☆『関西学院七十年史』によれば、「普通学部」は1915(大正4)年に「中学部」と改称された。
1月3日
★中学一年のお正月三日に、深草練兵場で墜落焼失した荻田常三郎のモラヌ・ソルニエー単葉が真白に塗られていたことを、自分は知っていた。それで模型も、白ペンキを石油で薄めて塗り上げると、ぷんぷんとケロシンの臭いがして、まるで実物の傍にいるようであった。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.584)
☆模型製作がいつのことかは不明。
☆この模型は、「友だちが手を加えて、彼の名儀でやはり小学校に寄附された」とある。この寄附先は以前の「研究会式」模型の場合と同じ「高等小学校」のことだろうか。
2月
★これより前に、パナマ太平洋万国大博覧会の夜景画の絵葉書を知っていた。それは会場で呼物の宝玉塔から五彩のサーチライトが、夜空を蔽うて放射している原色版だった。(「私の宇宙文学」『大全1』p.149)
☆パナマ太平洋万国大博覧会はこの年、1915(大正4)年2月20日から開催。
☆この絵葉書は、のちに「ポン彗星の都」のイメージ゙見本となったもので重要。
★時は一九一四年の春、パナマ運河開通を祝う万国大博覧会がゴールドゲートに開催された。ビーチーは宝玉塔の上天で、かれの新番組を紹介することになる。(「日本人とは?」『全集8』p.284)
☆この「一九一四年」は「一九一五年」の誤り。
☆「日本人とは?」(『全集8』p.283)に、“Any dolard will do !” とあるが、この「dolard」は「board」の誤り。文中の「どんな板でも持ってこい」に対応するものだからである。『多留保集2』(p.51)で訂正されなかったものが、そのままになったもの。「ライト兄弟に始まる」(『全集6』p.86)では、改訂前から「board」。
☆なお、『全集8』p.284, 286に出てくる「マソナ」も、「マリナ」の誤り。これも『多留保集2』の間違いをそのまま踏襲しているため。タルホはこの語の後に、(会場の片すみの芝生)と注記している。パナマ太平洋博の当時の会場地図を見ると、スタンドを持った大きなグラウンドの一隅に「Aviation Field」と記されているので、最初は「アリナ」(arena=競技場)のことではないかと思われた。しかし、「ライト兄弟に始まる」(『全集6』p.85)では、「マリナ」→「マリーナ」と改訂されており、また「弥勒」第一部(『全集7』p.244)では、「海岸芝生」の「海岸」に、「マリーナ」のルビが振ってある。それに、この万博が開かれた場所を今の地図で見ると、サンフランシスコの“marina district”と呼ばれている地区らしいので、やはり「マリナ」(marina)が正しいように思う。
☆曲芸飛行家のリンカーン・ビーチーはこのとき墜死する。「Little Tokyo's Wit」(『全集6』p.364)には、その日が3月24日とある。この事件のことをタルホが知ったのは、もっと後になってからかもしれないが、「ポン彗星の都」の原イメージとなったことと併せて、パナマ太平洋万国博覧会はタルホにとって殊更印象深い万博であったのだろう。
★次はサンフランシスコの金門わきに開かれた、パナマ太平洋万国博覧会である。宝玉塔の七色サーチライトの放射回転が呼び物で、他に週に二回、マリナの芝生からアート・スミスの赤翼の飛行機が舞い上がって、曲芸を見せた。世界嚆矢の花火仕掛けの夜間宙返り飛行もこの時の話である。これは「ファンシーフライト」であって、俗悪な今日のショーではない。(「タルホ的万国博感」『全集11』p.277)
★『アート・スミス物語』は桑港のブルメン紙に連載されたが、それが少しずつこちらの専門誌に紹介されていた。(「弥勒」『全集7』p.240)
☆「墜落」(『全集6』p.336)には、「一九一五年春、即ち巴奈馬太平洋万国大博覧会の当時、桑港の「ブルーメン」紙に連載された彼の自叙伝……」とあるので、パナマ博の頃にブルメン紙に掲載されていたものが、少し遅れて日本の飛行機専門誌(何という雑誌か?)に翻訳されて紹介されていたのであろう。しかも、「ヒコーキ野郎たち」(『全集6』p.243)に、「私がスミスと話をしたという噂が学校で流れたが、その真相は以上に尽きている。中学三年生に何が出来るものか! 「わたしは、あなたがサンフランシスコのブレメン紙に連載した生い立ちの記を殆ど諳んじている」せめてこれくらいは先方へ伝えたかったが、……」とあり、スミスが来日したのはパナマ博の翌年1916(大正5)年春であるから、彼の自伝が日本に翻訳紹介されたのはブルメン紙の連載からあまり時間が経過していない時期であったのであろう。
☆「タルホ=コスモロジー」(『タルホ=コスモロジー』文芸春秋、p.122)に、「一九一五年の春、サンフランシスコのブルーメン紙に連載されたスミス自叙伝の訳文を、大阪の中正夫が持っていた。……」とあるのは、当時の日本の「専門誌」を持っていたということであろう。
春
★三ノ宮駅南口の坂を東へ下った所の右側に、洋菓子店があった。入口だけの改造だったか、赤屋根付きの洋風建物だったかどうかは忘れているが、ともかくハイカラーな店であった。私が中学部二年になった春に、ある日の帰りに級友が今の店で新発売のミルクキャラメルを買って、その中の一箇を私にくれたのである。……森永ミルクキャラメルは十銭か七銭であった筈だが、まだなかなかにミルク臭い、西洋菓子の仲間であった。(「神戸三重奏」『全集11』p.286)
☆前年の入学願書提出時に気づいた、「赤い円錐帽をかぶった天文学者」のポスターがある洋菓子店。
★ひと汽車おくれて、市電を利用しなければならない場合は南口から出るが、そこから緩い坂を東へ降りた処の浜側に、赤瓦のお菓子屋があった。大正四年初夏に、この店で、友だちが帰りがけに新発売のミルクキャラメルを買って、そのうちの一箇を私にくれたのだった。自分は汽車が鷹取山麓のひろびろとした場所へ差しかかるのを待って、窓から首を出して、緑の風に頬を打たせながら、その小さな平べったい六面体のパラピン紙を取って、口の中へほうり込んでみた。(「蘆の都」『大全5』p.192)
夏
★あれは中学二年の夏で、場所は垂水の奥であった。そういう地形(ロバチェフスキー鞍状空間)が更に極端化された、つまりVの字にひらいた指の股に当る部分へ、私は植物採集胴乱を背に一友をうしろにしたがえて、下方の谷間から匍い上っていた。(「ロバチェフスキー空間を旋りて」『ヒコーキ野郎たち』p.123)
9月終わり
★臼杵先生は私が関学普通部へ入学したのと同時に赴任してきて、国漢の受持になり、私の第二学年二学期が始まった時に学院を去ったのである。その九月も終りに近付いた日、私は“飛行機を見にける日”という自発的作文を教員室まで届けたが、臼杵先生はちょうど転任のために机を片付けているさいちゅうであった。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.321)
☆今東光が、臼杵先生が1学期だけで九州へ転任したと言っているのを、2年目の9月までいたとタルホは訂正している。
☆この作文は、民間飛行家・高左右隆之が、タルホの大阪の母校である北久太郎町2丁目の浪華尋常小学校(のちの愛日校)の控室で、新規の飛行機を製作しているのを見に行ったことを書いたもの。見学に行ったのは大正4年9月中旬であった。
☆「古典物語」(『大全1』p.293)に、「九月にはいって間のない日曜日、多理は大阪の都心まで、ある民間飛行家の新造機を見学に赴いた」とある。
秋
★ふたりの西洋人(ウィリアムズとホームズ)は其の後、神戸脇浜の倉庫を借りて、坂本のために新規の機体を製作した。私は学校の帰りに彼らの仕事を覗きに行ったのでよく憶えているが、大正四年の秋のことであった。(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.42)
☆これは神戸なので、上記の大阪での高左右氏の飛行機作りとは異なる。
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★それは星野(「米三」)の手記『墜落の日まで』の中で憶えているものであった。中学二年生の時の話である。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.179、『全集11』p.508)
★十三、四歳の頃、同年配の女の子の姓名をまじないの記号と共に紙片に書きこみ、折りたたんで半年間ほども肌につけていたが、さらに効験のなかったことがあったからだ。同じ頃、「人に好かれる法」というのを新聞広告に見てひそかに注文したことがある。(「姦淫への同情」『全集8』p.189)