1920(大正9)年 19歳



正月から春休み
★(飛行機製作の)仕事はお正月から春休みにかけて中絶状態になっていたが、やがて東京から佐伯一枝を迎えた。(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.91)

前半期
★……私には他に『小さなソフィスト』(百三十枚)がある。大正九年の前半期に滝田樗蔭宛に送られたもので、自分でも見込はないと決めていたから、催促もせず、そのままになっている。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.61〜62)
☆同様の記事が「随筆ヰタ・マキニカリス」(『東京遁走曲』p.156)にあり。

★一体、私がこの種の創作に病付いたのは、何もポン彗星が最初でない。その以前に、『小さいソフィスト』という百数十枚の自叙伝風の原稿があったが、これは間もなく失われてしまった。(「私の宇宙文学」『大全1』p.159)

(「小さなソフィスト」は)「相手の人格や気立や思想に恋するなどは嘘である。誰しも先方の眼や口元のちょっとした癖に惚れ込むのである。中には先方の靴の釦にすら恋愛する者が居る」これを書き出しにして、改行のない百三十枚が続いていた。彼は文学志願でなかったが、……東京の一流雑誌の編輯者宛に、「自分の作を見てくれないか」との手紙を書かせたのである。……ところで東京からは返信があって、原稿は送られたが、結局有耶無耶になってしまった」(「弥勒」『全集7』p.252〜253)
☆「肉体とその自由」(『全集11』p.142)に、「相手の人格や思想に恋したなどは嘘っぱちで、誰しも先方の眼だの鼻だの耳だの、口許だのの、何でもない癖に惹かされている。カイゼル=ウィルヘルム二世は、指先のきれいな女ばかりを追い廻していた。これなどは未だましだ。甚しい奴は、当の相手ではなく相手の穿いている靴のボタンにさえ恋をする」私が十代の終りに、なにか新聞の茶話欄に読んで我意を得た言葉であるが、……」とある。

飛行機製作

★ある夜きらきらした流星がこの都会の上をすぎて、再び夏がこようとしていました。私はN氏の家へかよっていました。……複葉トラクターの主胴が出来かかっているのでした。(「飛行機物語」『大全1』p.426)
☆飛行機製作中の夏といえば、この年のことであろう。

土用の最中
★まず那須が座席に上って「オン」「オフ」が始められたが、プロペラは跳ね返るばかりである。……夏の土用の最中だというのに不思議なことであった。(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.97)

7月末
★この海港の東部斜面の上方で、七月末の午後遅く突然湧き起こったプロペラの音は、きっとその前面の海上に散らばっていた船々に聴取されたであろう……(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.100)

★その後私は、一週間ほどかおを出しませんでした。(「飛行機物語」『大全1』p.431)
☆同書p.430によると、エルブリッジ40馬力を積んだ飛行機の試運転には、タルホは2日間携わっていたようである。最初の日はエンジンはすぐに止まり、翌日の試運転のときにプッシュとプルを間違えてエンジンが止まらなくなったのである。その後も試運転は続けられたようであるが、タルホは恥ずかしくなって1週間顔を出さなかったのである。
☆同書p.432に、「その後私は、所沢に新規の友人を訪れたことがありました。かれは逓信省の依託練習生でした。志願書だけはかれといっしょに提出しましたが、採用試験は私は受けなかったのでした。晩秋の広大な陸軍飛行場の……」とある。「所沢」とは埼玉のことか。第二次上京後のことか。不明。
☆同書p.433に、「モーターサイクルの競争に出たN氏がカーヴで顛倒して頬ッぺたを擦りむいていると耳にしたのは三年前です」とある。同書の初出誌から考えると、大正14年頃のことか。

★神戸における那須徳三郎らとの飛行機弄りがあり、それも一段落を告げて、よんどころない日々を送っていた折柄、学校で一級下だった石野重道が遊びにやってきて、私を連れ出して奥平野グループに紹介してくれたのだった。(『緑の蔭』第一章参照)(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.89〜90)
☆平岩多計雄ら奥平野グループとの付き合いは、この頃から上京までのあいだのことのようである。
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.348)には、「石野は猪原と共に、学校では私より一年早かったが、やがて同級になり、更に自身ひとりあとに残ることになった。それも卒業まで行かないうちに上京して、、神田辺りの私立音楽学校に籍を置いて、神戸では学習院だと云いふらしている模様だった」とある。石野が上京したのはこの年であろう。

★猪原も石野も上京して留守だった頃の話であるが、グループのあいだに同人雑誌云々が持ち出され……ともかく同人雑誌として“ダダ”の名が決定されて、原稿は集ったが、この中にあった平岩混児の詩に、“タルホよ踊れ、相生橋に月が出た”というのがあった。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.326)
☆いつのことか不明だが、この記述中に「カートリッジ三十六箇がはいった青い紙の小函を持っていた」とある。(.本年譜ノート、「1927(昭和2)年冬」の項参照)


★私は前年(大正9年)秋の二科展に、同じ画題(空中世界)の水彩を出して落選していた。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.91)
☆「古典物語」(『大全1』p.304)に、50号の油絵「空中世界」を描いて、美術商の窓辺に置いてもらったが、一晩で買い手がついた、とある。これは大正9年の二科で落選した「空中世界」のことが想定されているのであろうが、それは水彩である。
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.343)によると、このとき「空中世界」のほかに、「相生橋」と「夜の散歩の記憶」を制作する予定があったが、「空中世界」に念を入れ過ぎて、あとの2つは腰折れに終わったとある。

★私は大正九年度の二科展に、『空中世界』(あるいは飛行家の夢)という未来派張りの大きな水彩を出して、落選。(「ロバチェフスキー空間を旋りて」『ヒコーキ野郎たち』p.104)


★その前年の秋に、私は“Revedel’Aviateur”と題名をつけた絵を二科会に出して、落ちていたが、このことによって未来派協会から出品勧誘があったわけだ。(「新感覚派前後」『大全6』p.406)

★学校を厄払いになってから、ボクは二三の同志と共に飛行機を作った。模型でない。本物のつもりだった。(このてんまつは「短篇飛行機物語」にかいている。)かたわらボクは、「空中世界」と題した未来派張りの油絵を二科へ出したが、むろん落選だった。けれどもこのために日本未来派協会なるグループから照会があって、……(「零点哲学」『全集11』p.20)

★月といっても普通の円盤でない。いわば輪切り大根のようなもの、もしそれが水平線から背だけを見せていたならば、カマボコの一片といった所だ。赤いカマボコの切れはし。したがって海面の波もその一つ一つが積木で、上面は赤く彩られている。私はこの構想を、奥平野の川岸にある友人の家の地下室で絵にしたものだ。……描き上げたばかりのナマナマしい絵を、注意しながら元町の文華堂へ持って行った。この画具店は、前に私の描いた未来派の「バルコニーの女」「空中世界」「石膏細工の傷病兵」などを、その窓に出していた。……わずかに只の一夜を窓の内部で過したのみでいずれも姿を消してしまった。買手は会下山の下に住んでいたアスベスト商社の若い主人、菱谷文七(小林茂政)である。……こんどの「月の出」も忽ち窓の中から消えた。買いぬしが菱谷文七であることはいう迄もない。只「月の出」が人目にさらされていたほんの短かい時間に竹中郁が通りかかった。彼は私の絵に何か特別の印象を与えられたのか、その後よくこの絵のことを彼の文章中に持ち出すようになった。(「神戸三重奏」『全集11』p.295)
☆平岩多計雄の家で「月の出」を描いたり、石膏の「傷病兵」をつくったりしたというのもこの頃(大正8年後半〜9年)のことか?(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.344〜345)。
☆「鉛の銃弾」(『鉛の銃弾』p.83)には、「チョコレート」の構想が閃いたのも、この平岩の家だったとある。
☆竹中郁は木村書店による『明石』再版(昭和38年10月)のとき「月の出」ほか数枚のカットを描いたとある。

★一等初めは、神戸奥平野の友人平岩多計雄の部屋で、彼の古カンヴァスとエノグを使って、油彩として描き上げたので、ナマ乾きのまま元町の文華堂へ持って行って、窓に出すとすぐに菱谷文七(小林茂政)が買ってくれた。窓に出ていた短かい期間に、竹中郁が通りかかって感銘を受けたらしく、それが今日まで尾を曳いている。(「タルホ=ファンタジー自註」『全集11』p.332)
☆続いて、「先年、明石の木村書店が出した新版『明石』にも竹中は数種のカットを描いてくれたが、その一つに私の「月の出」が取り上げられている。昭和の初め頃に、春山行夫が編集していた季刊詩誌には、ボール紙細工の「月の出」が紹介されている。即ちヴァリエーションがあっちこっちに散らばっているわけだ」とある。

11月20日
★この大正九年十一月二十日(飛行競技は二十一日から三日間にわたって開催された)に、私は初めてコロッケというものを口にした。……ちょうど朝日か毎日かの夕刊に宇野浩二の「高い山から谷底見れば」が連載されていた時で……(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.35〜36)

★私が城東練兵場でスパッド13型を見た年の……(「ヒコーキ野郎たち」『ヒコーキ野郎たち』p.10)
☆これも11月20日のことか。

★自分の写真などは一切、十代の終りに焼払ってしまった。(「ボクの剪定法」『全集11』p.108)

★遠藤忠剛君は私より五つくらい年下で、その頃、神戸一中へ明石から汽車通学をしていた。……レールの継目から菌糸のように白い細い手首が伸びてきて、招くというのは忠剛のイメージであった。彼はそのことをしばしば私に聞かせた。それを思い出して描いたものである。(「タルホ・ファンタジー自註」『全集11』p.334)
☆タルホ・ピクチュア「明方の誘惑」について。
☆この年代から推定すると、1919〜21年頃の話ではないだろうか。

☆志代夫人の『夫稲垣足穂』(p.29)に、「十八、九歳のとき、真宗のお寺に出入りして、石川県の明烏敏師に手きびしくさとされたことがあります」とある。これは無量光寺(浄土宗)のことではない。


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