■1914(大正3)年 13歳 4月から関西学院普通学部(中学部)1年
★ブレリオ式の次に、大正二年秋に最初に神戸訪問をした幾原知重のカーチス式複葉を作った。……この模型を手にして講演したときに、折角の放熱器が硝子片だと見まちがえられたのであった。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.584)
☆つまり、模型製作は大正2年秋からこの年の3月までの間のいつかになされたということになる。
3月
★この前(大三、三)小学校の講堂で飛行機の講演をやった折にも、自分が手にしていた模型は手づくりの幾原氏のカーティス式複葉機であった……(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.322)
☆大正3年3月ということは、高等小学校の3学期ということになる。
★木片ラジエーターが付いた手製の実物模型を手にして、私が講演をやって拍手裡に壇を下りてくるなり、一友が真先に訊ねた。「あの光っていたものは硝子かい」と。これは、放熱器の原理を知るまでは未だ三ケ月ほど間があったが、自分に取って肝腎かなめのものが硝子に受取られ、それ以上に見られなかったのは残念至極なことであった。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.576)
☆これも上と同じ講演を指していると思われる。
☆「放熱器の原理を知るまでは未だ三ケ月ほど間があった」とあるが、するとその原理を知ったのは中学に入った6月頃ということになる。同書p.573にオットー氏二衝程機関の図解に出会ったのがこの春とあるが、そのことと同時だったのではあるまいか。
★折紙の鳶のうしろべりを少し上方に反らせて投げると、フィルムに映っている白鳩号そっくりのピッチングを演じる。それで学芸会の講演でも、紙トンビを以てする空中滑走の説明を自分は忘れなかった。ところがやがて「重心が風圧中心よりも後方にズレていると波動が起る」ことが、模型飛行機を俟って初めて判明した。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.615)
☆この講演も同じくこのときのことか?
★その次(に作ったスケールモデル)は徳川大尉設計の「研究会式」であった。……これで一応恰好がついたので、一年間お世話になった高等小学校へ寄附することにした。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.584)
☆ここでタルホは「高等小学校」に1年間通っていたことを語っている。これで尋常小学校入学(1907・明治40)から関西学院普通部入学(1914・大正3)までに、6年でなく7年あることの謎が解ける。タルホは尋常小学校を終えてから1年間、高等小学校に通っていたことになる。
☆この模型製作がいつのことかはっきりしない。卒業後の春休みの間のことか、関西学院に入学した後のことかもしれない。
★お嬢さん(伴時子)には婚期が遅れ、私には中学校への入学試験が迫っていました。(「愚かなる母の記」『多留保集』1,p.174)
★中学入学試験が迫る頃、董生は町の背後の高台へ彼女(Bのお嬢さん:伴時子)と出掛けても、畠地の縞目や遠い丘陵の線を、お嬢さんとは異なった立場で解釈しようとしていた。……即ちイッシー=レー=ムリノーの早春風景でなければならない。(「父と子」『大全4』p.152〜153)
☆上記2つの「中学校入学試験」の時期は、下記の経緯からすると、大正2年春と大正3年春の2回あることになる。とくに後者は、その飛行機熱を考えると、2度目の受験期のことだと思われる。
★周蔵は、息子が官立中学校入学試験にしくじって、再挙を断念しかけているのに気付いた時、同じ春に一等遅く入学試験を行うミッションスクールのことを聞き込んで来て、其処へ入れたのだったが、五年の月日が経過して卒業を迎えた折には、あの時のような熱心さを示さなかった。(「父と子」『大全4』p.158)
☆尋常小学校を卒業した大正2年春、官立中学校の入学試験を受けたが失敗し、そのために1年間高等小学校に通ったということか。「再挙を断念」というのは、1年後すなわち大正3年春にふたたび官立中学校を受験するのを(自信がなくて)断念しかけていたということか。「同じ春」とは、「再挙を断念」しかけていたのと同じ大正3年の春で、この年の春にミッションスクール(関西学院)に入ったということか。
★森の向う側にあった赤屋根の下で、竣工したばかりの、ひどく塗料の匂いがしている玄関脇の事務所で、入学願書手続きが為された。(「古典物語」『大全1』p.274)
☆『関西学院七十年史』によれば、普通学部の校舎(木造2階建)の竣工は、1912(明治45・大正元)年。ただし、この校舎は1917(大正6)年2月28日に焼失した。
☆「白鳩の記」(『大全1』p.399)に、「赤屋根の学校へ入学願書を持って行ったその日から、東方の山並にひとみを向けて、「曾てここに在ろうとした」ことに想いを馳せるのが、わたしの仕事になっていました」と、武石浩玻への追憶を語っている。
★前年の春、いまの店の前を初めて通って入学願書を出しに行ったので、私は気付いていた。それは、洋菓子店の内部の壁に懸かっていた額縁入りのポスターである。赤い円錐帽をかむった天文学者が、谿谷の上に突き出したバルコニーから、向うの夜空のような真黒な空間にひっかかっているお日様に対して、望遠鏡の筒口を向けている所であった。(「蘆の都」『大全5』p.192)
☆1925(大正14)年頃、この洋菓子店に問い合わせの手紙を書いている。(「1925(大正14)年」の項参照)
★いよいよ神戸市への正規の上陸は、大正三年三月、関西学院中学部へ入学願書を出しに行った日のことである。(「神戸三重奏」『全集11』p.285〜286)
★あの日、母と私は、長い坂道が上筒井の通りと交叉する所の左側にあった、「各学校御用達」の札が出ている裁縫店で、関西学院をたずねたのであるが、奥から立ち現われた若い女の人の白い丸顔が、とたんに綻びて、まあ! ということになった。それは私の姉の清水谷女学校時代の級友だったのである。(「神戸三重奏」『全集11』p.287)
4月 関西学院普通学部入学
☆「関西学院普通学部」は、翌1915(大正4年)に「関西学院中学部」と改称。
★私が、当時神戸東郊原田の森にあった関西学院中学部へ入学した時、校舎は完成したばかりであった。それまでは、正門をはいって右側の、その後は高等学部として使用された英国風の三階館が中学部だった。新校舎の木材はすべてカナダ産とやらで、……異国の木々の香り、三角屋根をおおうた赤いスレート、その斜面に居並んでいる教室毎のレンガの煙突、屋内はペイントとワニスの匂いに漲って、初めて中学生となった私の感覚をそそり立てたものだ。私の教室は二階南側にあったが、……(「神戸三重奏」『全集11』p.292)
春
★知っているのは『白痴』だけであるが、それも曾て中学一年生の時、国漢の先生から「銃殺刑五分前の感想を想像で書けよ」が出て、自分の作文が首席に選ばれ、ついでに先生が読んで聞かせてくれたのがムイシュキン侯爵の車中談だった因縁である。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.98〜99)
☆この先生が臼杵東嶼先生。(『関西学院七十年史』の旧教職員名簿には、「臼杵東岐」とある)
☆同様の記事が「古典物語」(『大全1』p.282)に。
☆同様の記事が「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.318)に。「われわれがムイシュキン侯爵の車中談をノートに写し取ったのは、大正三年の春」とある。
5月4日
★やがて廻ってきた五月四日は、一年前の通りにうららかな日でした。(「白鳩の記」『大全1』p.399)
☆ちょうど1年前の武石浩玻墜死への瞑想。
★一年前の春の霞の中に消え去った米国帰りの飛行家が、曾て太平洋岸の小詩人という名で、「明星」だの「ホトトギス」だのへの寄稿家であった、と姉に聞かされた……(「古典物語」『大全1』p.280)
☆「白鳩の記」(『大全1』p.394)に同様の記事が。
5月4日
★年毎にめぐってくる「五月四日」に、ある時は汽車通学の車窓から首を出して春風に片頬と喉元をなぶらせながら、あの午後零時三十分の伏見への出発に想いを馳せたり……(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.598)
★神戸市東郊の関西学院中学部への汽車通学の途次で、自分は車窓から首を出して、五分刈頭と頬っぺたを春風になぶらせながら、武石氏の大阪から京都への最後の飛行について、メディテーションに耽ることがあった。(「芦の都シリーズ──オブジェ的年代記」『多留保集』5,p.240)
そのほかに、
☆梯子の上からの最後の瞬間の想像
☆自転車で急坂を下りながら、深草練兵場への急降下を味わう
☆ゼラチン紙のフィルムに「エ」の字を描き連ねて、玩具映写機にかける
☆毀れた飛行機の翼布のゴムの香を真似ようと、油絵の枠に布を貼って、自転車修理用ゴム液を塗ってみる
☆自転車店のタイアを台にメディテート
☆「東玻」の号を考える
☆ポケット型飛行免状を作る
一周忌
★天王寺公園の武徳殿のよこの建物に、この白鳩号の残骸が陳列されて、ガラス越しに覗けるようになっていた。それまで第十六師団兵器庫に保管されていたのが、一周忌に前記の場所へ移されたのだった。(「武石記念館」『全集12』p.385)
★日本で発動機付きモデルを初めて飛ばしたのは、大阪の河野氏である。大正三、四年頃、天王寺公園の博覧会で、丸天井からぶら下げてあるのを私は仰いだが、翼長三メートルにも及ぶ鳩型単葉機で……(「ライト兄弟に始まる」(『大全1』p.564)
★中学初年級の頃、神戸の湊川公園の入口にかかっていた天幕張興行物の表看板に、私はカーチス式飛行機を見たことがある。大河を挟んで大廈高楼がつらなった西欧都市が下方に描かれ、その上方の雲間を縫うて、前方に昇降舵、うしろに十字形尾翼をそなえたカーチス式複葉が飛んでいるところだった。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.506)
春
★ところが中学生になった春に、ひょっくり懸案が解決した。……ともかく「オットー氏二衝程機関」の図解が、いまの次第を教えてくれたのである。……どこにいても二衝程式機関の断面図ばかりを描いていた。授業中にもそのことをやっていたら、音もなく教室をめぐってきた先生が、うしろから手を伸ばしてノートを取り上げた。……「呆れたもんだ、この生徒は自転車屋になろうと思って今から一生懸命だよ」みんなの笑いがドッと起った。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.573)
☆この話が先のカーチス式模型飛行機を用いた講演の「三ケ月」後のことではあるまいか。すると6月頃ということになる。
★金属製の蜜蜂の巣の中には水が通っている。あの六角の連りは実は中空になった薄い壁面なのだ。このように知ったのはもう中学生の時である。……暇があれば紙きれに、いわゆるオットオ氏エンジンの縦断面を描いていた。或る日先生がうしろからそれを取上げた。(「ラジエーター」『大全6』p.401)
★(自動車の)あの六角形の網目が、そのまま水の通路になっているのだということを知ったのは、もう関西学院普通部一年生の時であった。(「芦の都シリーズ──オブジェ的年代記」『多留保集』5,p233)
★……こんどは、私はペトロールエンジン製作に手をつけた。ところが、先手を打ってそんな豆エンジンを作った者が三年生の中にいるということが耳にはいった。私はおひる休みに、運動場への降り口で、東京弁の上級生をつかまえて、様子をたずねた。このグラウンドとは、神戸市東郊にあった旧関西学院中学部のそれを指している。(「わたしのペトロールエンジン」『星の都』p.281)
☆何年生のときか不明だが、エンジンの原理を知った1年生の春以降であろう。
☆同様の記事が「ライト兄弟に始まる」(『大全1』p.591〜592)に。ここでは、その先輩は「M君」。
6月13日、14日
★大正二年五月四日、彼(荻田常三郎)は伏見深草練兵場で武石浩玻の最期を目撃して感動、家財を整理して九月に渡仏、ヴィラコブレーの飛行学校でモラヌ・ソルニエー単葉の操縦を習得して新機を携えて帰ってきた。これが大正三年六月の初めで、折から同月十三、十四日の両日にかけて鳴尾競馬場で開かれようとしていた第一回民間飛行大会に出場、最初の離陸に忽ち二千三百米突に上昇して高度の一等賞を獲得した。(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.39)
★彼(西田正秋)は熊本中学にいた頃に経験したことだと云って、ヒコーキを語ってくれた。アメリカ帰りの飛行家、坂本寿一、高左右孝之、海野幾之介、これにフランス仕込みの荻田常三郎、帝国飛行協会の幹部で、ドイツ仕込みの磯部海軍少佐、以上の五名が参加して、阪神沿線の鳴尾競馬場で、第一回民間飛行大会が開かれたのは、私が関西学院中学部へ入学した年の六月のことであった。だから、坂本寿一氏が熊本で彼の飛行を紹介したのは、その秋の話だったに相違ない。(「空間の虹色のひずみ」『全集11』p.317)
☆西田君はつまり、この年(大正3年)の秋には、熊本中学にいたことになる。関西学院に転校してきたのは何年か?
初夏
★第一回民間飛行大会は、大正四年の初夏に帝国飛行協会主催大朝社後援の下に行われた。アメリカ帰りの坂本寿一、高左右隆之、協会の磯部鉄太郎少佐、フランス帰りの荻田常三郎、さっきの海野、以上の五氏の参加である。(「懐しの鳴尾時代」『星の都』p.154)
☆この「大正四年」は「大正三年」の誤りということになる。
6月
★そんな暑い一日の正午過ぎ、市電終点に号外の鈴が鳴って、サラエボに轟いた銃声が報じられていた。(「古典物語」『大全1』p.288)
☆第一次大戦勃発のきっかけとなったサラエボ事件は、1914年6月。
★「稲垣君、私はあなたと共に大正三年関学に赴任した佐々木です。……」(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.145、『全集11』p.491)
☆佐々木貞吉先生のことは、「菫とヘルメット」(『全集1』p.244)、「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.320)などに。
★私は中学一年生の時に教室で先生に指名されて、国語読本の飛行機の章をまるで祝詞のように声高々と読み上げて忽ち学校中に評判を取ってしまった……(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.38)
☆このときの先生は臼杵先生。
☆同様の記事が「古典物語」(『大全1』p.281)、「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.319)、「ライト兄弟に始まる」(『大全1』p.545)に。
☆このあと臼杵先生が聞かせてくれたという、日野少佐の「刈入れどきの黄金色に実った麦畑の上を、自分の操縦する飛行機の影を見ながら飛んでゆく愉快さ」の話のことが、「古典物語」(『大全1』p.281)、「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.319)、「飛行機の哲理」(『大全1』p.406)、「ライト兄弟に始まる」(『大全1』p.545)に。
晩秋
★この年の晩秋、われわれ一年生及び二年生は宇治方面へピクニックをした。私はその途中の男山詣でを作文に綴って、……臼杵先生は、「思想にも文章にも洗練の余地がある」と朱筆をくれた。「洗練」の二字を憶えたのはこの時である。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.319〜320)
☆「白鳩の記」(『大全1』p.398)に、この宇治方面への遠足のことが。
★自分はあの翌年の秋に男山八幡で白羽の矢を受けてきて、それを振りかざしたり、風に向かって投げたりして考えてみたが、こんな紙の羽根のついた矢が飛行機に作用する筈はない、と考えられた。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.617〜618)
☆宇治方面へのピクニックの折であろう。
★従って宇治黄檗も僕はとっくに知っている。でも、まだ十歳にならない時だったから記憶は殆ど残っていない。次回に宇治へやってきたのは、関西学院中学部初年生の秋であった。この日帰りの小旅行の上に、僕は自分一人だけの或るメディテーションを託していた。その気分に十分に浸るためには、菜の花と青麦と、頬に縺れる春風を条件にするのだったが、季節はすでに秋遅くであり、しかも当日は雲が一面に垂れこめて物象に影がなく、うすら寒かった。(「宇治桃山はわたしの里」『大全5』p.115)
★僕は、この地域を初めて飛行機によって横断した武石浩玻の眼に巨椋の池がどのように映じたであろうか、と考えてみたことがある。あの遠足の日にも、石清水八幡の鳩ケ峯の上から、巨椋池を探し当てようとしたものだが、そこには、曇った空の下の寒そうな河流と、黄金色に実った田の面があるばかりであった。(「宇治桃山はわたしの里」『大全5』p.120)
【以下は、何年生のときか不明】
★私は毎朝、現今の元町駅のプラットフォームを山側に降りて、そこから徒歩で約小一時間かかる上筒井の関西学院まで通っていたが、其の頃、改札を出ると、いつもきまったように、白馬をつけた、紅殻色の車台の框に白字でTOR HOTELと記入した無蓋馬車が止っていた。……白馬の鼻先から頻りに白い息が出て、新しいスエターの甘い毛糸の匂いが我ながらに懐かしまれる冬の朝々、そのリーダーの頁から抜け出したような、レッドオーカーに塗られた荷馬車は、メリーゴーラウンドの木馬のような白い馬と、たいそう似合うのだった。(「蘆の都」『大全5』p.191)
★中学生であった頃、軍艦サラトガの野球団が着ていた紅いスェータにかぶれて、元町通りの丸善へ出かけた。(「芦の都シリーズ──オブジェ的年代記」『多留保集』5,p.258)
☆同様の記事が「古典物語」(『大全1』p.291)に。
★狸メガネ即ちロイド眼鏡であって、当時セルロイド縁の丸レンズの眼鏡を掛けている者は、全関西学院中で私ひとりだったのである。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.59)
★ 私は中学生の時に、極く短い期間だったが、髪を伸ばしてポマードをこて塗りしていたことがある。(「ロバチェフスキー空間を旋りて」『ヒコーキ野郎たち』p.107)
★ 中学の生徒手帳の該当欄などにも、家業として只「医」とだけ記入するという具合に、人知れず苦労を払ってきたものだ……(「蘆の都」『大全5』p.187)
☆家業が「歯科医」だったことに対して。
★関西学院でロマン=ローランの名を初めて持ち出したのは、私である。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.162)
☆「弥勒」第一部の初めに、「彼が近頃忍耐してやっと読み終えた長編翻訳小説に、『ジャン・クリストフ』があった」とある。おそらく、上の記述と関連する時代のことと思われるが、何年生のときかは不明。
★野上臼川訳「春のめざめ」(Wedekind: Fruhlings Erwachen)は、中学生の私をして有頂天にさせた本であるが、特に自分には、夕暮の赤楊の林の中でピストル自殺を遂げるモーリッツが気に入っていた。(「轣轆」『鉛の銃弾』p.44)
★中学生の私が特にショーペンハウエルに注意していたわけは、小学生だった頃にはまだ盛んに藤村操の「巌頭の感」が伝えられていたが、これと合わして、姉崎正治博士訳の「意志と現識としての世界」三巻が博文館から刊行されたことに依っている。(「轣轆」『鉛の銃弾』p.44)
★赤いホウキ星のアイディアは関西学院中学部在学中からあったが、これが「倶楽部」と連結されて、初めて場所を得たわけである。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.35)
★私には関西学院にいた時、ベルグソンの真髄に触れたと思われる一刻があった。それは三十分間とは続かなかったが、私は形而上学の喜びとでも云うべきものを初めて体験した。そのことは『古典物語』の終りの方に書き入れてある……(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.81〜82)
★コリントン卿の幻覚で、これは中学時代から持っていたイメージだが、何回やってみても恰好が付かなかった。それが『弥勒』の中にエピソードとして嵌め込んでみると、初めて定着したのである。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.87)
★世界の果にある一つの湾を争う両艦隊、すなわち爾後二十年間に亘って私がそれに取り憑かれてきたところの「コリントン卿の幻覚」は、この時に持ち出されたのである。(「コリントン卿登場」『全集11』p.265)
★もう中学生だった頃ですが、私は但馬の香澄の海岸で、床屋の看板みたいなだんだら縞の付いた奇妙なものを見付けた事がありました。(「蘆」『星の都』p.215)
★鹿子まだらに雪が残っている六甲山上の氷が張った池のみぎわで、一月末の日曜の午前、てっぺんに玉のついた、ヒナゲシ色の毛糸帽をかむって辷り出した友人に、私は度胆をぬかれてシューンとなったものだが、……(「わたしのペトロールエンジン」『星の都』p.263〜264)
☆この友人は石野重道か? 中学時代のことか?
★中学生になって芳水詩集中にこの文句を見付けた彼は……(「父と子」『大全4』p.141)
☆『芳水詩集』(実業之日本社)は、大正3年3月刊。
★今度は中学初年級の時、先生(謡のT先生)が牢へはいっているということが聞えた。(「父と子」『大全4』p.151)
★わたしの家族は、祖父母、両親、それにわたしとは齢が十以上も違って、従って祖父の差金によって未だ十七、八歳の折に養子を迎えた姉の夫婦と、この三家の者が互いに離れた所に住んでいました。そして父方の祖父母がわたしの幼少の頃に亡くなり、暫く間を置いて姉に出来た幼児がふたり早世したことがあったほかに、以来いずれの家の表にも、「忌」と記した紙片が貼られたことはありませんでした。そんなわけで、この三夫婦揃った芽出たい家族は橋の渡初式にも選ばれました。祖父は然しこの次第に味を覚えて、夫婦の数を更に増そうと思っていました。「そろそろ物を云う玩具がほしい年頃じゃ。新地(遊郭)へ行くのもええが、あのおえいをな、嫁に貰うたらよかろうと、わしはいつも思うておるがな、──」祖父が、ひとくぎり毎に息を呑みこみながら、そんなことを茶の間の火鉢ごしに、彼の一人娘の母親に云っていたのは、わたしがやっと中学生になった時でした。(「白昼見」『大全4』p.180)
☆「父と子」(『大全4』p.167)参照。
★もう中学生だった時に、八雲座に、(本当の)松旭斎藤天華一座がかかって、あの宵のお姉さんよりもう少し年下の少女が、同じような装いで、フットライトを前に立ったことがある。この時は、白ずくめの三角帽子のピエロが、星々の燦めく裾をつまんで覗こうとして、横つらをぴしゃりとやられるのだった。先に見たものとは性質が違っていた。(「雪融け」『大全5』p.167)
☆あの宵のお姉さんとは、小学1年生の2学期に明石に越してから見た「松旭斎天一」一座の出演者。衣装の星々に夢見心地となった。
★三ノ宮駅を西に向かって発車すると、間もなく右側に、巨きな白塗りの丸いカゴをてっぺんにくっつけた格子塔が近づいてくる。即ちタイムボールで、正午になると、あの玉が垂直に落ちて港内の碇泊船に時刻を知らせるのだと判ったのは、もう関西学院中学部にいた時である。この玉付きヤグラは、自分にとって「最初のオブジェモビール」であった。(「神戸三重奏」『全集11』p.285)
★摩耶山の天上寺へ、私は一度、何の変哲もない急な山道を伝って登って行ったことがある。……ではそこからの展望は……自分は、その水平線上からの月の出を頭に浮べていたように憶えている。……パステル画、水彩、油彩、切紙細工、今日に到るまでいろんな変奏曲として、自分の頭の中に残っている「月の出」は、茲に根拠を持っている。(「神戸三重奏」『全集11』p.295)
★これは比較的初期の発案である。神戸東郊の旧関西学院の生徒だった頃、友人から見せられた、どうやら雑誌の口絵らしい三色版にあんな図柄があったのである。(「タルホ・ファンタジー自註」『全集11』p.329)
☆「バワリアの早春」の絵について。
★黒とは色彩ではなく、どんな色をも吸収してしまうので、そこで初めて黒が現われるということを教えられたのは、もう中学生になっていた頃だが、連続スペクトルの虹縞の中に間を置いて出現する「フラウンホーファー線」は、その好見本であった。私はこの点について、ある午後、運動場の脇の通路で、ちょうど向うからやって来た物理の先生と、議論したことを、憶えている。(「「黒」の哲学」『全集11』p.432)
★石野は猪原と共に、学校では私より一年早かったが、やがて同級となり、更に自身ひとりあとに残ることになった。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.348)
☆タルホは1年遅れて学校に入ったので、同い年でも前年に入った石野と猪原は1級上、しかし両人とも留年して同級生となり、石野だけはさらに1年卒業が遅れた、ということだろう。
★衣巻は関西学院中学部で僕より一級下であったが、卒業後に却って親密になった。(「わが庵は都のたつみ」『大全5』P.70)
★私は西方からの「汽車組」だったが、東方からの「阪神電車組」の中に野口弥太郎がいた。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.59)
★彼(江森盛弥)は、関西学院中学部で私の下級の怪童であった。(「新感覚派前後」『大全6』p.406)
★江森盛弥が逗子の開成中学からこちらへ移ってきて、寄宿舎にはいっていた。……在学当時、そんな風変りな下級生がいたことなど、私は全然知らなかったのである。平岩多計雄は私より一級下だったので、同級の江森を英雄視していた。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.62)
★この旧関西学院中学部で、今東光は私より二つ上級であった。彼とは然し学校では知っていない。(「新感覚派前後」『大全6』p.411)
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.317〜318)に、今東光は臼杵先生への思い出を、「わが師の恩」として書いていることが出ている。
★同級生には、先だって鎌倉の大仏さんに美学的考究を加えるとあって、あの釈迦牟尼の前でノリトをよみ上げた芸大西田正秋教授、永らく日仏協会の主事を勤め目下フランスにいる宮本正清氏、それから野口弥太郎画伯等がある。これらはしかし級長級に属した。(「零点哲学」『全集11』p.19)
☆鎌倉大仏は釈迦牟尼でなく阿弥陀如来である。