1922(大正11)年 21歳 道玄坂へ転居



1月
★一月の寒い晩、午後から遊びにきていた(新橋)少年を伴って、代々木廻りで新橋に出ようとしていた時であった。「お腹が痛み出したから次の駅で下りてくれ、すぐ直る例だから」と訴えられて、……(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.118)
☆同様の記事が「美少年時代」(『星の都』p.232、『全集12』p.328)にあり。

★この(「煌ける城」)構想は、『チョコレット』を書いた頃にすでに私の頭にあった。まず佐藤春夫に見せると……(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.57)
☆「雙ケ丘」(『大全5』p.91)に、京都の染香寮に移った年のこととして、「澄明な夏の夕べ、天神川のせせらぎに映じる相互タクシーの灯はまた、やはりこんな七月の宵にちらつく神戸の高台の灯に、『煌ける城』の構想を得たことに思い当たらせた」とある。

★またある時、『硫酸事件』(何かそんな名の犯罪小説であった)というのを代作してくれと依頼されたことがある。これには前例があった。『卓上に在ったもの』がそうである。(「佐藤春夫を送る辞」『大全6』p.546〜547)
☆佐藤春夫の「卓上に在ったもの」は、大正11年1月「新潮」発表。

3月 ★「チョコレート」<婦人公論>[→「チョコレット」2-47]
★先生は婦人公論に『都会の憂鬱』を連載中で、担当記者であった半澤成二(諏訪三郎)が、同誌童話欄のために、「だれか新人のものがほしい」と云って、先生の許から持って帰ったのが、『チョコレット』である。これが嶋中雄作編集長のお目がねにかなって、一九二二年三月号に掲載、九月号には『星を造る人』が載ることになった。(「病院の料理番人の文学」『大全6』p.556)
☆「星を造る人」の「九月号」は、10月号の誤り。
☆「都会の憂鬱」は1922年1月から12月(11回)まで「婦人公論」に連載。

★当時、「これは翻訳でないのか」と云われたものだが、フェアリーについてのこのような扱い方は、どこにもないだろうとの自信がある。(「稲垣足穂作品集について」『全集12』p.430)

★「時計直しのおじいさん」とは、いつか佐藤先生が私を冷やかして口に出したコトバで、……たった一ぺんだけ、婦人公論という当時一流の雑誌に発表した『チョコレート』である。数知れぬ回数にわたってページを繰られているので、大正十一年三月号の表紙は擦り切れ、紙は黄色に焼け、ボロボロになっている。この着想は、先生ならびに私が電車を待って佇む、玉川線「渋谷大坂上」のわきに、破れガラスの戸が付いたボンボン時計修繕屋があったことに由来している筈である。(「我が見る魔もの」『全集11』p.359)
☆この年の6月に佐藤春夫のもとを出るまでの話だろう。

★これにヒントを得て、未来の都会の公園で月への出発者を見送る話を、私は書いた。十数枚のものだったが、この散文詩風の草稿も失われ、どんなふうに綴ったかさえ忘れてしまった。その頃、別に、『果して月へ行けたか?』を計画し、八十余枚に書き上げた。……この書き出しの部分を、婦人公論記者が佐藤先生の原稿を待つ時間に目を通して、……実はあとが続かず、放棄しなければならなかった。(「私の宇宙文学」『大全1』p.160)
☆失われたこの2つの創作は、佐藤春夫のもとにいた頃のことであろう。
☆後者に出てくる「エーテルスコープ」は、のちに「タルホと虚空」(GGPG、1925<大正14>年7月、新小説、同年9月)および「童話の天文学者」(新青年、1927<昭和2>年)に登場する「薄板界」の原形といえる。

4月
★昔、私は佐藤春夫先生の依頼で、自分が憶えている数箇の荒談を書いた――……私が佐藤先生のために書いた話は、他にも二、三あったが、こんど小話集に先生は、彼の即興を一つ付け加えた。……全篇は『魔のもの』と題して、雑誌「新小説」に発表された筈である。(「我が見る魔もの」『全集11』p.351〜354)
☆佐藤春夫の「魔のもの」は、1922年4月の「新小説」に発表。

4月16日
★大正十一年四月十六日の午後、日比谷の帝国ホテルが全焼した。私にはアート=スミスやカザリン=スチンソン嬢の思い出があるなつかしい建物であった。……ちょうど日曜日で私は新橋のカガシ屋に居たので、火事騒ぎを眼の前に見た。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.123)
☆1922(大正11)年4月16日は、確かに日曜日である。

前半期
★大正十一年前半期のある晩、赤坂中学の少年と銀座うらの映画館の二階で坐っていた時に、私の脳裡に、「少年嗜好症」の五字が閃いた。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.68)

初夏
★渋谷大坂上の家で、先生が籠から鸚鵡を出して片手にとまらせていた時、鳥が噛んだのだった。……癇癪が爆発して、先生は有り合わせの文鎮を取上げて鸚鵡を叩き殺し、あとは私が始末したのである。(「佐藤春夫を送る辞」『大全6』p.540)
☆「鸚鵡の一件」(大正13年3月、『全集12』p.16)には、「それはわたしが春成様の蛍ヶ池の御山荘に御厄介になっていた或る初夏の朝のことでした」とある。新宮か?、大正11年のことか?
☆「人としての春夫先生」(昭和4年5月、『全集12』p.207)には、この事件は「目黒の家で」とある。
☆佐藤春夫には「鸚鵡」(「童話」、1922年6月)という作品がある。

道玄坂へ転居
初夏
★アメリカ氏(佐藤春夫の弟)が奥さんと別れて北海道へ移ることになって、上目黒の家は翌大正十一年初夏にたゝまれた。私は取りあえず、衣巻省三が早稲田からの引越し先、道玄坂裏通りの三階建の三階に住いをきめることにした。先生も又、新橋駅ぎわの「かがし屋」(上山草人留守宅)へ移るまでの数週間を、この元旅館の二階の一室で送ったが、そのあいだの話が『化物屋敷』という彼の短編になっている。(「随筆ヰタ・マキニカリス」『東京遁走曲』p.169)
☆この三階建の家については「黒猫と女の子」(昭和元年4月、婦人公論)に書かれている。なお「美少年時代」(『星の都』p.238)に「先生は、富士横町で数週を送って、新橋の少年の家の二階にしばらく滞在していた」とある。

初夏
★実はこの藁葺屋は、先生の弟さん夫妻の住いだったので、翌年の初夏になるとちょっとした事情があって、家がたたまれることになり、私は道玄坂と平行した富士横町の三階に移った。元料亭だったので、見晴しの良い三階があったのである。(「キネマの月巷に昇る春なれば」『全集12』p.408)

6月
★六月になって、佐藤夏樹氏の上目黒の家がたたまれることになって、私は渋谷富士横町の旧旅館の三階に移り、佐藤先生は新橋駅近くの上山草人の留守宅に引越した。この“カガシ屋”の二階で新刊の“明星”のぺージを繰っていたところ、ピカビアの短文に出くわした。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.351)
☆「望遠鏡で無限の彼方を覗くと自分の後ろ頭が見える」という話。

★私は取りあえず、衣巻兄弟が鶴巻町から移っていた、近所の富士横町の三階建の三階の一室へ引越した。それは道玄坂南側に平行しているだらだら坂の上方にあって、元は料亭だったという建物だったが、その見晴しの良い三階の四室は、裏側は衣巻と、一ノ瀬という青山学院の学生が占領。表の西側を私が、階段を挟んだ東側にはやがて石野が移ってきた。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.96)

6月
★三年まえの六月、私は目黒から渋谷のD坂附近にある××横町というところへ転居した。それは三階のひさしに電燈の白い陶器が転々とならんでいる堂々とした家で、昔は料理屋をやっていたとのことであった。(「黒猫と女の子」『星の都』p.40)
☆「黒猫と女の子」は大正15(昭和元)年4月、「婦人公論」発表であるが、ここで「三年まえの六月」とは大正11年のこと。なお、文中に「佐藤春夫氏『首くゝりの家』参照」とある。

上半期
★……「黄漠奇聞」の四字が、道を歩いている時に私の頭に浮んだのである。大正十一年上半期、上目黒の佐藤春夫先生宅から道玄坂うらの化物屋敷の三階へ移った当初の話である。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.28〜29)

★この石野文(「バブルクンドの滅亡」)を元にして、私は改めて八十余枚を、例の渋谷の化物屋敷の三階で書き上げたのであった。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.30)

★富士横町の三階では、『星を造る人』と『黄漠奇聞』とを書いた。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.103)

★おばけ館の三階では、出世作『星を造る人』と『黄漠奇聞』の下がきが出来た。その夏、明石の、いまの天文科学館の塔が立っている処にあった茶室で仕上げたのが、翌年の二月(黄漠奇聞)と七月(星を売る店)の中央公論に掲載されたのだった。(「随筆ヰタ・マキニカリス」『東京遁走曲』p.170)

★『星を造る人』は、渋谷富士見横町の化物屋敷(元は旅館)の三階の一室で(『黄漠奇聞』に取りかかる前に)約四十枚に書き上げられた。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.36)


★この同じ夏、例の道玄坂北側の二階のカフェーの卓で、私は戸田海笛に向って、前年の二科に出た東郷(青児)の“日傘の蔭”について質問した。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.352)
☆高木春雄が猪原太郎、石野重道らと戸田海笛襲撃に乗り込んだのもこの頃か。
☆タルホはその場にいなかったが、帰省前か帰省中のことかは不明。


(新橋少年は)私が引移っていた富士横町の下宿へやってきた。……その夏、私が海辺の町に帰省しているあいだに、少年はアメリカの両親の許へ一人で旅立ってしまった。(「美少年時代」『星の都』p.238、『全集12』p.331)

明石へ帰省

★その夏、明石の、いまの天文科学館の塔が立っている処にあった茶室で仕上げたのが、翌年の二月(黄漠奇聞)と七月(星を売る店)の中央公論に掲載されたのだった。(「随筆ヰタ・マキニカリス」『東京遁走曲』p.170)


★かの夏、兵役点呼という用事で海べの町に帰省した私は、父の住いを避けて、背後の人丸山上のお寺に避暑としゃれこんでいた。……元みどり団幹事T氏と相知ったのは、しかし次の夏である。さきの夏は庭前の茶室だった。こんどは方丈さんや子僧らがいる区廓からわたり廊下でつづく別棟だった。(「松風」『全集12』p.301)
☆ここにある「兵役点呼」は「徴兵検査」のことか? 「兵役点呼」が「簡閲点呼」のことであるとすると翌年の夏のようだが、「茶室」に居たと断っているからには、この年の夏のはずである。
☆萩原氏の年譜によると、この年の夏、「徴兵検査のために帰省」となっている。典拠は不明だが、これが20歳になって初めて受けた徴兵検査だったのだろうか?


★人丸神社山門の少し西に、月照寺に属する茶室があって、ある夏、私はその狭い方形の畳の上に机をすえて、『星を売る店』を書いたのだった。この仕事のあいだじゅう、自分の首すじから体躯を貫いている鉛直線は、東経百三十五度線から東にも、西にも、おそらく十センチとはずれていなかったであろう。(「蘆の都」『大全5』p.194)
☆続く文章に「――その年の秋も更けて、夜中すぎに町から人丸山の方へ酔心地に足を運んでいる折、行手の右寄り、紀伊路の地平からせり上っているオリオンの三星を見た」とあるが、9月末には上京しているはず。
☆続く文章は、この年を基準にして、父と北斗七星を見たのは15年前つまり6歳頃、その後星座と取り組んだのは15年後つまり36歳頃と言っているが、それでは横寺町に落ち着いた頃になる。実際には、明石での古着屋時代に星座と取り組んでいる。(本年譜ノートの「1934(昭和9)年10月」の項参照)。
☆続く文章に「月については、決してそんなわけでない。松の梢に懸かる月の夜毎の余りな緯度変化を、私は茶室の窓から気付いて、山住いの九月上旬から、考えてみた」とあるのも、この年のことであろう。また、そのあとに「たったこれだけに気付くために、(自分一人で考えていたものだから)かれこれ一ケ月を費したのだった」とある。

7月の終りから3月以上
★夏去って秋が深まって行く夜々、それも十二時をすぎて町から人丸山ー帰って行く時、行手の右寄りに差し昇っている三星を見た。これとても指を折って七月の終りから三月以上、あの茶室に起居してきたということを托すものでしかなかった。星座と取組むに私にはあと十年の歳月が必要であった。――とは云いながら、その頃、私は太古のカルデア人のように、月の位置の夜ごとの複雑な変化に気がついて、独力で解決に当ろうと決心した。……参考書がなく、ただ頭の中で考えていたから、たったそれだけの理窟に、私は約二十日間を要したのであった」(「明石」『全集8』p.392)
☆「七月の終りから三月以上」というと、10月末まで明石にいたことになり、「9月末の帰京」と矛盾する。
☆星座と取り組んだのは、明石での古着屋時代。


★翌年の夏、点呼に帰ったまま町の背後の人丸山月照寺の茶室に起居していた時、たまたま“三科インデペンデント”と改名した前の未来派協会から出品勧誘があった。私はパステルで“カイネ博士”の製作に取りかかった。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.353)
☆この「翌年」は文脈からは大正12年のことのように受け取れるが、この年、大正11年夏のこと。「点呼」は徴兵検査。
☆この「夏」が何月かは不明。同書p.354には「これを発送してから上京した」とあるが、上京したその日に展覧会場に出向いたとあるので、発送したのはもっと前であろう。上京は「新感覚派前後」によれば「9月末」。

★こんな経過は、私はいち早く画面にして、『カイネ博士に依って語られしもの』という題をつけ、三科インディペンデント第二回展覧会(上野山下、青陽軒)に出品した。(「私の宇宙文学」『大全1』p.152)
☆この絵のテーマは、N君(西田正秋)から聞いた円錐宇宙をタルホ流に展開したものである。概念自体はすでに中学時代にあった。

★翌年(大正11年)、第二回(未来派美術)展覧会が、「三科インデペンデット」と改名して、前年と同じ上野山下の青陽軒で開かれた。こんどは先方からの勧誘で、『カイネ博士に語られしもの』という大きなパステル画を出品したのだった。(「ロバチェフスキー空間を旋りて」『ヒコーキ野郎たち』p.104)
☆この「第二回展覧会」は、実際は「第三回」ということになる。


★翌年同じ青陽軒で、第二回未来派展覧会が「三科インデペンデント」と改称して、開かれた。私は、明石の人丸山月照寺の前庭にあった茶室にこもって、『カイネ博士に依って語られしもの』というクレヨン画を描いて、出品した。カンヴァスや彩具よりも荷造りに金がかかったほどの、大型であった。此秋に上京して、当日の午後、上野の会場に出向いた。……『カイネ博士』は何しろ大物なので、取りに行かなかったから、行方不明である。(「新感覚派前後」『大全6』p.407〜408)

9月
★金星堂から先生の『薔薇と真珠』が出たのはこの頃で、やはり先方の編集員が、「何か新しいものを」といって、一千一秒の原稿を持って帰ったのだった。(「病院の料理番人の文学」『全集11』p.161)
☆佐藤春夫の『薔薇と真珠』は1922(大正11)年9月刊。

9月末
★私が横光利一に逢ったのは、一九二二年九月末のことだった。(「新感覚派前後」『大全6』p.404)
☆同書p.407には、帰京当日に出向いた「三科インデペンデント」の会場で、富ノ沢麟太郎に紹介されたとある。
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.354)にも、「ちょうどこの時、佐藤先生宅で相知った富ノ沢麟太郎がうしろから私の肩を叩き、彼はいっしょにいたおそろしく真面目そうな長髪の青年を私に紹介した。これが横光利一である」とある。
☆同書同頁にも「大型なので引取りをためらっているうちに、パステル画は紛失してしまった」とある。

★私が横光利一に逢ったのは、たぶん、一九二二年九月だったと記憶する。(「友横光利一の霊に」『全集8』p.291)

★その二回目、ロシアの未来派画家ブルリュック氏らがやってきたときだったと思うが、会場でかおを合わした富ノ沢麟太郎が、狷介不羈に見える一青年をボクに紹介した。横光利一である。(「零点哲学」『全集11』p.20)

秋口
★おばけ館の主人と共に、秋口になって、道玄坂上うらの弘法湯のうしろへ越したが、其処が再び幽霊屋敷であった。更に、元の富士横町の三階建の前をだらだらと下った処にあった平屋建に引越したが、これが又噂が立っている家である。(「随筆ヰタ・マキニカリス」『東京遁走曲』p.178〜179)
☆これによると、富士横町から神泉に移るまでの間に、「弘法湯のうしろ」と「平屋建」に2回引っ越している。

★数日のうちに、高田夫婦とばあさんと私たち合わして五人は、五丁ほどへだたったところへ転居した。(「黒猫と女の子」(『星の都』p.51)
☆富士横町の「化け物屋敷」からの転居を指す。
☆この「秋口」は帰省から帰って来た後であろうから、9月末以降ということになる。

★ボッチョーニ著の分厚い本は、佐藤先生から預った横文字本に詰った本箱の中に入れてあったが、これが渋谷富士横町の素人下宿に置き放しのままになっている。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.355)

10月 ★「星を造る人」<婦人公論>[2-31]
★「星を造る人」は同誌九月号に掲載された。宇野浩二がこれを読んで、「作者には今後、これ以上のものはできないのでないか」と評したが、そんなこと云うならば、すべての作家は彼らの幼な心の完成を目ざしている。最初の作にその後の一切が含まれている。……宇野の真意は、「これはイナガキタルホの見本である」にある筈だ。(「稲垣足穂作品集について」『全集12』p.430)
☆「九月号」は「十月号」の誤り。
☆「波多野秋子を私はよく憶えている。……私は未だはたちであったから……彼女は婦人公論記者の職責上、二、三回、かたえの紙とかペンとかを取るという用事をしてくれたに過ぎない。これは、中央公論社が本郷三丁目の銀行の二階にあった頃の話である」(「新感覚派前後」『大全6』p.410〜411)とあるのは、この頃の話か?

神泉へ転居
?月
★神泉に越してから、……神泉の家も元は料亭だったとかで、二階の隅に隠れ座敷になった四畳半があって、そこに衣巻兄弟が起臥していた。……ここへ越してきた当夜、……(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.99)

★独協一年生は、まず衣巻が渋谷神泉へ呼んで、私に引き合わしたのである。此日、私は油彩『空中世界』を少年にくれてやった。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.144)
☆神泉に移ったのが何月かは不明。
☆「美少年時代」(『星の都』p.239)にも「油絵(空中世界)を少年に贈った」とある。「新感覚派前後」(『大全6』p.408)には、その後「程なく不良哥ちゃんそれがしが持ち去って、消息は絶えてしまった」とある。
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.354)には、「富士横町から神泉に転居し、翌震災の年の前半期に“恵比寿倶楽部"に移った。……ここである日、独協中学一年生の客があって、色褪せた“空中世界"は彼へのおみやげとして渡されたのである」とある。すなわち、少年に絵をやったのは神泉でなく恵比寿倶楽部で、ということになる。

★夜になって(室生犀星宅を)お暇したが、雪が可成積っていたので足駄を借りた。私は渋谷の奥の神泉に住んでいたが、翌日、良い天気の下で足駄を洗って拭いてから車夫を呼ぼうとした。すると素人下宿のおやじが、「足駄を返すのに車屋を頼むんかい」とおどろいたように云った。(「田端時代の室生犀星」『大全6』p.611、『全集11』p.175)
☆この神泉時代に雪が積もったということは、12月頃か? ただし、同p.612に「以上が震災の年のことで、十月になって犀星一家が郷里の金沢へ移ったあとに……」とあり、翌12年1月中旬の訪問(これも雪の日とある)とごっちゃになっているのではないか。
☆同p.610に、「私が田端駅の方から行ってV字形の小径を左に採った所にあった魚眠洞を訪れた日のことを、犀星は『魔術師の卵』という随筆に書いている」とある。これが最初の訪問か?
☆『室生犀星文学年譜』(室生朝子・本多浩・星野晃一編、明治書院、昭和57年)によると、犀星の「魔術師の卵」は、1923(大正12)年1月24〜26日に、上中下の3回に分けて朝日新聞に掲載された。ただし、この作品は単行本および『室生犀星全集』(新潮社)には収録されていない。

★神泉では何も出来なかった。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.103)

12月
★佐藤先生はシナへ旅立つ前に、「僕の留守中は室生の所へ行ったらよかろう」と洩らした。この折、シュン先生は神戸で船待ち中に、弟のシュウ(秋雄)がチフスに罹って入院したことがあって、東京へ引返している。(「田端時代の室生犀星」『大全6』p.610)
☆『佐藤春夫全集』(講談社)の年表によると、佐藤春夫は大正11年12月「約半年間の中国旅行に出立の予定で、暮れから正月にかけて神戸に滞在」とある。


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