1924(大正13)年 23歳



1月 ★「香炉の煙」<新潮>[13-20、→「七話集」2-95]

1月 ★「言ひたい事一つ二つ」<新潮>[1-413]
☆『全集』では「云いたい事一つ二つ」となっているが、これは『多留保集』を底本にしているためである。「新潮」の初出は「云」でなく「言」。初出を新字・新かなに直しただけの『多留保集』が、なぜ「云」にしたのかは不明。

3月 ★「鼻眼鏡」<新潮>[1-169]

3月 ★「鸚鵡の一件」<新潮>[12-15]
☆文中に「或る初夏」とあるので、佐藤春夫のもとに居た1922(大正11)のことか?

4月 ★「星と人の話(一)星の別荘」<報知新聞>[→「第三半球物語」12-148]

4月 ★「星と人の話(二)土星と自動車」<報知新聞>[→「第三半球物語」12-149]

4月 ★「星と人の話(三)ペッケル博士とチョウチョ」<報知新聞>[→「第三半球物語」12-149]

4月 ★「星と人の話(五)星のいたずら」<報知新聞>[→「第三半球物語」12-150]

5月 ★「藤の実の話」<随筆>[12-18]

6月 ★「セピア色の村」<女性改造>[2-108]

6月 ★「私の耽美主義」<新潮>[→「わたしの耽美主義」1-60]

7月 ★「マイ・サンマー・ハウス」<女性改造>[12-23]

?月
★芥川製菓工場のうらの(池内姉妹の)借家に引越して、そこで、私は初めて依頼原稿の女記者を迎えた。……その頃(大正十三年頃)はまだきゃしゃで、風邪をひいて寝込むことがあったのである。……この折の原稿が、婦人画報に出た『カールと白い電灯』及び『空中世界』で、二つ合わして私の散文詩という題であった。……この二度目の住家は、玄関二畳、六畳、六畳、台所であった……(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.153〜154)
☆資料によれば、「私の散文詩」が掲載されたのは(未見)、「婦人画報」でなく「婦人グラフ」(大正13年9月)。したがって、この話は9月以前。

8月 ★「星使ひの術」<改造>[→「星遣いの術」について」2-85]
☆「私の宇宙文学」(『大全1』p.169)に、「兼常清佐氏がこれを改造誌に読んで、早速丸善に注文されたところ、無い。……そりゃ出鱈目ですよ」「武者小路実篤氏が驚くべきニュースとして日向の新らしい村の会合の席で読んで聞かせた」とある。(昭和2年11月の項参照)

8月 ★「RちやんとSの話」<女性>[1-135]

8月 ★「三人に会つた日」<随筆>[12-24]
☆この作品の中で、初めて新潮社に行ったこと、初めて牧野信一を紹介されたことが出てくる。新潮社とは前年9月の「私とその家」以来の関係。この日がいつのことかは不明だが、この日、雑誌「随筆」から「文壇交友日記」としてこの「三人に會った日」の原稿依頼があったというから、この年8月より少し前のことであろう。「中村さんが扇子をパチパチやって上ってきた」というから、やはり夏か?

9月
(「煌ける城」は)前年(大正13年)九月頃からの依頼原稿である。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.58)

9月 ★「或る小路の話」<新潮>[2-99]
☆「新潮に発表されると、若い人のあいだでかなり評判になり、神戸三宮とはどんな所だろうと思って、西国への帰省の折に神戸へ立寄った大学生も二、三あったようである」(「キネマの月巷に昇る春なれば」『全集12』p.407)

9月 ★「私の散文詩」<婦人グラフ>[1-69、12-188]
「1 カールと白い電燈」「2 空中世界」の2編を収載。

10月
(関東大震災の)翌年十月、(明石から)久しぶりに帰京した時、……この品は前年一月から西巣鴨新田のダンスの女先生の家に持ってきてあったが、震災が起ると同時に土地の青年団員によって持ち出され、……(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.104)
☆この「翌年十月」は、「翌十月」の誤植ではないかと最初考えられたが、この度の『全集12』に初めて収録された「海浜漫談」(1925(大正14)年8月20日「中央新聞」掲載)という作品に、「僕の明石滞在も満一年になりかかった」(p.51)という注目すべき記述があった。その発表年からは、1924(大正13)年の夏頃から1925(大正14)年の夏頃までの1年間、明石に戻っていたと読める。ただ、もしそれが1年ずれて、1923(大正12)年〜1924(大正13)年というのであれば、上の記述と辻褄が合うのだが。要検討。
☆「前年一月」というのは、1923年(大正12)年1月ということになる。すなわち、池内姉妹のもとには1月からいたということにならないか。

10月 ★「小東京人の警智」<週刊朝日、10月12日号>[→「Little Tokyo's Wit」6-362]
★セイの遣い込みは五十数円という大金であった。……ちょうど倖いに、私はそれだけの原稿料を「週刊朝日」から貰った矢先だったので、早速大塚終点から独協へタクシーを乗り付けた。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.181)
☆この「週刊朝日」が「小東京人の警智」掲載のことを指すのなら大正13年、あるいは「廿世紀須弥山」なら大正14年ということになる。同様の記述が「美少年時代」(『星の都』p.245)にある。そこでは「セイ」は「キヨシ」となっている。


★四十年以前のある秋の日の午後、三鷹村東京天文台の一室の大テーブルの上に、大きな、ひとかかえもある、赤いクロース張の表紙の本が積み上げてありました。……有名な「ボンの星表」であったらしいことが、あとで判りました。(「僕の“ユリーカ”」『大全1』p.199)
☆天文台行きがこの年のことかどうか不明。ちなみに東京天文台の三鷹への移転は、1924(大正13)年9月11日(『20世紀年表』毎日新聞社)。東京天文台の設置は、1921年11月24日。
☆このときのことを、1927(昭和2)年に「天文台」という作品にしている。

★T・Y氏とつれ立って、かれの学校友だちであるT技師を三鷹村の東京天文台に訪れた折……(「似而非物語」『大全1』p.121)

★東京天文台が麻布飯倉から三鷹へ引越した当初でした。僕はある午後そこを訪れて、……現に立っている場所が、なんだかアンドレーフの『星の世界』の舞台面のような気がしたからです。……あの日からは既に四十五年。(「僕の“ユリーカ”」『大全1』p.215)
☆これも上と同じ日の記述であろうか?
☆「四十五年」がいつの時点からかはっきりしないが、『大全1』刊行が1969年であるから、45年前というと天文台行きは1924年頃となり、移転した年になる(「南北」掲載の1967年とすると、1922年となり不適)。

★それは、東京天文台の辻光之助博士に聞いた話であった。辻さんと知り合ってからは四十年近くになるが、……(「永劫流転」『全集11』p.112)
☆「永劫流転」は1960年発表なので、「四十年近く」は、正確には36年。

★一度、三鷹村の天文台の帰りに中央線に乗ったところ、正面に、日曜の夜の恋人同士といったふうに、埃だらけに疲れて、若い女性と腰掛けている彼がいた。……即ち寺崎浩であった。(「新感覚派前後」『大全6』p.415)
☆寺崎浩はダンス教習所の常連で、横光利一の家で会っている(同p.414〜415)。それがいつかは不明。

★それ(ド・ジッターの単片双曲面宇宙模型)は関東大地震翌年、友人T・Yの許で見たもので、確か麻布から三鷹に移転した東京天文台の辻光之助から送られてきた天文月報のページにあったと記憶していたので、……(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.130、『全集11』p.484)
☆同様の記述が「ある宇宙模型をめぐって」(『全集5』p.257)に。ただし、こちらは東京天文台の三鷹への引っ越しが「関東震災の翌々年」となっている。

★私には二十四、五歳の頃から、「物質の将来」というテーマがあった。(「一筆遺書参らせ候」『全集11』p.394)
☆タルホの生涯のテーマ「物質の将来」は、その発端がド・ジッター宇宙にあると思われる。したがって、この「二十四、五歳の頃」というのは、ド・ジッター宇宙のことを知った頃ということになる。
☆「物質の将来」という言葉が登場するのは、1930(昭和5)年3月「詩と詩論」に発表した『物質の将来』である。

秋おそく
★震災の翌年の秋おそくだったが、文芸時代新年号に短篇を書くようにとの依頼を、私は横光から受けた。……翌春正月号に発表された私の『WC』は反響を起し、当の横光から、「自分までが肩身が広い思いがしている」と明石に知らせてきたほどであった。(「新感覚派前後」『大全6』p.413〜414)
☆翌年1月の「WC」発表時に、明石にいたということか?

12月 ★「緑色の円筒」<世紀>[2-114]
★「なんだ、足穂の奴、俺がこれくらい持ち上げているのに顔を出さんっていう話があるか!」そう云って、辻駄々羅先生(辻潤のこと)が卓を叩いたので、ビール壜がすっ飛んだ。銀座の「ライオン」での話だという。それは、彼が私の『緑色の円筒』を新聞月評に取上げて、「緑色は、“Pen, Pencil, and Poison"の主人公ウエーンライト以来、我党の色である」などと書いたことを指すのであろう。(「唯美主義の思い出」『大全6』p.422〜423)
☆この記述の前に、蒲田撮影所近くの辻潤方を訪れ、その後彼が住まいのダンスホールまで同行したことが書かれている。

12月 ★「云はして貰ひます」<新潮>[12-27]

12月 ★「南京花火物語」<苦楽>[12-29]

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★二回目の上京後で、それも大正十三年以後の話になる。私は雨もよいの晩、思いついて新橋駅うらから俥に乗った。まだきわめて暗い所だった佐久間町界隈を探し廻って、やっと高塀に囲まれた普通の屋敷風の家をつかまえた。ここから出ていた定期刊行物のバックナンバーが目的だったので、玄関に出てきた人が、「ご熱心ですな」とほめてくれたのだった。……未来派特集もご多分に洩れず杜撰なものだったが、只大好きなセヴェリーニの“モナコに於けるパンパン踊り”の三色版があった。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.336)
☆何年かは不明。


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