1917(大正6)年 16歳 4月から関西学院中学部4年



1月
★新年早々、多理の生れた大阪の大病院の焼失が報道された。(「古典物語」『大全1』p.294)
☆文脈では、関西学院の火事があった年の正月ということになる。

2月 ★「聞いて貰いたいこと」<関西学院『会誌』第1号(2月1日発行)、「文苑」欄>[13-3]
☆『全集13』(筑摩書房、2001年)に初めて掲載された関西学院時代の貴重な文章。文末に「1916.11.26」の日付がある。時代は第一次世界大戦のさなか、外国の飛行機発展の目覚ましさに比べ、わが日本飛行界の不振。「……之を発達の途は唯覚醒した我々青年が務めて航空思想を鼓吹して一般国民の対空感念を増進するに在るだけであると信ずる」と、コブシを振り上げて演説する憂国少年タルホがここにいる。

2月28日
★ある二月の終りのよく晴れた日、学校(関西学院中学部)に朝火事があった。大混雑のさいちゅう……この中野先生が、博物の先生と大喧嘩をした。(「滝野川南谷端」『大全6』p.596)
☆『関西学院七十年史』によれば、この火事は「1917(大正6)年2月28日午前」となっている。ただ、誤植のためか「18日」となっている箇所もある。
☆この火事の模様については、「古典物語」(『大全1』p.294〜295)に詳しい。ここでも「二月終り」となっており、「第一時間目の授業が終ってチャペルが始まろうとしていた」とある。
☆『七十年史』によれば、中学部校舎が再建落成したのは1919(大正8)年4月のことである。新校舎は煉瓦・鉄筋コンクリート造りの2階建となった。口絵に出ているのはこの校舎である。したがって、1919(大正8)年3月に卒業したタルホは、この新校舎では学んでいないことになる。
☆この「中野先生」は、滝野川南谷端・中野アパートの住人、中野清子さんの兄にあたる人。関西学院中学部では国漢担当であった。
☆「古典物語」(『大全1』p.309)では、ベルグソンの「ピアデュアレイション」を理解したのは、新校舎建築のさなかであったらしく、そうすると、それは大正7年、しかもおそらく季節は春ではなかろうか。

★森を挟んで東側に覗いている赤いスレート屋根が中学部校舎で、これが私の二年生の終りに焼失して、大きくがっちりした煉瓦建てに入れ代った。(「蘆の都」『大全5』p.190〜191)
☆この「二年生」は「三年生」でなければならない。

★美しき学校は、ボクらが二年級の終りに焼けてしまった。そのあと、急造のバラックに収容されたまま残る三年間が送られたのだから、……(「零点哲学」『全集11』p.19)
☆この「二年級」も「三年級」でなければならないし、「三年間」は「二年間」でなければならない。
☆すなわちタルホは、バラック建ての校舎で残りの学年を過ごし、再建された新校舎では学んでいないのである。

★猪原太郎が教室で私のうしろの席に姿を見せたのは、私が四年の時であった。彼は肋膜を患ったとかで丸一年休校していたということであった。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.321)
☆上の記述から、「弥勒」第一部に、「I は上級生であったが、丸一年間、肋膜のわずらいのために休校したあとで、江美留と同じ級の、しかもちょうど後ろに席を占めたのである」とあるこの I は、石野重道でなく猪原太郎のことで、中学4年のときだったことが分かる。

7月
★七月の早朝、海ぞいの鳴尾競馬場の、露だらけのレーストラックに引き出されたモラヌ・ソルニエー単葉機は、……遠いゴルフ場に砂塵を上げた。……その傍らで、英国ヘンドン飛行場仕込みのびっこの西洋人が、口笛を吹きながらエンジンを弄っていた……(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.485〜486)
☆チャンピオンのことであろうから、この年のことか?

★私の論文を巻頭に、……それから先日、チャンピオン操縦の下に八日市から鳴尾へ飛んできて……という岩名助手の感想談……赤文字が横に「飛行画報」と並んでいた。(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.40〜41)
☆同書p.69に「彼(小山黒天風)は大正四年春に身を退いて、アメリカ帰りの民間飛行家らの「関西飛行倶楽部」を造り、同年の後半期から間を置いて「飛行画報」を第三号まで出していた。那須徳三郎の一回切りの冊子はこのグラフィックを真似たのである」とある。
☆「飛行機物語」(『大全1』p.413〜414)に同様の記事が。p.418に、この「画報」の発行権利をK新聞社のH氏にゆずった日が、「この八月の晩はまだC氏が宙返りに成功したばかりのときだった」とあり、このC氏とは下記にある八月に宙返りをしたチャンピオンのことであろう。タルホは、「画報」発行後わずか2週間ぐらいして那須から譲渡の相談を受けているので、この1回限りの「画報」発行は「8月」からそれほど前のことではなさそうである。
☆N(那須徳三郎)は混血児で、タルホより3歳年長だとある。この「画報」発行の頃、彼は神戸にいて「明日は羅典語の試験があるから」と言っているが、すでに早稲田に通っていたのではないか。

7月2日
★水戸城趾に立っている武石銅像も、大正六年七月二日、アート・スミスが母親同伴で訪れて一株の松を植えた頃が花であった。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.611)

夏のはじめ頃〜秋
★第二翦風号はその夜、女流飛行家カザリン・スチンソンの技師として来朝したフランク・チャンピオン氏に操縦されて、大正六年の夏のはじめ頃、鳴尾から東京訪問が企てられたが成功に至らず……。そのかわり八月の或日、チャンピオン氏は城東練兵場の上空でこの機体による宙返りを敢行して……。然し、その秋高知市における逆転演技中左翼が破壊してチャンピオン氏は墜死した。(「懐しの鳴尾時代」『星の都』p.158〜159)
☆「飛行機物語」(『大全1』p.416〜417)に同様の記事が。同書p.419〜421には、この頃、那須らとの飛行機製作の様子が出てくるが、これは大正8〜9年の飛行機製作とは別。

夏休みの終り
★私は四年生の夏休みの終り頃に、ある晩、父のお伴をして坐っていた寄席のまんなかで、帰ろうとして立上るなりバッタリ倒れた。両足が急に痺れて躓いたのである。……そのまま秋遅くまで休校しなければならなかった。(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.91)

9月
★私は以前にも彼(山県豊太郎)を知っていた。伊藤音次郎が大正六年九月、第二恵美号と水上機(通称水上恵美号)を持ってきて郷土飛行をおこなった時で、場所は西宮旧砲台下及び城東練兵場であった。(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.80)

9月16日
★「空気中を階段的に登れ」には、慎重にやれの意が含まれている。私は大正六年九月十六日の午前、大阪練兵場で若き日の伊藤翁が、現にその通りにやっているのをやっているのを目の前に見た。この恵美二号機にはベルギー製のグレゴアジップ40HPの発動機が取付けられているがこのエンジンが倒立している。(「慎重にやれ≠フ意を含み」『全集11』p.346)

★東郷青児は十七、八歳で、未来派輸入の先駆として、二科展覧会に現れた。作は『彼女のすべて』『日傘をさせる女』『工場』等。……私は未だ中学生だったが、この新芸術におどろかずにおられなかった。(「新感覚派前後」『大全6』p.404)
☆東郷青児が「パラソルさせる女」で二科賞を受賞したのは1916(大正5)年。東郷は1897年生まれなのでタルホより3歳年上。
☆「彼女のすべて」は翌1917(大正6)年。
☆「古典物語」(『大全1』p.302〜303)に、この間の消息が書かれている。それによると、二科美術展覧会出品画の絵葉書の中で東郷青児の「彼女の総て」を見た → 新聞の消息欄で東郷青児が大阪の化粧品会社に入社したことを知り、手紙を書いた → 手紙は返送されてきた → ボッチョーニの『ピッテュラスクルッテュラフューテュリスタ』をミラノの出版社に注文し、数カ月後に届いた、という順序になる。なお、「古典物語」の最後には、「戦時中にヨーロッパから本が届くわけはない。洋書輸入の件は実は約三年間時日がちぢめられている」とある。とすると、洋書輸入は大正8〜9年頃か?
☆同書p.308〜309に出てくるベルグソンの英訳書の取り寄せも、上記と同様の時期か? 「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.329)には、「他に“自我の真空放電"があった。このスペクトルの縞目のような画面は、のちに“空間に向って堕落しつつある時間"に変形した。それは題名も示しているように、ベルグソンを知ってからの話になる」という記述があるが。
☆ベルグソンの訳書入手の次第は「未来派へのアプローチ」p.342にも。
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.317)には、「パラソルさせる女」は第三回二科展とある。同書p.322には、時期は「秋」とある。同p.336には、「大正五年第三回二科展」とある。同書p.341には、大阪のクラブ化粧品宛へ東郷青児に手紙を書いたのは、大正8年9月下旬に神戸でN君と『真鍮の砲弾』を観たという記述の後に置かれている。 →「1919(大正8)年5〜6月頃」の項参照

★一日、丸善のカタログ中に見つけた、ポグソン氏訳の「物質と記憶」を買ったことを憶えている。有名な「創造的進化」は、「時間と自由意思」「変化の知覚」「笑」「夢」などといっしょに英国から取寄せて貰った。ところで、はたち前のチンピラがベルグソンを読破しようとの大望を起したわけは、こうだ。――ボクは二科展の東郷青児の絵にびっくりして、素晴らしい画風の、もって「未来派」なることを知ったが、当時この輓近傾向芸術を研究すべく何の材料もない。ここに丸善の目録で、ボッチョニの「未来派の絵画及彫刻」を発見し、それが品切だったのでイタリアから取寄せて貰った。全文イタリア語だったが、こちらはカンによって判読した。未来派芸術運動がベルグソンの流動哲学の影響を受ける所多いことを知ったのである。(「零点哲学」『全集11』p.20)
☆大正5、6年頃に東郷青児の「パラソルさせる女」や「彼女のすべて」を見て感動した。そしてボッチョーニの原書を取り寄せたり、ベルグソンの英訳本を取り寄せたりしたのは、大正8、9年頃ではないか。

★その群中では東郷青児の“彼女のすべて”が異質の光を放っていた。この絵は大正六年第四回二科展に出品されたので、自分も学校帰りに、元町の文華堂の西隣りの今城絵葉書店で既におなじみのものであった。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.334〜335)
☆この年の秋のことであろうか。
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.344)に、「カルラの“バルコニーに坐す女"を選んで、小型の水彩画で真似をして、無署名で例の元町三丁目の文華堂の窓へ出したことがある」とあるのは、自動車学校を卒業して帰ってから、すなわち大正8年後半〜9年頃のことではなかろうか。

★ボクは関西学院中学部にいた頃、東郷青児の『彼女のすべて』及び『パラソル差せる女』の二科展三色版絵葉書を見て、どんなショックを受けたかをよく憶えている。ニューヨークの「アーモリー・ショウ」で第一回近代美術展が開かれたのは一九一三年で、会場の人気は、ピカビアの『泉の踊り』とデュシャンの『階段を降りる裸体』によって奪われた。それから既に四、五年経っていたが、東郷は未だ十八九歳だった筈である。……東郷張りの平面は、又、野の径を歩いている時などボクの脳裡に、「ヒバリの世界」と題されるべき絵の構想を浮ばせたものだ。(「雲雀の世界」『全集11』p.101〜102)
☆「ヒバリの世界」のイメージは東郷青児の絵の影響によるものなので、東郷青児の絵を知った後ということになる。

★自転車のペダルを踏んで行く彼は、もうこの頃は、香り高い壺すみれでなく、格子枠のボディをそなえたブレリオ単葉機だの、ボアザン兄弟の箱凧式飛行機だのの瞑想に耽っていた。雲雀の世界はそんな折に脳裡に浮んだもので、別名を「イッシー=レー=ムリノーの春」と呼ぶ。(「夏至物語」『全集8』p.52)

★これもはやくからあったイメージである。大正十年九月末に二度目の上京をする以前、私はよく明石の背後の高台を歩き廻っていたが、そんな折に頭に浮んだものの一つである。そのいきさつは「未来派へのアプローチ」「コリントン卿登場」等々の中に書いてある。(「タルホ・ファンタジー自註」『全集11』p.330)
☆「ヒバリの世界」についてこのように述べているが、これは卒業後のことではなくて、やはり中学時代のことであろう。
☆「ヒバリの世界」については、タルホがここに挙げているほかに、「古典物語」「KINEORAMA」にも。

★私がまだ小学生だった頃からベルグソンはオイケンと共に並び騒がれ、中学四年の時にはタゴールが加わった。オイケンだのタゴールだのは自分にとって何の縁もないことは初めから判っていた。ベルグソンはそうでなかった。これはきっと好きになれそうだとの予感があった。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.342)

★中学校も四年生になっていた頃、私は増富平蔵訳の『ショーペンハウエル随想録』を手に入れて、読んでみた。(「初っちゃんの話」『全集11』p.407〜408)
☆「二十五歳までに決定すべきこと」(『全集10』p.134)には、「これから数年経って、私はその紺色表紙の四六判、増富平蔵の訳本を手に入れた」とあり、この文脈からは4年生よりもっと後のことのように思える。

★私は、中学時代に憶えている次の文句を喚び起さずにおられなかった。「今は何者も無差別に、たえて何者も欲することなし。我は自らのなお此処にありや否やを知らず」静寂派のギュイヨン夫人の自叙伝の終りにある言葉だそうであるが、私はこれを増富平蔵訳『ショーペンハウエル随想録』で知ったのである。(「本ぎらい」『全集11』p.166)
☆この後に出てくる「哲学少年」とは、『弥勒』に出てくる「F」。


UP
→ 1918
← 1916
年度別もくじへ