1月 ★「WC」<文芸時代>[1-178]
1月 ★「煌ける城」<新潮>[2-121]
★私の初期作品『煌ける城』は、ちょうど右のようなことがあった折に書かれた。……この話は、友だちのS・I(石野重道君)から来た葉書の文句「近頃はカドのあるものが好きで、お月さんが三角に、海は海色に、煙突がボール紙製に、夜が遠くのドアのように見えるのです」という文句から、思い付いたのである。(「額縁だけの話」『大全6』p.590〜591、『全集11』p.173)
1月 ★「Aと円筒」<文章倶楽部>[1-198]
1月 ★「来るべき東京の余興」<女性>[12-33]
1月 ★「コメット・タルホ氏に就て」(アンケート:私の事(後継文壇諸家の一人一語録))<文章倶楽部>[13-446]
1月 ★「童話の為に」(アンケート:私の初めて得た原稿料)<文章倶楽部>[13-446]
2月 ★「神戸漫談」<文芸時代>[12-40]
2月
★富ノ沢(麟太郎)は、彼の処女作を改造に発表したばかりの時、紀州の佐藤先生の家で、なんでも非常に珍しい奇病で、仆れた。(「新感覚派前後」『大全6』p.413)
☆『佐藤春夫全集』(講談社)の年譜によると、「大正14年2月、佐藤家にあった富ノ沢、ワイル氏病で急逝」とある。同様の記述が「佐藤春夫を送る辞」(『大全6』p.546)に。
3月 ★(アンケート:大正十三年の文壇に対する所感)<文芸年鑑>[13-447]
3月 ★「Y-dan」<開花草子>[12-43]
★あれから彼が始めた「開化草紙」に関係したり、単行「風船紛失記」の装幀を依頼されたりして、相当行ききがあった印象が残っているが、実のところ、彼がわざわざ明石までたずねてきて、それからいっしょに神戸、大阪で過した半日が、一期一会であったわけだ。(「今は哀しき釜掘りの唄」『全集11』p.97)
☆「開化草紙」(「開化草子」?)は、正岡容(蓉)が大正14年3月から始めた雑誌。つまり、これは創刊号になる。
☆『風船紛失記』は、大正15年8月に改善社から出た彼の著書。タルホは「PREFACE」と題して一文を寄せている(→大正15年8月の項)。装幀については未見。
☆「タルホ=コスモロジー」(『全集11』p.501)にも同様の記事。
4月 ★「末梢神経又よし」<文芸時代>[1-414]
5月 ★「美学」<新潮>[12-45]
5月 ★「パンダライの酒場」<G・G・P・G>[→「パンタレイの酒場」1-122]
★野川君は当時、東洋大学に籍を置いていて、私の神戸における旧友平岩多計雄も同大学生だったところから、日本画家玉村方久斗が金主で、同家の書生の野川が編集していた「GGPG」に関係することになったわけである。この創刊号は一九二四年六月で、以後途切れがちながら数年は続いたようである。(「「GGPG」の思い出」『全集11』p.428)
☆野川隆のこと。
5月 ★「瓦斯燈物語」<文藝春秋>[→「わが一九二三年のマニフェスト」1-274]
6月 ★「フエアリー時代」<新潮>[1-421]
6月 ★「星が二銭鋼貨になつた話」<G・G・P・G>[→「タルホ五話」12-58]
6月 ★「その山の話」<文芸日本>[1-281]
7月 ★「来らんとするもの」<新潮>[1-422]
7月 ★「タルホと虚空」<G・G・P・G>[2-147]
☆「タルホと虚空」という命名は、石野重道が見たという夢から。
☆「私の宇宙文学」(『大全1』p.162)に、この「タルホと虚空」について、「師匠の前に持ち出すと、『それは二人の神々という短かいドラマにするんだね』と云われたが、この頃、佐藤先生と私はダイセーニ卿の作品を語ることが屡々だったからである」とある。これは佐藤春夫のもとにいた頃のことか。
☆「薄板界」が登場する最初。この年9月「新小説」で改訂。「薄板界」はその後『童話の天文学者』(昭和2年1月)にも採り入れられる。
7月 ★「かもめ散る」<文章倶楽部>[12-49]
8月 ★「オートマチック・ラリー」<文藝春秋>[→「オートマチックラリイ」1-283]
8月 ★「坂でひろつたもの」<G・G・P・G>[→「タルホ五話」12-58]
8月 ★「如何にして星製薬は生れたか?」<祖国と自由>[13-25]
8月 ★「海浜漫談」<中央新聞、8月20日>[12-51]
☆この冒頭に「僕の明石滞在も満一年になりかかった」とある。そうすると、この1年間の作品はすべて明石で書かれたことになる。
☆この中の最初の話は、「鹿が沈んだ淵」(昭和2年8月)に発展している。
☆末尾のハイエナのことは、「ハイエナ追撃」(『天体嗜好症』昭和3年、『全集12』p.187)となる。
8月 ★「廿世紀須弥山」<週刊朝日、8月30日号>[→「螺旋境にて」1-262]
☆「週刊朝日がウィークリーの先駆であるように、ボクのそんな作を掲載した編集者も又先覚だと云わねばならない」(「宇宙感覚」『全集12』p..371)
8月 ★(アンケート:文壇運命判断)<不同調>[13-447]
9月 ★「武石浩玻氏と私」<新潮>[→「白鳩の記」2-134]
9月 ★「「タルホと虚空」」<新小説>[2-147]
サブタイトル「近代人形のための童話二篇」のもとに、「バンダライの酒場」と「「タルホと虚空」」を収載。
9月 ★『鼻眼鏡』《新潮社》
収録作品(7編)「RちやんとSの話」「私とその家」「鼻眼鏡」「或る小路の話」「セピア色の村」「煌ける城」「WC」
10月 ★「耳かくしの彼方」<文藝春秋>[→「わが一九二三年のマニフェスト」1-274]
10月 ★「僕の立場から」<時事新報>[12-55]
11月 ★「芭蕉の葉」<改造>[12-395]
11月 ★「秋五話」<不同調>[1-286]
12月 ★「散歩しながら」<文芸時代>[→「クリスマスケーキ」11-189]
12月 ★「タルホ五話」<太陽>[12-58]
12月 ★「ラリイシモン小論」<文藝春秋>[→「ラリイシーモン小論」12-56]
12月 ★(アンケート:本年度の推奨すべき小説、戯曲及映画)<女性>[13-447]
12月 ★「批評家を待たない」<新潮>[1-428]
★辻潤の名訳『オピアムイーター』は、私はとっくに一読した。ポオの諸作が未だ観念的にすぎて判らなかった頃だから、期待した阿片の夢の素晴らしさがいっこう覚えられなかったものだ。五、六年経って二十四歳の時に再び読み返して、今度は感心してしまった。……十年立って又読み直した。そして、ウェーデキントの『春のめざめ』と並んで、これが世界文学の中で最も自分の気質に叶ったものになった。(「唯美主義の思い出」『大全6』p.421〜422)
☆つまり、最初に読んだのは18、9歳の頃ということになる。
★先生(佐藤春夫)は、私の短文が時々文藝春秋に載ることについて、「せめて文春の雅量だと思っているよ」と洩らしたが、……(「佐藤春夫を送る辞」『大全6』p.538)
☆「文藝春秋」に載りはじめたのは大正14年からなので、この頃のことを指しているのであろう。
★音羽のお宅をこしらえるときも、先生は大工がバカでわかり切った事がわからないとこぼしていた……(「人としての春夫先生」『全集12』p.208)
☆この年のことか?
★大正も十四年頃、東京に移っていた私は思い出して、三ノ宮駅下の洋菓子店へ、「以前、お宅の壁に懸っていた太陽の画は、何というお菓子の広告でしたか」と問い合わせの手紙を書いた。「三ノ宮駅南口洋菓子店御中」としたのであるが、勿論返事はなかった。(「神戸三重奏」『全集11』p.287)
☆関西学院入学時に見つけた洋菓子店のこと。(「1914(大正3)年3月」の項参照)