☆これまでの年譜に記されたことはないが、この年、すなわち大正2年4月から1年間、タルホは「高等小学校」に通学したのではないか。「ライト兄弟に始まる」(『大全1』p.584)に、「一年間お世話になった高等小学校へ……」とある。
3月28日
★武石事件の一ケ月前の三月二十八日に、所沢附近で陸軍のブレリオ式単葉が墜落、木村徳田両中尉が殉職して、天下の同情が翕然として集まっていた矢先であった……(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.612)
★武石の上に集った空前の全国的人気は、その少し前の三月二十八日に、所沢近辺で木村徳田両中尉殉職という日本最初の飛行事故があって、その予備があったせいもあるが、……(「春風澱江歌」『全集12』p.367)
★大正二年三月二八日の午前、津田少年は所沢まで出向いて、彼のエノグ箱をひらいていた。そうすると、木村、徳田両中尉を載せたブレリオ鳩尾型が霞の中から現われた。……この年の東京時事新報社発行の『少年』に彼の作文が載っている。私は先年、この少年雑誌のバックナンバーを百冊ほど手に入れたので、その中に見付けたのである。正確に云うと、大正二年五月号で、彼の作文は「夕立」に関したものであった。その頃彼は神吉季穂と名乗っていた。(「津田画伯の回想」『全集12』p.443)
★……陸軍のブレリオ鳩尾型である。この機械が大正二年三月二十八日の正午に、青山練兵場から帰還の途中にあった木村、徳田中尉を載っけたまま、所沢飛行場近くの柿ノ木台の雑木林に墜落したのだった。春先に起りがちな突風にあおられて左翼が壊れたことによっている。(「タルホ・ファンタジー自註」『全集11』p.330)
4月7日
★四月七日の夜横浜の埠頭を踏んで以来、彼の身辺に漸く立ち増ってきたものの総決算であり大詰でもあった。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.617)
☆武石の帰朝は4月7日ということ。
☆同p.620に、「春洋丸」で帰ってきたとある。また、武石はハワイで木村徳田両中尉の訃報に接したとある。
☆「十三日夜の芦辺踊」(同p.620)とは?
★アットウォーターが使っていたのと同じ様式の、カーチス陸上機を、その翌年の春、大正二年四月のはじめに、武石浩玻がたずさえてアメリカから帰ってきた。(「空間の虹色のひずみ」『全集11』p.320)
4月18日
★深草練兵場で玉砕したその日から逆に数えて十六日前、四月十八日の午前、朝日の社旗を飜したオープンカーが、淀川堤の春風を切って北へ北へと走っていた。……よし三都連絡が出来なくても、何らかの計画によって、先のマース、アットウォーターを継ぐ大朝社主催の第三回目の大飛行を行おうとするのである。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.611〜612)
4月25日
★あの年の四月二十五日に大朝紙の第一面に初めて出た、微笑を洩らした新帰朝飛行家の写真……(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.598)
5月1日
★五月一日から四日までと予定されていたが、風雨襲来のために順延されて、三日は鳴尾における旋回飛行、四日は京阪飛行、五日は午前中に神戸市訪問、午後は六甲登りに絞られた。……五月三日、鳴尾競馬場における三回の旋回飛行。翌四日の鳴尾大阪間十八分、及び城東練兵場で休憩後の小飛行、ついで京阪間二十五分。以上に尽きる。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.608)
☆「特別仕立の花電車に送迎された五月三日、四日にかけて……」(同p.613)
☆「鼠色の細紐がついた金襴の袋入りのお守りは、第一日目に飛行機のハンドルの前に結び付けられ、白羽の矢は、第二日目、城東練兵場出発にさいして機関部の支柱にゆわいつけられたのである。久邇宮邦彦王による「白鳩」の追号は、この石清水神社参拝にちなんでいる……(同p.617)
5月3日
★飛行大会はいよいよ五月の三日、四日、五日に決定しました。第一日は申し分のない良いお天気でした。……けれども学校を休ませたくなかったのでしょう。「まだ飛行機は故障が直っていないかも知れぬし、明日はちょうど日曜だから──」そんなことを母が云ったので、わたしは中止しなければなりませんでした。(「白鳩の記」『大全1』p.390)
☆3日は土曜日だったことになる。
武石浩玻墜落死
5月4日
★大正二年五月四日午前十時三十分、エッフェル塔北空に濛々とした煤煙を衝いて機影が見え出した。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.613)
☆深草へ向かう前、大阪市街上空の飛行の模様。
☆この「エッフェル塔」とは「通天閣」のことか?
5月4日
★大正二年五月四日午前十時五十分、エッフェル塔の北空に、濛々たる煤煙を衝いて武石浩玻氏の飛行機現わる!……この日、午後零時五十五分三十秒、飛行機は急降下の姿勢のまま伏見深草練兵場南寄りの地点に激突破壊……(「難波の春」『全集12』p.379)
5月4日
★そこできょうこそは母といっしょに出かけよう、とキモノを着換えていると、お腹が痛み出しました。静まるまで待とうと暫く横になっているうちに、時間が過ぎてしまいました。……またも計画がお流れになったことを、口惜しく思わずにおられません。(「白鳩の記」『大全1』p.390〜391)
☆武石浩玻が鳴尾競馬場、大阪練兵場を経て京都伏見深草練兵場へ飛んだ最期の日、タルホは腹痛のため見に行けなかったのだ。武石の墜落死を、その日の号外で知ることになる(同書p.392)。
5月4日
★三月五日に飛行機会社から引き渡され、五月四日はすでにこんなに無残にひしゃげてしまった飛行機……(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.60)
5月4日
★春風と黄色い翼という、この何か象徴的な題目を代表するのは、その翌年の大正二年の五月初旬に行われた武石浩玻氏の都市聯絡飛行であろう。ライト式に似たつばさを供えたホールスコット六十馬力のカーチス機で連日の雨はれて天気晴朗であった五月四日、之を操って新帰朝の武石氏が鳴尾から大阪練兵場をへて伏見へ飛んで行った……。(「懐しの鳴尾時代」『星の都』p.151〜152)
☆「飛行機の哲理」(『大全1』p.408)に、「かげろうのおどろき」、「歪み」、「うまごやしの花」。
5月4日
★大正二年五月四日零時五十五分の出来事で、新進飛行家が横浜に着いた四月七日から数えて、二十八日目に当る。武石浩玻は三十歳であった。(「春風澱江歌」『全集12』p.367)
★その第二日の午後一時直前、彼は伏見深草練兵場へ着陸のさいに、地面に激突して、民間飛行最初のぎせいになってしまった。……私は小学生であったが、大阪練兵場から伏見へかけて、武石の進路の目じるしだった淀川の上空に、一すじの飛行機の跡が残っているような気がしたものだ。(「空間の虹色のひずみ」『全集11』p.320)
5月5日
★(わたしの父は)次の日夕刊にいまの(西村天囚博士作の)薩摩琵琶が発表された時には、わざわざわたしを呼びつけて、くすんくすんと鼻を詰らせ、勝手な節を付けて、感動的に、全歌詞を読んで聞かせてくれたのでした。(「白鳩の記」『大全1』p.396)
5月初め
★大正のかかりの五月はじめの晴れ渡った午前、鳴尾競馬場を出発して天王寺へ、更に京都へ飛んで行った武石浩玻氏が、……。(「芦の都シリーズ──オブジェ的年代記」『多留保集』5,p.240)
5月初め
★私の脳裡には、四十年前の五月初めの上天気の日曜日の午前に、この辺りに雑踏していたであろう人波が描き出された。諒闇中のこととて……(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.607)
☆前年(1912)7月30日に明治天皇が崩御して、1年間の服喪中であった。
★私は十二歳の春、大阪から淀川づたいに京都へ飛んできて、深草練兵場のまんなかで砂塵の裡に潰え去った武石飛行機の上に、この蕪村の句(大文字やあふみの空もたゞならね)と共通した感懐を催した。(「新歳時記の物理学」『大全6』p.517)
5月9日
★五月九日、あの日に劣らぬ好天気の下、堂島川北岸から天神橋筋にかけて、長柄斎場まで、蜒々八丁余にわたる飛行家の大葬列を前に、曾根崎小学校三年生、長谷川幸延君は眼をパチクリとやった。以来、彼はそのことをたびたび書いている。(「難波の春」『全集12』p.380)
☆長谷川幸延君とは? 「作家」の同人?
★私はある午後、近所の模型飛行機材料店の前で、二人連れで通りかかってふと足を止めた黒襟の姐さんが、「これがひこうきとやら云うもんでッか。こんなものに乗ってキンダマを落とした人があるんですかいな」と連れの夏トンビ氏に云いかけていたのを、何故か忘れることができない。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.599)
☆武石浩玻のことを指している。「夏トンビ」とあるが、この年の夏のことか?
☆同様の記事が、同書p.566にも。
初夏
★私はその初夏、新緑の天王寺公園に開かれた全国発明品博覧会場で、血染の飛行服と壊れた飛行機を見た。別館には、明治四十三年十二月十四日、代々木練兵場で日本に於ける初飛行を見せた日野大尉のグラデー式単葉飛行機が陳列されていた。(「難波の春」『全集12』p.380)
☆「「これがヒコウキか。ふーん、なるほど落ちそうなものやな」……父の口から洩れた」と続くので、父と一緒に行ったことが分かる。
夏
★大正二年夏、天王寺公園に開かれた全国発明品博覧会の一隅で、それ(武石浩玻の飛行機)を見たのだった。……この三月に作り上げられた飛行機の晩春一日の宿命について、メディテーションに耽ろうとした。(「芦の都シリーズ──オブジェ的年代記」『多留保集』5,p.226)
☆白鳩号のその後は、同書p.261,263(『大全6』p.588)に。
☆同様の記事が「白鳩の記」(『大全1』p.392)に。
☆この天王寺公園の全国発明品博覧会で武石の遺品を見たほかにも、のちに活動写真のフィルム(ニュース映画か)でも当日の飛行の模様を見ている。
★月曜日の朝、学校でかおを合わした友だちに対しても、わたしはきのうの姉への質問と同様な問いを発せずにおられなかったのです。「きみ、飛行機はどうなふうだった?」(「白鳩の記」『大全1』p.394)
☆この「月曜日の朝」は、5月の武石墜落の翌朝ではなく、夏に天王寺博覧会を見に行った翌朝。
夏
★大正二年の夏、大阪天王寺公園に全国発明品博覧会が開かれ、記念すべき飛行機(グラデー単葉)が出品された機会に、私はお眼にかかることが出来た。(「わたしのペトロールエンジン」『星の都』p.277)
☆「飛行機の哲理」(『大全1』p.406)に、日野少佐の乗った飛行機について、「このグラデー式飛行機が、後に大阪の天王寺公園の発明品博覧会に出品されていましたが、私がその周囲をめぐって、眼をとじたり、眼をあけたり、少し、離れて見直したり、これは、自分に最も好ましい事物に接した時にだれもがやってみる仕ぐさです」とある。
★私は、天王寺公園の博覧会の一隅に陳列された白鳩号を見て、今の工夫を思いついたのであるが、あとの方は該当部分がないのであった。(「武石記念館」『全集12』p.384)
★自分は大正二年の夏、大阪の天王寺公園の全国発明品博覧会で、日野大尉が乗ったグラデー式単葉飛行機を見て以来、飛行機の感じを保留するには、それに似たものを我手で作ってみるより他はないと思い始めていた。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.589)
☆これは実物大の断片による、「メディテーション」を指すようである。「実物模型」と呼ぶものとは異なるようである。
☆とすると、「飛行機物語」(『大全1』p.410)の冒頭にあるような、「あのふしぎな冒険的な機械にそなわる感覚をまねようとする最初の試み」というのも(それはブレリオ式であるが)、この頃からのことであろうか。
★次に私は、木村、徳田両中尉のブレリオ式鳩尾型と、武石浩玻の「白鳩号」の模型を見た。これは博覧会の天井からぶら下っていたのである。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.582)
☆フライングモデルに対するスケールモデルの飛行機を指す。この話もこの年の博覧会のことであろう。なんとなれば、このスケールモデルを見て初めてブレリオ式第11号型の模型を作ったとあり、その次に「大2年秋に最初に神戸訪問をした幾原知重のカーチス式複葉を作った」(同p.584)とある。そしてこのカーチス式模型を手に講演(大正3年3月)をしたという。この経緯から、やはりこの博覧会はこの年のものということになる。
★以上三者が初めて見たスケールモデルである。あんなのを一つ我手によって作ってみようと、私は思い立った。こうして最初に手をつけたのがブレリオ式第十一号型であった。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.582)
☆「三者」とは、『日本少年』で見たアンリ・ファルマン式の模型、博覧会の天井からぶら下がっていた木村・徳田両中尉のブレリオ式鳩尾型と武石浩玻の「白鳩号」の模型の、三つのスケールモデルを指す。ということは、この年の博覧会を見た後ということになる。
☆この後の記述(p.583)に、「実は私自身もアットウォーター氏の水上飛行機と日野大尉が乗ったグラデー式単葉飛行機しか知っていないので」とあるのは、それまでに実際に見たという意味で、前者は明治45(大正元)年6月の須磨海岸、後者は大正2年夏の天王寺公園全国発明品博覧会においてである。
☆同p.585には、「小学校の末期から中学卒業の頃まで自分がずっと取組んでいたのは、カーチス式複葉である」とある。これはカーチス式がいちばん気に入っていたということであって、必ずしも「中学卒業の頃まで」模型製作をしていたということではないであろう。
☆このブレリオ式第11号型の以前にも、一度ブレリオ式とマース氏の「雲雀号」の「実物模型らしき」ものを作ったとある(同p.596)。ちなみにマースの来日は明治44年だが、タルホは実際には見ていない。
夏
★もう一つ、これはもう大正二年のことで、その夏、天王寺公園の全国発明品博覧会で見たものだが、子供用のオートバイである。(「芦の都シリーズ──オブジェ的年代記」『多留保集』5,p231)
★あとにも先にも本当に金がほしいと思ったのは、飾窓の内部に見入ったシンプレックス映写機と、博覧会に出品されていた子供用オートバイと、それから横文字本のページに見付けた模型飛行機の豆エンジンの場合くらいなものである。共に十二三歳の頃であるが、……(「ボクの剪定法」『全集11』p.109)
★私は子供の頃、クラリネットと、博覧会で見た児童用オートバイと、活動写真機がほしいと思った。その時こそ金が入用だった。(「本ぎらい」『全集11』p.169)
★金属細工の蜜蜂の巣(ラジエーターのこと)が何者であるかが判ったのは、十三才の時である。武石浩玻という新帰朝飛行家が京阪聯絡飛行をこころみて、京都の練兵場で民間飛行最初の犠牲になった。この武石氏の破壊した機体が天王寺公園に陳列されたのを見た時、例の蜜蜂の巣も並べてあった。(「ラジエーター」『大全6』p.401)
☆この年の12月に満「十三才」になる。
☆高等小学1年の3学期(大正3年3月)に飛行機の講演をしたときには、まだ放熱器の「原理」は知っていなかった。それを知るのは中学1の6月頃である。さらに格子が正六角形である理由がわかったのは中学3年のときであった(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.576〜577)。
秋
★大正二年(一九一三)の秋、武石浩玻のあとを継いで、鳴尾競馬場を基地に京阪神三都連絡飛行を完遂しようとしていた幾原知重のカーチス式複葉を見本に、私は初めて縮尺模型(スケールモデル)というものに手をつけた。機体構造で最も心を惹かれた部分が、発動機の前面にある放熱器と、両翼間の左右に付いている長方形の小翼であった。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.516)
☆このスケールモデルを手に、翌年の3学期に講演をしたのである。
★ボクが明石の小学生だった頃、校長先生が云われた。「人丸師は、あの茶店や土産物屋に売っている人形のような文弱なかたでない」……人丸武人説を聴いたのは大正二年のことであった……(「宇宙感覚」『全集12』p.371)
☆小野校長先生。
☆大正2年というと高等小学校のことではないか。
★すでに私の小学校の終り頃に崩壊して、その石片を大勢の人夫が取片付けているのを見たことがある。──塔が立っていた趾の地下からガイコツが沢山でてきて、それらをフゴの中へ入れて余所へ運んでいたなど、教室でまことしやかに云いふらす者があって、私はそれにもとづいて、「鹿が瀬淵の秘密」という原稿用紙十二、三枚の小説を書いた。(「轣轆」『鉛の銃弾』p.23)
☆「若草」(昭和2年8月)に「鹿が沈んだ淵」という作品がある。
★私の義兄(姉の婿)は徳島の蜂須賀の典医の家に生れ、セミプロ書家をもって自任していた。彼の身辺には李白や杜甫や白氏や陸放翁が見られたが、特に荘子に傾倒、私をつかまえては内篇外篇のエピソードを説く癖があった。私の十二、三歳からはたちにかけてである。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.49〜50)
★十二、三才の頃からは飛行機で死ぬことが理想であった。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.15)
★私は十二、三の頃英国へでも行ってしまいたいと思っていたのだから、その希望が失われたのだから、いまさら何処へも行きたいとは思わない。(「本ぎらい」『大全6』p.619、『全集11』p.169)
★この前が晴れやかな海景で、広い芝生があり、ランチが発着し、それこそ、「淡路絵島、須磨明石、紀の海までも見えたり」であったのは、自分が十二、三歳であった頃を限りとしているようだ。(「蘆の都」『大全5』p.193)
★フルンケルは董生自身も十二、三歳の折に、ちょうど今度の父と同様な下顎部に経験して、自分はさほどに思わなかったが、人からは「あの時は危なかったのだ」と云われたことがある。(「父と子」『大全4』p.168)