1918(大正7)年 17歳 4月から関西学院中学部5年



★このゴミゴミした、ドライな、海陸の騒音に包まれた区廓にあった市立図書館で、袖珍叢書の一つとして木村荘八著『未来派解説』を私は見付けたのである。取りあえず十一カ条の宣言書を写し取って、翌日猪原に見せたところ、彼はそれを私の創作だと早合点してしまった。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.327)
☆この市立図書館は神戸であろう。同書p.346に「相生町の図書館」とあるのと同じものを指すのであろう。「般若心経」を写し取ったり(p.323)、美少年に出会ったり(p.325、346)したのも、同じ図書館でのことであろう。
☆猪原とのペン画のやり取りのきっかけとなったもので、この頃のことか?
☆同書p.338に、「私は、泉のふき上げを積木細工化した絵(ビカビアの“泉の踊り”)を、只の写真版として、例の汽車の汽笛と電車の音と埠頭からの雑音が絶え間なしに襲うてくる図書館の卓で知って、驚嘆した」とあるのも、同じ頃のことか。
☆同書p.342によると、木村荘八の『未来派解説』の中にカミユ・モークレールの言葉として、「未来派の芸術理論はベルグソン哲学に拠る所が多い」とあったことが、ベルグソン探求のきっかけとなったようである。しかし同ページに、「“ベルグソンの哲学"という題名で二つの講演筆記をおさめた日本最初の訳文を、私は読んでいた」とあるのは、『未来派解説』に出会う以前のようである。

3学期(中学4年)
★三色版の二科展絵葉書で見た“自我の分裂”を真似たものであった。この神原泰の油絵は大正七年度の出品である。猪原とのあいだに即興のペン画がやり取りされたのは、だから四年生の三学期だということになる。(同上、p.328)
☆4年生の3学期は、大正7年の1月〜3月のはずである。だとすれば、神原泰の出品は大正6年度でなければつじつまが合わないが。要調査。
☆猪原太郎がうしろの席に来たのは、4年生のときだとある。


★大正七年夏の米騒動の時、この(木下鉄工所)前の広場には篝火がいくつも燃やされ、警官隊にまじった裸体の壮漢が半身を照らされながら、抜身の日本刀を片手に、柄杓で酒樽からあおっていた光景を私は憶えている。ついで同鉄工所はもっと西寄りに移って、大煙突を聳えさせ、工員数千人をかかえた工場になった。(「明石」『全集8』p.430)

★富山県の一角に起った米騒動は数日のうちに全国的に波及して、今晩辺り木下鉄工所が危ないということになった……(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.52)
☆米騒動はこの年。

★米騒動の折、裏手の船舶用発動機工場が襲撃される惧れがあると云って近所が騒いでいた時、周蔵は治療場の舶来鉄製椅子を分解して、利助の住いに托した。(「父と子」『大全4』p.171)

★怪漢ローローで有名な「名金」は、もう私が関西学院中学部の上級生だった頃である。これ以後、朝日館には続々とユニヴァーサル会社の連続冒険活劇が上映されるようになり、スクリーンの直下にはすでにオーケストラボックスが設けられていた。(「神戸三重奏」『全集11』p.289)

★これより前に、朝日館で余興のキネオラマが呼物になっていた。……たぶん明治四十三年夏、大阪浜寺の海水浴場で興行された『旅順海戦館』に影響されたのだと、私は解釈している。それは朝日館にも採用されていた。……自分は朝日館の「旅順海戦」も、浜寺のそれも見落していたからである。(「神戸三重奏」『全集11』p.289)
☆朝日館のキネオラマも中学生時代のことだろう。

★昔なつかしいパテェ会社のマークの赤いオンドリは、怪漢ローローの頃には、すでに「アメリカパテェ」として、羽ばたく本物のトリの実写と入れ換っていた。これは何とも残念なことである。(「神戸三重奏」『全集11』291)


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