5月 ★「芸術的に見たる飛行機」<飛行、帝国飛行協会雑誌>[6-349]
☆『全集6』に初めて採録されたもの。中学3年のときに「聞いて貰いたいこと」を書いてから4年、飛行機への想いは衰えることを知らない。しかし、飛行家になる夢をついに断念したタルホは、飛行家=芸術家なる方程式のもとに、みずからの進むべき道を宣言しているように見える。
☆「平木(国夫)氏は……『ヒコーキ野郎たち』が活字になると、輪をかけて、人名、機種、日時の誤りを指摘するのを怠らなかった。それら調査の中には、私が大正九年頃の飛行雑誌に書いた『芸術的に見たる飛行機』が含まれていた」(「わが稲垣足穂小全と読者群」『全集11』p.256)
新緑の候
★大正十年の新緑の候に、明石の公会堂で神戸の長田教会の親睦会があった。私の友人の石野重道がこれに加わっていたので、私は出向いて、濤声が聴える廊下で石野に向って「月取り物語」(タルホの『黄漠奇聞』の原形)のすじを語ったところ、聞き手の方が自分より先にそれを書いてしまった(石野の「バブルクンドの滅亡」のこと)。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.30)
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.91)によると、石野重道は大正10年の春から9月下旬にタルホと一緒に上京するまでのあいだ、神戸に帰省していた。つまりその間の出来事であろう。
☆「私の宇宙文学」(『大全1』p.162)に、「SIが一時頻りに『タルホと虚空』を持ち廻った。それは彼が最近見た夜の夢に自ら付した命名である」とあるが、この頃のことか?
ポン彗星接近
6月24、25日頃
★ポン彗星とは、ポンス=ウィンネッケ彗星のことである。周期六年余の木星族小彗星であるが、こんな対象も時にはジャーナリズムが取上げるものだ。ポン彗星が地球に接近して来る六月二十四、五日頃には流星群の雨下が見られるだろう、という新聞記事を読んだ時、私は映画館の機械室の小窓から射している光束を連想した。あんな工合に箒星の尻尾が当った所に一つの美しい都会の姿が映じるというのはどうであろうか? これより前に、パナマ太平洋万国大博覧会の夜景画の絵葉書を知っていた。それは会場で呼物の宝玉塔から五彩のサーチライトが、夜空を蔽うて放射している原色版だった。これを「ポン彗星の都」の見本にしようと考えた。(「私の宇宙文学」『大全1』p.149)
☆「彗星一夕話」(『全集12』、p.170)という作品に、「わがポンス君がこのまえに現われたのはたしか大正十年であった」とあるので、この年だということが判明した。
★作の構想が泛んだのは、江美留がまだ父の家に居て、毎日のように港の都会へ通い、青鳥(ブルーバード)映画と、細目のハヴァナ葉巻と、終電車の夜風に縺れて微酔の頬を打つネクタイに陶酔していた「六月の夜の都会の季節」で、新聞がポン彗星の接近を書き立てている折柄であった。(「弥勒」『全集7』p.254)
☆「作の構想」とは、創作「ポン彗星から来た夢」のことであろう。
前半期
★こうして一九二一年の前半期に、間をおいて(『一千一秒物語』の)一話ずつが生まれたので、……「病院の料理番人の文学」『大全6』p.555)
☆タルホはここで、『一千一秒物語』成立の3つの要素を挙げている。1.『小さなソフィスト』の終幕の気分、2.ロード=ダンセーニの“Fifty-onetales"(五十一話集)、3.『指鬘曼外道』(柳原Y子)
☆このうちの『指鬘曼外道』は『指鬘外道』の間違い。
★只私の別な天体物『一千一秒物語』は、前の自伝(『小さいソフィスト』)の終りの部分が自ら展開したものなのである。(「私の宇宙文学」『大全1』p.159)
☆ここでは、『一千一秒物語』成立の要素として、「傍に置いていた坪内博士訳『真夏の夜の夢』、このページに見た幾つかの雅致あるペン画の影響もある」と述べている。
★『或る小路の話』及び『一千一秒物語』には、ともかく関西学院中学部を卒えてよんどころない日々を送っていた自分の、数年間の苛立ちと、夢想とが凝縮されている……(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.52)
★私の「一千一秒物語」は大体として神戸三宮の山手の夜の気分に醗酵している。私は関西学院中学部を出て上京に至るまでの数年間、毎晩のように平野方向へ遊びに出かけ、真夜中すぎに友だちと共に、時に泥酔状態で、時にはナマ殺しの半酔で、北野町あるいは山本通を通って帰ってくるならいであったからだ。一千一秒物語の照明装置にもやはりガス灯が用いられている。これもその方が効果的だと考えたからで、たとえ室内灯としてもガス灯なんかもうどの家にもなかったであろう。(「ガス灯へのあこがれ」『全集11』p.187)
★私において考えられないものの連結は、人間と天体である。だから私の処女作「一千一秒物語の中では、お月さんとビールを飲み、星の会合に列席し、また星にハーモニカを盗まれたり、ホウキ星とつかみ合いを演じたりするのである。この物語を書いたのが十九歳の時で、以来五十年、私が折りにふれてつづってきたのは、すべてこの「一千一秒物語」の解説に他ならない。(「無限なるわが文学の道」『全集11』p.227)
★これから数年経って、私の十八、九歳の頃、『田園の憂鬱』『西班牙犬の家』『美しき町』の作者として売出した佐藤春夫が、また唯美主義、云いかえて泰西頽唐派文学の脈を引くものであることを、友人から教えられた。(「唯美主義の思い出」『大全6』p.418)
☆この頃のことか? 佐藤春夫の作品年譜要参照。
★只失われた原稿の終りの部分が、捨てがたかったままに、改めて数十箇の童話風な断片に展開したのだった。その時分 Iは、家庭の都合上から神戸の中央郵便局へ通っていたが、勤めをサボって、弁当持参で朝から江美留の家へ遊びにやってくるようなことが多かった。或る日 I は、『指紋』だの、『美しき町』だの、『西班牙犬の家だのいう創作によって、最近文壇に売出したH・Sのことを語った」。……こう聞かされたとたん、自分の小話集をその新進作家に見せてみようという気持が湧いてきたのだった。(「弥勒」『全集7』p.253)
☆「失われた原稿」とは「小さなソフィスト」のこと。また「童話風な断片」とは、のちの「一千一秒物語」のこと。
☆H・Sは佐藤春夫、I とは猪原太郎のこと。
夏
★私の家の二階裏側に南向きのガラス戸があった。ある夏の晩、ここに佇んで中空に照っている月を、ガラスのおもてにあった放射状のヒビ割れの中心に持ってくるようにやってみると、面白い図柄になった。これを早速スケッチブックにペン画として写し取った。(「タルホ・ファンタジー自註」『全集11』p.329)
☆「月の散文詩」のこと。おそらくこの年の夏のことだろう。
☆この9月に上京して、「空中世界」を日本未来派美術展覧会に出品するとき、これをスケッチブックから切り取って「月の散文詩」として一緒に出品したということであろう。
8月31日
★しばらく御無沙汰して居ります。独りで明石の海とその上とに立つ雲を見ているうちに夏が過ぎて行って九月がやって来ました。九月になったと言えば、あなたは上海へ行かれますか? 僕はせっかく東京へ行っても張り合いがないような寂しい気がします。あなたが支那へ行ってしまわれるとすれば……。僕はその後、小話を少しと「煌めける城」という百枚位のを書きました。……先月、七月の初めに上京しようと思って、父に明日行くと云うことを告げると、その曰くに、「何時でも好きな時に勝手に行くがいい。お前のようなものは家に居ようが居まいが同じことだから……」こんな口吻ですもの。僕も「そんなつもりなら!」と言う気持にならざるを得ません。……三十一日夜、T・I(「佐藤春夫への手紙」『全集1』p.410〜412)
☆冒頭に「九月がやって来ました」とあるが、文中に「先月、七月初め」とあることから、末尾の「三十一日夜」は8月のことであろう。また、9月25日には上京している。
上京 佐藤春夫のもとへ
9月末
★適当な題がなかったので、まず二、三十話をまとめ、表紙に『タルホと月』と書き入れて、佐藤先生に送った。……こういう手紙が先生から届いたので、その次に『タルホと星』を送った。……これが二度目の手紙で、一九二〇年の九月末に、上目黒の大坂上に、佐藤先生をたずねたわけである。(「病院の料理番人の文学」『大全6』p.555)
☆この「一九二〇年」は「一九二一年」の誤り。ここでは2度に分けて原稿を送り、2度目に上京を促す手紙をもらったことになる。(「随筆ヰタ・マキニカリス」『東京遁走曲』』p.157)には、「上京までに佐藤春夫と3、4回手紙の遣り取りがあった」とあるが、それは上京に際する事務的な手紙も含めてのことであろう。
☆同書p.555〜556に、「ちょうど此の頃、一夕、佐藤先生をおとずれた宇野浩二が、私の原稿を見て、「新花鳥主義といったものだね」と評したということをあとから先生に聞かされた」とあるのは、タルホ自身が「上京したあとから聞かされた」ということであろう。
☆「高橋新吉が、辻潤が新聞紙の欄外の余白にエンピツでなぐり書きした紹介状を持って、先生を来訪したのもこの時分である」とあるが、『佐藤春夫全集』(講談社)の年表には、佐藤春夫が高橋新吉と相知ったのは大正11年5月とある。
☆同書p.556には、「「君をみとめたのは僕でなく、弟の秋雄だよ。あれが君の原稿を読んで、返事を出してみようじゃないかと云って、僕の口述を写した。だから最初の手紙は筆蹟が違っていたろう」と先生は云った」とある。つまり、最初の手紙は春夫の弟の秋雄が代筆したことになる。
9月25日
★私は前年九月二十五日に上京、十月に入って鶴巻町から九段下の猪原の間借り先へ移り、数日後に上目黒の佐藤先生の離れへ引越した……(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.354)
☆上京の日付が出ている唯一の箇所。
9月下旬
★第二次上京は大正十年九月下旬で、石野重道といっしょであった。石野は……神田辺りの私立音楽学校に籍を置いていた……春から夏の終りにかけての帰省中に、石野は東京へ連絡しなかったらしく、あの蒸々した九月下旬の午後、牛込駅(現在の飯田橋駅南口)へ下りて、神楽坂を経て榎町の下宿まで辿り着いたわれわれは、先方から断られてしまった。やっと隣の下宿に話をつけて、二階表側の細長い部屋に落着いた(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.90〜91)
☆石野はこの年の春からこの9月下旬まで神戸に帰省していて、その間の部屋代を払っていなかった模様。同書p.91によると、石野はその後、飯田橋新諏訪町の那須徳三郎の下宿、渋谷神泉の農大前の下宿へと転居している。
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.347)に同様の記事。ここでは「9月末」。また石野の下宿は「榎町」でなく「天神町」となっている。下宿へ行く途中、矢来通りの突き当たりの本屋で、芥川龍之介の「好色」(改造、大正10年10月号)を見たとある。この短い同居期間中に、石野から今東光が新思潮に発表した「女人転身」を読ませられたとある(p.348)。
★(石野の下宿に着いて)数日目に私は、鶴巻町の大学寄りの古本屋二階住いの衣巻兄弟の許へ逃げた。階下の店は彼らの長兄の経営であった。この期間に、私は神保町の文房堂でカンヴァスを買ってきて、かねて念頭にあった『空中世界』を描き上げた。……こんどは油彩でやって、その秋の第一回未来派美術展覧会に応募する心算であった。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.91)
☆油絵の「空中世界」は、この衣巻兄弟の下宿先で描いたことになる。「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.349)にもそのときの様子が。
☆衣巻の長兄が古本屋を経営、省三は早稲田英文科、その弟(寅四郎)は川端画学校へ通っていた。
☆手荷物のうちの英訳ベルグソン数冊は、長兄に買い取ってもらった(同書p.93)
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.348)では、「石野との一週間が過ぎてから」とある。
★やっと描き終えた“空中世界”を江戸川橋までかかえて行って、俥に乗った。梶棒が上げられたとたん今秋の二科の古賀春江の画が頭に浮んだ。……千駄木町の木下というお医者さんの広い邸内にある日本未来派協会の受附まで運んだ。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.349)
☆おそらく衣巻の下宿から搬入したのであろう。その後「至急ご相談したき儀あり」の速達があって二度目に出向いたのは、佐藤春夫のところへ行ってからのことかもしれない。
★上京の一九二一年の秋お世話になった衣巻省三氏……(「友横光利一の霊に」『全集8』p.292)
★私は二回目に上京した一九二一年の秋、早稲田鶴巻町の金時の前にあった古本屋の二階に、数週間お世話になった。此処は衣巻省三の兄君の住いで、友はその階上に住んで、早大英文科へ通っていたわけである。……鶴巻町の通りを、矢来下まで出た時、……その先の茗荷谷に未来派画家(東郷青児のこと)が住んでいることを知っていたからだ。然し先方へおしかけるというような気持は、私になかった。(「新感覚派前後」『大全6』p.404)
☆東郷青児追跡談として、同書はこの後、「のちに東郷が大阪のクラブ化粧品本舗へ入社したとの報せを新聞の消息欄に見て、長文の手紙をかいた。切手を二枚貼った書信は、然し、東郷氏は未だこちらへ来ていないとの理由で、返送されてきた。そのうち彼はフランスへ発ち、十数年が経過し、先方が帰日してもまだ逢う機会は得られなかった。一度、下北沢に横光をたずねた帰途に、つい近くの、広い芝生を前庭にした彼のアトリエを訪ねたが、留守であった。やっと彼を捉えたのは、終戦の年の秋である」と続く。それぞれどの時期に相当するか?。
☆東郷のクラブ化粧品会社入社は、大正8年5〜6月頃の2週間と判明。
☆同様の記述が「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.348)に。
9月末
★その前に佐藤三兄弟が住んでいたのは、青山南町うらの門付きの古びた三階建であった。私はあのじめじめした九月末の午前、牛込榎町から俥に乗ってまずそこへ出向いたのである。……私はそれから矢来町の新潮社へ廻って先生の新居を訊ね、代々木廻りで渋谷に出て、道玄坂をテクったのである。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.100)
☆『佐藤春夫全集』(講談社)の年表によると、佐藤春夫は大正10年5月から赤坂区青山南町5丁目37に住んでいた。そして、9月に東京市外上目黒氷川593の弟・夏樹方に転居した。タルホのほかに江川宇礼雄が同居とある。
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.348)にも同様の記事。「……渋谷に出て、練兵場への坂を登り、バックして大坂上の窪地に藁葺屋根を見つけた」とある。
秋
★これ(「星を売る店」)は、震災前年の秋、早稲田鶴巻町を矢来下の方へ歩いていて、ふと近付いた時計商の窓の余りの煌びやかさに思い付いたのである。(「私の宇宙文学」『大全1』p.169〜170)
☆「星を売る店」は1922(大正11)年すなわち「震災前年の夏」に明石で書いているので、このアイデアを得たのは「震災前々年の秋」でなければならない。
10月 ★『幻燈』《佐藤春夫著、新潮社》[1-410]
☆この中の「たそがれの人間」という作品に、佐藤春夫は稲垣足穂からの手紙を掲載。それを『全集1』(筑摩書房、2000年)に「佐藤春夫への手紙」として収録。
☆佐藤春夫の「たそがれの人間」の初出は「文章倶楽部」(1921年10月号)で、それが収録された単行本『幻燈』も同年10月に新潮社から刊行された。
☆「たそがれの人間」は『底本佐藤春夫全集・第4巻』(臨川書店、1998年)に収録。
10月初め
★十月の初めに私は、絵具箱を衣巻寅四郎に寄贈、自分はトランク一つを下げて、上目黒大坂上の佐藤春夫先生の離れへ引き移った。鶴巻町から、九段下の堀ばたの路地に住んでいた猪原太郎の許に移って、一週間余り経ってからの話である。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.94)
★私は上京して、早稲田鶴巻町の衣巻省三の許から、九段下の猪原の間借先を経て、渋谷大坂上の佐藤方に引越したのであるが、これをきっかけに私が起居していた離れには、猪原太郎をはじめ、石野重道、平岩混児、江森盛弥等々が頻りに出入りするようになった。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.332)
★それは大正十年九月の終りのことである。……夏樹(夏夫のこと)夫妻の住いで、春夫先生は此処に寄寓していた。渋谷大坂上の堤下にあった。(「随筆ヰタ・マキニカリス」『東京遁走曲』p.158)
☆同書p.163には「離れ三畳」とある。
★二十年も以前、早稲田鶴巻町から上目黒へ引越した頃、道玄坂下のガードでよく見かけた食堂自動車が彼の引合いに出された。(「世界の巌」『全集7』p.418)
★大正十年九月末に第二回目の上京をした時、大塚坂下町西摂舎のN君の部屋に、前年の二科に出して落選した自分の“空中世界”が懸かっていた。通知が来た時、搬出方をN君に依頼したからである。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.342)
☆このN君とは、関西学院で同級だった野口弥太郎のことか? この頃、上野の美校に通っていたとある。
☆同書p.344によると、この落選画は神戸に持ち帰られて、元町の文華堂に展示された。持ち帰ったのは、翌大正11年夏の最初の帰省時か。同書p.347には、この「空中世界」は「月の出」「傷病兵」と併せて、菱谷文七が買い取ったとある。
秋
★細い象牙の縁がついた鼻眼鏡を掛けたH・S氏は、彼を前に置いて、その日、銀座で購った紅い笠のついたスタンドに灯が点った時に、きわめて上機嫌に云った。「さあ、これからポン彗星の幻想に耽りましょう」――これは大正十年の秋のことであったが、……(「弥勒」『全集7』p.254)
☆H・Sは佐藤春夫。
秋
★現実に、「山田式気球」と白いゴシック文字で大書された屋根を、ボクは大正十年頃、二度目に上京した折に、山手線の窓べから大崎駅の郊外方面に見つけた。(「雲雀の世界」『全集11』p.102)
☆「雲雀の世界」の初出(「机」)では、「二回目に上京した大正十年の秋のこと」とある。
初秋
★私は大正十年の初秋、上野山下の青ペンキ塗り四層の箱のような青陽軒で催された日本未来派美術展覧会に、油彩「空中世界」を出したが、これを運び出す時に思い付いて、前記写生帳のページにあった「ガラス窓の月」を切り取って小さな真四角の額縁に入れて加えることにした。「空中世界」は落選で、小さな「月の散文詩」が、審査に通過した。このペン画には薄い黄と青で彩淡が施されていた。ほんの懐中ににはいるような小品だったので、会期中に盗まれてしまったのである。(「タルホ・ファンタジー自註」『全集11』p.329〜330)
★油彩『空中世界』は選に洩れたが、もう一つの淡彩を施した『月の散文詩』がパッスした。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.94)
★翌十年には同じテーマ(『空中世界』)を油彩で描き、他に『月の散文詩』と題した小さなペン画と共に、日本第一回未来派美術展覧会へ応募した。後者が入選したが……(「ロバチェフスキー空間を旋りて」『ヒコーキ野郎たち』p.104)
☆タルホはこの未来派展を「第一回」としているが、正確には「第二回」のようである。
☆萩原氏の年譜には、「第二回未来派美術展覧会」とある。
☆岡村多佳夫「足穂と未来派」(『ユリイカ』'87,1)によれば、「この年(大正9年)、二科会から離れた普門暁らによって未来派美術協会が結成されたのである。彼らはその年から三回展覧会を開いているが、足穂は翌年(大正10年)の第二回美術家協会展と、更にその次の年に名称を「三科インデペンデント」と変更して開催された展覧会に入選者として名を連ねている」とある。
☆茂田真理子『タルホ/未来派』(河出書房新社、'97、p.56)には、「初めて「未来派」の名称を掲げ、自らの運動に冠したのは木下秀一郎を中心とする未来派美術協会である。……一九二〇年に開催した第一回未来派美術展覧会は、そうした動きに先鞭を付けるものだった。翌年、ロシア未来派の詩人であり画家でもあったブルリュークDavid Burliukを招いて第二回未来派展が開かれる」とある。
★第一回未来派展覧会に私は、「空中世界」と題する油絵と、「月の散文詩」というエッチングを出した。期待した前者は選に洩れ、評判のよかった後者は会場で盗まれてしまった。油絵を少年(独協少年)に贈った。(「美少年時代」『星の都』p.239)
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.350)では、「月の散文詩」はペン画の上に青と黄の水彩絵具でうすく彩色したものとある。
★第一回未来派展に出した『空中世界』は、其後、大阪上の佐藤春夫先生の床ノ間に置かれ、その後、独逸学協会学校の少年の手に渡り、程なく不良哥ちゃんそれがしが持ち去って、消息は絶えてしまった。『月の散文詩』は、前に云ったように会場で紛失し、……(「新感覚派前後」『大全6』p.408)
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.351)には、この展覧会に佐藤春夫と連れ立って訪れたとある。また「額縁を外した“空中世界"は暫くのあいだ、曾て先生が二科へ出した自画像(“殉情詩集"の口絵になっているもの)並びに高村光太郎筆の春夫像と共に、先生の部屋の床ノ間に立てかけられていた」。
★『月の散文詩』を入れる特別製額縁のために、現今人民新聞にいる江森盛弥が、助力してくれたことを思い出す。彼は、関西学院中学部で私の下級の怪童であった。(「新感覚派前後」『大全6』p.406)
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.350)では、「月の散文詩」は約7センチ四角で、衣巻寅四郎の絵葉書用の額縁を借りて出品したが、主催者側から取り替えるように言われ、白山の平岩多計雄の下宿へ行って額縁屋を訊ね、手頃なのを大いそぎで方形に縮めてもらったとある。
★もう四十年になるが、これ(へなへなと光れる月や硝子越 立子)とそっくりの経験を私はわが家の二階の窓ぎわに得て、早速その印象を『月の散文詩』という水彩に仕立てて、上野広小路の青陽軒で開かれた第一回未来派展に出品したのだった。(「新歳時記の物理学」『大全6』p.520)
☆この「わが家」は上京前の明石の実家のことであろう。ただし、前年の二科展には『月の散文詩』は応募していない。
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.350)には、「明石の家の二階で……思い付いた」とある。おそらく上京前に写生帳に描いていたものを、この年、未来派展への搬入間際に切り取って出品したのであろう。
★私は丸善を介して、ミラノの本屋から、ウンベルト=ボッチョーニの『未来派の絵画及び彫刻』という本を取寄せて貰った。これを種本にして絵筆を執り、第一回未来派美術展覧会に送った。『空中世界』と題した油絵と、『月の散文詩』と名をつけた水彩小品とである。(「新感覚派前後」『大全6』p.406)
★けれどもこのために日本未来派協会なるグループから照会があって、上野広小路青陽軒で、第一回及び第二回と開催された未来派美術展覧会に、それぞれ「月の散文詩」及び「カイネ博士に依って語られしもの」の二作を発表した。(「零点哲学」『全集11』p.20)
★佐藤春夫の離れに居た私の許へ出入りする不良文学少年があって、彼がある午後、桜木町の宇野の家へ私を伴った……(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.59)
☆年月は不明。
★でも先生は、よっぽどのことでないと客を私に紹介しなかった。高橋(新吉)のことも宇野浩二の来訪も私は知らぬ。ただ或るとき……初対面の尾崎士郎で、かれが雑誌にかいた「美少年考」というのをよんで、先生に告げた一事があった。(「美少年時代」『星の都』p.236〜237、『全集12』p.330)
☆同書p.237に「先生は台湾旅行から帰った直後で……」とあるが、いつのことか?
☆同様の記述が「病院の料理番人の文学」(『大全6』p.556)に。
★私が佐藤先生の家へ飛び込んだのは、震災の前々年。一九二一年秋で、此処で富ノ沢麟太郎と知り合い、時に玄関を訪れる高橋新吉を垣間見た。佐藤先生への来客として最初に憶えているのが、尾崎士郎。改造記者の古木鉄也、婦人公論社の諏訪三郎、江川宇礼夫、葉山三千子……(「新感覚派前後」『大全6』p.408)
☆『佐藤春夫全集』(講談社)の年表によると、佐藤春夫が高橋新吉と相知ったのは、大正11年5月となっている。
★M嬢には、よりいっそう美しい妹があった。この二人は上目黒の先生の家に度々現れた。……先生はこの姉妹のどちらかと結婚するはずだった。(「美少年時代」『星の都』p.251)
★はたちを過ぎた頃だった。佐藤先生と、相馬屋紙店の前を神楽坂下に向って歩いていた時に擦れ違ったとんびを着た人物があった。瞬間の印象は「貧乏恵比寿」に見えた。……辻潤その人であった。(「唯美主義の思い出」『大全6』p.419〜420)
☆この頃のことか?
★冬の晩、上目黒の佐藤先生の離れの三畳でも、猪原は猫のように背を丸めて坐り込んだまま、暗くなってもう二時間にもなろうというのに動こうともしない。……私は折角の少年客を伴って外へ出て、道玄坂中途のガレージの二階に近頃出来たカフェーに登って、そこで一時間ほど過ごして……(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.331)
★大正十年の終り、上目黒大坂上(玉川線)の、佐藤春夫先生の離れ三畳にお世話になっていた頃、先生に見せた淡彩の格子縞があった。先生が「月光の感じがよく捉えられている」と云われたことに気が付いた。このショート集は“TALUPHO ET LALUNE”という題であった。其後あるいは「ルナ」あるいは「散歩前の小話」と変遷して、ついに「一千一秒物語」に落ち着いたが、……(「タルホ・ファンタジー自註」『全集11』p.328)
大晦日
★大晦日のおひる過ぎに、(佐藤)先生は私に、封書とカガシ屋への略図を托した。……私は少年を伴って新橋からタクシーに乗って、大晦日午後の雑沓の中を抜け、浅草へ行った。映画館では早川雪洲が出てくる『黒薔薇』が上映されていた。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.117)
☆この大晦日の新橋少年(元女優・珊瑚の甥、赤坂中学1年生)とのデートの件は、「美少年時代」(「若草」昭和24年8月、『星の都』p.232〜234、『全集12』p.328)でも触れられている。
☆稲垣志代著『夫稲垣足穂』p.123には、「昔、稲垣が上山草人の留守宅にいて、新橋の『かっしゃ』というまゆずみなどの小間物店へ出入りしていたころ、赤坂中学の美少年がそこへ遊びにきていたという。その美少年が錦織剛男園長だった」とある。しかし、草人の留守宅にいたのは、タルホでなく佐藤春夫ではないか。「かっしゃ」とは「カガシ屋」のことであろう。錦織園長は精薄児施設・八瀬学園の園長であるが、彼がこの赤坂中学の少年だというのは真か。そのような記述はタルホの文章の中には一度も見られないようだが。
☆『黒薔薇』はコリン・キャンベル監督のアメリカ映画(1921年製作)
★東京では一度、あれは大正十年頃の話であったが、宮城うらの英国大使館辺りを電車で通っていた時、雨の中に数本のガス灯が立って、それぞれの周りを落ちている雨つぶを光らせていたのをうつくしいと見た憶えがある。(「ガス灯へのあこがれ」『全集11』p.187)