眺めによって、人差し指、中指、親指の3本の指によって、実物の飛行機の感じを捉えようとしている(凸凹による両翼の揺れもあり)。
☆同p.590にも、「沓脱に両足を置いて縁側に腰かけている時には、左右に伸びている廊下が主翼になっていた」などとある。

★須磨天神浜へ飛行機を見に出かけた日、私の傍で、どこかのお母さんが、感心したようにいっていた──「あれがヒコウキとやらいうもんですか、まるで宅の子供が作っているのと同じようなものやおまへんか」(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.566)

★やがて近所に模型材料店が出来た。……そこの主人は、レース用自転車に跨がって須磨天神浜まで突っ走り、柵を抜けてアトウォーター氏の水上飛行機の傍まで行ったことを自慢にしていた。私は憧れの飛行機を柵から眺めて、「あの羽根には帆木綿が張ってあるよ」などと当てずっぽうを喋っていたのに、実物に手に触れてみたと称する彼は、「絹ですよ、日本の絹を使っていますね」と、さも驚嘆したかのような口吻で、誰彼となしに聞かせていた。なるほどそれが本当だ、と私は我身の愚かさに気付き、その「絹」にしてやられた。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.559)

★海辺の小都会の「薬師寺」という、江戸時代から続いている本屋さんの、上がり框から帳場へかけての畳の上に屋根瓦さながらに置きならべられた本の中に、私はその赤い表紙に金箔でもってディダラス翼工作の図が打ち出してある新刊書を見付けたのだった。たしか一円三十銭か一円五十銭かであったが、このねだんが小学生にとって大金であったことは云う迄もない。私は思案をめぐらして、取りあえず級友Iに相談をした。(「わたしのペトロールエンジン」『星の都』p.265〜266)
☆同様の記事が「ライト兄弟に始まる」第3章「わたしのモデルプレーン」(『大全1』p.563、およびp.587〜588)に。ここでは、この本の書名は『模型飛行機(器)の理論と実際』とある。
☆この記事が何年生の時かは不明だが、この前後の頃のことであろう。

9月14日
★私が、京都駅から回送された参拝列車を下りて、初めて足をつけた「桃山駅」は、まだ桟橋のような仮プラットフォームだった。工事さいちゅうの凸凹道を、いまの大石段の下まで辿りついて、隊伍を調え、一せいに上方へ向って最敬礼をしてから、行きとは別なインスタントの山道をステーションまで降りて行った。勿論、二百何段とかいう石梯などなかった。天皇の柩を載せた直角三角形のケイブルカーが、手に手にタイマツを掲げた束帯姿の衛士に守られて、きしみながら、重々しく登って行ったままの急斜面であった。(「梅日和」『全集11』p.133)
☆タルホは明治天皇の大葬に、親に連れられて伏見の桃山御陵まで行ったのだ。
☆明治天皇の崩御は1912(明治45)年7月30日。大葬は大正元年9月13日に東京神宮外苑で行われ、翌14日に京都伏見桃山陵で行われた。

10月6日
★カーチス飛行学校出身の近藤元久の如き、帰朝資金を稼ぐためにニューヨーク州で観覧飛行中に風車に衝突し、一番槍となって斃れてしまった。大正元年十月六日のことである。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.609)

★しかし我国最初の飛行機犠牲者はこれでない。それは、大正元年十月六日、明治文人の南州翁の次男、近藤元久である。彼はニューヨーク州の葡萄産地ハモンズポートで、カーチス飛行機会社に傭われて、テスト中に風車塔に衝突したのである。(「タルホ・ファンタジー自註」『全集11』p.330)


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