春
★ライスカレーだけは前年(大正8年)の春、神戸湊川新開地の南洋軒という店で級友におごって貰ったので、知っていた。(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.36)
☆卒業前の話であろう。
春
★明石に市制が布かれたのは、私が中学校を出た大正八年の春で……(「轣轆」『鉛の銃弾』p.11)
☆萩原氏の年譜には、市制以前(大正6年)のタルホの住所が記されている。
★さらに十年は経って、その海べから十五マイルほどへだてた神戸の中学校へ通っていた私も、卒業まではあます日わずかになっていました。……というのも、その廃屋のさらにむこうに見えるはずの別の家をいつか呼び起していてもよかったということを、或新聞記事のために気付いたからでした。(「或Kraft−Ebingな挿話」『星の都』p.110)
3月
★私の学校生活が終ろうとしていた頃(大八、三)アメリカ=パテェ会社の連続物『呪の家』が新開地の錦座で上演されていたが、このフィルムの中に出てくる新型の牽引式複葉飛行機に私は心を奪われていた。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.332)
関西学院中学部卒業
3月
☆『関西学院七十年史』によると、関西学院中学部の1918(大正7)年度(タルホの卒業はこの年度になるのではないか)の卒業生数は、113名である。
★私は、今東光のように学校を渡り歩いていたわけでないが、上の学校は自分を受け入れてくれそうになかった。自分にしても、あの白線帽をかむり、両肩をゆすぶりながら校歌をうたう連中ほどきらいなものはなかった。私の整理癖はどうやらこの辺に兆しているらしい。黒板に試験問題が書かれるなり、それをろくに読みもしないで答案用紙に○を描いて出すようなことをやっていたのだから、これは完全な学校無視である。一時はこの弊風が級中に伝播しそうになった。それでも卒業が出来たのは、ひとえに臼杵先生に入れ替ってずっといっしょだった吉田寅次郎先生のお蔭である。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.329)
☆この「吉田寅次郎先生」の名前は、『七十年史』の「旧教職員名簿」には見えない。
★この関西学院で、ボクは二十歳前の五年間を送った。ボクの経歴として二三の記載に「関西学院英文科中退」とあるのは、たぶん編集者が気を廻しすぎた上での好意である。他でもない。そもそもアメリカ南メソジスト教会監督のランバス博士が、明治中期に、愛と信仰とまぼろしを以て建てた関西学院は、普通部(のちの中学部)が主であった。……幸か不幸かトコロテンのように五年級の端までおしつめられ、ここで一頓挫を来したのが、早大高等学院院長だった野々村戒三先生のはからいがあって、ようやく卒業したわけになる。かかる内部の事情はあとで耳にした所であり、ボクは只中学部長野々村先生が自分と前後して東京へ移ったことだけ知っていた。(「零点哲学」『全集11』p.18〜19)
☆「野々村戒三先生」は、上記「旧教職員名簿」には確かに「部長」として載っている。
★家業が息子の念頭にないことは尤もだ、と周蔵は思ったが、其処には多少利助への当付けも含まれていた。又、息子の頭に飛行機以外の何物もないらしいのを顧みて、民間飛行学校の学資くらいは無理をして拵えてやるにしても、どうもこの仕事は生産的でない、一度失敗したらそれっ切りで、いま一度というわけに行かないのだからと、そんなことも考えてみた。でも自動車学校云々を董生が持ち出した時、その費用を出してやった。(「父と子」『大全4』p.158)
日本自動車学校入学
3月末
★関西学院中学部を卒えて、私の初旅は、羽田穴守の日本自動車学校入学を目当ての上京であった。……その夜も三月末ながら暖房が効いた天鵞絨のクッションに孤りで凭れていた時に、ふいに自動車学校の件が脳裡に閃いたのだった。(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.67〜68)
★……大正八年の春休みの時はそうでなかった。私が同道だったからである。東京駅から彼(那須徳三郎)の本郷真砂町の下宿先までは俥に乗った。……翌日午前中に……(那須と)二人で……阿部蒼天を訪れた。(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.68)
☆「格子縞」(『星の都』p.185)に、「僕を西方の港からこの都会に連れて来た最初の人が、このコスメチックのN氏であった。云わば僕の親方であった」とあるのは、那須徳三郎のことであろう。
3月末
★われわれが(佐伯一枝と)知合ったのは、私が関西学院中学部を卒えて羽田穴守の日本自動車学校入学を目的に上京した折で、前年(大正8年)三月末のことであった。その場所は本郷真砂町で、そこは当時早稲田の商科に籍を置いていた那須徳三郎の下宿先であった。(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.36〜37)
★真砂町の下宿屋に居た二週間中に……(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.69)
5月5日
★……山県(豊太郎)は五月五日に津田沼の上空で二回の宙返りに成功したのである。その頃私は蒲田の菖蒲園前に移っていた。(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.79)
★大正八年頃の蒲田は、未だ其処此処に水流が行き交うて、花菖蒲の名所であった。木立に囲まれた草原には羊群が飼われていた。松竹撮影所はこの翌年に出来た。私はまだ「院線」の名で呼ばれていた京浜線と京浜電車の中間、菖蒲園前の素人下宿から穴守に通って、フォードやダッヂブラザースや、青塗のオーバーランドなどを弄っていた。(「ラジエーター」『大全6』p.402)
☆「夏至物語」(『全集8』p.47)にも、このときの蒲田の描写がある。神戸に残してきた少年を思って下宿で泣いたとある。
★私は大正八年の春、関西学院普通部を卒えるなり上京して、羽田穴守の日本自動車学校へ入学した。翌月、甲種運転手免許証を獲得。それから神戸における那須徳三郎らとの飛行機弄りがあり、……(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.89)
★羽田穴守の自動車学校にいた頃、私は横浜駅前のレストランの卓で、「これはアート・スミス氏が鳴尾競馬場でランチに食べたものである」との説明の下に、それを友だちに食べさせたことに思い当るからである。(「芦の都シリーズ──オブジェ的年代記」『多留保集』5,p241)
★今東光の愛人(それとも思い人)が、大正映画の葉山三千子だということを聞いたが、これは、私が羽田海岸で自動車をいじっていた大正八年頃の話で、数年後私の前に現われた葉山の相棒は、江川宇礼夫であったようだ。(「新感覚派前後」『大全6』p.411)
★やはり浅草からの帰途であったが、……京橋の裏通りに探し当てた版元(東雲堂)で、黄色い表紙のついた分厚い菊判の『リラの花』を手に入れた。……閨秀未来派詩人ド・サンポワン夫人の“ヒナゲシの踊り”の絵が付いている……新傾向詩人を網羅した翻訳詩集だった。……これは与謝野寛の訳著で、大正三年刊行である。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.335)
☆同書p.346にある、「絹サック」の絵のヒントになったという「黄色表紙の訳詩集」とは、この『リラの花』のことであろう。一連の絵が描かれたのは大正8年後半〜9年頃であろう。
前半期
★大正八年前半期のアメリカの通俗科学雑誌に、日本へ来て洲崎で宙返りを見せた閨秀飛行家ルス・ローの兄、ロードマン・ロー氏というのが月へ行こうと企てた……そんな見出しだったと憶えているが、実はロケット実験の失敗記で、現場の写真が載っていた。(「私の宇宙文学」『大全1』p.159〜160)
☆のちに、これにヒントを得て創作したが、失われたとある。おそらく、佐藤春夫のもとにいた大正10年9月〜11年6月頃のことであろう。
初夏
★私の頭には早目のカンカン帽子が載っけられ、そのリボンの結び目で小さな銀細工のプロペラーが初夏の風を受けて、くるくる廻っていた。私は蒲田の菖蒲園前の宿から、毎日、羽田穴守稲荷の西側にあった自動車学校へ通っていた。……摩耶山麓の学園の少年から届いたのに、ロスコー・アーバックルが寝床の中で犬を抱いている写真があって、この絵葉書の上に涙が落ちたのである。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.333)
☆「格子縞」(『全集12』p.275)にも、「四月一日から冠った鬼編の麦藁帽には、黒と黄色の斑らになったリボンが巻いてあって、且つその結び目の所には、微風が吹附けるとくるくると廻ったり逆行したりする小さな銀製のプロペラが附いていた」とあるが、このときのことであろう。
★私が昼間から雨戸をしめて赤い電球を点していたというのは、(そんなことが何かに出ていたが)この二カ月半の蒲田時代のことで、なにも神戸の上筒井での話ではない。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.334)
春から夏の終り
★ユニヴァーサル会社の連続冒険活劇に、ワニタ・ハンセン、ジャック・マルホール共演の“真鍮の砲弾”というのがあった。大正八年の春から夏の終りにかけてである。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.153、『全集11』p.496)
★ユニバーサル社の連続冒険活劇に、ワニタ・ハンセン、ジャック・マルホール共演の「真鍮の砲弾」というのがあった。大正八年の春から夏へかけてである。このフィルムの毎回の初めに、紙細工の都会の夜景が現われ、その上空に飛出した一個の砲弾(実はけん銃弾)が炸裂すると、中から新しいタマが出て、クイック・マーチ「サラゴサ」の旋律につれて、その先端でもって夜空に、「ザ・ブラス・ブレット」と横文字をつづるのだった。(「『弥勒』――わが小説」『全集11』p.152)
☆「弥勒」第一部の冒頭に出てくる「連続冒険活劇映画」のこと。
☆「額縁だけの話」(『大全6』p.590、『全集11』p.173)に同様の記事。
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.341)に同様の記事。この映画は「帝国館」で上映されていたとあるが、東京であろう(「カフェの開く途端に…」では、「浅草の帝国館」と明記されている)。それにヒントを得て、『スピード』に書いた文章のカットを描いたというから、この自動車教習所通いの上京時に観たのであろう。
★ポン彗星の都は、ジャック・マルホール並にワニタ・ハンセン主演の連続活劇映画の毎回の初めに現われたタイトルに拠るところが多い。それは都市の夜景の上天に一箇の弾丸が飛出して、The Brass bulletと文字を書き付けるのだった。(「私の宇宙文学」『大全1』p.170)
☆同、p.149には、「パナマ太平洋万国大博覧会の夜景画の絵葉書」を「『ポン彗星の都』の見本にしようと考えた」とある。
5〜6月頃
☆平成10年11月、筆者(大崎)が安田火災東郷青児美術館に問い合わせたところ、東郷青児は大阪クラブ化粧品会社に「1919年5〜6月頃、2週間出勤した」という返事であった。「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.342)によると、「宛名人がまだ当方へ来ていないとの理由で返送されてきた」とあるので、タルホが手紙を出したのは「5〜6月」より少し前のことになる。しかも新聞の消息欄で見てから手紙を出したとあるので、それは東郷の入社時期とそれほどずれてはいなかったであろう。しかし、するとそれはちょうどタルホが自動車運転免許取得のために上京していた「3月末〜6月」という時期と重なってしまう。手紙を出したのは明石からであったろうと思われるので、その点矛盾してしまう。
6月頃
★大正八年六月頃の『スピード』という月刊誌に、『スピードと芸術』という私の短文が載っている。この枕の部分に、「ミンコフスキー」が初めて使用されている。(「ロバチェフスキー空間を旋りて」『ヒコーキ野郎たち』p.112)
★私はこの意匠を借りて、弾丸を、光の尾を曳いた飛行機に取換えて、日本自動車学校から出ていた月刊“スピード”に書いた自分の文章のカットに使った。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.341)
☆「この意匠」とは、映画『真鍮の砲弾』のタイトルバックのこと。
☆「スピードと芸術」と同じ原稿だと思われるが、「カフェの開く途端に月が昇った」では、このタイトル名を「芸術的に観たる飛行機」として挿入している。(『全集5』、p.206)
☆『全集6』に、「芸術的に見たる飛行機」(「飛行」、1921.5)という作品が初収録されているが、上記作品とどういう関係にあるか?
★(自動車学校の)卒業式後の余興に、私が口真似の爆音を伴わせてリリーの箱で曲芸飛行を見せると……(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.72)
6月半ば
★六月半ばになって私が神戸へ帰る時に、画家は新らしい鍋蓋を一枚都合して、その裏に一条久子の顔を、表側に「浅草の雨にぬれたる紅き灯を君は慕ひて夜毎行くらん」とスミで書いて、餞別にくれた。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.334)
☆この画家とは、蒲田の同じ素人下宿に住んでいた人物。福岡の人で、同じく自動車学校へ通っていたらしい。
★“虚無主義者の観た夜の都会”は、東京を離れる前晩に、浅草帰りのバスの窓から眼にした雨の上野広小路の印象である。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.335)
★私が第一次上京で蒲田穴守の自動車学校の二カ月を終えて、神戸へ帰ろうとした日の午前にも、ホッタンは早稲田界隈から蒲田菖蒲園前の私の下宿まで柳行李を担いでやってきて……(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.161)
6月初め
★私は警視庁甲種自動車免許証を獲てから、新調の格子縞服をまとって六月の初めに明石へ帰ったが、飛行学校入学のための金を父に出して貰う処にまで漕ぎ付けるには、まだ向う数カ月を要した。(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.82)
★ふた月目に、息子は甲種免許証を携えて初上京から帰来したが、結局これは何の役にも立たなかった。此町の運転手らには為し得ないオーバホールがお宅のお孫さんには出来るのだという事を人伝に聞いて、利助は、それならば金を出してやるから自動車屋をやれと勧めたが、実物自動車をオルガンと同視していたのだろうか。何より自動車屋などは孫の念頭にはなかった。航空局の第一回陸軍委託練習生の募集があったが、近眼鏡を必要とする点で董生は断念の他はなかった。(「父と子」『大全4』p.158)
★ボクは自動車の免状を持っていたがこれを使ったことはない。(「零点哲学」『全集11』p.21)
立秋過ぎ
★この海岸寄りに明海ビルが誕生して、その屋上の赤い提燈に飾られたレストーランで同窓大会があった晩のことだから、学校を出てまだ間のない頃になる。宵の会合が終って、数名と連れ立って鈴蘭燈のならんだ元町へ出て、二丁目から山の手へ逸れたのだった。燈影が急減したせいか、立秋はすでに過ぎて旧暦の七夕近い夜のひえびえした空気が身辺に覚えられた。
☆「学校を出てまだ間のない頃の……立秋」とは、この年のことか?
2学期の中程
★……眼鏡屋の窓を物色しながら元町通を引返そうと踵をめぐらすと、白馬ウイスキーの広告の下から那須の声が懸った。今は二学期の中程だが、何かの用件で帰っていたものらしい。(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.84)
★でも周蔵は、所持の能楽器の或る物に買手がついた時、その金を飛行機に廻してもよい口吻であった。それで、褐色硝子の嵌った塵除眼鏡を買う為に神戸まで出向いた時、向うからやってくる飛行機についての先輩に出会せた。機体保証金不要の民間練習所の件を董生が持出すと、相手は首を横に振った。それは金を捨てるようなものだ。それより僕の方へ来給え、──明日か明後日発つから一緒に東京へ行こう。──明日発ちますと告げると、周蔵は小鼓の表面を袖口で拭いながら、「さあさあお前の勝手にしたらよい。……」(「父と子」『大全4』p.158)
☆この「先輩」とは、那須徳三郎のこと。
☆これと同様の箇所が、「ヒコーキ野郎たち」(『ヒコーキ野郎たち』p.83〜84)に。
★別な場所で改めて自動車のけいこを始めた私が免許証を獲て、かたわら飛行学校にはいるのに入用な金をお父さんに出してもらうところにまで事を運んだのは、もう次の春になっていました。願書にそえて提出する写真を撮った日、私はついでに映画を観ておそくなってから帰宅しましたが、先々のいろんなことが浮んできて、夜通し眠られませんでした。それは恐らく生涯に数度しかないであろう夜の一つでした。次の朝、茶色のガラスが嵌った塵除眼鏡を買うために再び港の街に出かけた時、向うからやってくるN氏に会いました。「そんなバカバカしい金を出す必要なんかありゃしない」とN氏はいって、その場から私を競馬場へともないました。(「飛行機物語」『大全1』p.422)
☆この記述は那須らとの「第一次」飛行機製作の話に続くが、それは大正6年頃のことである。
☆「次の春」は、「ヒコーキ野郎たち」(p.82)の「向う数カ月」に対応するものだろうが、那須と出くわした「2学期の中程」とは矛盾する。
9月下旬
★神戸では朝日館が少し遅れて今のフィルムを上映していた。……大団円をN君と共に観て、湊川新開地の色電気の下へ出たのは、もう彼が明日にも帰京しようとしていた九月下旬のことであった。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.341)
☆このフィルムとは、『真鍮の砲弾』のこと。つまり先の上京時に最初に観て、神戸に帰ってもう一度観たことになる。
☆このN君とは、おそらく那須徳三郎のことで、上記では「2学期の中程」となっているが、同じ日の出来事であろう。
クリスマス
★私は大正八年のクリスマスの日に、在学中は縁のなかった石野重道と相知ったのである……(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.334)
★SIは学校では私の下級生で、美少年として知られていた。然し共に文学を語るようになったのは卒業後の話であり、彼は私にかぶれたと思われる節がある。(「私の宇宙文学」『大全1』p.161〜162)