エビス倶楽部へ転居
お正月
★私と衣巻は既に恵比寿の山手に移り、石野は神戸へ帰省していた。恐らく東京最初のアパート(少くとも最初の二、三のうちに属するであろう)三階建のエビス倶楽部でお正月を迎え、……(「随筆ヰタ・マキニカリス」『東京遁走曲』p.179)
☆前年暮れから、佐藤春夫が中国旅行に出立のため、神戸に滞在していた(中国旅行は、実際は弟の病気で中止された)。帰省中の石野重道らが春夫の相手をしていたのであろう。「佐藤春夫を送る辞」(『大全6』p.550)に、「先生が神戸花隈の宿屋で、誰を思うてか泣いておられる所へ芸者が行き合わしたことも、私は知っている。相生橋の上で私の仲間と歩いている時、先生が先に立つ石野のうしろ姿を指して、「あれと僕とどちらが背が曲っているかね」とたずねたことも、私の耳に入っている」とあるのは、その神戸滞在時期のことであろう。
☆石野重道の『彩色ある夢』が佐藤春夫の序で出版されたのは、この年大正12年8月。
1月
★その次に神泉うら、更に恵比寿の「エビス倶楽部」へ越した。徴兵関係の事務所を運んできたとかで、やはり三階建だった。おそらくこれが東京嚆矢のアパートでなかったろうか。佐藤門にはいったのが大正九年十月、エビス倶楽部へ移ったのは、大正十二年の一月だった。(「キネマの月巷に昇る春なれば」『全集12』p.408)
★私が大地震の年の前半期を送った中目黒の「恵比寿倶楽部」は、元は徴兵関係の役所だったというりっぱな木造三階建であったが、未だアパートではなかった」(「滝野川南谷端」『大全6』p.595)
1月
★大正十年の九月末に、大阪上に佐藤春夫先生をたずねて以来、震災の年の一月まで自分は此処に住んで、そのあいだに、『星を造る人』と『黄漠奇聞』を書いたのであった。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.31)
☆「此処」とは明確ではないが、渋谷道玄坂(あるいは神泉)界隈のことを指すのであろう。しかし、そうすると上記の「エビス倶楽部でお正月を迎え」とは矛盾する。
★一月の寒い晩、私と並んで神泉うらの崖上に立った彼(一ノ瀬君)は、……彼はそれから数週間床についていたが、このあいだに私は、おやじ夫婦にそれぞれ二十円を小遣いとして渡して、すでに衣巻兄弟が越していた恵比寿倶楽部へ逃げたのだった。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.101)
★衣巻は富士横町の三階からエビスの山手に出来たエビス倶楽部に移っていた。これがたぶん東京最初のアパートである。部屋が二つあったので私もしばらく同居した。日曜の朝、私の胸のまえに眼をあけて、「お早う!」と少年(独協中学1年生)は小声に云った。(「美少年時代」『星の都』p.239、『全集12』p.332)
★恵比寿へ移ると同時に、単行本『一千一秒物語』が刊行され、続いて朝刊に、中央公論二月号発表の『黄漠奇聞』の広告を見ることになった。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.103)
1月
★「――昨年の一月、僕は鵠沼の東屋へ行ったんだ。そこに滞在していた山内っていう人が遊びに来いと云うのでね」(藤の実の話」『全集12』p.18)
☆「藤の実の話」は大正13年5月「随筆」発表なので、この年の話か?
☆「鉛の銃弾」(『全集10』p.341)に、鵠沼の東屋旅館にTYを訪ねたとあるので、この「山内」とは山ノ内恒身のことではないか。また、TY(山ノ内恒身)は石川淳の『普賢』の登場人物「庵文蔵」のモデルだとある。
☆東屋旅館は9月の関東大震災で罹災。
☆「人としての春夫先生」(『全集12』p.206)にも、「もう五六年前になるが一月の或日私は鵠沼の東屋にいるさる友人を訪ねたことがあった」とある。
1月中旬
★その一月中旬に、私は田端のポプラ倶楽部近くの室生犀星を訪れていた。……あの雪の日、魚眼(「眠」の誤植)洞で倉橋弥一を紹介された。このフック止めの、学習院流の制服を着た高千穂中学生が恵比寿倶楽部への最初の客だった。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.104)
☆同じ話が「轣轆」(『鉛の銃弾』p.37〜38)では、「関東大震災の年の前半期のこと」となっている。「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.61にも同様の話あり。
★倉橋その人は、彼がまだ高千穂中学の生徒だった時に、田端の室生犀星の許で行き合ったのである。関東大震災の年の前半期のことであった。(「山風蠱の頃」『星の都』p.303、『全集11』p.268〜269)
★……田端のポプラ倶楽部近くの「魚眠洞」を訪れたのである。関東大震災の年の一月の話である。ちょうど『一千一秒物語』刊行の直前だったので、犀星を前にして二つ三つ、月と星に関する小話を語ってみると……(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.38)
前半期
★──一九二三年の前半期であった。室生犀星がギターを取り上げ、「これは萩原がよくやる……ニューヨークの港へ大汽船がはいっていくところじゃ」と前置きして、三拍子のメロディーを彼は弾き出した。(「芦の都シリーズ──オブジェ的年代記」『多留保集』5,p.245)
☆「田端時代の室生犀星」(『全集11』p.175)に同様の記述。この話は、同じくここに出てくる、萩原朔太郎が鉄瓶の尻で煙草の火を消したという話と併せて、神泉時代(前年?)に最初に犀星を訪ねたときの話ではないか?
1月
★「こんなものなら一日に二三十は僕にもかけるよ」こう佐藤春夫氏がいったのはもう二十年も前、ニイチェ張りのかき方をした朔太郎氏最初の著書が届いた時であったとおぼえているが、それには私も同感であった。(「猫町への移住者」『全集8』p.263)
☆萩原朔太郎の最初の詩集は『月に吠える』(大正6年)なので、ここは『青猫』のことであろう。『青猫』は大正12年1月刊行。
☆「猫町への移住者」の中に、タルホと朔太郎は「「不同調」誌上で云い合いをしたことがあった」とある。この資料は未発掘?
1月 ★『一千一秒物語』《金星堂》[1-3]
☆収録作品(68編)「月から出た人」「星をひろった話」「投石事件」「流星と格闘した話」「ハモニカを盗まれた話」「或る夜倉庫の蔭で聞いた話」「月とシガレット」「お月さんと喧嘩をした話」「思い出」「MURMUR」「月光鬼語」「或る晩の出来事」「THEREISNOTHING」「SOMETHING BLACK」「黒猫の尾を切った話」「突き飛ばされた話」「はね飛ばされた話」「押し出された話」「キッスした人」「霧に欺まされた話」「ポケットの月」「嘆いて帰った者」「雨を撃ち止めた話」「月光密造者」「彗星を取りに行った話」「星を食べた話」「AN AFAIRE OF THE CONCERT」「TOUR DE CHAT NOIR」「星か? 花火か?」「自分を落してしまった話」「瓦斯灯とつかみ合いをした話」「星でパンをこしらえた話」「星に襲われた話」「果して月へ行けたか?」「水道へ突き落された話」「月を上げる人」「MAN OF THE MOON」「ココアの悪戯」「月のサーカス」「MOON RIDERS」「煙突から投げこまれた話」「停電の原因」「黒猫を撃ち落した話」「蝙蝠の家」「散歩前の小話」「THE BLACK COMET CLUB」「友達がお月さんに変った話」「見て来たようなことを云う人」「フクロトンボ」「辻強盗」「銀河からの手紙」「THE WEDDING」「自分によく似た人」「真夜中の訪問者」「ニューヨークから帰って来た人の話」「月の客人」「何うして彼は酔よりさめたか?」「THE GIANT-BIRD」「黒い箱」「月夜のプロジット」「赤鉛筆の由来」「土星が三つ出来た話」「お月さんを食べた話」「お月さんが三角になった話」「星と無頼漢」「果してビール瓶の中にホーキ星が入っていたか?」「何うして彼は煙草を吸うようになったか?」「MOON SHINE」
☆「その(佐藤春夫の反古原稿)束の中から取出された原稿には、……題名は『一千一秒物語』となっていた。……この『一千一秒』は私が頂いたが、何しろ私の代表作の一つであるから、その題名が佐藤先生から出ていることを、此処にハッキリさせておく次第である」(「随筆ヰタ・マキニカリス」『東京遁走曲』p.167〜168)。
☆同様の記事が「『一千一秒物語』の倫理」(『大全6』p.532、『全集11』p.136)に。「佐藤春夫を送る辞」(『大全6』p.547)、「病院の料理番人の文学」(『同6』p.556〜557)も参照。
☆「一千一秒物語」のカバー絵をタルホが描いたことが、「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.346〜347)にある。
★平岩(多計雄)の奨めで私は野口(弥太郎)に『チョコレット』その他の筋を話したが、これがきっかけになって、一千一秒物語出版記念会が小石川白山、南天堂の二階で催された時、野口は祝電をくれた。私は当日出向かなかった。只佐藤先生が中央公論の半沢成二と共にやってきて、「ボクの来たことはイナガキにも判るだろう」と云って、帰って行ったと。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.85)
★四十年も前に、東京白山の南天堂二階であったか、そこでボクの「千一秒」の出版記念会が行われた。(「二人の女弟子」『全集11』p.116)
★それでも、「ローデンバッハの夜」「ホフマンスタールの夜景画」が、神経質な一読者にひっかかって、(『一千一秒物語』の)出版後ただちに突っ込まれる仕儀になった。(「病院の料理番人の文学」『大全6』p.555)
西巣鴨池内舞踏場に居候
★衣巻は早大文科に籍をおいて演劇をやっていた。そんな関係から、当時京橋にひらかれた池谷(池内)女史のダンスホールへ、昼間ステージダンスを習いにかよっていた。此処で知り合ったのがかれの前婦人で、このひとのことは、先生(佐藤春夫)の「厭世家の誕生日」という短編にかかれている。少年は女史の子息で独逸協会中学の一年生である。じつは、女史の妹さんの子供で、世間体のために姉が母になっている。まことの母を少年は「姉さん」と呼んでいる。(「美少年時代」『星の都』p.239)
★彼(衣巻)は早大の英文科に籍をおいて演劇に凝り、その必要上、ステージダンスを米国帰りの池内徳子に習っていたという関係である。(「わが庵は都のたつみ」『大全5』P.70)
☆ここに池内女史の名前が明らかにされている。「徳子」は姉のほうであろう。
★一夕、衣巻省三と打ちつれて花を携えて、大塚の奥に住んでいた、Iさんというアメリカ帰りの婦人の家へ遊びに行ったが、私だけずるずるべったりに、そのまま以後十数年にわたる居候生活を、そこで送ることになったのである。(「随筆ヰタ・マキニカリス」『東京遁走曲』p.179)
☆この「十数年」は正確ではない。
★ではどうして食ってきたのか? それは、当時京橋に日本最初の社交ダンス教習所をひらいていた池内姉妹の家へ一夕あそびに行って、そのまま十数年にわたる居候になってしまったからだ。(「零点哲学」『全集11』p.21)
★お母さん(I女史)から達筆でしたためた巻紙の便りが届いた。……あなたの傑作(「空中世界」)は、ニューヨーク郊外から帰ってくるとき、何とかいう場所の夕景とそっくりだとかいてあった。是非是非あそびにきてほしい。衣巻はそのために、一夕、西郷邸の裏にある花壇へ私をさそって適当な切花の束を作らせた。おみやげである。木造の小さな大塚駅、辺りには、電燈やアセチレーンでなく、石油を燃す裸灯の夜店がならび、王子電車はゴトンゴトンと音を立てる箱のようなものだった。巣鴨新田下車である。(「美少年時代」『星の都』p.239〜240、『全集12』p.332〜333)
☆この話からは、親しくなっていた独協少年に、落選した油絵『空中世界』をやったことで、少年の母親代わりになっていた池内女史からお礼の手紙をもらい、それがきっかけで衣巻と一緒に恵比須から巣鴨新田の池内姉妹方を訪れた、という経緯のようである。
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.354)に同様の記事。
★衣巻がまず独協一年生をつれてきて私に引き合わし、私はこの少年客に、未来派展覧会に出品した飛行機の絵を、おみやげにくれたのである。少年のお母さんから礼状がきて、「いつかニューヨーク郊外からの帰りに、灯のついた高楼の向うに三日月が懸って、この絵とそっくりの感銘を受けたことがあります。ちとお遊びにおいでなさい」とあった。このI姉妹の住いに、私はずるずるべったりに居候になってしまった。(「キネマの月巷に昇る春なれば」『全集12』p.408)
★雨降りの宵の徒然に、江川ウレに誘われて、恵比寿駅近くの映画館へ出掛けたことがある。衣巻兄弟は正月休みで神戸へ帰ったままであった。……帰ってくると、恵比寿倶楽部の部屋の畳の上に、トランプのカードを並べて字が書いてあった。……独協少年が来たことが判った。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.143〜144)
★衣巻は帰省中である。留守中に少年がやってきたらしく、畳の上にカードをならべて字がつづられていた、「ヤマヒイカガ、オマチスル」──私はその二三日風邪をひいていたのだ。(「美少年時代」『星の都』p.240、『全集12』p.333)
★(西巣鴨新田への)二回目の訪問は、恵比寿倶楽部の畳の上にカードの置き文があった夜の翌日晩方のことで、こんどは私一人であった。……この夜は玄関の二畳に夜具を伸べて貰って、少年といっしょに寝た。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.147)
☆上記「美少年時代」の一文にも、「次の晩、電車が高田馬場にきたとき、……」とあるので、再び巣鴨新田の池内姉妹方を訪れたのは、「カード事件」の翌晩のことである。このカード事件がいつのことか不明だが、衣巻が「正月休みで帰省中」とあることから、おそらく1月中のことではあるまいか。
★次の朝、少年が登校したあとで、私は女臭い長袖の寝巻きのままコタツに倚りかかって、中央公論二月号に発表した沙漠物語に関する新聞批評を読んだ。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.150)
☆「次の朝」とは少年といっしょに寝た前項(p.147)の夜に続く朝と思われる。また中央公論2月号は発行時期としては1月と考えられるので、この話もやはり1月のことと思われる。
★姉さんがホールから帰ってくるのは十二時半、それから三時頃まで話がつづく。あくる朝おそく、女臭い長じゅばんを着た私は、コタツの中で、自作にたいする最初の新聞批評を読んだ。……私はもうエビスに帰らなかった。……ずるずるべったりに居留まって、家族の一員になってしまった。(「美少年時代」『星の都』p.241、『全集12』p.333〜334)
☆2度目に池内姉妹方を訪れた日の翌朝の記述である。「鉛の銃弾」(『鉛の銃弾』p.150)では、「『こちらは女と子供ばかりで不用心だから、よかったら居て下さらない? 御飯だけしか引受けられないけど』と姉に云われて、私はその気になった」とあるが、ここでは「私はもうエビスに帰らなかった」とあるので、おそらくその日から「ずるずるべったり」になったのではなかろうか。とすれば、タルホの池内姉妹方への転居は、1923(大正12)年1月ではあるまいか。
☆西巣鴨での姉妹の最初の住居は、「Nという老農学博士の……近所の子供らがマッチ箱西洋館と呼んでいるもので、玄関二畳に、四畳半、八畳、台所である」(同p.148)。また、「殊に震災後は奥の六畳に学生ふたりを下宿させていたので……」(同p.159)とは、2度目の芥川菓子工場うらの借家を指している。したがって、ここに移ったのも震災(9月1日)以前であろう。
☆何年頃のことか不明だが、「雪融け」(『大全5』p.156)に、「なるほど僕はその頃、舞踏教習所にいて、夜は七、八名の女連と六畳の間にごっちゃに寝ていたが、ちゃんと蒲団を敷くから、これはザコ寝ではないだろう」とある。「六畳」とあるので、2度目の借家であろう。
☆「キネマの月巷に昇る春なれば」(『全集12』p.408〜409)に同様の記事が。
?月
★それは先生(佐藤春夫)が大陸再遊の準備のために、中央線信濃町駅の傍の信濃館という小さなハタゴの二階に滞在していた時である。いやそうでない、先生はすでに出発して神戸で船を待っていたのであるが、弟の秋雄さんという慶応医大生がチフスに罹って入院したので、急ぎ帰って前記に宿をきめたのであった。私が階段を登って行くと、瀬戸焼の火鉢に倚って、封筒から取り出した二、三枚の原稿用紙を、先生は火箸で挟んで読んでいた。(「佐藤春夫を送る辞」『大全6』p.539)
☆生田長江からの手紙のこと。『佐藤春夫全集』(講談社)の年表によれば、佐藤春夫の信濃館(四谷区東信濃町16)滞在は大正12年1月頃〜8月。「火鉢に倚って」とあるから、まだ寒い時期のことか。
2月 ★「黄漠奇聞」<中央公論>[2-3]
★私が中央公論に『黄漠奇聞』を発表したのは、震災の年(一九二三)の二月号で、横光の『日輪』は、同年の新小説五月号に発表されている。川端康成はその秋で、発表機関はやはり新小説であった。(「新感覚派前後」『大全6』p.409)
5月 ★「友人の実見譚」<中央公論>[12-3]
☆この話は「去年の夏、郷里神戸で友人岡田一雄君から聞いた実話である」とされている。また「実は、昨冬私自身で目撃した或る屋敷の怪異を書くつもりでいたが、……これを代りにした」とは、前年住んでいた渋谷富士見横町の三階建ての「化け物屋敷」のことであろう。自身のこの怪異譚は「黒猫と女の子」(昭和元年4月、婦人公論)として発表されている。
7月 ★「星を売る店」<中央公論>[2-70]
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.327)に、この作品の中の不思議な街のモデルのことを述べている。
明石へ帰省
夏
★私はその夏、簡閲点呼のために明石へ帰っていたが、やがて関東大震災が起った。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.104)
★簡閲点呼の為に帰省した時、周蔵は玄関先で顔を見るなり云うのであった。「ぼろ飛行機を弄り廻して、折角子供の時からの貯金帳が煙になってしまったようなものでないか」董生は流石に胸にきた。(「父と子」『大全4』p.159)
☆池内姉妹のもとへ転居した記述に続くので、この夏のことか。あるいは、前年の話かもしれない。
夏
★私はその夏じゅう、ホフマン気取りに宵には飲酒し、夜半過ぎからペンを採って一気に難関を突破しようとしたが、推理小説的雰囲気と天文学とがどうしても結合しない。結局諦める他はなかった。(「私の宇宙文学」『大全1』p.151)
☆これは「彗星問答」(のちの「彗星倶楽部」)を指しているものと思われる。この記述の後、「それから三年目の夏、今度は嫌々ながら一字づつ刻み込むように綴って、やっと二十四枚を書き上げた」とある。「彗星問答」発表は大正15(昭和元)年6月(「虚無思想研究」)なので、3年前というと、大正12年ということになる。この年の夏には明石に帰省しているので、「その夏じゅう」とは明石帰省中のことではあるまいか。
☆「彗星問答」は、ポンス=ウィンネッケ彗星接近のニュースをきっかけにして、かつて関西学院の学友N君(西田正秋)から聞かされた円錐宇宙、および大正8年に見た映画『真鍮の砲弾』の花文字など、さまざまな要素から成り立っており、のちに『弥勒』第一部でも「ポンから来た夢」として展開する重要な作品の一つ。
☆「松風」(『全集12』p.302)には、前年は人丸山のお寺(月照寺)の茶室だったが、次の年は別棟に居たとあるので、この「別棟」で書いたのかもしれない。
夏
★その夏、明石に居た私へ衣巻から速達が来た。文意は、「I夫人について何を訊ねてきても、一切知らないということにして貰うよう、キミから紀州に帰省中の(佐藤)先生へ通達してくれ。先生へはいずれ手紙を書く」(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.173)
☆この前の佐藤春夫のことばから、ダンス場へ移った後のことらしいので、「その夏」とはやはりこの年の帰省中のことか。
8月 ★「シガレット物語」<週刊朝日、8/5、8/12、8/19号>[13-9]
8月
★読者の中の好事家は、古本屋の棚に、『彩色ある夢』と題された、木炭紙の表紙にダダ好みの蝦茶色の破片をばら蒔いた詩集を、見付けられたことがあるかも知れない。この装幀は私で、佐藤春夫の序文が付いている。著者SIは学校では私の下級生で、美少年として知られていた。然し共に文学を語るようになったのは卒業後の話であり、彼は私にかぶれたと思われる節がある。(「私の宇宙文学」『大全1』p.161〜162)
☆『佐藤春夫全集』(講談社)の年譜によれば、石野重道の『彩色ある夢』(富士印刷)が発行されたのは大正12年8月1日で、春夫は序文を書いている。
☆「未来派へのアプローチ」(『大全1』p.353)には、『彩色ある夢』の表紙は、タルホが"カイネ博士"と同様の手法で制作したとある。
関東大震災
9月 ★「私とその家」<新潮>[→「夢がしゃがんでいる」1-129]
☆「その号は店頭に出たとたんに(関東大震災で)焼けてしまったので、原稿は十月号に再録された」(『タルホ=コスモロジー』p.123、『全集11』p.482)。つまり、この作品は「新潮」の9月号と10月号の2度にわりた掲載された。ただし10月号では、「自筆カットの原版を紛失したとかで、編輯部ではうろ覚えのままに描いて、間に合わした。そのため平凡極まる「三角帳場」の図が附いている」。
☆関東大震災は1923(大正12)年9月1日。タルホはこの年の夏から明石に帰省していて、震災時には東京にいなかった。タルホの作品に震災時の様子を記したものがないのはそのためである。翌1924(大正13)年の10月に再上京するまで、約1年間明石に滞在していたようである。(「1924(大正13)年の10月」の項参照)
☆「プラトーン以後」(『全集12』p.417)に同様の記事。
☆「田端時代の室生犀星」(『大全6』p.612、『全集11』p.176)に同様の記事。「この小品の題名について犀星は、「夢がしゃがんでいる」とした方がよかろうと云ってくれた」。
☆「新潮」に掲載された最初のタルホ作品(「本ぎらい」(『大全6』p.617、『全集11』p.167参照)。
★こうして彼(猪原太郎)は神田うらの住いで、関東震災の日に巻物を焼いてしまったと云う。「未来派へのアプローチ」『大全1』p.330)
☆「巻物」とは、猪原がタルホに送った手紙を、タルホが取っておいたもの。
?月
★このトウモロコシ(梅沢氏)が、震災で京橋のダンス場を失った姉妹のために、新しくホールを建てることになった。……案内状が出されたが、新ダンス場は野天と同様である。取りあえず広い坂道の左側にある町内倶楽部の二階を借りて、畳敷のダンス場開きが取り行われた。……畳敷きフロアは数週間続けられねばならなかった。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.164)
☆新しいダンス場がいつできたのかは不明。
?月
★われわれ四人は新ダンス場へ引越したが……(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.165)
★やがて震災があって、滝野川にダンシングパビリオン、つまりバラック建の舞踏教場が経営された。(「随筆ヰタ・マキニカリス」『東京遁走曲』p.179)
★これは、京橋のホールが地震のさいに焼けてしまった。世話する人があって、巣鴨の住いに隣り合わして、姉自らダンシング・パビリオンと称する仮小舎が建てられ、……(「美少年時代」『星の都』p.242)
☆「『あそこは何か犯罪的だな』私の留守に、萩原朔太郎と同伴でやってきた魚眠洞主人が、あとで云った」とあるのも、震災後のダンシング・パビリオンを指すのであろう。
?月
★まず私は頼まれて千葉(勝男)の絵のモデルになった。歩いて十分足らずの距離なので、ひと月ほど午前中に通っていたが……(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.178)
☆この年のことかどうか不明。
12月 ★「シャボン玉物語」<中央公論>[12-8]
末
★たぶん大正十二年末だった。私は、「A・O氏の耽美主義」と題した相当に長いものを企て、これが頓挫して支離滅裂になってしまったことがある。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.122、『全集11』p.482)