春あさき頃
★大朝社旗の下にナイルス氏の宙返り飛行会が挙行されたのは、この大正五年の春あさき頃であった。(「懐しの鳴尾時代」『星の都』p.159)
春
★私が(アート=)スミスと話をしたという噂が学校で流れたが、その真相は以上に尽きている。中学三年生に何が出来るものか!(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.56)
☆この年のことか? 同書p.64に「アート=スミスはこの大正5年の春に日本へやってきた……翌春びっこを引きながら再来した時に、即ち五月十日に沖野ケ原を訪れて……」とある。
☆「白鳩の記」(『大全1』p.401)には、「わたしはブリリアントなアート・スミス氏とも握手しました」とある。
4月の終り
★アート・スミス氏はナイルス氏と入れ代りにやってきて……、四月の終りの鳴尾の空は霞み、波はしずかに、馬場にはクローヴァや紫雲英が紅白のカーペットをのべて、ヘールコロムビアの曲がひびいていた。……サッポロで不慮の災禍によって負傷したスミスは、契約の残りを果すために翌春再びやってきたが……(「懐しの鳴尾時代」『星の都』p.160〜161)
☆「飛行機物語」(『大全1』p.412〜413)に、このときのアート・スミスおよびブルメン紙の「生い立ちの記」のことが。
春
★すでに中学前半期の春に、舵に星条旗を描いた赤翼のカーチス複葉を操って、われわれの頭上でくるりくるり宙返りを見せてくれたアート・スミスは、……(「わたしのペトロールエンジン」『星の都』p.263)
★大正五年、アート・スミスが来日した時、三重県の御木本真珠養殖所で、この方法が用いられた。……演技を終えて、降りてきた赤翼のカーチス機は、ロープをひっかけても止まらず、みんなは胆を冷やしたが、最後から二本目の綱でやっとくい止められた。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.522)
夏
★第二回民間飛行大会が行われたのは、二年目の大正五年の夏……、参加者は坂本、高左右、新帰朝の中澤の三氏であった。(「懐しの鳴尾時代」『星の都』p.157)
夏休み後
★このN君(西田正秋)が、アインシュタインの名が漸くひろまりかけていた大正六、七年頃に、「リーマン空間」を私の前に持ち出したのである。いや、そう云うのは当っていない。あれは、中学時代の三回か四回目の夏休みが終った時であった。(「ロバチェフスキー空間を旋りて」『ヒコーキ野郎たち』p.107)
☆「2学期が始まって」という意味であろう。
☆大正6年(中学4年)の2学期は休校しているので、この話は大正5年(中学3年)か、あるいは大正7年(中学5年)のことか。
★Nがやや得意になって、夏期休暇中に考えたことだと云って持ち出した題目があった。平行線は遂に相交わるという主張である。(「古典物語」『大全1』p.301)
☆Nはここで非ユークリッド空間におけるリーマン空間とロバチェフスキー空間を持ち出している。そのほかに、「負数の乳房」(負数の空間)、および円錐形宇宙について述べている。「彗星問答」などにおけるタルホの円錐形宇宙は、その発端はこのN君である。
☆「わたしの宇宙文学」(『大全1』p.149〜150)にもN君の「円錐宇宙」、および「空間の歪み」「マイケルソン、モーレーの光速度実験」のことが出てくる。タルホは、それまでは「カルデア人の宇宙」の類しか知らなかったという。
★私が、ひずみという云い方があることを意識したのは、関西学院中学部三年生の時だったと思う。……その次に彼は、どこで知ったのかアインシュタインの空間の屈折を持ち出した――「太陽の周りの空間はひずんでいる」これがひずみを提出された私の初めての経験である。(「空間の虹色のひずみ」『全集11』p.313,318)
☆「彼」とは西田君。
☆ここで彼によって持ち出されたのは、「真空の恐怖」「真空の時間(西洋魂)」「マイナスの空間」「空間のひずみ」など。
☆「一九一三年九月二日、ロンドン郊外クロイドン飛行場の上空で、ペグーが彼の愛機ブレリオを世界最初にあお向けにひっくり返した時、たぶんこんな気持を味わったのであろうと、私は校庭の片隅で「西洋魂」をやるたびに思ったものだ」とある。
★当夜の学術講演の台にした宇宙論は、何時か海水浴にやってきたNをステーションに送った時、頭の片隅に浮んだものである。円錐が最初から在ったというのは不都合なので、私は、哲学の始祖たちの宇宙論に例外なく窺えるところの「円」を担ぎ出した。(「私の宇宙文学」『大全1』p.152)
☆「当夜の学術講演」とは、「彗星問答」(大正15年)の作中でのこと。
☆N君から初めて円錐宇宙のことを聞いたのが、「夏休み後」であるので、この話はおそらくその1年後の夏休みのことではあるまいか?
☆この「宇宙論」は、のちに『カイネ博士に依って語られしもの』という題でパステル画に描かれ、「三科インディペンデント」(大正11年)に出品された。
秋
★三年生の秋の雄弁大会に、私は“都城の椿事を聞いて”という題で講演をした。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.322)
☆大正5年5月10日、中沢家康の九州・都城における飛行機事故を取り上げた。
☆この年の同じ雄弁大会で聞いた上級生(森田氏か)の講演「未来派芸術とその価値」がきっかけとなって、図書館で研究資料を探し始める。「般若心経」を写し取ったというのもこの頃か?
★私は、ピストルを隠しに忍ばせて赤楊の森をさまようモーリッツを気取って、ポケットウイスキーの辛味と巻煙草の苦さとを舌の上でミックスしながら、学校のうしろの櫟林を歩き廻り、三年にもなると頭を分けたりした。(「随筆ヰタ・マキニカリス」『東京遁走曲』p.152)
★一般放熱器の表面に見られる亀甲形と格子との差異はどこにあるのだろう、と私は思っていたが、この問題が漸く明らかになったのは中学三年の時であった。つまり正六角形はその面積が最大であって、線片の和が最小の場合だというのである。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.577)